明鏡の惑い

赤津龍之介

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第二十三章 烏川

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 ところで株式会社浅間観光は、現場で働いている奇人変人たちの思惑をよそに、着々と廃業へ向けて進んでいるらしかった。悠太郎の祖父の千代次は、とうに無報酬にはなっていたものの、一応会社の永久名誉顧問の地位にあったから、千代次の了承を得ずして廃業に踏み切ることは、鈴木オーナーとしてもためらわれる様子であった。それというのも一九九九年の正月になると、五十男の松並木社長が、スーツに包んだ太鼓腹を揺すり上げながら、年賀を述べに真壁の家を訪れたからである。数年前に増築された「新居」と呼ばれる東側の居住空間で、千代次は松並木社長を応接した。悠太郎は襖越しに、やたらと大声を出すふたりの男のやり取りを聞いていた。やがて松並木社長の声がやや静かになり、「ところで真壁顧問、お願いがあります。すでにご存知とは思いますが、浅間観光を廃業することが、鈴木オーナーの意向なのです。真壁顧問はわが社の創業者である増田ケンポウの代から仕えておられる。しかし真壁顧問、時代は変わりました。もはや増田ケンポウやおイネさんが存命だった頃のように、戦後の焼け野原からの復興と、それに続いた高度成長の時代ではありません。日本じゅうが好景気に沸いた空前のバブルは弾け、景気は衰退する一方です。わが社もまた昔ながらのやり方では、もはや立ち行かないのです。そこで鈴木オーナーは、あまり損をしないうちに有終の美を飾ろうという考えなのです。ついては真壁顧問にも、どうか廃業のことをご承知いただきたく……これは少ないですが、御令孫の学費の足しにでもしてください」と言った。襖越しに聞く悠太郎には、封筒に入った札束が見えるような気がした。
 千代次は低く笑っていた。地の底から響くような不気味な笑い声の後には、「なんちゅう卑しいことを考えてくれるんだ」という怒気を含んだ言葉が続いた。「馬鹿にするな! こんな汚え金をもらって孫を学校へやるほど、俺のうちは貧乏じゃねえ! そもそもこれしきのはした金で、俺が大恩ある増田ケンポウから預かった会社を売り渡すと思ったか? いや金額の問題じゃねえ! 一億の金を渡してみろ! それでも俺は承知しねえ! 一兆の金を渡してみろ! それでも俺は承知しねえ! この世界にありとある金・銀・宝石を、この家の庭いっぱいに、うず高く積み上げてみろ! それでも俺は承知しねえ! 従業員に働き甲斐を与え、地域の経済を支え、全国からくるお客さんを憩わせるこの浅間観光の事業が、たかだか鈴木の娘の不幸などという個人的な事情によって、廃業になることなど断じて認められねえ! いま俺が言ったことを、本社に帰って鈴木に伝えるがいい! この六里ヶ原に出向けと鈴木に言ってやるがいい! 従業員たちがどれほど懸命に働いているか、その目で見ろと言ってやれ! 熊川の清流に頭を突っ込んで、脳味噌から馬鹿げた考えを洗い流せと言ってやれ! 老いたりとはいえ俺の目の黒いうちは、大恩ある増田ケンポウから預かった浅間観光を、鈴木ごときの好きにはさせんぞ!……」悠太郎はこのときほど、祖父を頼もしいと感じたことはなかった。
 そんなことがあってから、今度は水道屋の森山サダム爺さんが年始の挨拶に来た。サダム爺さんはてらてらした赤ら顔に笑いを浮かべながら、「それだけえどあれだね真壁さん、オラッチは聞いただけど、浅間観光の例の一件は、えらいことだのう」と、ドラ猫のような声でがなり立てた。「廃業の件かい。あんなことは俺が頑として承知しねえよ。先だって松並木の野郎を追い返したところさ」と、千代次は細い目をしばたたきながら不機嫌そうに言った。「ははあ、それでかい。オラッチには読めたよ真壁さん」とサダム爺さんが言うので、「何がだい?」