織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

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 織田信光の配下に、坂井孫八郎さかいまごはちろうという名の小姓がいた。
 土豪の子で、眉目秀麗と近隣の村々で噂になっていたのを、信光がまだ守山城に居た頃、衆道の戯れに拾い上げたのだ。
 しかしながら、孫八郎は長じるに連れて信光からの寵愛を失った。特別な立場を笠に着て、一向に武士たる誠実な修練を積むことをしなかったからだ。気づけば、美貌の外には見るべきところのない軽薄な侍となり、やがて信秀からは外聞を気にして遠ざけられるようになった。
 信光が那古野城へ移り、その権勢が更に強まるのを目の当たりにすると、孫八郎は、何とかもう一度信光の寵臣に返り咲こうと一八の賭けに出た。きたかたと呼ばれる信光夫人に近づき、彼女から夫への執り成しを依頼しようと企てたのであった。
 孫八郎が得意の美貌――というよりは他に誇るものがないのだが――で夫人に近づくと、意外や意外、夫人もこれにすんなりと応じて、瞬く間に密通関係になってしまった。曰く、「殿は那古野へお移りになってから心ここにあらずといったご様子で、私どもなどは最も遠ざけられ、まったく寂しい限りであった」らしい。
 不思議な巡り合わせもあるものだ、と孫八郎はにわかに得意になり、そうこうするうちに二人は、信光に対するそれぞれの嫉妬を通じ何だか奇妙な友情にも似た感情を互いに抱くようにすらなった。

 ところが、良くないことに、この密通の事実を嗅ぎつけた男たちが居た。
 林秀貞・道具の兄弟である。
 兄弟は反織田信長の野望を尚も貫徹すべく、まず『織田信光という後ろ盾をいかにして信長から引き離すか』ということだけを考え、那古屋城下へ自らの手の者を潜り込ませ、ひたすらに情報を集めさせていたのだ。
「下世話な風聞の一つに過ぎないだろうが、『物は試し』と言う。マア、まずはそいつを当たるしかない」
 町をほっつき歩いていた孫八郎を捕えて詰問してやると、夫人との関係について何の抵抗もなく白状した。
「主君の寵を得るためにその奥方に手を出すとは見下げた奴だ。その心性の情けなさ故に主君に愛想を尽かされたのがわからんか」
 秀貞は思わず嬲った。汚物でも見るかのような視線を向けている。
 孫八郎は返す言葉もないといったように俯くばかり。
「マア、兄者よ。しかしながら、そのために我らとこうして巡り会えた。そう考えてやろうじゃないか。オイ、貴様の主について知っていることを全て言うのだ」
 大半は流言の延長のようなものばかりだったが、しかし、業を煮やした秀貞が「時間を無駄にした」と吐き捨て腰を浮かせたとき、
「は、ハア、それではこんなのはどうです? 殿は最近、外出が大層多いようなのです。誰にも告げずにふらりと熱田の方へと……。それから、これは北のお方さまから伺ったことですが、何やら近頃の殿は、皆が寝静まった後、一人で書院に閉じこもっておられるようです。何か書きつけているらしいのですが、内容は誰も分からず――」
「なんだと!」
 瓢箪から駒。武士の風上にも置けない不逞の輩の口から、何とも核心に迫るような怪しげな情報が出てきた。
――それにしてもいの一番に話すべき事柄がこの段になってようやく出て来るとは、まったく仕様のない奴だ。
「それは文か? 誰に宛てられたものだ?」
「サア……? そいつはわかりかねますが」
「人目を憚って書くとすれば、それは信長さまへ宛てられるようなものではあり得ないな。十中八九が密書の類」
「末森城からそんな話は伺っておりませんから、織田信勝へ出されたものではないでしょうな」
 兄弟はすぐに那古屋城下へ手勢を派遣して昼夜を問わず街道を見張らせたが、しかし、それから一月経って八月となっても密使は一向に捕えられない。気配すらないのだ。
「まだ網にかからぬとは、相当に上手くやっているらしいな」
「孫八郎! 貴様、夫人の閨へ常習的に出入りしているのなら、信光の書院へも忍び込めような」
 弟の方はついに痺れを切らした。人間ひとはやることがないと気が短くなるようである。
「な、何を仰いますッ」
「信光の書いた書状を盗み出して持って来い」
「そのようなことできるはずが、――」
「それなら貴様の薄汚い所業を信光に伝えてやるまでだ。そうなれば貴様だけでなく、夫人もただでは済むまいな。だが、今言った仕事をしさえすれば、すべての裏を伏せたまま、貴様を良く取り立てるように我らから信光に口を利いてやろう。マア、信光が首を縦に振るかは知らんがね、だが、なに、貴様如きにできる仕事などほかには何があるというのだ。顔だけが取り柄のボンクラの自分に唯一無二の仕事が回ってきた、と喜ぶところだ。拒めると思うのは傲慢だぞ」
 恫喝して孫八郎に忍び紛いの仕事をやらせた。
 孫八郎はその時の狼狽に似合わず、一度決意を決めると珍しくきちんと仕事をこなしてみせた。
 手渡された一枚の書状に目を通した秀貞と道具は、まだ天が自分たちを見捨ててはいないことを確信する。

