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第二十四章 勇者の帰還
三
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中学校で修了式を迎えた在校生全員に、PTA会誌『あさまね』が配布された。藁半紙をホチキス留めして製本されたその会誌には、佐藤陽奈子先生が特別に寄稿した「真壁悠太郎くんを悼む」という長い文章が収められていた。ざっと目を通した人があり、熟読した人があり、無視した人があった。しかしやがてその会誌は忘却され、藁半紙が黄ばむに任されるか、あるいは捨てられるかした。そこには書いた人のピアノ演奏を思わせる端正かつ流麗な文字で、次のように記されていた。
人の心には多くの計画があり、私たちは理想に向かって努力します。計画のうちのあるものは実現されますが、あるものは思いも寄らない要因によって妨げられ、挫折します。そんなとき、私たちは考えがちです。これらすべての努力は徒労であったと。心に多くの計画を抱きながら生きていることそのものが無益であると。しかし何が徒労であり何が無益であるかを、全知ならざる人間が勝手に決めつけてもよいものでしょうか。ある人が徒労であり無益であったと嘆くことが、いつかその人の与り知らないところで芽を吹き、誰かの助けとなることもあるのではないでしょうか。
こんなことを書くのは、私がこの地で過してきた日々を振り返る際の自戒でもあるのです。私がこの高原にやって来て、夫や義父母の無理解に逆らうようにピアノ教室を開いたことは何であったのか。私の教室に入門してくれた真壁悠太郎くんを、深い喜びとともに教えてきたことは何であったのか。ご存知のように、悠太郎くんは不慮の最期を遂げました。そして私は(カトリック教会から婚姻の無効を認められないままに)民法上の離婚をして、この高原を立ち去ろうとしています。すべては無益であったという暗い思いのなかへ、ともすれば私は落ち込んでゆくでしょう。ですからそうならないために、在りし日の悠太郎くんを心に思い描きながら、私はこの文章を書いているのです。悠太郎くんを思うことは、どうしても私自身の生い立ちや来歴と切り離して考えることはできませんから、彼と私の人生がいかに交差したかを示すためには、まず私自身ことから物語る必要があります。
私の一家は明治期以来、代々横浜で穀物商会を営んでいました。カトリックの信仰もまた、伝来のものでした。商人に徹するには気弱なところのある父と、教会でオルガンを弾いていた母とのあいだに生まれた私は、両親のただひとりの子でした。しばしば思い出されるのは、ある薄曇りの日に父と埠頭に出たことです。小さかった私は父に手を引かれ、埠頭に立って入港する船を迎えました。海と空のあいだには、カモメたちが鳴き交わしながら飛んでいました。「どうだい陽奈子、素晴らしいだろう。お百姓さんたちが苦労して作った大地の実りを、あの船は必要とする人のところへ届けてくれたんだ。でも船が無事に着くかどうか、いつも薄氷を踏む思いだよ。あまり頑丈でない私にとって、商会の仕事はしばしば重荷になる。でもね、この仕事を必要としてくれる人々のことを思って、私は頑張っているんだ。時には歯を食いしばってね。どうか今度の船も無事に着くように、そして陽奈子がいつか立派なお婿さんを迎えられるように、神様にお祈りするんだよ。もしも後のほうが叶えば、私はこの重荷を下ろせるわけだからね」と父は言いました。「うん。そうなるように私、お祈りする。素敵なお婿さんを迎えて、パパを助ける」と無邪気に私は答えました。このときの父の期待とは全然違う人生が待っていようとは、知る由もありませんでした。
私たち家族の住居は、関東大震災以後に建てられたという洋館でした。かつては使用人たちが住まったという離れもありましたが、戦後生まれの私が物心つくころには、誰も住んではいませんでした。その離れを見たり、そこに入ったりするたび、私は時の流れが物事を変えてしまうことの恐ろしさを感じました。かつて多くの使用人たちに住まわれたこの離れが、こうして空っぽになってしまったように、私たちの住んでいる母屋にだって、いつか誰もいなくなってしまうのではないか――。私が滅びというものに取り憑かれたのは、そういう考えによるところが大きかったように思います。それで私は、上流家庭の快適な暮らしに、改めて没入していったのでした。私たちの家庭は、けっして豪奢な浪費をしながら暮らしたわけではありませんでした。それでも白い壁があり、アンティーク調の階段の手すりや家具があり、マホガニーのテーブルがあり、銀食器があり、母が作る栄養たっぷりの美味な料理があり、白磁の茶器があり、グランドピアノがあり、清潔なベッドがある生活を、私は愛していました。これらのものが滅びてしまう前に、私は全身全霊を挙げてそれらを味わい尽くすことで、滅びないものとして救い出そうとしていたのでした。そうして富裕な生活にしがみつこうとすればするほど、父が言っていた「お百姓さん」たちの土と汗にまみれた仕事を、私がいつか軽蔑するようになっていったことも事実でした。
さて両親の話では、私は言葉を話し始めたばかりの頃から、「愛されし穢れなき母よ」などとラテン語の文句を唱えたり、それに独自の節をつけて歌ったりしていたそうです。教会で歌われるのを聴いているうちに、憶えてしまったのでしょうか。あるいは両親が唱えていたのを聞いたのでしょうか。両親は土曜日の午後には、神父様が開いていたラテン語教室に通っていましたから。この教室には私も一緒に連れてゆかれました。白髪頭の柔和な神父様は、ラテン語の母音の長短に厳格でした。「教会ラテン語は古典ラテン語ほど厳格ではないなどと言う人がいますが、こと母音の長短に関する限り、それは大きな間違いです。この点を疎かにして学んだラテン語からでは、ヨーロッパの伝統のなかへと入ってはゆけないのです。paterのaは短く、materのaは長い。これを誤ってパーテルとかマテルとか発音する人は禍なるかな。長い母音は短い母音の二倍の音価を持っています。分かりますかな? ちょうど音楽の二分音符が、四分音符の二倍長いのと同じです」と神父様は、唇をほとんど動かさない喋り方で言うのでした。私がラテン語を口にしたことを両親が神父様に話すと、神父様は「どれ、言ってごらん」と私を促しました。私が「愛されし穢れなき母よ」を含む讃歌の一節を唱えると、神父様は腹話術師のような喋り方で、「祝福された子だ。祝福された子だ」と言いました。ともあれ教会でオルガンを弾いていた母が、私に音楽の才能らしきものを認めたのは、あるいはそうしたところからだったかもしれません。私は母の手ほどきでピアノの初歩を学びましたが、幼稚園の頃にはもう先生について学ぶようになりました。
