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第一章 うつろの気
十四
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安城城を得た今川勢は、翌・天文十九年(一五五〇年)、二万に至ろうかという大軍で本格的に尾張へ侵攻した。信秀、信光、信広ら一門衆が悉く尾三国境へ出て行って死に物狂いで敵を食い止める。防戦一方の戦に弾正忠家の誰も彼もが「もう駄目か」と覚悟した年の瀬の頃、突如、今川勢が兵を引き始めた。どういうわけか、京の後奈良天皇より今川方に「信秀とは和睦せよ」という勅書がもたらされたらしい。
事の内実は隣国・美濃の都合に端を発していた。信秀が利政と同盟したことによって後ろ盾を失った守護・土岐頼芸が、この頃、再び利政により美濃から追放されてしまっていた。収束の目途が立たない美濃国の争乱に辟易した将軍家は、信秀に、「再び頼芸を支援し、斎藤利政を説得してくれ」と働きかけた。これに目をつけない信秀ではない。
「今川の攻勢が止まない限りは、それも難しいことです」
交換条件を吹っ掛けた。将軍家としてこれを断る理由はない。室町幕府第十三代将軍・足利義藤(後・義輝)は事の次第を朝廷に伝えると、停戦を促す勅書を得るまでに至った。
「売っていた恩が返ってきたか。言ってみるものだな」
美濃の騒動がなくとも、信秀は朝廷に貸しがあった。かつて、皇居の修繕費として朝廷に四〇〇〇貫文もの莫大な献金をした過去がある。こういった布石が、窮地の弾正忠家の命脈を首の皮一枚でつないでいた。斎藤に今川にと敗北を重ねたこの家がそれでも滅亡を免れていたのは、決して偶然によるところではなかった。
翌・天文二十年(一五五一年)には、尾張国はにわかに泰平となった。東も西もしずかである。今川との死闘に厭戦気分の高まっていた多くの者は胸を撫でおろしたが、
「いまさら今川との和睦など何の意味がある。じりじりと義元に削り取られていくだけだ」
信長だけは不機嫌だった。彼の望みは、多くの者が既にそれを諦めているところの『今川打倒』に他ならないからである。
「あなたさまはいつもお留守番ですから、いずれにしても同じことでしょう」
信長と帰蝶は那古野城内につくった鉄砲の鍛錬上にいる。
「まあ、そうなのだがね」
輿入れから二年が経ったが、信長と帰蝶との間に子はできない。夫婦の契りを交わさないままでいるから当然だが、とりわけ互いが気に入らないというわけではない。ただ一度、変な話し方から始めてしまった所為で改めてそうするのがどこか億劫なのだ。
信長は今年で十七になる。振舞いは十四の頃と大して変わっていないが、しかし、図体がデカくなった。お供の一党も同じことで、もう、そこらの野武士を簡単にねじ伏せる程度には強くなっている。こうなると、今まで信長を「大うつけ」と揶揄していた者たちは気が気じゃない。馬鹿というのはその無力さに愛嬌が宿るものだが、力をつけてしまうと一転、何をするか分からないからこんなに不気味な者はいない。
『以前のようにアレの軽口を叩いてみろ、その場で斬り伏せられてしまうかもしれないぞ』
そんな不安がまとわりついて、よりマジメな信長嫌いともいうべき人たちが増えていた。
「あなた、家中にずいぶん敵をつくられていますね」
「オレがつくったって? 違うね。奴らが勝手にオレを敵に拵えたのさ」
そして、いつの時代も、そんな不安な人たちの心の隙間に面白おかしく入り込むのが、噂というものである。
『信秀さまは、信長さまを廃嫡すると仰ったらしいな。病中の信秀さまの政務を末森で代行しているのが、信長さまでなく元服したばかりの信勝さまだというのは、どうもそういうことらしい』
信秀の病態は悪化していた。からだ中に痺れをきたし、時として上手く呂律がまわらないという深刻さ。そんな中で、例の嫡弟が、織田勘十郎信勝と名乗って元服し、父の政務を一部代行するようになった。元々、信長とは似ても似つかない品行方正で通った弟だったが、近ごろではちょっとたくましくなったというのが定評である。
『うつけはうつけだから林秀貞や平手政秀といったカタブツばかりが大人衆につけられたが、信勝さまにつけられたのは柴田勝家、佐久間盛重といった紛れもない武辺者だ。仮に二人が争うことにでもなったら、うつけの方は一溜まりもないな』
