上 下
2 / 47

2:<月曜日> サブジとタンドリーチキン

しおりを挟む
 カレーのおいしい店、洋燈堂を訪れてから一週間が経った。
 あれから数日間、以前のように体調がおかしくなることはなく、楓は会社に通い続けている。

 相変わらずの精神的にきつい日々でも、同僚の若菜と一緒に食べるランチだけが息抜きの時間だ。
 ランチといっても、内容は毎度コンビニおにぎりなのだけれど。

「ねえねえ、楓。毎日休憩室でおにぎりかパンだし、久々にお店に行かない? ずっと会社にいると、息が詰まっちゃう」
「そうだね。毎日だとお金が足りないけど、たまになら」

 二人で入れそうな、近くの店をスマホのアプリで探してみる。

「あ、ここのイタリアンの店、よかったんだけど……定休日か」

 店を検索する楓のスマホを見て、若菜もため息を吐いた。

「どうしよっか~」

 何気なくつぶやく若菜の言葉に、予想外の方向から返事が飛んできた。

「馬鹿か! 他の店を探せばいいだけだろ! そんな簡単なこともわからないのかよ!」

 驚いて声のする方に顔を向けると、同じ課の先輩社員が数人、笑いながら横を通っていった。会話を聞かれていたらしい。
 吐き捨てるように言いたいことを言って、彼らは去っていく。
 楓と若菜は気まずさに口をつぐんだ。

 若菜は目的がわからずに「どうしよっか~」と、口にしたわけではない。「行きたかった店が定休日なら、代わりにどこの店に行こうか」と伝えたかっただけ。
 それなのに、いきなり投げつけられた尖った言葉は、新入社員たちに対する当てこすりだ。
 ここでは、誰も彼もが常にイライラしている。

「大丈夫だよ、若菜。いつもの八つ当たりだよ」
「うん、わかっているよ。平気だから」

 そう口にした若菜が会社に来なくなったのは、翌日のことだった。退職するそうだ。
 仲のよかった最後の同僚がいなくなり、お昼の時間が心細い。
 夜にかかってきた電話越しに謝られたけれど、楓には彼女を慰めることしかできなかった。「頑張って会社に残ろうよ!」とは言えなかった。

 そうしてまた、淡々と日々が過ぎて月曜になった。普通に起き上がれるけれど、体が重い。
 着替えて鞄を抱え、この日も朝食を口にしないまま、始業時刻の数時間前にマンションを出る。
 少しでも仕事を片付けないと、終電までに帰れなくなるからだ。

(早く駅に行かなきゃ。電車に乗って、会社へ……)

 視界が揺れ、頭に靄がかかったように思考がまとまらない。
 早足でロータリー抜けて、駅の入り口までやってきたが、急に息が苦しくなった。
 思わず鞄を置いて、その場にしゃがみ込む。

(急いで改札を通らなきゃ、電車が来ちゃう!)

 次の電車が到着するまでの十五分を、無駄にするわけにはいかない。
 入り口の隅で蹲る楓の前を通り過ぎ、駅の中に吸い込まれていく人々。

 ときおり、不思議そうな目で楓を見る人もいたが、声をかけることもない。
 変に心配されると気まずいので、その方が助かった。

(ちょっと、気分が悪いだけ。すぐに治る)

 地面に両手をついて、立ち上がろうと踏ん張ると、目の前に影が落ちた。

「大丈夫ですか?」

 上を向けば、見覚えのあるお兄さんが、心配そうな顔で立っているのが目に入る。

(カレー屋さんの人?)

 会社以外で話す人間はいないので、楓は彼を覚えていた。
 それより驚いたのは、相手が楓を忘れていなかったことだ。

(一度訪れただけの、何の変哲もない客を覚えてくれているなんて)

 慌てて立とうとすると、お兄さんに止められた。

「待って。倒れると大変ですので、僕につかまってください」
「いいえ、少し休んだら平気ですので」
「おうちの方に連絡しましょうか?」
「私は一人暮らしなんです。実家は遠くて……あの、お構いなく」

 一度会っただけの相手に、迷惑をかけるわけにはいかない。
 楓は彼の申し出を辞退した。
 けれど、お兄さんは今の言葉を聞いていなかったみたいで、楓を担ぐ体勢に入っている。