上流家庭の快適な生活を味わい尽くすことで、私はそうした生活を不滅のものとして救い出そうとしていたのでした。次第に上達してゆくピアノの練習に、同じ理由から私はのめり込んでゆきました。思えば音とは儚いものです。擦弦楽器や管楽器ならば、音を出した後でもまだ強くすることができますが、ピアノではひとたび打鍵が行なわれてしまえば、音は減衰してゆくだけなのです。いかに伸音ペダルを踏もうと、ピアノの音は儚く消えてゆきます。時の移ろいと事物の滅びについて、ほとんど物心ついた頃から考えていた私は、おそらくピアノの音をその儚さゆえに愛したのだと思います。鳴らされては消えてゆく音を聴き尽くし、不滅のものとして救わなければならないと私は思いました。思えば私にとって祈りとは、消えゆくものへの注意深さとして掴まれていたのではなかったでしょうか。高校一年生のとき、例の腹話術師のような喋り方をする神父様が亡くなりました。私はひたすらモーツァルトのレクイエムのピアノ独奏版を弾き続けることで、神父様のための祈りに代えました。ピアノの練習曲で有名なチェルニーが、モーツァルトのレクイエムをピアノ一台で演奏できるようにした編曲があったのです。当時まだ珍しかったその楽譜を、私の先生は手に入れていました。そうしたことがあってから、私は音楽大学を目指すことにしました。心弱い父は、敢えて反対しませんでした。「神父様が言われた通り、陽奈子は祝福された子だと私も思うよ。神様からいただいた恵みは、人々のために使われなければならない。陽奈子にとってはきっと音楽が、そうするための道なのだろう。会社のことは心配いらない。伝来の家業とはいえ、終わるときは終わるものだ」と父は言ってくれました。音楽大学に合格した私は、さらなる研鑽を積んでゆきました。
そうするうちに、留学が視野に入ってきました。あの頃はまだ冷戦の時代でした。しかし私は幸運にも、ハンガリー留学の機会を得ました。ハンガリーはソヴィエト連邦の衛星国家ではありましたが、ハンガリー動乱以後の改革によって比較的穏健な統治がなされ、東欧では最も自由な国になったと言われていました。一九五九年に日本と国交を回復したハンガリーは、経済的にも文化的にも日本の協力を求めていたらしいのです。そうした機運が一九七〇年代には、折よく高まっていました。ハンガリーは多くの著名な作曲家や演奏家を生みましたが、私にとってはハイドンが働いた国として、またリストを生んだ国として重要だったのです。私はドナウ河の真珠と呼ばれるブダペストにある音楽院で、ピアノ科の学生としての学業を仕上げようとしました。政治的な不穏さを感じながらの日々ではありましたが、しかしなんという美しい日々だったことでしょう! イシュトヴァーン大聖堂ではミサが挙げられていました。当局による監視下に置かれてはいましたが、共産圏の大聖堂でミサが挙げられていたのです。そこに列席して祈る若い私の血は、いつしか「牡牛の血」と呼ばれるハンガリーのワインのように熱くなりました。また時間を見つけては、白い七つの尖塔を持った「漁夫の砦」と呼ばれる要塞に登って、滔々たるドナウ河の流れを眺め続けていました。「この河の流れは、海へ行くことを定められている。私はこれから、どこへ行くのだろう。この河が海へ行くのと同じように、定められた道があるのだろうか」と、身内に熱い血を秘めた若い私は思いました。
そうするうちに忘れもしないあの日が来ました。音楽院の大ホールで、ハイドンのオラトリオ《四季》が演奏されることになりました。私はそれを聴くのを楽しみにしましたが、しかし曲目にはいくらかの不満なしとはしませんでした。ハイドンのオラトリオでも《天地創造》だったらよかったのにと思いました。それならば三人の天使たちが語り手となって、旧約聖書の「創世記」に記された万物の創造を、壮大に歌い上げてくれるでしょう。あるいは《トビアの帰還》だったらよかったのにと思いました。それならば旧約聖書の「トビト記」にあるように人の姿をした天使が、トビアを目の見えない父親のもとに連れ帰るでしょう。しかし《四季》は農民の生活を題材にしているのです。そんなのちっとも宗教的な心情を満足させてはくれないと私は思いました。土と汗にまみれた農民の仕事を軽蔑する私の悪い癖は、この農業国に留学しても変わっていなかったのです。「ヒナコ、神や天使や聖書の人物を、直接に歌った音楽ばかりが宗教的なのではありませんよ。土や肥料に神の御言葉を読み取ることができないうちは、本当の信仰ではないのですよ」と、教授は私を諭しました。そんなものかと思いながら、私はその晩の演奏会に臨んだのでした。
音楽について、ここでは多くを語ることはできません。私にとって決定的なことは、春・夏・秋・冬と分けられたうちの、最初の春の部で起こりました。荘重に始まる序奏は、あたかも季節が冬から春へと移り変わってゆくかのように、次第に明るさと軽やかさを加えてゆきます。語り手のシモンが重々しいバスの声で、冬が去ったことを告げます。ルーカスはテノールの声で雪融けを歌います。ハンネはソプラノの声で、南風と春の訪れを歌います。田園の人々が合唱で、天の恵みである春に呼びかけます。シモンは天の牡牛座から照る太陽を語り、喜び勇んで畑仕事に出る農夫をアリアで歌うのですが、そのアリアにはハイドン自身の有名な《驚愕》交響曲のアンダンテが引用されているのでした。しかし本当に驚くべき引用は、そこではありませんでした。ルーカスが農夫の勤勉さを語った後で、合唱とともに天の恵みを祈るのですが、豊かな実りを与えたまえと歌うくだりには、なんとモーツァルトのレクイエムが引用されているではありませんか。レクイエムの「かつて御身がアブラハムとその子孫に約束したように」という部分が、種蒔きを終えて豊かな実りを祈る農民たちの歌に変わっているのです。それを聴いたとき、私は雷にでも打たれたような衝撃とともに、あることを悟りました。死んだ人が墓に埋葬されるのは、畑に種を蒔くようなものであり、その人が天国で復活することは、蒔かれた種が豊かな実りとなって刈り取られるようなものだということです。そういえば聖書には、農作業の比喩がなんと多く出てくることでしょう。地に落ちて死ぬひと粒の麦について、イエスは語らなかったでしょうか。ひと粒の麦は地に落ちて死ねば、豊かな実りを結ぶと言われなかったでしょうか。私はハイドンの《四季》に引用されたモーツァルトのレクイエムを聴きながら、今こそその言葉の意味が分かったと思いました。そして決意したのです。これまで農民たちを軽蔑してきたことの償いをしようと。帰国したら、農村へ行こうと。この手で大地を耕しながら、その地の子供たちにピアノを教えようと。私が六里ヶ原に来たのは、そうしたことがあったからでした。
