織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

二十四

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 末森城下は火の海と化していた。
 蔵人の軍勢が篠木三郷の地を襲った際には、百姓も、商人も、「これからはこの末森が尾張一の町になるぞ」と諸手をあげて盛り上がったものだが、いまやそれらの町並みはすべて灰塵に帰した。
 立ち昇る煙を見て、信長は呟いた。
「焼香だぜ。成仏しろよ」
 数多失った仲間たち、そして敵兵への手向けのつもりらしい。

 稲生原で信長勢が討ち獲った首級は四五〇を超えていた。無論、信長軍とて少なくない討死を出したものの、信勝方の両大将の死傷とそれに伴う軍勢の敗走、離散といった事実を踏まえれば、勝敗は童の目にも明らかだった。
 柴田勢について言えば、不幸中の幸い、負け戦のなかに多く命を拾っていた。林勢を足止めする恒興たちの救援に駆け付けるべく、信長は撤退していく柴田勢を深追いさせなかったからである。割を食ったのは林勢だ。大将である道具が討たれた後の有様は悲惨を極める。道具の配下には、秀俊から守山城を奪い取ったかの角田新五をはじめとした数多の部将たちが参陣していたが、銘々が好き勝手に逃げ出してしまったのだ。組織的な撤退のできない軍が入り組んだ雑木林のなかで無事に逃げおおせる訳はない。仲間の復讐に燃える信長勢の餌食となり、元は七〇〇ほど居たはずの軍勢の半数以上が同地に屍を晒すことになった。