「その、本当に、問題ないですから」
「近くに車を止めてあります。気にしなくていいですよ」

 断ったにもかかわらず、楓はお兄さんの車で病院へ連れて行かれてしまった。
 比較的駅に近い、小さめの休日診療所で診断された結果は、疲労と栄養失調。
 精神的な問題もあるかもしれないということだった。

(お医者さんには、「ゆっくり療養してください」なんて言われたけど、今日も会社を休んでしまったし。これ以上の欠勤は痛いな)

 点滴を打ってもらい、しばらく横になっていると、体の不調はなくなった。
 動けなくなっていたのが嘘みたいだ。
 会計を済ませ、お兄さんにお礼を言って帰ろうとしたのだが、そのタイミングで盛大にお腹の音が鳴ってしまった。時計を見ると、もう十時を回っている。
 楓は驚いて彼に謝った。

「ごめんなさい。お、お店があるのに。こんなことに、付き合わせてしまって」

 焦っていると、お兄さんは「まだ間に合うから、気にしないで」と笑って言った。

「それよりも、お腹がすいているなら、これをどうぞ。待っている間に、一度店に戻ったんです」

 お兄さんは、二つのタッパーを楓に渡す。

「これは、お料理ですか。えっと……」
「たくさん作ったので、よかったら、食べてください。野菜が入っていますから」

 一人暮らしでの不摂生な生活がバレてしまった。
 彼の厚意を無駄にはできず、おとなしくお礼を言ってタッパーを受け取る。実際、ありがたい。
 帰りは念のため、呼んでもらったタクシーで家まで戻った。出費が地味に痛かった。

 家に着いてから、楓はお兄さんにもらったタッパーを開けた。中にはいい香りのおかずが詰まっている。
 一つ目はカレー色の野菜炒め、そしてタンドリーチキン。
 インド料理に詳しくないが、タンドリーチキンの存在は、なんとなく知っている。
 二つ目のタッパーには、黄色のライスが詰められている。まるで、お弁当みたいだ。
 楓は、さっそく遅めの昼食にする。まずは野菜から食べてみた。

(野菜は、レンコン、ブロッコリー、キャベツ。少し酸っぱい)

 ほどよく酸味が感じられ、けれどもスパイシーで不思議な味だ。さっぱりとしていて食べやすい。
 もう一つのタンドリーチキンはコクがあって、しっかり味がついている。

(あ、これって、合わせればおいしいかも)

 楓は、ご飯とタンドリーチキン、そして野菜を混ぜてみた。

(やっぱり、よく合う。食が進む)

 あっという間に、楓は料理を完食してしまった。栄養失調で弱っていたのが嘘みたいだ。
 それでも、いつものようにはいかないので、部屋で休むことにした。

(お兄さんにタッパーを返しに行かなきゃ)

 グルグル考えているうちに、楓は深い眠りに落ちていった。

 ※

 目覚めると夕方になっていたので、楓は慌ててタッパーを洗って出かける準備をする。
 明日からはまた会社なので、次にいつタッパーを返しに行けるか、わからないのだ。
 親切にしてもらったのに、借りパクはできない。
 駅前のスーパー内にあるケーキ屋で焼き菓子セットを買い、カレー屋へ向かった。
 建物の前まで来ると、二つのランプの明かりが灯っている。もう営業しているようだ。
 錆びた階段を上って店内へ入ると、お兄さんは会計を終えたグループ客を送り出すところだった。
 けれど、他に客はおらず、店は静かだ。
 お兄さんは楓を見ると、驚いた表情を浮かべる。

「体調がよくないのに、無理しちゃ駄目ですよ。何しに来たんですか!?」
「これを、お返ししに……その、会社が始まったら、次にいつここへ来られるか、わからなかったので」

 ついでに、菓子折りも渡しておく。

「いつでもいいのに、ありがとうございます。しんどいのに気を遣わないでください」

 タッパーを受け取ったお兄さんは、棚にそれを片付けると、楓を座席に案内した。
 立ったままよりも座った方が体に優しいと判断したらしい。

「あの、おいしかったです。タンドリーチキンとご飯……それから野菜炒めも。重ね重ね、ありがとうございました」
「あれはサブジというインド料理で、野菜を炒めてから蒸して作ります。カレーの付け合わせにしていることが多いですね」
「サブジ? 少し酸味のある料理ですね」
「作り手によって味は異なりますが、僕の場合は、あとでレモンを入れるので酸味を感じたのだと思います」
「タンドリーチキンやご飯と混ぜて食べても、おいしかったです。変な食べ方ですけど」

