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10:<水曜日> 簡単ビリヤニ

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 楓は女子高生を見て言った。

「確か、田中さんの妹さん……でしたよね」

 大きな鞄を手にした彼女は、にっこり微笑んで頷く。

「雛っていいます!」

 私服姿の雛ちゃんは、黒髪ボブの真面目な女子高校生に見える。
  けれど、今日は水曜で、普通なら学校がある時間帯だった。
 小学生、中学生ならともかく、彼女は高校生。帰宅には少し早い。

「えっと、今日は学校は?」
「ずる早退。お兄ちゃんには内緒ね」

 聞けば、母も兄も彼女が家を出る時間、そして帰る時間には出勤しているという。

「だから、バレないんだよ」
 
 一瞬、「注意した方がいいかな」という考えが楓の頭をよぎった。
 けれど、自分だって、会社をさぼった日があったことを思い出す。
 とりあえず、外は寒いので店の中へ案内した。

「荷物はそちらにどうぞ。膝掛けを出しましょうか?」
「お願いします!」
 
 染さんを観察したが、彼は雛ちゃんの早退に関して何も言う気がないようだ。
 楓のときと同じように……
 だから、楓も流すことにした。

「今日のカレーと、ラッシーください。私はお兄ちゃんと違って、甘くしなくていいからね!」
 
 元気よく注文する彼女を見て、染さんが吹き出す。

「かしこまりました」
 
 待っている間、彼女は鞄から雑誌を取り出し、広げて読んでいた。

「月刊空ステージ?」

 雑誌の表紙には、国内航空会社の制服を着たキャビンアテンダントが笑顔で写っている。
 楓の視線に気づいた雛ちゃんは、照れたような表情で言った。

「私、将来はキャビンアテンダントになりたくて」
「格好いいね」

 彼女は、高校生でもう目的を持って、将来について考えている。
 楓は、そんな雛ちゃんを見て、胸がぎゅっと苦しくなった。

(私、夢に向かって努力したことなんてなかった)

 勉強さえしていればいいと流されるまま学校へ通い、偏差値だけで教師に言われるまま大学を決めて、目的を持たず大学の授業を受け単位を取って、肝心の就職活動では志望動機も明確に言えず失敗し、大量採用のブラック企業へ入社した。そして、辞めた。

 心のどこかで「どうして私は、こんな風になってしまったんだろう」なんて、被害者じみたことを思っていたけれど、今の姿はなるべくしてなったものなのだ。
 誰のせいでもなく、何も考えてこなかった楓自身のせい。
 真実に気づくと、ずんと心が重くなった。
 
「楓ちゃん、カレーできたよ」
「あ、はい!」

 染さんに呼ばれ、慌ててキッチンへカレーを取りに行く。

「お待たせしました。カツオの出汁キーマカレーです」
「わぁ! いい匂い!! カレーっぽくないけど……」

 やはり、初見ではカレーに見えないみたいだ。
 雛ちゃんは恐る恐るライスの山を崩し、カレーと混ぜて口へ運ぶ。

「んっ! おいしい、カレーの味だ!」

 楓と似たような反応を示した。
 食べる勢いは田中さんと同じで早く、あっという間に完食してしまう。

「ああ、おいしかった! しつこくなく食べやすくて、でもちゃんとカレーで」

 元気よく「ごちそうさま!」と告げた雛ちゃんは、お会計を済ませると嵐のように帰ってしまった。一体、なんだったのか……

 ※

 まだ少し、夕食時間まで間があるので、染さんはキッチンで新作研究をしている。
 部屋からもう一台炊飯器を持ってきて、何かを作るつもりみたいだ。

「染さん、それはなんですか?」
「夜のまかないの準備だよ」
「炊き込みご飯でも作るんですか?」
「そんな感じかな」

 皿の上には、一口大の鶏もも肉に刻んだタマネギ、炊飯器の中にはといだバスマティライスが入っている。バスマティライスとは、インドやパキスタンで栽培されている種類の細長い米だ。この店では、よく使われている。
 ボールの中には、ヨーグルトと数種類のスパイスと塩が入っていた。

(コリアンダー、クミン、チリペッパー、ターメリック……いつものメンバーだ)

 カレーを作る際によく使う、基本的なスパイスである。
 ボールに鶏肉を入れて混ぜ、鍋に油を垂らしてタマネギを炒める。飴色になったら、ヨーグルトやスパイスごと鶏肉を鍋に混ぜて炒める。
 炊飯器に鍋の中身と適量の水を入れて、スイッチ・オン。

「カレーの炊き込みご飯?」
「簡単ビリヤニだよ。インド風の炊き込みご飯で、パエリア、松茸ご飯と並び世界三大炊き込みご飯の1つに指定されている。ムガル帝国時代に発達した宮廷料理で、イスラム教徒の結婚式でお祝いの食事で出されたり、屋台で売られたりしているよ。同じビリヤニという名前でも、地域によって中身が全然違うんだ」
「これは、どこの地方のビリヤニですか?」
「実は……日本式。本当はもっと作り方が複雑だけれど、ものすごく時間がかかるから、今日は簡単な方法で作ってみるよ」
「できあがるのが楽しみです」

 炊飯器の方を見ながら、楓は期待に胸を膨らませた。

「それはそうと、どうしたの? 楓ちゃん、なんだか落ち込んでいるように見えるけど」
「えっ、そ、そうですか?」
「何かあった?」

 染さんが深刻な顔をするので、慌てて言い訳する。

「ち、違うんです。さっき、雛ちゃんが将来のことを計画しているのを見て、自分と全然違ってすごいなあって思って……私、高校生のときなんて何も考えていなかったから」

 周りに言われるまま、流されるまま、自分の頭でちゃんと考えなかった。

「で、その結果が今なんです。染さんに拾ってもらえなかったら、きっと路頭に迷っていました」

 そう伝えると、染さんは困ったような表情を浮かべる。

「僕も似たようなものだよ。親の言いなりで、彼らに決められた将来に向かって、何も考えず勉強してきた。大人になって、やっと違和感を覚えてね、敷かれたレールを外れて祖父の手を借りて、海外に逃亡した」
「もしかして、インドに行ったのって……」
「うん、そのとき」

 染さんは、ずっとカレー屋になりたくて、その道へ進んだ人だと思っていた。
 けれど、ここに至るまでには、紆余曲折があったようだ。

「高校生の頃から、自分の意志で道を決め、責任を持って進んでいける人間って、それほど多くないと思うよ。大体の高校生は、まだまだ世間知らずなんだから。途中で、なりたいものが変わる例だってあるし」
「……そうかもしれませんね」
「それに、僕は楓ちゃんが店に来てくれて、助かってる」

 何気なくこういうことをぽんと言ってくるので、染さんの優しすぎる性格には困る。
 好きになってしまいそうだけれど、きっと彼は誰にでも優しい人だ。

「ありがとうございます。お仕事、頑張ります」

 微笑みながら、そう返す。邪魔だと思われていないのは嬉しいから。

(私のなりたいものって、なんだろう?)

 ふと、そんなことを考えた。
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