信秀は、奔放な信長には折り目正しい文官を、大人しい信勝には豪胆な武官を、といった具合に家臣を下げ渡したに過ぎない。それに、元服したばかりで自分の城を持たない信勝が末森で父を補佐するのは普通のことで、信長とて那古屋で滞りなくそれなりの仕事をしているが、これらが彼らの考慮に入れられることはない。すべては、彼らが望む「信長廃嫡」の物語の根拠としてのみ持ち出され、また、必要に応じて曲解されていくだけだからである。
「侍は所詮が人殺し。そう言ったあんたの考えがいまになってすこしわかるよ。戦しかしてこなかった奴らが戦で思うように勝てなくなったものだから、『いろいろ思案しています』という格好をとっているんだな」
「あなたも思案した方がよろしいのではないですか」
「オレに何を考えろと?」
「このまま弟君に大きな顔をさせておいても良いとお考えですか」
「ヘエ。オレの身を案じてくれているのかな。だが仕方がないね。言いたい奴には言わせておけばいい。結局は力のある者が勝ち、負けた者は死ぬ。それだけのことだろ」
「勘十郎殿は、皆が言うようにあなたより優秀なのでしょうか」
「さあね。そうなんじゃないか」
信長はそう言ってそそくさと弾込めをしている。
帰蝶はちょっとだけ面白くなってきた。初夜のまさにその日から、相手方の父親をあれこれと玩具にしてみせたこの男が、こと自身の肉親に話が及ぶとやけに潔く、多くを騙らなくなる。信長のそういう仕草を見ていると、そのこじれた秘密をいじくりまわしてやりたい気分が生じてきた。
「あなたは、きっと弟さまよりお強いですよ」
帰蝶の言葉を遮るように銃声が響いたが、しかし、的を外している。
「今日のお前は、気持ちが悪いね」
気を取り直してもう一発。だが、やはり的に当たらない。
「ほら見ろ。調子が狂ってしまったじゃないか。武士の妻にあるまじき所業だよ、マッタク」
帰蝶はからから笑った。すっかり気を許したというわけではないが、しかし、織田で暮らす二年のうちに、織田信長という男がいかに家中で煙たがられているかがよく分かった。
『こういう風下の人間をいじめるのは趣味ではない。織田弾正忠家というのは、それを得々として一族総出でやっているから、実におもしろくない人たちだ。それなら、マア別に信長を支えてあげたいというほどの情すらないのだけれど、このうつけのお殿様を応援して、弾正忠家中をすこしだけぐちゃっとさせてみたい。美濃のように』
そういう新たな遊びを、帰蝶はこのとき心に思いついたのだ。
「そういえば、」
わざとらしく語り掛ける。
「先日より、岩崎と藤島の丹羽の一族同士が戦を始めそうだとお聞きしました」
「ああ。内輪の小競り合いさ」
「しかし、岩崎城の丹羽氏識殿は今川とつながっているかもしれないという噂なのに、織田からは誰も出ていかないのですね」
「なに。いま、何と言った?」
信長はグルッと振り向いて刺すような視線を帰蝶に向けた。銃を持った手に力が入っている。「嘘であれば撃ち殺す」と言わんばかりの剣幕。
「申し訳ありません。そういった話を以前に聞いていたものですから。信長さまはご存じありませんでしたか」
「どこで聞いた」
「勘十郎殿の元服式の折、末森で」
「デタラメか」
「どうでしょう、あなたが知らないのなら、デタラメだったのかもしれません」
帰蝶を睨みつけたまま、信長は考える。
父上が床に伏せってから、弾正忠家に見切りをつけて今川方に寝返ろうとしている者の気配がチラついているのは知っている。しかし、丹羽氏識の背後に今川の影があるなどという話は、聞いちゃいない。この女はヘビだ。変な言い方をしやがる。オレに何かをけしかけてきているのは、間違いがない。だから信用はできないが、しかし、ヘビだからこそ、ウソをつくならもっと真に迫った言い方をするだろう。父上が、イヤ、家中の皆がオレにそれを隠していたということは、あり得る話だ。オレが、それを快く思わず、竹千代のときのように余計なことをしでかそうするのではないかと恐れたわけだ。ならば、
「具足を」
「まさか、ご出陣なされるわけではありませんね」
「今川が噛んでいるかどうか、この目で確かめてきてやるのさ」
信長は冗談を言っていない。