ピアノ教室を開いたのは、上の子も下の子も小学校に入ってからでした。悠太郎くんは、ほとんど私の一番弟子のようなものでした。私の教室は、ポピュラー音楽を教材に使わない方針でしたから、人を選ぶという評判でした。ですからそれほど大々的に広がったわけではありませんが、それでも少なからぬ子供たちと関わりを持ちました。悠太郎くんは、そうした子供たちの誰とも違っていました。もともとご家族にクラシック音楽を好む方がいたといいますから、音楽への感性はそのあたりに由来していたのかもしれません。しかしそれ以上に私が打たれたのは、小さかった彼をすでに苛んでいた苦悩の深さであり、滅びゆくものへの哀惜であり、しんとした淋しさでした。彼を教えていて、黒々と見開かれた物問いたげなあの目に見入るとき、私はそこにかつての自分を見るような思いがしました。彼の上達は緩やかなものでした。器用に指先を回すことなら、もっと早いうちに、もっと華麗にできるようになる子はいくらもいます。しかし彼のように、聴覚を通じて異文化の核心へと果敢に迫る子は、後にも先にも見たことがありません。多くの門下生には教えないソルフェージュや楽典の基礎も、彼は吸収してゆきました。そうしたことを教える週一回の時間が、私にはなんと愛おしく大切だったことでしょう(彼にとってもそうであってほしいと願っていました)。農家での暮らしは、たしかに過酷でした。しかし彼に出会えたということだけで、私はこの六里ヶ原に来たことが報われたように感じていました。私自身の生い立ちや来歴が、彼の痛ましい生い立ちと響き合うとき、そこにはこの高原の静けさに相応しい音が、たしかに鳴っていたと思います。彼は彼で自分の生まれや育ちから、開拓農家の子たちとの付き合いに戸惑いを感じていましたから、そういうところひとつを取っても、私たちのあいだには響き合うものがたしかにあったのです。音楽を愛することはもちろん、音楽を愛することへの罪悪感もまた、私たちが共有していたものでした。西洋のいわゆるクラシック音楽など、恵まれた人にしか愛好できないものではないかという疑問を、私も彼も絶えず抱いていたのでした。
結局は彼に不慮の最期をもたらした痛ましい生い立ちについては、ここで多くを記す必要はないと思います。ただそのことと関連して、私にとって忘れ難い思い出をひとつ記しておきます。あれは彼が小学校六年生の頃だったでしょうか、学校で日本国憲法の戦争放棄ということを学び、またビデオで戦争の悲惨さを描いたアニメを見せられた彼は、ふとしたはずみで私に言いました。「軍隊を持たず、平和主義に徹するというのは素晴らしいです。そういう日本がいつまでも続いてほしいと思います。でもぼくには、それを願う資格があるのでしょうか。ぼくの祖父が仕えた社長さんは、軍事工業の会社をやっていた軍国主義者でした。内地や旧植民地で、兵器の博覧会なんかやっていた人です。その社長さんが作った湖畔の観光ホテルで、いま母は働いています。ぼくもあの観光ホテルの人たちや、あの湖が大好きです。軍国主義のおかげで、わが家はそれなりの富を得ました。ぼくがピアノなんか習っていられるのも、軍国主義があったおかげなのです。それはこんなに弱いぼくの血のなかに、今なお流れています。結局ぼくはいつまで経っても、平和主義や民主主義を心底から希求する人にはなれないだろうと思います。そういうところが、ぼくはみんなと違うんです。それでいつも、ぼくの心は揺れ惑っています」
私が今この言葉を記すのは、彼の最期がご家族それぞれの最期によってひどく歪められ、彼自身の人格について少なからず誤解が生じたと思われるからです。もちろんその誤解を解いて歩くのは、私の仕事ではありません。しかし彼の誠実な悩みを示す言葉をこうして記しておくことで、読者がいくらかでも彼のことを理解してくれればよいと思います。そうです、理解です。ご家族も、学校の先生方も、生徒たちも、彼をどれほど理解していたでしょうか。学業が優秀だからどんどん勉強させて、レベルの高い高校に送り込むというのは誰のためだったのでしょうか。なぜ彼はそんなに勉強をしなければならなかったのかといえば、それは淋しさのためです。家族に認められていない、無条件には親に愛されていないという淋しさのためです。ご家族は自らそういう状況を作り出しておいて、そこにつけ込みました。学校の先生方もそれを利用し、自分たちの功名心を満たそうとしました。同級生の生徒たちの多くは、そんな彼をついに憎むようになりました。彼の淋しさは何であり、彼の愛するものは何であり、彼の求めるものは何であり、彼にとって救いとは何であるか、誰ひとりとして理解しようとはしなかったのではないでしょうか。そのような人々に、いま私ははっきりと言っておきます。真壁悠太郎くんに音楽を教え得たということに、私がこの六里ヶ原で恵まれた幸いのすべては結びついているのです。彼は立ち去ってゆきました。私もまた生きながら立ち去ってゆきます。しかし私はこの高原で生きた日々を、徒労であったとは思いません。私と彼が精神の大地に蒔いたトウモロコシの種は、いつか私の与り知らぬところで、誰かにとっての豊かな実りとして収獲されることもありましょう。
*
新世紀を迎えて三年も経たないうちに、株式会社浅間観光は廃業した。たしかに観光ホテル明鏡閣の建物は老朽化していたし、照月湖の水もアオコで緑色に濁り、生臭い臭気を放つようになって久しかった。バブル崩壊後の不景気に祟られて、湖畔に昔日の賑わいがなくなっていたことは事実であった。それでも敷地内に弓道場を建設したり、湖を一周する遊歩道をランニングコースにしたりする奇策は功を奏し、会社の業績は徐々にではあるが回復しつつあったのである。浅間観光に融資していた銀行は、なぜ今このときに会社を畳まなければならないのか理解できなかった。
浅間観光によって支えられていたのは、直接の取引があったスーパーマーケットや洗濯業者ばかりではなかった。観光ホテルに投宿し、あるいはキャンプする人々によって、地域の商店がどれほど多くの恩恵を受けていたか、また開拓農家の生産した高原野菜がどれほど多くの消費者を得ていたかを、オーナーも最後の社長も知らないわけではなかった。しかしオーナーがあの願望をいよいよ実現しようとするのを、もはや誰にも押しとどめることはできなくなっていた。芦屋夫人となりながら、突如として夫に死なれたひとり娘とその子のために、儲からない会社を売ってマンションを建ててやりたいというオーナーの親心は、ほとんど妄執と化して彼を突き動かしたのである。浅間観光廃業の妨げとなっていた永久名誉顧問の老人が、一家まるごと消えてくれたものだから、オーナーは笑いが止まらなかった。最後の社長も浅間観光を買い取る大手出版社から、相当の見返りを得たという噂が囁かれていた。だから浅間観光廃業の決断を下した表向きの責任者たる彼が、あろうことか学芸村に別荘を購入したことは、地元住民の激しい怒りを買ってしまった。よせばいいのに最後の社長が購入した別荘は、あるとき投石によって窓ガラスを割られた。命まで奪われずに済んだことは、幸いとしなければならなかった。
