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1巻
1-1
しおりを挟む一、定年退職
私――中田祐一郎は六十歳を過ぎ、長年勤めた会社を退職した。
最後の勤めを終え、通い慣れた電車で自宅へ向かう。
流れゆく景色をぼんやり眺めながら、なんとなくこれまでのことを振り返っていた。
大学卒業後、二十三歳からずっと同じ会社にお世話になった。
三十七年か三十八年ほどになるだろうか……
物覚えは悪くなかったと思う。注意深く見聞きしたことはだいたい一度で覚えられた。
そのため、上司から重宝がられ、入社してそうそうにいくつもの業務を任されるようになる。
初めは新しい仕事を覚え、それを熟せることが嬉しく楽しかった。
有能な新人だと上司から褒められ、同僚からも一目置かれ、頼られるようになり、どこか得意になっていたのかもしれない。
「難しいことじゃないし、ちょっと頑張ればできるかな~」と軽く考え、それを誰かに相談もせず、任されるまま引き受け続けた。
確かに、一つ一つは単純で理解しやすい事柄であったから、私でも熟すことは可能だった。しかし、経験不足であることは否めない。
案の定、手際が悪いせいで思い通りに処理できず、遅くまで残業するようになる。
日々仕事に追われ、家にも仕事を持ち込んだ。
休日を返上して働くようになると、食事や睡眠がおろそかになっていき、徐々に気力や体力が損なわれていく。
集中力の低下によるミスが続くようになれば、当然上司から咎められ、頭を下げる頻度が増した。
さすがにこのままではいけないと感じたのだが、途中で音を上げることは、負けを認めて逃げるようであり、信頼し任せてくれた上司をますます失望させることになりそうでできなかった。
そうして何も改善しないまま無理を重ねる毎日に、ふと『社畜』という言葉が浮かぶ。
その頃の自分にあまりにもピッタリで、ため息とともに皮肉交じりの笑みが漏れたのを覚えている。自分で自分の首を絞めているのだと感じつつ。
それから間もなく、会社全体が最も忙しい時期に倒れ、病院に運ばれるという失態を演じることになる。
はぁー。
今思い返しても、申し訳なくて頭を抱えたくなる。己の不甲斐なさが痛いほど身に染みた。
幸い命に別状はなかったものの、しばらく入院することになる。忙しい仕事の合間に見舞いに来てくれた上司や同僚、後輩から、私の身体の不調に気付けなかったことや、多くの仕事を任せっきりにしてしまったことを謝罪され、逆に恐縮してしまう。
私の過信による失態で、迷惑をかけてしまっているのに、誰もそのことを責めなかった。
しっかり身体を治して、仕事に復帰することを望んでくれた。
「待っているから、頑張れ」という言葉が、なにより嬉しく心に響いたことを思い出す。
それまで重い病気や怪我などの経験がなかった私には、初めての入院生活は辛いものだった。
当時会社の後輩であった彼女(後の私の妻)は、ふとしたときに愚かな自分を思い出して落ち込む私を励ましてくれた。
彼女はその頃から変わらず、私に心を寄せ、傍らにいてくれていたのだとわかる。
私が今こうして元気に過ごせているのも、彼女の支えがあったからなのだと改めて思う。
身体が治ってからは、二度と同じ失態をしないように自分の実力不足を認め、謙虚に物事に取り組んだ。
上手くなかったコミュニケーションも、自分から『笑顔で挨拶』を心掛けるようにしたことで、少しずつ改善されていったように思う。
――月日が流れ、私も要領よく仕事を熟せるようになった。周りからの信頼も得ている。けれど、争うのが苦手で自己主張をすることが少ない性格のせいか、出世とは無縁であったようだ。
私も男だから、多少残念な気持ちはあるのだけれど、出世した同期を補佐して感謝されたり、後輩の窮地や失敗を何度も助けたりできたので、それで良いかなと思っている。
損な役回りばかり引き受けていると、よく知人から言われたけれど、さして苦にならなかったのは、そうした仕事が嫌いではなかったからなのだろう。
定年年齢を迎えるにあたり、会社側から雇用の延長を打診してもらえたのだが、大して悩まずに断っていた。退職後にやりたいことがあったわけではないけれど、ずっと走り続けてきてちょっと疲れてしまったのかもしれない。
三十八年もの長い間、同じ会社で働き苦労をともにした仲間と、何度も喜びを分かち合うことができ、幸せだったと思う。最後まで、私は私らしく仕事をすることができた。
そう、私は充分満足している。