帰蝶は目を丸くした。小突いてみたのは自分だが、それにしてもこの決断の早さは予想していない。これではうつけと言われるのも無理がない。
「もし、氏識殿が今川と通じていたなら、あなたの行いは今川を攻撃することと同じではありませんか。それは、お父上に、いいえ、それだけでは済みません、弾正忠家の姿勢そのものに背くことになってしまいます」
「白々しいな。あんたの魂胆は知らない。興味もないが、感謝してる。あんたはやっぱり武士の妻だ。偶然だが良い機会を、オレはいまもらったように思うのさ」
そう言うと信長は城下を風のように駆けまわり、例の一党をかき集めた。屈強な若武者が五百人ほど。槍兵の槍はすべて朱色で長さはきっちり三間半に揃えられており、鉄砲を引っ提げた少数の部隊もある。一人残らずギラギラとした闘志を発奮させているが、中には相撲大会で泥んこになったあの黒助らの面影もいくらかある。
集結の全容を目の当たりにすると、さすがの帰蝶も思わず気圧されてしまった。理屈ではどうにも捉え難い実際的な暴力の塊がそこにある。信長は馬上で帰蝶を見下ろして「どうだ」と言わんばかりに、フフンと笑った。その顔は恥ずかしくなるほどに優越に満ちており、帰蝶はこれまで、信長がこれほど露骨に何かを自慢するところを見たことがない。
「久しぶりの戦争だ! 岩崎城までひとっぱしりといこうじゃないか。氏識の背後に今川がいるという噂があるが、オレには今日まで知らされていないなア。これが本当なら、まったく大人連中というのは、自分で敵に立ち向かう勇気がないくせに、それを隠すことばかりに長けているんだからくだらない。賢い頭にできないというなら、うつけの軍が代わって差し上げよう」
大演説する信長の足がぶるぶる震えていた。武者震いという奴か、それとも、いよいよ父の意向に正面から背こうとする恐ろしさか。
『しかし、もうどちらでもいい。とにかく、このきっかけを失いたくない』
そんな勢いに身を任せている風だ。
帰蝶は自分でけしかけておきながら動揺していた。すこし、言ってみただけなのに、もう何を言っても考え直しはしないだろう。それだけは明白なのだ。
『鉄砲……。この男こそが、鉄砲ではないか。放たれたが最後、敵にぶつかるまで止まらない。目的を達するまで、脇目を振らず、誰のどんな声ももはや届きはしない』
帰蝶は、目の前の男がやはり大うつけであることを確信した。
「サア、虎の尾を踏み抜きに行こうか。オレが、そしてキサマらこそが織田三郎信長だ」
事の内実は隣国・美濃の都合に端を発していた。信秀が利政と同盟したことによって後ろ盾を失った守護・土岐頼芸が、この頃、再び利政により美濃から追放されてしまっていた。収束の目途が立たない美濃国の争乱に辟易した将軍家は、信秀に、「再び頼芸を支援し、斎藤利政を説得してくれ」と働きかけた。これに目をつけない信秀ではない。
「今川の攻勢が止まない限りは、それも難しいことです」
交換条件を吹っ掛けた。将軍家としてこれを断る理由はない。室町幕府第十三代将軍・足利義藤(後・義輝)は事の次第を朝廷に伝えると、停戦を促す勅書を得るまでに至った。
「売っていた恩が返ってきたか。言ってみるものだな」
美濃の騒動がなくとも、信秀は朝廷に貸しがあった。かつて、皇居の修繕費として朝廷に四〇〇〇貫文もの莫大な献金をした過去がある。こういった布石が、窮地の弾正忠家の命脈を首の皮一枚でつないでいた。斎藤に今川にと敗北を重ねたこの家がそれでも滅亡を免れていたのは、決して偶然によるところではなかった。
翌・天文二十年(一五五一年)には、尾張国はにわかに泰平となった。東も西もしずかである。今川との死闘に厭戦気分の高まっていた多くの者は胸を撫でおろしたが、
「いまさら今川との和睦など何の意味がある。じりじりと義元に削り取られていくだけだ」
信長だけは不機嫌だった。彼の望みは、多くの者が既にそれを諦めているところの『今川打倒』に他ならないからである。
「あなたさまはいつもお留守番ですから、いずれにしても同じことでしょう」
信長と帰蝶は那古野城内につくった鉄砲の鍛錬上にいる。
「まあ、そうなのだがね」
輿入れから二年が経ったが、信長と帰蝶との間に子はできない。夫婦の契りを交わさないままでいるから当然だが、とりわけ互いが気に入らないというわけではない。ただ一度、変な話し方から始めてしまった所為で改めてそうするのがどこか億劫なのだ。