「おいッ。また信長が来たぞッ。勝家!」
 那古野城の兵は壊滅、末森城の兵は稲生原で信長の威厳に縮み上がってしまい、およそ使い物にならない。信勝に残された武力のすべては柴田勝家という豪傑と彼に従う二〇〇かそこらの古強者ばかり。
 乾いて泥のように変色した血の包帯を頭に巻き、髭の大将は、まるで小便でもしに行くかのようにふらふらと死地に赴く。
『稲生原での敗戦の責は、すべてこの柴田勝家にござる』
 槍一本でのし上がったこの男の矜持は、槍で取り戻すより他にない。傷の痛みに耐えながら幾度となく末森城に押し寄せる信長勢を追い返してみせた。勝家の奮闘により末森城は首の皮一枚でその命脈を保ってはいたが、しかし、既にまともに信長に対する力など失われていることは明白だった。そして、城を守るためのその兵力さえ、日に日に減るばかりだ。
 やがて勝家は、ただ武士らしい最期を飾ることばかりを考えるようになる。
「某、これよりは清洲城へ赴き、この首をもって此度の一件の赦免を申し出て参ります」
 八方塞がりの末森城で彼が出した結論は切腹だった。
 常に戦場で死と隣り合わせに生きてきた勝家にとっては、切腹とて特別なことではない。数多ある選択肢の一つに過ぎなかった。それも、主君の赦免と、敗北の汚名とを一挙に払拭できる妙手だ。いまの状況では輝いて見える。必ず死ぬというところが戦とが、端から負けると分かっている戦に主君が未だに臨むつもりでいるのだから、自分が腹を切って事を治められたならその方が分かりやすい。
 ところが、信勝たちはそれを承認しない。
「何を言うかと思えば、――馬鹿なことはやめないか。敗戦の責を負うというなら、生きて私を支えるべきだ」
「腹を切ることなど、誰でも、そして、いつでも出来ましょう。柴田殿、どのような手を使ってでも織田信長の首を挙げることです。その働きだけが、稲生原でのあなたの汚名を濯ぐものとなるのです」
 平素は、事あるごとに稲生原での敗戦に原因を持ち出し、その責任のすべてを勝家に押し付けて来る彼らだが、いざ勝家が切腹を口にすると、途端にこう濁した。
「そも、信長が現れると分かっていれば私とて出陣したさ。そして、私自らが陣頭に立てば、稲生原で無様な負けを演じることもなかった。そうだろうッ? これは、何かの間違いだ」
 戦というのはその殺人の残酷さの次に、人間の世の現実を突き付けるという残酷さをも有している。
 尾張を二分した決戦の勝者となった信長に、世間の評価は変わりつつあった。とりわけこういった嗅覚は百姓たちの方が優れているものだ。稲生の戦いのもう翌日から、信勝の領地から信長の領地へと逃亡する者たちが現れ始めた。そのうえ、那古野、末森の両城下が焼かれては、この冬をしのぐ兵糧の調達にさえ事欠く未来が見え始めていた。
「クソッ。蔵人、岩倉に再度使いを走らせよ」
 美濃の斎藤家と連絡して謀叛の動きをチラつかせていた岩倉衆までも、稲生の戦いの以後は、めっきりとその陰謀の匂いを隠して日和見を決め込んでいる。戦前の状況がまるで嘘のように、隅から隅までひっくり返ってしまった。ただ一人、信勝だけが、生来の反発に拘泥し、降伏の腹を決められずにいる。
「信勝さま。もはや、信長には勝てませぬ」
 勝家は俯いたまま、拳を握りしめ、城内の誰もが薄々は感じながらも決して口にしなかった事実を遂にきっぱり言葉にした。
「貴様ッ。どの口が申すかッ」
 信勝は手中に弄んでいた扇を勝家の頭目掛けて投げつけた。
 稲生原で負った傷に直撃し、再び包帯に鮮やかな赤がにじんだ。
 勝家は痛みに頓着せず、
――物を投げる素振りが、お父上に似ておられるなア――
 などと、死の覚悟の決まった心中では、そんなことすら思う余裕があった。
「此度の謀叛は、某と林秀貞で画策したこと。信勝さまは一切関与しなかった」
 低い声でそう言った。
 勝家にとっては、信勝の命を助けるための捨て身の奉仕だが、信勝にとっては、これほど耐え難い方便はない。『自分には謀叛の意志はなかったのに、勝家たちに乗せられてしまった』と言わねばならない。つまり、『自分は家臣に乗せられるほど器量が悪い』と言っているようなものだ。信長にどう思われるかなどは、この際、もはや問題ではないが、こんな一幕が巷間に流布されてしまえば織田信勝という人物の権威が失われてしまう。家督の簒奪の野望を諦めることに等しい。
「お前を、失う訳にはいかんのだ」
 沈黙のすえに信勝がようやく絞り出した一言は、それだった。まったくの嘘ではない。勝家を失っては再び兵を起こすその日が巡って来ないだろうことは、信勝でも感じている。しかし、すでにこの主従の見ている現実は、大きく食い違っていた。
 戦国の世は結果がすべてである、と勝家は知悉している。だから、すべての責任が戦に敗北した自分にあることを認めて潔く切腹することには些かの抵抗もなかった。しかし、それ故に、もう一つの真実をも明瞭に捉えてしまう。多勢で謀叛を起こした末の大敗北には、もはや、弁解の余地は毫もなく、柴田勝家と、そして、織田信勝の武威はもはや消え果てたという現実である。
「岩倉が使いを寄越さぬのは、そういうことにござる」
「やめろ。そんな話は聞きたくない」
「お聞きいただけるまで、何度でも申し上げまする」
「不快だッ。下がれ、下がらんかッ」
 二人の主従は平行線をたどり続けた。木枯らしが吹き、年の瀬が近づいても、信勝は頑として信長への降伏を認めず、袋小路の籠城を継続した。そして、籠城の窮乏ですり減った神経を癒やすために、また、勝家と顔を合わせたくないという都合も相まって、信勝は、ただひたすら、蔵人との男色関係に耽溺していったのである。

 ところが、事態は彼らの末森城とは違うところで進展を余儀なくされる。信勝と断絶されながらも、いや、断絶されていたからこそと言うべきだろうか、一人の男が自らの行く末に腹を括った。わずかな兵で健気な籠城を続けていた那古野城の林秀貞が、突如として清洲城に出頭したのである。
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