と千代次は問うた。「さては知らないね真壁さん。それじゃ教えるけれどもね、浅間観光のオーナーと社長が、なんと学芸村の理事たちと手を組んだよ。浅間観光のオーナーは会社を廃業したい。学芸村の理事たちは浅間観光に出ていってもらいたい。双方の利害が一致したわけだね。この結託を主導したのは誰だと思う真壁さん。何ていったっけ、ほれあの頭に柔らかな銀髪を波打たせた、顔の右半分が染みだらけの、ほれあの環境を守る会の……藤原容三さんだよ」と一席ぶった森山サダム爺さんは、お茶を飲み終わると勝ち誇ったように帰っていった。千代次は宇宙全体を腐らせるような苦渋の表情で、「おのれ鈴木め! おのれ松並木め! よくも浅間観光の永久名誉顧問であるこの俺の頭越しに! おのれ藤原め! おのれ理事どもめ! よくも六里ヶ原学芸村の理事でもあるこの俺の頭越しに!」と呪いの言葉を吐いていた。悠太郎は絶望のあまり気が遠くなった。そんな悠太郎に千代次は言った。「ユウ、おめえは必ず試験に受かるだぞ。鍛えて、強くなり、そして勝つ。人生ではそれがすべてだ。人も、家も、会社も、国も、鍛えて、強くなり、そして勝つ以外の道はねえんだ。必ず高崎に受かるだぞ……」
 「もうずいぶん前から、俺はそのことばかりを考えて日々を送っていたな。ひたすら勉強して、試験で勝つことばかり」と悠太郎は、夕映えの烏川を眺めながら思った。いつの頃からか視力が急激に落ち始め、もう野鳥も夜空の星も見えなかった。そんなものにはもう何の関心もなかった。関心はひたすら試験の得点に向けられていた。「近視になったから、遠く遥かなものへの関心がなくなったのだろうか。それとも遠く遥かなものへの関心がなくなったから、近視になったのだろうか」と悠太郎は考えた。いつか赤木美帆が言っていたように、力と勝利を際限もなく追求するばかりになった悠太郎には、この世の細やかな豊かさが、ほとんど見えなくなっていた。それはもう取り返しのつかないことに思われたから、ただひたすらに悲しかった。
 われとわが身を鞭打つような悠太郎の受験勉強は、しばしば夜の一時や二時まで続けられた。そうして頭脳を酷使した後の短い眠りのなかで、悠太郎はしばしば悪夢を見た。「ユウ、おめえは必ず試験に受かるだぞ。鍛えて、強くなり、そして勝つ。人生ではそれがすべてだ。人も、家も、会社も、国も、鍛えて、強くなり、そして勝つ以外の道はねえんだ。必ず高崎に受かるだぞ……」という千代次の言葉は、夢のなかにまで悠太郎を追ってきた。悠太郎はひたすら逃げていた。すると千代次が追ってきた。月光に照らされた千代次は、いつか白骨になっていた。見れば四方八方から、数え切れないほどの骸骨たちが悠太郎を取り囲んでいた。「人も、家も、会社も、国も、鍛えて、強くなり、そして勝つ以外の道はねえんだ」と骸骨たちは口々に言っていた。悠太郎が叫び声を上げて目を醒ますと、布団は冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。
 だからある夜の夢のなかで、入江紀之に会えたことが悠太郎には嬉しかった。満月の夜に急な坂道を降りてゆく悠太郎は、小学校一年生の姿に戻っていた。澄んだ湖水は惑うがごとく揺らめいて、その水面に映った月を伸びたり縮んだりさせていた。レストラン照月湖ガーデンの前で、やはり小学校六年生の姿をした紀之が「ユウ、よく来たな。今日もひとりなのか?」と言ってくれた。悠太郎は懐かしさのあまり泣きたくなるのを堪えた。ああ、なんと清々しい声だろう。ハンノキの若木のように真っ直ぐなその体からは、ブルージーンズを穿いた脚も、若緑のシャツの袖に通した腕も、すらりと長く伸びている。色白の肌は白樺のコケシのようにきめ細やかで、その顔の弓なりのしなやかな眉も、明澄な光を湛えて見開かれた円かな目も、リスを思わせるやや大きな白い前歯も、指の長い美しい手も、気取らない気品に溢れている。黒いベストが大人っぽい。やっぱりノリくんはこうでなくちゃ――。
