織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

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 清洲の河原を喧騒が取巻いている。
 梅雨の合間に晴れ渡った初夏の日、褌一丁の群れが訪れていた。信長一行である。
 竹槍を携えて川へ飛び込み、模擬戦めいたものをやっているが、通りかかる見物人にはそれが真面目なのだか遊びなのだかよく分からない。

 天文二十三年(一五五四年)四月末、信長は信光から清洲城を受け取り、ここに居を移した。
 清洲の町を支配下に治め軍兵もいくらか増えたはずだが、取巻きの人数はほとんど変わらない。
 ほとんどと言うからには、少しは増えているということだ。
「オイ、可成。お前も来ぉい」
 信長は試すように、新入りに声をかけた。
 河原の隅で岩のうえに腰かけてボンヤリしていた可成はハッとした。見れば、水中に胸から上だけを出した青年らが揃ってこちらを向いている。自分も川に入れということだ。
 森可成は今年もう三十の半ばに差し掛かる。対して信長はちょうど二十歳、その取巻きたちも信長と同じか、やや年少かという年頃である。いずれにしろ一回り以上違う。可成がその輪に加わるというのは、難しいものがあった。ところが、偉そうにふんぞり返っているという訳にもいかぬ。信長の家臣団の内においては、可成は新入りなのだから。
 遜れば良いのか、すこし大人びて見せればいいのか、可成はわずか逡巡した。その問いに対する答えは出なかったけれども、すぐに考えるのはやめた。
――馬鹿め、難しいことは命じられていない。来いと言われたなら、行けばいいだけ。自分は織田信長の、家来だ。
 幸いこの男は楽天家であり、うじうじ考えることを好まず、根が颯爽としていた。
 可成が水干を脱ぐと、河童たちから歓声が上がった。
 覚悟を決めて、勢いをつけて走り込む。どうせ道化をやるなら、景気よくやってやれ。水しぶきを上げて派手に飛び込んでみせる。大半の者たちは、これまで可成のことを堅苦しい真面目な男だと思い込んでいたから、これには思わず面食らい、そして、大笑いした。
「とりゃあッ――」
 水中から顔を出したばかりの可成に利家が跳びかかって組み付いた。
 突然のことだが、可成は焦ることもなく、わっしと利家の褌を掴んで逆に放り投げた。造作もないといった風である。赤い褌の青年は宙に舞い、可成よりもさらに大きな飛沫を上げて水面に消えた。
「サア、次はどの河童だ。かかって来い!」
 どうやら吹っ切れたらしい。
 次々に河童の群れが襲いかかるも、なかなかどうして束になっても勝てやしない。
 可成は決して巨躯ではないが、そのからだは太刀のように鋭く引き締まっている。相手の攻撃を往なして投げ飛ばす体裁きは名人の域に達しており、さながら法力か何かのようである。そして、可成に対峙した者たちは目にした。そのからだには、腕にも、首にも、そして腹の辺りにも刀や槍の傷跡が無数に刻まれていた。紛うことなき百選錬磨の侍であった。
 投げられた者たちは皆、可成のことをすぐに好きになった。こんな大人には、あまり会ったことがなかった。
 誰もついに自覚には至らなかったが、彼らは父性に飢えていたのかもしれない。
 信長もその様子を見て笑った。村木砦の戦い以降、張っていた気が一瞬だけ緩んだ。
 しかしながら、幸福な時間は長続きしなかった。
 一しきり泳いで川から上がった信長の前に、政綱が馬で駆けてやって来た。
「政綱、久しいな。どうだ、お前も遊んでいかないか」
 信長は政綱の用件についておおよその見当を付けながらも、あえてそれに触れない。
「今度にいたしましょう。そして、信長さまには即刻城へお戻りいただきとうございます。武衛さまがお呼びです」

 簗田政綱は主君である斯波義統が討たれた後は義統の嫡男・岩竜丸に仕えていた。
 岩竜丸は那古野城で元服、名を義親よしちかと改めて亡き父から守護の座を継いだ。清洲城奪還の悲願を胸に那古屋城に間借りしていた義親だが、その成就は望外に早かった。城を追われた後、たった一年で自らの本拠に返り咲いてしまったのである。ほとんど信長の武威によって。
「武衛さまの言伝は全部お前が持ってくるなア。この頃はお前の顔を見るとちょっとイヤになってしまうぞ」
「私では不足がありましょうか」
「ばか。そうじゃない。オレはそも面倒事が嫌いなのだよ。それに、キサマに言わせればオレが二つ返事で駆け付けてくれると、武衛さまはそう思っているだろう、その心構えが、どうもネ」
 信長は惜しげもなく義親を批判した。
「そのようなこと、間違っても御前で言わないでくださいよ」
「サア。どうかな」