けれど……そんなわけで、家族に贅沢な暮らしをさせてあげられなかったことが、今更だけれど少し残念に思えてしまう。
寛容な妻は、そんな私に最後まで尽くしてくれた。
一年前、私より先に逝ってしまったことは、残念で辛く悲しかった。でも、妻と二人の息子との賑やかで温かな暮らしも、息子たちが家を出てからの、妻と二人きりの穏やかな暮らしも、どちらもかけがえのない幸せな思い出になって、いつも心の中にある。
これからのことを思うと、少し寂しさを感じるけれど、心は穏やかで不安はない。
明日からは時間がたっぷりあるのだから、それぞれの場所で嫁と子供に囲まれ幸せに暮らしているだろう、息子たちの顔を見に行くのもいいかもしれない。
ふと、妻の笑顔が頭に浮かび、いつもの控えめな笑い声が聞こえた気がした。
深く息を吐き、意識を現実に引き戻す。
さして時間は過ぎていなかったようだ。
腕時計の時刻は、18時22分。降りる駅までまだ時間がある。
もう少しこのまま……
身体で電車の揺れを感じながら、残りわずかになった通勤電車の雰囲気を楽しむことにしよう。
微かな人の気配と、ガタンゴトンという馴染みの音を聞きつつ、微笑みを浮かべ静かに目を閉じる。
ガタンゴトンガタンゴトン――――
「――っ!?」
突然、強い衝撃が全身を襲う。
何が起きたのか理解する前に、目の前が暗くなり、意識が薄れていった。
二、戸惑い
頭がぼんやりしている。
何があったのか?
確か電車で帰宅途中、強い衝撃に襲われて……後は、はっきりしていない。
列車事故だろうか!?
それにしては、身体のどこも痛くないし、騒ぎになっていないようだけれど。
少しずつ視力が回復し、視界に入った光景に驚き、目を見張る。
え!?
どうして……?
私は、なぜか木の下で仰向けに寝ているようだ。
とりあえず状況を確認するために上半身を起こす。
「グッ!?」
自分の身体に妙な違和感があり、思わずうめき声が出た。
服に邪魔されて動きにくくなった身体や、低く感じる視界を訝しく思いながらも、自分が今どこにいるのか知るために辺りを見渡す。
ここは、人や目印になる建造物がない、草や木が生い茂った森の中であるようだった。
改めて見渡しても見覚えはなく、ここがどこなのかわからない。
当惑しながら、自分の身体に意識を向ける。
着ている物は見覚えのあるスーツだったのだけれど、なぜかブカブカで手足が隠れてしまっていた。
まるで身体が縮んでしまったかのようで、首を傾げる。
おもむろに腕を伸ばせば、ぷら~んと上着の袖が垂れて揺れた。
目にしているものが理解できない。
袖の中から腕を露わにすると、幼い子の小さくて可愛らしい手が現れた。
その可愛らしい手は、グー、パーと手の平を閉じたり開いたりを繰り返している。
無意識に動かしていたことに気付けば、ピタリと動きを止めた。
確かに、それは自分の手のようだが?
「どういうこと?」
疑問を口にすると、少し高い軽やかな声音が響く。
驚いて両手で口を覆えば、ぽにゅっとした皮膚があり、頬のザラザラした髭剃り跡はどこにもなかった。
幼い頃の息子や孫たちの可愛らしいほっぺが思い出される。
ぷにぷに、もにゅもにゅ。
気が付けば、自分で自分の頬に触れながら和んでしまっていた。
――恥ずかしい。
誰にも見られていないはずなのだが、決まりが悪く、思わず身悶えしてしまう。すると、小さくなった私の身体はバランスを崩し、コロンと後ろに倒れてしまった。
「っ痛!」
やっぱり子供は頭が重いのだな、などと思いながら、痛む頭をさする。
はぁー。
理解しがたい状況に大きなため息が漏れる。
転がったまま、視線の先にある景色をぼんやり眺めた。
樹木の枝葉の間からさし込む日の光が眩しい。
「……いい天気だ」
痛みを感じたことで、『夢ではない』のだと気付かされたのに、澄んだ空気と穏やかな優しい風に誘われて、何もかも忘れて寛いでしまいそうになる。
アハハ……
自分の乾いた笑いが大きく耳に届く。
若返りたいなどと思ったことはなかった……
まさか、無意識の部分で願っていたとでもいうのだろうか?
――もし、過去の自分に戻ってしまっているのだとしたら、この場所に見覚えはないけれど、実家の近くなのだろう。
これからまた同じように学校へ行き就職をし、結婚する……!?
「っ!」
そんなことは無理だ。
六十年、生きた記憶があるのだから、全く同じように過ごせるはずがない。
私の行動は、未来を変えてしまうことになるのではないだろうか?
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それに、未来を知っている私の存在は?