その夏にもやはり日は光り、天と地は明るみをなして晴れやかに広がり、緑濃い樹々の葉を鳴らして爽やかな風は吹き、白樺の白い木肌は目に眩しく、夏鳥たちは賑やかに歌をうたっていた。湖畔を訪れてきたひとりの若い女は、そのことを不思議だと思った。髪をショートのウルフカットにしたその女は、黒いTシャツと細身のスキニージーンズを身に着けていた。小柄な体はよく引き締まり、小麦色に焼けた腕の筋肉は鍛えられていた。黒いスポーツサンダルを履いた足で、彼女は照月湖へと続く坂道を、一歩また一歩と降りてきた。一歩また一歩と運ばれる白い足の甲で、木洩れ日が優しげに戯れていた。もうすぐ二十歳になろうとしている若い女は、きらきら光る茶色の目であたりを見まわし、やがてわずかにしゃくれた顎を胸にくっつけるようにしてうつむいた。ある開拓農家が野菜を売っていた掘っ立て小屋も、レストラン照月湖ガーデンも、すでに取り壊されて跡形もなかった。ガーデンでカレー屋をやっていた食えない店主は、「日本は貧乏人ばかりになって、もうおしまいですね!」と言い捨ててネパールの拠点へ戻っていったらしいと、彼女は母親から聞かされていた。なんでも湖畔の土地は、出版社が道楽で出走させるアラブ馬を養うのに使われるのだとも、彼女はまた知らされていた。果たして馬を走らせるのに適した地形であるかどうか、賢い彼女は疑わずにはいられなかった。
彼女はレストラン照月湖ガーデンがあったあたりの左側に、野の花で編んだ花束を手向けると、しゃがみ込んでしばし合掌瞑目した。この湖で亡くなった幼馴染の冥福のために手向けられたその花束は、切れたミサンガのような飾り紐で結んであった。さて湖といっても、もはやそこには水がなかった。水門は開け放たれて湖水は干上がり、湖底はひび割れた土を見せていた。ゴム長靴を履いた三人の作業員が、うつむきながらその土の上を歩いては、懐中電灯やピアノの鍵といったものを拾い集めていた。若い女はかつて遊歩道だった堤の上から、左手のモビレージを見下ろした。モビレージに建てられていた管理棟も、丸太造りのバンガロー群も、すでに大半は破壊されていた。ショベルカーやブルドーザーの轟音は夏鳥たちを脅かし、その鳴き声を途絶えがちにした。それでもやはり轟音の合間を縫って、鳥たちは元気に歌うのであった。
やがて堤の上に立ちどまった若い女は、対岸の観光ホテル明鏡閣を眺めた。地面まで届く緑色の屋根を戴く中央部から、東西に翼部を伸ばした二階建ての観光ホテル明鏡閣は、クレーンに吊り下げられた巨大な鉄球によって、今まさに破壊されようとしていた。彼女は小学生の頃、テニス部の合宿でそこに泊まったことがあった。また中学生の頃には、例の亡くなった幼馴染みから、従業員たちの笑い話をたくさん聞かせてもらったことがあった。そんな湖畔の観光ホテルの終焉に立ち会うことは、彼女にとってやはり特別な意味を持っていた。それは亡くなった彼が、彼女にとって特別な意味を持っていたからである。彼女は高校生になり、専門学校生になって、いくつかの恋もした。しかし中学校時代の終わりに不慮の最期を遂げた彼のことは、やはり忘れ難かった。忘れてはならないような気がしたが、さりとてあまり思い出してもならないような気がした。それで彼女は彼のことを、忘れないようにしながら思い出さないようにしていた。だが今日このときには、このときにだけは、この湖畔にゆかりが深かった彼のことを、ありったけ思い出そうと彼女は決めていた。「照月湖の水が干上がってしまった。レストランもキャンプ場も、みんな跡形もなく破壊されてゆく。こんな有様を彼が見なくて済んだのは、幸いだったのかもしれない。でもやっぱり彼には生きていてほしかった。生きて一緒に大人になりたかった……」
重々しくゆっくりとクレーンは動き、鉄球が明鏡閣の建物を一撃した。まじろぎもせずにその光景を見守る彼女の心は、鉄球の一撃とともに鋭い痛みを感じた。するとその心の痛むところから、かつて憶えた懐かしい歌が溢れ出した。
見よ 勝利の勇者がやって来る!
トランペットを吹き鳴らせ 太鼓を打ち鳴らせ
祝祭の支度をせよ 月桂冠を持ってこい
勝利の歌を彼にうたえ
ああ、この歌で私は彼を迎えるはずだった。高校に合格して帰ってきた彼を、私はこの歌で迎えたかった。でもそれはできなかった。私は彼と離れつつあったから。彼は病に倒れてしまったから。でも私は知っている。彼は勇敢に戦い、そして勝利した。そうだ、いま言おう。あの日言いたくて言えなかった言葉を、彼が聞きたかったはずの言葉を、私はいま言おう――。
「お帰りなさい。凱旋の勇者ユダス・マカベウス。ユウちゃんはよくやったよ。本当に本当によく戦ったよ。ユウちゃんがどれほどの困難に直面していたか、私は知っているから。ユウちゃんがどれほど勇敢にその困難と戦ったか、私はちゃんと知っているから。ほかの誰が知らなくても、私だけはちゃんと知っているから。だから、どうか……どうか安らかに……」
鉄球は明鏡閣を二度打ち、三度打った。やがて建物の全体は、砂でできてでもいたかのように、ゆっくりといちどきに崩壊した。この地域の大企業として鳴らした浅間観光も、終わるときはこんなものかと若い女は思った。バブルが崩壊してこのかた、日本は緩やかに没落してきた。彼女がいま目の当たりに見た光景も、そうした没落のひとつの様相であった。カレー屋の店主が言った通り、日本はもうおしまいなのかもしれない。だとすれば、私は国を脱出しようか。今日この光景を見たことは、ふるさとへの未練を断ち切るためにはよかったのだ。そうだ、卒業したら、しばらく働いて、お金を貯めて、それから国を出よう。ふるさとも祖国も、私がこれから自分で探すんだ――。
瓦礫となった明鏡閣をもう一度眺め、彼女はその場を歩み去ろうとした。すると路傍に咲いていたレンゲショウマの花が、突然彼女の目に留まった。淡い紅色をしたその花は、微風に揺れながら可憐にうつむいていた。彼女はしばしのあいだその花に見入った。少女時代の自分のすべてのうつむきが、そうして花になっているように思われた。「そうだった。私はいつもこんなだった。でもこれからは、顔を上げて歩こう。ユウちゃんと一緒にメジャーバトンを振った、あの鼓笛隊のときみたいに。この悲嘆の嵐のすべては無駄ではないよね。私きっと自然に笑えるようになるから、ユウちゃん、見ていてね」と彼女は心のなかで言った。青空の彼方から鋭く鳴るホイッスルを、彼女は聞いたような気がした。若い女はこれを限りとすべてのものを目に収め、初めは心を残したように、しかしやがて決然とした足取りで、水のない湖のほとりを立ち去っていった。