 清洲城に入った義銀の満足は一入であった。
 父を失った悲しみは信長の痛快なる連勝によって紛れ、そして、ついに仇である坂井大膳、織田信友を一掃して清洲城をも取り返した。
「明日にでもきっと信長殿は参られましょう。ずいぶん得意なカオをして来るのでしょうが、武衛さま、そればかりは大目に見てあげることですよ」
「侮るでないぞ。織田信長の働きは比類のないものだ。信長殿がいかなる褒美を欲そうとも、私が気を悪くする道理が何処にあろうか」
 義親は近臣たちと毎晩祝いの酒席を設けて、信長が挨拶しに来るのを心待ちにしていた。
 ところが翌日、信長は現れなかった。その次の日も来ない。それどころか、城のどこを探してもいないのだという。すぐに得意満面で現れるだろうと踏んでいた義親の当てはまったく外れてしまった。
 信長の生態に詳しいのは政綱である。義親は急いでこれを呼びつけて訊ねると、
「ハテ、行方というのは聞き及んでおりませんが、信長さまが不意にいなくなるときといえば、たいてい、鷹狩、川狩、相撲、のいずれかですから、いまの時期、そして今日の蒸し暑いことを考えれば、十中八九は水辺です。この辺りなら幼川おさながわが第一感でしょうかな」
 と、すらすら述べた。
「よくわかった。それなら、そなたが探して連れてきてくれ」
 人選に間違いはなかった。政綱の推理はぴったりと当たっていたのである。