――恐ろしくて、それ以上は想像することをやめた。
過去に戻ったのではなく、私だけが若返っている状態ならまだいいのだろうか?
この姿では、私だとわかってもらえないだろう。
どうにかしてわかってもらえたとしても、今までのような関係ではいられないに違いない。
きっと、私はそれを寂しいと感じてしまうと思う。
それに、私より先に老いていく息子たちや知人を見なければならないなど、拷問のようではないか。
どう考えても、悪いことしか浮かんでこない。
いっそ、私の全く知らない場所、知らない時代だったらいいのにと思えてくる。
「あっ、それフラグっすよ、先輩」
ふと、後輩の言葉が浮かんだ。
フラグとは、何のことだっただろうか?
頭の中でごちゃごちゃと思考を巡らせていた私の耳に、ガサゴソという生き物の動きを連想させる音が届き、我に返る。
急いで身体を起こして音のした方へ視線を向けたけれど、そこに動くものの姿はなかった。
私はそのときやっと、こうしている場合ではないことに気付く。
野生動物が生息しているだろう森の中で、このままでは、夜を明かさなければならなくなるのだ。
明かりのない夜の森を想像して恐ろしくなる。
とにかく早く人を探し、今がいつでここがどこかを知らなければならない。
それがわかれば少しは疑問が解消されるし、これからどうすればいいかを決められるはずだ。
先ほどまでぼんやりしていたことを後悔しながら、気合を入れて立ち上がる。
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――気持ちを切り替え、持ち物を確認しよう。
帰宅時に持っていた鞄は見当たらず、残念ながら所持金がゼロであることが確定する。
それに加え、上着のポケットに入れていたはずの携帯電話もなくなっていた。
今更だけれど、連絡手段である携帯電話の存在を忘れていた己に呆れる。
気付けたとしても結果は変わらなかっただろうが、正常に思考できなかったことは反省しなければと思う。
ちなみにポケットには、タオル地のハンカチが一枚入っていただけだった。
この森がどこまで続くのかわからないから、せめてナイフやライターのような、野外で役に立つ物があればよかったのにと思ってしまう。
たとえ日が暮れるまでにこの森を抜けられなくても、火があれば暗闇ではなくなるし、警戒心の強い野生動物が近付くのを防いでくれるだろう。
襲ってくる野生動物にナイフで対抗できるとは思えないけれど、威嚇くらいはできるかもしれない。それに、ナイフがあれば木を削って必要な物を作ったり、木の実を採ったりもできるのだ。
持っているだけでも心の支えになるだろうに……と、今ここにそれらがないことを残念に思っていると、不意に左手首に振動を感じた。
……!?
すぐに震えは収まったけれど、気になったので背広の袖口を捲り、隠れていた手首をあらわにする。
そのとき、袖口から「ボトッ」と何かが落ちたことに気付いた。
「え!?」
落ちた先に視線を向けると、先ほどまでなかった折りたたみ式ナイフが目に留まる。
どうしてここにそれがあるのかわからず、おそるおそる手を伸ばし確認すると、以前私が使っていた物と同じ形の簡素なナイフだということがわかった。
これはどういうことだろう?
ついさっき、ナイフやライターがあればいいのにと思ったことは確かだけれど、思ったからといって都合よく出現することなどあるはずがない。
私の頭の中は、あり得ないことの連続に、疑問でいっぱいになっていた。
時間の経過とともにいくらか落ち着きを取り戻した私は、改めて手の中に消えずにあるナイフの存在を実感する。子供の姿になった自分が今ここにいること自体、おかしなことなのだ。不可解なことがもう一つ増えたところで大したことではないような気がしてくる。
半ば投げやりな気分で、今を受け入れることにした。
わからないことは、いくら考えてもわからないのだと諦めてしまえば、気持ちは楽になるようだ。
欲しかったナイフが手に入ったことを、前向きに喜ぼう。
気持ちを切り替え、先ほど振動を感じた左手首を眺めた。
そこに愛用の腕時計があるのを認めホッとする。けれど、子供の姿になった細い手首にピッタリになるように調整されていることに首を傾げる。
ブカブカだった衣服と違い、どうして腕時計だけが?