「……信長は、尾張国の上群への出兵をすでに計画しているのだろう。このままでは、岩倉城へ攻めかかるのは時間の問題だ。岩倉衆の面々には、清州城を北方より攻めたててもらおう。……」

 小さな紙切れへの書付のようではあるが、紛うことなき謀叛の計略が記載されていた。はっきりと記された宛名こそないものの「岩倉衆」の文言が見えることから、相手は尾張の上群を治める岩倉織田氏の当主・織田信安のぶやすに宛てられて書かれた文に違いない。信長への蜂起を依頼する趣旨である。
「しめた!」
 秀貞は膝を叩いた。これが事実なら、弱みを盾に信光を抱き込み、そして、さらに岩倉衆をも巻き込んだ堅固な反信長連合を形成することができるだろう。
 秀貞は失いかけていた自信をようやく取り戻した。
――天啓とはこういうものだ。弟はともかく、私が今までやってきたことには如何なる引け目もない。それを天はすべて見ておられたのだ。平手政秀、貴様は信長に忠を尽くして死んだが、私は信長を討って生き残るぞ。貴様よりも、伸び伸びとな。
「孫八郎、ようした。このことは信光さまもすぐに勘付かれよう。後のことは私に任せ、貴様はじっとしているが良い」
 大見得を切って、すぐさま那古屋城へ赴いた。

 訪れた秀貞を信光は鷹揚に迎えた。
 いつだか信秀が使用していた八重畳のうえにどっしり胡坐をかいている。
――こうしてみると、亡き信秀さまによく似ておられる。
 秀貞は緊張の最中わずかにそんなことを思った。
「珍しい男が訪ねてきたものだ。謹慎はもう解けたのか」
「いいえ。我らは未だ蟄居の身にございます」
「命令違反は村木攻めに続いて二度目だな。信長の耳に入ればただでは済まぬな」
「承知しております」
「承知しながら、私のところへ来たのか」
「大事にございます故」
 信光は肩眉を吊り上げる。
――私の口から信長へ伝わるとは思っていない、いや、信長へは到底伝えられぬ話をするというつもりか。
 閉じた扇子を自らの首に打ち付けて、
「よかろう。話してみよ」
 秀貞の口が開くのを待った。
「信光さまは、信長さまへのご謀叛を企てておられるのですかな」
 信光の手がぴたりと止まる。
――なるほど、入り込んだネズミはこやつの手の者だったか。
 いくらかの文書が書院から紛失していた理由を直覚した。それが孫八郎だとはいうことまでは未だ気づいていないらしい。
 だが、信光は焦らなかった。再び扇子を取り上げて、手先でくるくると弄びながら、
「言葉の足りぬ男だ。それは一つのだろう。戯れに聞いておこう、、私はどのようにして信長へ反逆するのか、ね」
「噂話? ナルホド、確かに事が起こるまでは全てが噂に過ぎませぬな。良いでしょう。信光さまは岩倉衆と連絡して清洲城を南北より攻め立てるらしい、と、まことしやかに囁かれておるのです」
 秀貞の話したことは紛失した部分の内容に符号している。はったりでカマをかけてきている訳ではないことを、信光は改めて確認したのだった。
「よく分かったが、それで、お前は私に何をして欲しがっているのだ」
 ここまで来れば秀貞の独擅場である。
 襟を正して背をぴんと張る。「踏み込むときほど慇懃に」というのが秀貞の流儀である。
「もしは、私どもをその挙兵の一端に加えていただきたいのです。事が成就に至れば、信光さまが清洲へ移られましょうが、その時、この那古屋城を私にお与えいただきたい。それだけ確約いただければ、例の噂話を私の口からわざわざ信長さまに言上することはございません。今の段階では、あくまで取るに足らない噂のこと、ですからな」
 持って回った言い方で信光に迫った。
――血沸き肉躍るとはこういうことだろうか。
 秀貞は、武士が戦場にその高揚を得るように、今まさに、信光との舌戦の中に興奮していた。齢四十を超えてようやく自らの性質を思い知らされた気分。
「考えておく。沙汰は追って知らせよう」
 この時、秀貞の中には『信勝一派を離れ、信光を担ぎ上げよう』という思惑が胎動していた。
 嫡男・信長を強引に排して別の者を当主に立てるという以上、代わりに据えられるそれが弟だろうが叔父だろうが、そんなことは些末事だと考えた。むしろ、その後の今川や斎藤との折衝を踏まえれば、信勝では些か軍事に心もとないところがあり、信光の方がやり易い。「転ばぬ先の杖」というより「取らぬ狸の皮算用」に近いことは自覚しているが、それでも秀貞は満足を感じていた。
――このままいけば、上手く行く。
 ところが、内面に光の差し込めた時こそ、周囲に予想だにしないことが起きるものだ。
 秀貞が信光を訪れたその一両日の後に、どういうわけかが本当に那古屋城下へ広まり、ついには清洲へ及ぶに至ったのである。
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