 さて、楽しみの一時を奪われた信長は、どすどすという足音を立てて現れ、義親の前に腰を下ろした。
 まだ、髪がびっしょり濡れている。恰好も汚らしいが、取るものも取り敢えず駆けつけたのだと考えれば、無作法には当たらないだろう。義親は好意的に考える。だが、信長もまた「そう考えてくれるかな」と、考えていたから、結局は舐めているのである。
 義親は咳払いをして、改まって言う。
「信長殿、此度の清洲城奪還の儀、誠に見事であった。何か、褒美をやらねばと思うが、まずは、」
「褒美など結構です」
 断り方にも作法があるということを信長はあまり知らないようである。
「ハ、ハハ。まだ、何も言ってはいないではないか。これ」
 義親の合図で政綱が現れる。先ほどまでだらだら喋っていた男が、急に改まって参上したので信長は失笑しそうになる。政綱は太刀を信長に差し出した。鞘に金銀をあしらった派手な一品である。
「信長殿によく似合うと心得る。いかがだろう」
 政綱は義親の死角で信長に睨むような目配せを送り、黙って受け取るように促した。
「はあ。マア、では、いただいておきましょう」
 これを突っ張るようではさすがに角が立つ。
「これだけでは不足という顔だな」
「ハッ?」
「隠さずとも良い、当然のことだ。これは前座だ、信長殿。まだ、あるのだ」
 口調が芝居がかっていた。褒美を下賜する段取りを前もって決めているらしい。
「ヘエ、まだ、あるのですか」
 早く帰りたい。信長は義親を見るふりをしながら、その後ろにある屏風の柄なんかを見ていた。
『武衛さまはいい、自分は戦わないのだから。褒美の内容などにあれこれと頭を悩まして、それもちょっと楽しいというところなのだろうが、矢面に立って戦う自分は違う。褒美をいくらもらっても、戦で勝てるようにはならないぜ』
 村木砦に転がった仲間の骸が、未だ信長の脳裏に焼き付いている。
「――から、私の、義親の「親」の字を与えようと思うがどうだろう。織田信親のぶちか、ウン、悪くない響きだ」
 ――織田信親? 
 あまり真剣に聞いていなかったので、それが偏諱の授与の話だと気がついて信長は呆気にとられた。それから、一拍置いて政綱を睨み返してやった。先ほどの意趣返しだ。そんな話があるなら自分に告げておくべきではないか。政綱は周囲に気取られぬ程度に信長から目を逸らしていた。
 信長は居住いを正した。義親はその様子に思わず頬を綻ばせたが、それはぬか喜びに終わる。
「恐悦至極の仕儀ではありますが、私には過分な褒美と心得ます。この恰好良い太刀だけで十二分です」
 あっさりと断られてしまった。
「ソ、そうだろうか? 坂井大膳の首を逃したことを気にしているのなら、それは無用というものだ。もうアレに何か事を成す力はない。父の仇、奸臣・織田信友を討ち取った功績は、それは目覚ましいものだ。遠慮は要らぬ」
「織田信友を討ち取ったのは、我が叔父・織田信光にございますれば、私は叔父の持ってきた話に乗っかっただけなのですから、功績というほどの事はありません」
 そう言われてしまうと義親は何も言えなくなってしまう。弾正忠家の当主が信長である以上、「それでは信光に」という訳にはいかない。というより、そんなことは義親とて望んではいない。
 沈黙が訪れると、義親はいよいよ気まずさに耐えかねた。
「それでは、それは、次の機会にしよう! 武勇の誉れ高い織田信長のことだ、今後もすぐに大手柄を立てることだろうからな。それでは、こうのはいかがだろう、清洲衆に代わり信長殿が守護代となってもらえやしないか。偏諱の代わりというわけではないぞ。これは元々、考えていたことなのだ」
 もはや褒美ではなく嘆願である。
「清洲の守護代家は代々、「達」の字を名乗る。信友めはその限りではなかったが、この「達」の字をそなたに与えよう。織田信達のぶみち、と」
「武衛さまがいろいろと私に褒美をくださろうと思案くださる。それだけで、信長は至福のよろこびにございます。それに、失礼を承知で申し上げれば、逆賊の通字などは縁起が悪かろうと思いますが。マア、私は、今のままで、良いのです」
「そうか、確かに、ウン、そうだな」
 完膚なきまでに褒美を拒絶された義親はいよいよ取り乱したが、しかし、信長に悪気があるわけでないことは分かっているし、そうでなくとも、清洲城奪還の大恩がある手前、「黙って受け取れ」というような言い方はできない。
「イヤ、良いのだ。信長殿は無欲なのだな。古の昔より、誠の武士は欲に目の眩まぬ者と決まっていると言うからな」
 適当な世辞を言うので精一杯であった。
 信長はそんな義親の姿にようやく気を遣って、というわけではたぶんないだろう、単にいいことを思いついたというような素振りで口を開く。
「ウン、そうですね、ただのが武衛さまの家来の筆頭では、ちょっと恰好がつきませんか」
「そういうわけではないが、」
「デハ、こういうのはどうでしょう。上総介かずさのすけ――、ウン、今日からは、織田上総介信長、とでも名乗っておきましょうか」
 戦国における官名は箔づけのために各々の諸大名が勝手きままに名乗る通称に過ぎないが、信長が口にした「上総介」は、そういった事情とはまるで違う角度を持っていた。何を隠そう、駿河の今川義元もまた、「上総介」の官名を自称しているのだ。
「そ、そなたは、尚も今川と戦うと、」
 今川は斯波の宿敵である。興奮と、しかし、不安がない交ぜになった複雑な表情で義親は声を震わせた。
「マア、そんなところです。武衛さまからの偏諱は、そうですね、駿河を手に入れたときにでもいただきとうございます」
 馬鹿げた宣言だった。今川勢を尾張から押し返すのみならず、三河を薙ぎ、駿河をも支配するつもりらしい。
 信長は深く頭を下げると、未だ開いた口の塞がらぬ義親の元を去った。

「上総介信長、上総介信長」
 信長は独り言を言いながらまだ歩き慣れない清洲城を巡検した。とっさの思い付きにしては気に入ったようだ。
「ウウン、それにしても偏諱というのは困ったものだ」
 戯れに帰蝶に相談してみたところ、
「ころころ名前を変えられると、覚える方が大変です。名前を整えて中身まできれいになるなら別ですが、そうではないのですから」
 などと文句を言われてしまった。しかし、これは信長自身も尤もだと納得したようで、
「アハハ。わかったよ。できるだけ『信長』で済むようにしてみせよう」
 そうして終生、遂にただの一度も改名に及ばなかった。信長は「信長」であり続けたのである。これは乱世の戦国大名においては傑出して類稀なことだった。
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