また不可解なことが増えてしまったと、本来なら頭を抱えるところかもしれないが、身体の一部であるかのように腕時計が私の腕にあることに喜びを感じた。
この腕時計は古美術品と言われる物で、一日一回ぜんまいを巻く必要があり、定期的にメンテナンスもしなければならない。けれど、シンプルで落ち着いたデザインがとても気に入っている。
何よりこれは、妻からの贈り物だったりするので、特に思い入れが強いのかもしれない。
よくわからない状況の中、これがここにあって良かったと心から安堵した。
電車の中で確認した時刻が【18時22分】であったはずなのに、現在は【10時15分】を示していることに疑問はあるけれど、一秒一秒、確かに時を刻んでくれている存在に励まされる。
頑張らなければという気持ちが自然と湧いてくるようだ。
そっと、確認するように腕時計を撫で、笑みを浮かべる。
さて、次は身支度をしよう。
背が低くなって、長いスカートのようになっている上着はとりあえず脱いでおく。
後でマントのように首元で縛れば両手が使えるので、邪魔にならずに持っていけるだろう。皺になるのは仕方がない。
ワイシャツの袖を手首まで折り、手が自由に動くことを確認した。
膝まであったワイシャツの裾を、スラックスに突っ込みながら、ずり落ちてしまうトランクスタイプの下着と一緒に押さえ、スラックスのベルトで締め上げる。
これにはかなり手間取ってしまったが、オートロック式のベルトのおかげでなんとか落ちないように押さえることができた。これが、穴あきタイプのベルトだったら役に立たなかっただろう。
ネクタイは、できるだけ短くなるように、巻く回数を増やして結んでみた。結び目が太くて不恰好になってしまったが、どのみちおかしな恰好なのだからこれで良しとする。
最後に、スラックスの裾を足首が見えるまで折り込み、ポケットにナイフをしまえば完成だ。
大きすぎる靴下と靴はそのままなので、脱げないように気を付けて歩かなければならないけれど、なんとか支度が整った。
三、森の中
いざ出発! と気合を入れてみたけれど、周りは樹木が生い茂っているだけの場所なので、どちらへ向かって進めばいいのかわからず戸惑ってしまう。
この決断が、先の明暗を分けることになるかもしれないと思うと余計に不安になるけれど、考えてもわからないことは悩んでも仕方がないと割り切ることにした。
とりあえず地形を調べて、下って見える方に進むことにする。
方向音痴ではないつもりだけれど、迷って同じところをグルグル歩く羽目にならないように川を探したい。
川の流れに沿って歩けば、森を抜けどこかに辿り着けるはず。
もちろん人や建物、道路や標識、看板なども見落とさないように注意する。
他に気を付けたいのは、熊のような野生動物との遭遇だろうか?
熊は大きな音を立てれば近寄ってこないと聞いたことがある。
本当かどうかはわからないものの、試してみてもいいかもしれない。
早速、近くに落ちていた丈夫そうな長めの棒を拾って、地面や木の葉を叩いてみた。
さして大きな音にはならなかったけれど、強く叩けば木の枝を傷つけてしまいそうなので仕方がない。
こんな感じでは、気休めにしかならないかもしれない。ただ、大声で叫んだり歌を歌ったりしながら歩くのは、羞恥心が邪魔をして難しい。
一応準備が整ったので、周りを警戒しながら歩き出すことにした。
ボコンペコン、トントン、カサカサと、おかしな靴音と棒で地面や枝を叩く音が響く。
服がかさ張り、短くなった歩幅にサイズの合っていない靴では、うまく歩けず速度も遅い。
けれど、歩きはじめてすぐにそんなことは気にならなくなった。
これまでの自分と今の自分との違いを思い知ることになったからだ。
年を取るにしたがって身体は固くなり関節も痛むようになった。慢性的な疲れで、身体を動かすことが苦になってくる。
なのに、あろうことか、若返ったことでその全ての不調が消え失せたのだ。
身体が軽くなり、力が内から湧いてくるような感覚に嬉しくなる。
もしかしたら、この状況は不運なだけではないかもしれない。
そんな風に思えたからか、ボコペコ、ボコペコと、心なしか足取りも軽くなる。
身体が若返ったことで、気持ちまでもが若返ったのだろうか?
森の中をあれこれ思案しながら慎重に進むつもりでいたのに、目に映る物に次々と興味が移ってしまい、思考を無視して身体が先に動いていた。
よく子供に「落ち着きなさい」と注意するけれど、あり余るエネルギーと好奇心にジッとしてなどいられなくなるのだと、この歳になって身をもって知る。
身体に振り回されているような感覚に戸惑いつつも、先行きが不安で沈みがちな気分が上向いてきたのを感じる。
好奇心の赴くまま森を探索した結果、どこか恐ろしく感じていた森も『命溢れる豊かな森』であると知ることができた。
この辺りの樹木は落葉樹のようだ。落ち葉が堆積し腐ってできた土は柔らかく湿っていて、栄養満点だろう。
地表にもほどよく日の光が届いていて、背の低い草木もちゃんと生育している。
時折目にする獣道には、小さな丸い糞らしき物が落ちていたから、うさぎやリスのような小動物が生息しているのだろうとわかった。
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