finis
人の心には多くの計画があり、私たちは理想に向かって努力します。計画のうちのあるものは実現されますが、あるものは思いも寄らない要因によって妨げられ、挫折します。そんなとき、私たちは考えがちです。これらすべての努力は徒労であったと。心に多くの計画を抱きながら生きていることそのものが無益であると。しかし何が徒労であり何が無益であるかを、全知ならざる人間が勝手に決めつけてもよいものでしょうか。ある人が徒労であり無益であったと嘆くことが、いつかその人の与り知らないところで芽を吹き、誰かの助けとなることもあるのではないでしょうか。
こんなことを書くのは、私がこの地で過してきた日々を振り返る際の自戒でもあるのです。私がこの高原にやって来て、夫や義父母の無理解に逆らうようにピアノ教室を開いたことは何であったのか。私の教室に入門してくれた真壁悠太郎くんを、深い喜びとともに教えてきたことは何であったのか。ご存知のように、悠太郎くんは不慮の最期を遂げました。そして私は(カトリック教会から婚姻の無効を認められないままに)民法上の離婚をして、この高原を立ち去ろうとしています。すべては無益であったという暗い思いのなかへ、ともすれば私は落ち込んでゆくでしょう。ですからそうならないために、在りし日の悠太郎くんを心に思い描きながら、私はこの文章を書いているのです。悠太郎くんを思うことは、どうしても私自身の生い立ちや来歴と切り離して考えることはできませんから、彼と私の人生がいかに交差したかを示すためには、まず私自身ことから物語る必要があります。
私の一家は明治期以来、代々横浜で穀物商会を営んでいました。カトリックの信仰もまた、伝来のものでした。商人に徹するには気弱なところのある父と、教会でオルガンを弾いていた母とのあいだに生まれた私は、両親のただひとりの子でした。しばしば思い出されるのは、ある薄曇りの日に父と埠頭に出たことです。小さかった私は父に手を引かれ、埠頭に立って入港する船を迎えました。海と空のあいだには、カモメたちが鳴き交わしながら飛んでいました。「どうだい陽奈子、素晴らしいだろう。お百姓さんたちが苦労して作った大地の実りを、あの船は必要とする人のところへ届けてくれたんだ。でも船が無事に着くかどうか、いつも薄氷を踏む思いだよ。あまり頑丈でない私にとって、商会の仕事はしばしば重荷になる。でもね、この仕事を必要としてくれる人々のことを思って、私は頑張っているんだ。時には歯を食いしばってね。どうか今度の船も無事に着くように、そして陽奈子がいつか立派なお婿さんを迎えられるように、神様にお祈りするんだよ。もしも後のほうが叶えば、私はこの重荷を下ろせるわけだからね」と父は言いました。「うん。そうなるように私、お祈りする。素敵なお婿さんを迎えて、パパを助ける」と無邪気に私は答えました。このときの父の期待とは全然違う人生が待っていようとは、知る由もありませんでした。
私たち家族の住居は、関東大震災以後に建てられたという洋館でした。かつては使用人たちが住まったという離れもありましたが、戦後生まれの私が物心つくころには、誰も住んではいませんでした。その離れを見たり、そこに入ったりするたび、私は時の流れが物事を変えてしまうことの恐ろしさを感じました。かつて多くの使用人たちに住まわれたこの離れが、こうして空っぽになってしまったように、私たちの住んでいる母屋にだって、いつか誰もいなくなってしまうのではないか――。私が滅びというものに取り憑かれたのは、そういう考えによるところが大きかったように思います。それで私は、上流家庭の快適な暮らしに、改めて没入していったのでした。私たちの家庭は、けっして豪奢な浪費をしながら暮らしたわけではありませんでした。それでも白い壁があり、アンティーク調の階段の手すりや家具があり、マホガニーのテーブルがあり、銀食器があり、母が作る栄養たっぷりの美味な料理があり、白磁の茶器があり、グランドピアノがあり、清潔なベッドがある生活を、私は愛していました。これらのものが滅びてしまう前に、私は全身全霊を挙げてそれらを味わい尽くすことで、滅びないものとして救い出そうとしていたのでした。そうして富裕な生活にしがみつこうとすればするほど、父が言っていた「お百姓さん」たちの土と汗にまみれた仕事を、私がいつか軽蔑するようになっていったことも事実でした。
さて両親の話では、私は言葉を話し始めたばかりの頃から、「愛されし穢れなき母よ」などとラテン語の文句を唱えたり、それに独自の節をつけて歌ったりしていたそうです。教会で歌われるのを聴いているうちに、憶えてしまったのでしょうか。あるいは両親が唱えていたのを聞いたのでしょうか。両親は土曜日の午後には、神父様が開いていたラテン語教室に通っていましたから。この教室には私も一緒に連れてゆかれました。白髪頭の柔和な神父様は、ラテン語の母音の長短に厳格でした。「教会ラテン語は古典ラテン語ほど厳格ではないなどと言う人がいますが、こと母音の長短に関する限り、それは大きな間違いです。この点を疎かにして学んだラテン語からでは、ヨーロッパの伝統のなかへと入ってはゆけないのです。paterのaは短く、materのaは長い。これを誤ってパーテルとかマテルとか発音する人は禍なるかな。長い母音は短い母音の二倍の音価を持っています。分かりますかな? ちょうど音楽の二分音符が、四分音符の二倍長いのと同じです」と神父様は、唇をほとんど動かさない喋り方で言うのでした。私がラテン語を口にしたことを両親が神父様に話すと、神父様は「どれ、言ってごらん」と私を促しました。私が「愛されし穢れなき母よ」を含む讃歌の一節を唱えると、神父様は腹話術師のような喋り方で、「祝福された子だ。祝福された子だ」と言いました。ともあれ教会でオルガンを弾いていた母が、私に音楽の才能らしきものを認めたのは、あるいはそうしたところからだったかもしれません。私は母の手ほどきでピアノの初歩を学びましたが、幼稚園の頃にはもう先生について学ぶようになりました。