 すると、なぜか彼は嬉しそうな顔になる。

「ええ、カレーの付け合わせとして出している料理ですから。混ぜるという食べ方は正しいんですよ。今回は汁物を控えたのでタンドリーチキンでしたが、カレーにサブジを混ぜて食べることも多いです」
「タンドリーチキンも、おいしかったですよ」
「それはよかったです。タンドリーチキンは北インドの料理で、もともとタンドールという円筒状の窯で焼かれるので、この名がついているのです。うちの店では扱っていませんが、ナンもタンドールに貼り付けて焼くんですよ。僕もいつか、本物のタンドールが欲しい」

 タンドールの中の温度は、三百五十度から四百度にもなるそうだ。
 料理を語るお兄さんは、この日も絶好調だった。
 タンドリーチキンは、家庭でも作れる易しい料理だという。
 手羽元や手羽中などを使い、調味料やスパイス、プレーンヨーグルトとあえて焼くだけ。
 ちなみに、骨のない部分を用いるときはチキンティッカと呼ばれ、タンドリーチキンから名前が変わるらしい。

「野菜料理の話に戻りますが、サブジの他に、ライタという料理も素敵ですよ。こちらも作り方は簡単で、野菜とヨーグルトと塩とスパイスを混ぜるだけ」
「ヨーグルト、意外と万能なんですね。そういえば、さっき、北インドと話されていましたが、他にもインド料理があるんですか?」

「いい質問ですね! 同じインドでも場所によって気候が違うので、料理自体も変わってくるのです。例えば北インド料理は、乳製品やナッツのオイルを使用しており、油分が多く濃厚です。ナンやチャパティで食べます。対する南インド料理は、ココナッツミルクや米を用います。東インド料理はマスタードオイルを使い、魚が多め。西インド料理は、野菜と乳製品が多めです。ざっくり分けた感じですが」
「面白いですねえ」

 俄然、インド料理に興味が湧いてきた楓だった。もちろん、作る方ではなく、食べる方だけれど。
 お兄さんとの会話は、楽しいし安心できた。
 彼は「明日も会社を休んだ方がいい」と楓に言ったけれど、これ以上欠勤するつもりはない。
 明日はきちんと仕事に出ようと決めた。

 ※

 翌日は体調も悪化せず、楓は会社に出勤できた。
 ただ、会社はますます居心地の悪い場所に変わっている。
 同僚の抜けた穴は大きい。そして、また休んでしまったので肩身が狭い。
 後ろの席から、先輩社員の愚痴が聞こえてくる。

「役立たずのくせに、連休なんていいご身分だよな。そんなに嫌なら、さっさと辞めろよ」
「本当だな。そんなので居座られても、こっちが迷惑だっつーの」

 思わず、楓は振り返って謝罪した。

「すみませんでした。今後は、休まないよう体調に気をつけます」

 けれど、先輩社員たちはさらに不機嫌な表情になる。

「誰もお前に話しかけていないだろ。しゃべっている暇があったら、仕事しろよ、のろま!」
「……っ、すみません」

 俯きがちに作業へ戻る。昼も休まず仕事を続け、作業が終わったのは終電を過ぎた時刻だった。
 上司や先輩社員は、既に帰っている。楓も電子ロックをかけて会社を後にした。
 何もないのに、涙が止まらない。もう限界かもしれないと思った。
 
 ――そうして数日後、楓は退職届を提出した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

宇宙との交信

三谷朱花
ライト文芸
”みはる”は、宇宙人と交信している。 壮大な機械……ではなく、スマホで。 「M1の会合に行く?」という謎のメールを貰ったのをきっかけに、“宇宙人”と名乗る相手との交信が始まった。 もとい、”宇宙人”への八つ当たりが始まった。 ※毎日14時に公開します。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

保健室の秘密...

とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

獣人の里の仕置き小屋

真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。 獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。 今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。 仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。

夜食屋ふくろう

森園ことり
ライト文芸
森のはずれで喫茶店『梟(ふくろう)』を営む双子の紅と祭。祖父のお店を受け継いだものの、立地が悪くて潰れかけている。そこで二人は、深夜にお客の家に赴いて夜食を作る『夜食屋ふくろう』をはじめることにした。眠れずに夜食を注文したお客たちの身の上話に耳を傾けながら、おいしい夜食を作る双子たち。また、紅は一年前に姿を消した幼なじみの昴流の身を案じていた……。 (※この作品はエブリスタにも投稿しています)

処理中です...