信長は今年で十七になる。振舞いは十四の頃と大して変わっていないが、しかし、図体がデカくなった。お供の一党も同じことで、もう、そこらの野武士を簡単にねじ伏せる程度には強くなっている。こうなると、今まで信長を「大うつけ」と揶揄していた者たちは気が気じゃない。馬鹿というのはその無力さに愛嬌が宿るものだが、力をつけてしまうと一転、何をするか分からないからこんなに不気味な者はいない。
『以前のようにアレの軽口を叩いてみろ、その場で斬り伏せられてしまうかもしれないぞ』
そんな不安がまとわりついて、よりマジメな信長嫌いともいうべき人たちが増えていた。
「あなた、家中にずいぶん敵をつくられていますね」
「オレがつくったって? 違うね。奴らが勝手にオレを敵に拵えたのさ」
そして、いつの時代も、そんな不安な人たちの心の隙間に面白おかしく入り込むのが、噂というものである。
『信秀さまは、信長さまを廃嫡すると仰ったらしいな。病中の信秀さまの政務を末森で代行しているのが、信長さまでなく元服したばかりの信勝さまだというのは、どうもそういうことらしい』
信秀の病態は悪化していた。からだ中に痺れをきたし、時として上手く呂律がまわらないという深刻さ。そんな中で、例の嫡弟が、織田勘十郎信勝と名乗って元服し、父の政務を一部代行するようになった。元々、信長とは似ても似つかない品行方正で通った弟だったが、近ごろではちょっとたくましくなったというのが定評である。
『うつけはうつけだから林秀貞や平手政秀といったカタブツばかりが大人衆につけられたが、信勝さまにつけられたのは柴田勝家、佐久間盛重といった紛れもない武辺者だ。仮に二人が争うことにでもなったら、うつけの方は一溜まりもないな』
信秀は、奔放な信長には折り目正しい文官を、大人しい信勝には豪胆な武官を、といった具合に家臣を下げ渡したに過ぎない。それに、元服したばかりで自分の城を持たない信勝が末森で父を補佐するのは普通のことで、信長とて那古屋で滞りなくそれなりの仕事をしているが、これらが彼らの考慮に入れられることはない。すべては、彼らが望む「信長廃嫡」の物語の根拠としてのみ持ち出され、また、必要に応じて曲解されていくだけだからである。
「侍は所詮が人殺し。そう言ったあんたの考えがいまになってすこしわかるよ。戦しかしてこなかった奴らが戦で思うように勝てなくなったものだから、『いろいろ思案しています』という格好をとっているんだな」
「あなたも思案した方がよろしいのではないですか」
「オレに何を考えろと?」
「このまま弟君に大きな顔をさせておいても良いとお考えですか」
「ヘエ。オレの身を案じてくれているのかな。だが仕方がないね。言いたい奴には言わせておけばいい。結局は力のある者が勝ち、負けた者は死ぬ。それだけのことだろ」
「勘十郎殿は、皆が言うようにあなたより優秀なのでしょうか」
「さあね。そうなんじゃないか」
信長はそう言ってそそくさと弾込めをしている。
帰蝶はちょっとだけ面白くなってきた。初夜のまさにその日から、相手方の父親をあれこれと玩具にしてみせたこの男が、こと自身の肉親に話が及ぶとやけに潔く、多くを騙らなくなる。信長のそういう仕草を見ていると、そのこじれた秘密をいじくりまわしてやりたい気分が生じてきた。
「あなたは、きっと弟さまよりお強いですよ」
帰蝶の言葉を遮るように銃声が響いたが、しかし、的を外している。
「今日のお前は、気持ちが悪いね」
気を取り直してもう一発。だが、やはり的に当たらない。
「ほら見ろ。調子が狂ってしまったじゃないか。武士の妻にあるまじき所業だよ、マッタク」
帰蝶はからから笑った。すっかり気を許したというわけではないが、しかし、織田で暮らす二年のうちに、織田信長という男がいかに家中で煙たがられているかがよく分かった。
『こういう風下の人間をいじめるのは趣味ではない。織田弾正忠家というのは、それを得々として一族総出でやっているから、実におもしろくない人たちだ。それなら、マア別に信長を支えてあげたいというほどの情すらないのだけれど、このうつけのお殿様を応援して、弾正忠家中をすこしだけぐちゃっとさせてみたい。美濃のように』
そういう新たな遊びを、帰蝶はこのとき心に思いついたのだ。