上流家庭の快適な生活を味わい尽くすことで、私はそうした生活を不滅のものとして救い出そうとしていたのでした。次第に上達してゆくピアノの練習に、同じ理由から私はのめり込んでゆきました。思えば音とは儚いものです。擦弦楽器や管楽器ならば、音を出した後でもまだ強くすることができますが、ピアノではひとたび打鍵が行なわれてしまえば、音は減衰してゆくだけなのです。いかに伸音ペダルを踏もうと、ピアノの音は儚く消えてゆきます。時の移ろいと事物の滅びについて、ほとんど物心ついた頃から考えていた私は、おそらくピアノの音をその儚さゆえに愛したのだと思います。鳴らされては消えてゆく音を聴き尽くし、不滅のものとして救わなければならないと私は思いました。思えば私にとって祈りとは、消えゆくものへの注意深さとして掴まれていたのではなかったでしょうか。高校一年生のとき、例の腹話術師のような喋り方をする神父様が亡くなりました。私はひたすらモーツァルトのレクイエムのピアノ独奏版を弾き続けることで、神父様のための祈りに代えました。ピアノの練習曲で有名なチェルニーが、モーツァルトのレクイエムをピアノ一台で演奏できるようにした編曲があったのです。当時まだ珍しかったその楽譜を、私の先生は手に入れていました。そうしたことがあってから、私は音楽大学を目指すことにしました。心弱い父は、敢えて反対しませんでした。「神父様が言われた通り、陽奈子は祝福された子だと私も思うよ。神様からいただいた恵みは、人々のために使われなければならない。陽奈子にとってはきっと音楽が、そうするための道なのだろう。会社のことは心配いらない。伝来の家業とはいえ、終わるときは終わるものだ」と父は言ってくれました。音楽大学に合格した私は、さらなる研鑽を積んでゆきました。
そうするうちに、留学が視野に入ってきました。あの頃はまだ冷戦の時代でした。しかし私は幸運にも、ハンガリー留学の機会を得ました。ハンガリーはソヴィエト連邦の衛星国家ではありましたが、ハンガリー動乱以後の改革によって比較的穏健な統治がなされ、東欧では最も自由な国になったと言われていました。一九五九年に日本と国交を回復したハンガリーは、経済的にも文化的にも日本の協力を求めていたらしいのです。そうした機運が一九七〇年代には、折よく高まっていました。ハンガリーは多くの著名な作曲家や演奏家を生みましたが、私にとってはハイドンが働いた国として、またリストを生んだ国として重要だったのです。私はドナウ河の真珠と呼ばれるブダペストにある音楽院で、ピアノ科の学生としての学業を仕上げようとしました。政治的な不穏さを感じながらの日々ではありましたが、しかしなんという美しい日々だったことでしょう! イシュトヴァーン大聖堂ではミサが挙げられていました。当局による監視下に置かれてはいましたが、共産圏の大聖堂でミサが挙げられていたのです。そこに列席して祈る若い私の血は、いつしか「牡牛の血」と呼ばれるハンガリーのワインのように熱くなりました。また時間を見つけては、白い七つの尖塔を持った「漁夫の砦」と呼ばれる要塞に登って、滔々たるドナウ河の流れを眺め続けていました。「この河の流れは、海へ行くことを定められている。私はこれから、どこへ行くのだろう。この河が海へ行くのと同じように、定められた道があるのだろうか」と、身内に熱い血を秘めた若い私は思いました。
そうするうちに忘れもしないあの日が来ました。音楽院の大ホールで、ハイドンのオラトリオ《四季》が演奏されることになりました。私はそれを聴くのを楽しみにしましたが、しかし曲目にはいくらかの不満なしとはしませんでした。ハイドンのオラトリオでも《天地創造》だったらよかったのにと思いました。それならば三人の天使たちが語り手となって、旧約聖書の「創世記」に記された万物の創造を、壮大に歌い上げてくれるでしょう。あるいは《トビアの帰還》だったらよかったのにと思いました。それならば旧約聖書の「トビト記」にあるように人の姿をした天使が、トビアを目の見えない父親のもとに連れ帰るでしょう。しかし《四季》は農民の生活を題材にしているのです。そんなのちっとも宗教的な心情を満足させてはくれないと私は思いました。土と汗にまみれた農民の仕事を軽蔑する私の悪い癖は、この農業国に留学しても変わっていなかったのです。「ヒナコ、神や天使や聖書の人物を、直接に歌った音楽ばかりが宗教的なのではありませんよ。土や肥料に神の御言葉を読み取ることができないうちは、本当の信仰ではないのですよ」と、教授は私を諭しました。そんなものかと思いながら、私はその晩の演奏会に臨んだのでした。
音楽について、ここでは多くを語ることはできません。私にとって決定的なことは、春・夏・秋・冬と分けられたうちの、最初の春の部で起こりました。荘重に始まる序奏は、あたかも季節が冬から春へと移り変わってゆくかのように、次第に明るさと軽やかさを加えてゆきます。語り手のシモンが重々しいバスの声で、冬が去ったことを告げます。ルーカスはテノールの声で雪融けを歌います。ハンネはソプラノの声で、南風と春の訪れを歌います。田園の人々が合唱で、天の恵みである春に呼びかけます。シモンは天の牡牛座から照る太陽を語り、喜び勇んで畑仕事に出る農夫をアリアで歌うのですが、そのアリアにはハイドン自身の有名な《驚愕》交響曲のアンダンテが引用されているのでした。しかし本当に驚くべき引用は、そこではありませんでした。ルーカスが農夫の勤勉さを語った後で、合唱とともに天の恵みを祈るのですが、豊かな実りを与えたまえと歌うくだりには、なんとモーツァルトのレクイエムが引用されているではありませんか。レクイエムの「かつて御身がアブラハムとその子孫に約束したように」という部分が、種蒔きを終えて豊かな実りを祈る農民たちの歌に変わっているのです。それを聴いたとき、私は雷にでも打たれたような衝撃とともに、あることを悟りました。死んだ人が墓に埋葬されるのは、畑に種を蒔くようなものであり、その人が天国で復活することは、蒔かれた種が豊かな実りとなって刈り取られるようなものだということです。そういえば聖書には、農作業の比喩がなんと多く出てくることでしょう。地に落ちて死ぬひと粒の麦について、イエスは語らなかったでしょうか。ひと粒の麦は地に落ちて死ねば、豊かな実りを結ぶと言われなかったでしょうか。私はハイドンの《四季》に引用されたモーツァルトのレクイエムを聴きながら、今こそその言葉の意味が分かったと思いました。そして決意したのです。これまで農民たちを軽蔑してきたことの償いをしようと。帰国したら、農村へ行こうと。この手で大地を耕しながら、その地の子供たちにピアノを教えようと。私が六里ヶ原に来たのは、そうしたことがあったからでした。