「そういえば、」
わざとらしく語り掛ける。
「先日より、岩崎と藤島の丹羽の一族同士が戦を始めそうだとお聞きしました」
「ああ。内輪の小競り合いさ」
「しかし、岩崎城の丹羽氏識殿は今川とつながっているかもしれないという噂なのに、織田からは誰も出ていかないのですね」
「なに。いま、何と言った?」
信長はグルッと振り向いて刺すような視線を帰蝶に向けた。銃を持った手に力が入っている。「嘘であれば撃ち殺す」と言わんばかりの剣幕。
「申し訳ありません。そういった話を以前に聞いていたものですから。信長さまはご存じありませんでしたか」
「どこで聞いた」
「勘十郎殿の元服式の折、末森で」
「デタラメか」
「どうでしょう、あなたが知らないのなら、デタラメだったのかもしれません」
帰蝶を睨みつけたまま、信長は考える。
父上が床に伏せってから、弾正忠家に見切りをつけて今川方に寝返ろうとしている者の気配がチラついているのは知っている。しかし、丹羽氏識の背後に今川の影があるなどという話は、聞いちゃいない。この女はヘビだ。変な言い方をしやがる。オレに何かをけしかけてきているのは、間違いがない。だから信用はできないが、しかし、ヘビだからこそ、ウソをつくならもっと真に迫った言い方をするだろう。父上が、イヤ、家中の皆がオレにそれを隠していたということは、あり得る話だ。オレが、それを快く思わず、竹千代のときのように余計なことをしでかそうするのではないかと恐れたわけだ。ならば、
「具足を」
「まさか、ご出陣なされるわけではありませんね」
「今川が噛んでいるかどうか、この目で確かめてきてやるのさ」
信長は冗談を言っていない。
帰蝶は目を丸くした。小突いてみたのは自分だが、それにしてもこの決断の早さは予想していない。これではうつけと言われるのも無理がない。
「もし、氏識殿が今川と通じていたなら、あなたの行いは今川を攻撃することと同じではありませんか。それは、お父上に、いいえ、それだけでは済みません、弾正忠家の姿勢そのものに背くことになってしまいます」
「白々しいな。あんたの魂胆は知らない。興味もないが、感謝してる。あんたはやっぱり武士の妻だ。偶然だが良い機会を、オレはいまもらったように思うのさ」
そう言うと信長は城下を風のように駆けまわり、例の一党をかき集めた。屈強な若武者が五百人ほど。槍兵の槍はすべて朱色で長さはきっちり三間半に揃えられており、鉄砲を引っ提げた少数の部隊もある。一人残らずギラギラとした闘志を発奮させているが、中には相撲大会で泥んこになったあの黒助らの面影もいくらかある。
集結の全容を目の当たりにすると、さすがの帰蝶も思わず気圧されてしまった。理屈ではどうにも捉え難い実際的な暴力の塊がそこにある。信長は馬上で帰蝶を見下ろして「どうだ」と言わんばかりに、フフンと笑った。その顔は恥ずかしくなるほどに優越に満ちており、帰蝶はこれまで、信長がこれほど露骨に何かを自慢するところを見たことがない。
「久しぶりの戦争だ! 岩崎城までひとっぱしりといこうじゃないか。氏識の背後に今川がいるという噂があるが、オレには今日まで知らされていないなア。これが本当なら、まったく大人連中というのは、自分で敵に立ち向かう勇気がないくせに、それを隠すことばかりに長けているんだからくだらない。賢い頭にできないというなら、うつけの軍が代わって差し上げよう」
大演説する信長の足がぶるぶる震えていた。武者震いという奴か、それとも、いよいよ父の意向に正面から背こうとする恐ろしさか。
『しかし、もうどちらでもいい。とにかく、このきっかけを失いたくない』
そんな勢いに身を任せている風だ。
帰蝶は自分でけしかけておきながら動揺していた。すこし、言ってみただけなのに、もう何を言っても考え直しはしないだろう。それだけは明白なのだ。
『鉄砲……。この男こそが、鉄砲ではないか。放たれたが最後、敵にぶつかるまで止まらない。目的を達するまで、脇目を振らず、誰のどんな声ももはや届きはしない』
帰蝶は、目の前の男がやはり大うつけであることを確信した。
「サア、虎の尾を踏み抜きに行こうか。オレが、そしてキサマらこそが織田三郎信長だ」
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