ピアノ教室を開いたのは、上の子も下の子も小学校に入ってからでした。悠太郎くんは、ほとんど私の一番弟子のようなものでした。私の教室は、ポピュラー音楽を教材に使わない方針でしたから、人を選ぶという評判でした。ですからそれほど大々的に広がったわけではありませんが、それでも少なからぬ子供たちと関わりを持ちました。悠太郎くんは、そうした子供たちの誰とも違っていました。もともとご家族にクラシック音楽を好む方がいたといいますから、音楽への感性はそのあたりに由来していたのかもしれません。しかしそれ以上に私が打たれたのは、小さかった彼をすでに苛んでいた苦悩の深さであり、滅びゆくものへの哀惜であり、しんとした淋しさでした。彼を教えていて、黒々と見開かれた物問いたげなあの目に見入るとき、私はそこにかつての自分を見るような思いがしました。彼の上達は緩やかなものでした。器用に指先を回すことなら、もっと早いうちに、もっと華麗にできるようになる子はいくらもいます。しかし彼のように、聴覚を通じて異文化の核心へと果敢に迫る子は、後にも先にも見たことがありません。多くの門下生には教えないソルフェージュや楽典の基礎も、彼は吸収してゆきました。そうしたことを教える週一回の時間が、私にはなんと愛おしく大切だったことでしょう(彼にとってもそうであってほしいと願っていました)。農家での暮らしは、たしかに過酷でした。しかし彼に出会えたということだけで、私はこの六里ヶ原に来たことが報われたように感じていました。私自身の生い立ちや来歴が、彼の痛ましい生い立ちと響き合うとき、そこにはこの高原の静けさに相応しい音が、たしかに鳴っていたと思います。彼は彼で自分の生まれや育ちから、開拓農家の子たちとの付き合いに戸惑いを感じていましたから、そういうところひとつを取っても、私たちのあいだには響き合うものがたしかにあったのです。音楽を愛することはもちろん、音楽を愛することへの罪悪感もまた、私たちが共有していたものでした。西洋のいわゆるクラシック音楽など、恵まれた人にしか愛好できないものではないかという疑問を、私も彼も絶えず抱いていたのでした。
結局は彼に不慮の最期をもたらした痛ましい生い立ちについては、ここで多くを記す必要はないと思います。ただそのことと関連して、私にとって忘れ難い思い出をひとつ記しておきます。あれは彼が小学校六年生の頃だったでしょうか、学校で日本国憲法の戦争放棄ということを学び、またビデオで戦争の悲惨さを描いたアニメを見せられた彼は、ふとしたはずみで私に言いました。「軍隊を持たず、平和主義に徹するというのは素晴らしいです。そういう日本がいつまでも続いてほしいと思います。でもぼくには、それを願う資格があるのでしょうか。ぼくの祖父が仕えた社長さんは、軍事工業の会社をやっていた軍国主義者でした。内地や旧植民地で、兵器の博覧会なんかやっていた人です。その社長さんが作った湖畔の観光ホテルで、いま母は働いています。ぼくもあの観光ホテルの人たちや、あの湖が大好きです。軍国主義のおかげで、わが家はそれなりの富を得ました。ぼくがピアノなんか習っていられるのも、軍国主義があったおかげなのです。それはこんなに弱いぼくの血のなかに、今なお流れています。結局ぼくはいつまで経っても、平和主義や民主主義を心底から希求する人にはなれないだろうと思います。そういうところが、ぼくはみんなと違うんです。それでいつも、ぼくの心は揺れ惑っています」
私が今この言葉を記すのは、彼の最期がご家族それぞれの最期によってひどく歪められ、彼自身の人格について少なからず誤解が生じたと思われるからです。もちろんその誤解を解いて歩くのは、私の仕事ではありません。しかし彼の誠実な悩みを示す言葉をこうして記しておくことで、読者がいくらかでも彼のことを理解してくれればよいと思います。そうです、理解です。ご家族も、学校の先生方も、生徒たちも、彼をどれほど理解していたでしょうか。学業が優秀だからどんどん勉強させて、レベルの高い高校に送り込むというのは誰のためだったのでしょうか。なぜ彼はそんなに勉強をしなければならなかったのかといえば、それは淋しさのためです。家族に認められていない、無条件には親に愛されていないという淋しさのためです。ご家族は自らそういう状況を作り出しておいて、そこにつけ込みました。学校の先生方もそれを利用し、自分たちの功名心を満たそうとしました。同級生の生徒たちの多くは、そんな彼をついに憎むようになりました。彼の淋しさは何であり、彼の愛するものは何であり、彼の求めるものは何であり、彼にとって救いとは何であるか、誰ひとりとして理解しようとはしなかったのではないでしょうか。そのような人々に、いま私ははっきりと言っておきます。真壁悠太郎くんに音楽を教え得たということに、私がこの六里ヶ原で恵まれた幸いのすべては結びついているのです。彼は立ち去ってゆきました。私もまた生きながら立ち去ってゆきます。しかし私はこの高原で生きた日々を、徒労であったとは思いません。私と彼が精神の大地に蒔いたトウモロコシの種は、いつか私の与り知らぬところで、誰かにとっての豊かな実りとして収獲されることもありましょう。
*
新世紀を迎えて三年も経たないうちに、株式会社浅間観光は廃業した。たしかに観光ホテル明鏡閣の建物は老朽化していたし、照月湖の水もアオコで緑色に濁り、生臭い臭気を放つようになって久しかった。バブル崩壊後の不景気に祟られて、湖畔に昔日の賑わいがなくなっていたことは事実であった。それでも敷地内に弓道場を建設したり、湖を一周する遊歩道をランニングコースにしたりする奇策は功を奏し、会社の業績は徐々にではあるが回復しつつあったのである。浅間観光に融資していた銀行は、なぜ今このときに会社を畳まなければならないのか理解できなかった。
浅間観光によって支えられていたのは、直接の取引があったスーパーマーケットや洗濯業者ばかりではなかった。観光ホテルに投宿し、あるいはキャンプする人々によって、地域の商店がどれほど多くの恩恵を受けていたか、また開拓農家の生産した高原野菜がどれほど多くの消費者を得ていたかを、オーナーも最後の社長も知らないわけではなかった。しかしオーナーがあの願望をいよいよ実現しようとするのを、もはや誰にも押しとどめることはできなくなっていた。芦屋夫人となりながら、突如として夫に死なれたひとり娘とその子のために、儲からない会社を売ってマンションを建ててやりたいというオーナーの親心は、ほとんど妄執と化して彼を突き動かしたのである。浅間観光廃業の妨げとなっていた永久名誉顧問の老人が、一家まるごと消えてくれたものだから、オーナーは笑いが止まらなかった。最後の社長も浅間観光を買い取る大手出版社から、相当の見返りを得たという噂が囁かれていた。だから浅間観光廃業の決断を下した表向きの責任者たる彼が、あろうことか学芸村に別荘を購入したことは、地元住民の激しい怒りを買ってしまった。よせばいいのに最後の社長が購入した別荘は、あるとき投石によって窓ガラスを割られた。命まで奪われずに済んだことは、幸いとしなければならなかった。
その夏にもやはり日は光り、天と地は明るみをなして晴れやかに広がり、緑濃い樹々の葉を鳴らして爽やかな風は吹き、白樺の白い木肌は目に眩しく、夏鳥たちは賑やかに歌をうたっていた。湖畔を訪れてきたひとりの若い女は、そのことを不思議だと思った。髪をショートのウルフカットにしたその女は、黒いTシャツと細身のスキニージーンズを身に着けていた。小柄な体はよく引き締まり、小麦色に焼けた腕の筋肉は鍛えられていた。黒いスポーツサンダルを履いた足で、彼女は照月湖へと続く坂道を、一歩また一歩と降りてきた。一歩また一歩と運ばれる白い足の甲で、木洩れ日が優しげに戯れていた。もうすぐ二十歳になろうとしている若い女は、きらきら光る茶色の目であたりを見まわし、やがてわずかにしゃくれた顎を胸にくっつけるようにしてうつむいた。ある開拓農家が野菜を売っていた掘っ立て小屋も、レストラン照月湖ガーデンも、すでに取り壊されて跡形もなかった。ガーデンでカレー屋をやっていた食えない店主は、「日本は貧乏人ばかりになって、もうおしまいですね!」と言い捨ててネパールの拠点へ戻っていったらしいと、彼女は母親から聞かされていた。なんでも湖畔の土地は、出版社が道楽で出走させるアラブ馬を養うのに使われるのだとも、彼女はまた知らされていた。果たして馬を走らせるのに適した地形であるかどうか、賢い彼女は疑わずにはいられなかった。
彼女はレストラン照月湖ガーデンがあったあたりの左側に、野の花で編んだ花束を手向けると、しゃがみ込んでしばし合掌瞑目した。この湖で亡くなった幼馴染の冥福のために手向けられたその花束は、切れたミサンガのような飾り紐で結んであった。さて湖といっても、もはやそこには水がなかった。水門は開け放たれて湖水は干上がり、湖底はひび割れた土を見せていた。ゴム長靴を履いた三人の作業員が、うつむきながらその土の上を歩いては、懐中電灯やピアノの鍵といったものを拾い集めていた。若い女はかつて遊歩道だった堤の上から、左手のモビレージを見下ろした。モビレージに建てられていた管理棟も、丸太造りのバンガロー群も、すでに大半は破壊されていた。ショベルカーやブルドーザーの轟音は夏鳥たちを脅かし、その鳴き声を途絶えがちにした。それでもやはり轟音の合間を縫って、鳥たちは元気に歌うのであった。
やがて堤の上に立ちどまった若い女は、対岸の観光ホテル明鏡閣を眺めた。地面まで届く緑色の屋根を戴く中央部から、東西に翼部を伸ばした二階建ての観光ホテル明鏡閣は、クレーンに吊り下げられた巨大な鉄球によって、今まさに破壊されようとしていた。彼女は小学生の頃、テニス部の合宿でそこに泊まったことがあった。また中学生の頃には、例の亡くなった幼馴染みから、従業員たちの笑い話をたくさん聞かせてもらったことがあった。そんな湖畔の観光ホテルの終焉に立ち会うことは、彼女にとってやはり特別な意味を持っていた。それは亡くなった彼が、彼女にとって特別な意味を持っていたからである。彼女は高校生になり、専門学校生になって、いくつかの恋もした。しかし中学校時代の終わりに不慮の最期を遂げた彼のことは、やはり忘れ難かった。忘れてはならないような気がしたが、さりとてあまり思い出してもならないような気がした。それで彼女は彼のことを、忘れないようにしながら思い出さないようにしていた。だが今日このときには、このときにだけは、この湖畔にゆかりが深かった彼のことを、ありったけ思い出そうと彼女は決めていた。「照月湖の水が干上がってしまった。レストランもキャンプ場も、みんな跡形もなく破壊されてゆく。こんな有様を彼が見なくて済んだのは、幸いだったのかもしれない。でもやっぱり彼には生きていてほしかった。生きて一緒に大人になりたかった……」
重々しくゆっくりとクレーンは動き、鉄球が明鏡閣の建物を一撃した。まじろぎもせずにその光景を見守る彼女の心は、鉄球の一撃とともに鋭い痛みを感じた。するとその心の痛むところから、かつて憶えた懐かしい歌が溢れ出した。
見よ 勝利の勇者がやって来る!
トランペットを吹き鳴らせ 太鼓を打ち鳴らせ
祝祭の支度をせよ 月桂冠を持ってこい
勝利の歌を彼にうたえ
ああ、この歌で私は彼を迎えるはずだった。高校に合格して帰ってきた彼を、私はこの歌で迎えたかった。でもそれはできなかった。私は彼と離れつつあったから。彼は病に倒れてしまったから。でも私は知っている。彼は勇敢に戦い、そして勝利した。そうだ、いま言おう。あの日言いたくて言えなかった言葉を、彼が聞きたかったはずの言葉を、私はいま言おう――。
「お帰りなさい。凱旋の勇者ユダス・マカベウス。ユウちゃんはよくやったよ。本当に本当によく戦ったよ。ユウちゃんがどれほどの困難に直面していたか、私は知っているから。ユウちゃんがどれほど勇敢にその困難と戦ったか、私はちゃんと知っているから。ほかの誰が知らなくても、私だけはちゃんと知っているから。だから、どうか……どうか安らかに……」
鉄球は明鏡閣を二度打ち、三度打った。やがて建物の全体は、砂でできてでもいたかのように、ゆっくりといちどきに崩壊した。この地域の大企業として鳴らした浅間観光も、終わるときはこんなものかと若い女は思った。バブルが崩壊してこのかた、日本は緩やかに没落してきた。彼女がいま目の当たりに見た光景も、そうした没落のひとつの様相であった。カレー屋の店主が言った通り、日本はもうおしまいなのかもしれない。だとすれば、私は国を脱出しようか。今日この光景を見たことは、ふるさとへの未練を断ち切るためにはよかったのだ。そうだ、卒業したら、しばらく働いて、お金を貯めて、それから国を出よう。ふるさとも祖国も、私がこれから自分で探すんだ――。
瓦礫となった明鏡閣をもう一度眺め、彼女はその場を歩み去ろうとした。すると路傍に咲いていたレンゲショウマの花が、突然彼女の目に留まった。淡い紅色をしたその花は、微風に揺れながら可憐にうつむいていた。彼女はしばしのあいだその花に見入った。少女時代の自分のすべてのうつむきが、そうして花になっているように思われた。「そうだった。私はいつもこんなだった。でもこれからは、顔を上げて歩こう。ユウちゃんと一緒にメジャーバトンを振った、あの鼓笛隊のときみたいに。この悲嘆の嵐のすべては無駄ではないよね。私きっと自然に笑えるようになるから、ユウちゃん、見ていてね」と彼女は心のなかで言った。青空の彼方から鋭く鳴るホイッスルを、彼女は聞いたような気がした。若い女はこれを限りとすべてのものを目に収め、初めは心を残したように、しかしやがて決然とした足取りで、水のない湖のほとりを立ち去っていった。
finis
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