 「はい。ぼくはひとりです。もちろん見守ってくれる人はいますし、いつもいました。それでもやっぱり、ぼくはひとりです。人は誰でも、みんなひとりなのではないでしょうか」と悠太郎は答えた。「そうだな。そうかもしれない。そんなことが分かるとは、ユウも大きくなったな」と言った紀之は、手品のように虚空から一本の剣を取り出すと、その柄を悠太郎に差し出した。鍔が三日月状の金属でできたその剣は、いつかカイが話してくれた月光の剣に違いなかった。手にしてみればその剣は、手漕ぎボートのオールほどの重さがあった。刀身は満月の光を受けて、蒼白い銀色に輝いていた。「ユウ、いよいよ決戦のときが近いな。ユウにとっては、これが最後の戦いだ。その剣を振るって、悪夢を断ち切れ。六里ヶ原とこの湖畔にまとわりついた悪夢を、その手で断ち切ってみろ。ユウならできる。そしてすべてが終わったら、また一緒に遊ぼう。澄んだ湖水にボートを浮かべて、昔のように一緒に遊ぼう……」
 目が醒めると、悠太郎の枕は涙でしとど濡れていた。ノリくん、また会えますか? ぼくはきっと入試に受かります。そうしたら、また会えますか? きっと会えますよね――。半醒半睡で悠太郎はそんなことを考えた。それにしても、最後の皇帝が装備するという月光の剣が、俺の手にあろうとは。やはり俺はこの家の最後の人なのかもしれない。没落するこの家の、最後の人――。
 そうしたわけで高校入試を翌日に控えた悠太郎は、高崎にある和田橋の上から夕映えの烏川を眺めながら、人の世の栄枯盛衰について思いをめぐらしていた。ひとりの人が生まれ、成長し、年老いて死ぬ。ひとつの家が興り、隆盛し、衰退して滅亡する。ひとつの会社が興り、事業を拡大し、事業を縮小して廃業する。ひとつの国が興り、栄え、衰微して滅亡する。人は恋が始まったと言っては喜び、恋が終わったと言っては悲しむ。人々は好景気に沸き立ち、不景気に沈み込む。そうしたことどものすべてが、実はこの川に起こる波のひとつひとつほどの意味しか持たないのではないか――。そう考えたとき悠太郎はいつかの三月――あの頃はまだ三月の照月湖でもスケートができた――、「嬉しいことも悲しいことも、ぼくたちひとりひとりの命も、どこか見えない湖にきらめく細波のひとつひとつにすぎないのかもしれない」と考えたことを思い出した。生じては消えるのはただ波ばかりで、水そのものには何の変化もないのである。桟橋の突端からサカエさんこと黒岩栄作さんが「おおい、はあ危ねえぞ! ユウくん、早く戻って来お!」と呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、悠太郎はなおも考えを進めた。
 いつかカイが語ったことを悠太郎は思い出した。「シェイクスピアの悲劇はまったくすごいね。善人も悪人も、片っ端からばたばた死んでさ。うまく言えないけど、人間や人生ってこういうものかと思わされるね。がらんとした虚無の暗黒のなかに、ほんのりと照明された舞台があって、その舞台の上を人間たちは、様々な役を演じながら通り過ぎてゆくんだ。喜んだり悲しんだり怒ったり狂ったりしながら、束の間の光芒を残してゆくんだよ。シェイクスピアの言う通り、人生は舞台なのかもしれないね」とカイは言い、リチャード三世の台詞やリア王の台詞を、たっぷりの身振りや感情とともに再現してみせた。「そうだね。あのときはまだよく分からなかったけど、人生はそういうものかもしれない。この一年数ヶ月で自分の身に降りかかったことを思うと、まったくそう思えてくるよ」と悠太郎は、あの日のカイに心のなかで話しかけた。俺がこうして苦しんだのも、誰かが下手な筆記体で書き綴ったオラトリオの台本通りなのかもしれない。それならば、下手な芝居の下手な役者となって、精一杯演じ切るのみだ。没落が俺の役回りなら、慌てず騒がずその没落を全うするのみ。何を恐れることがあろう――。そう考えた悠太郎の心からは、高校入試合格への執着が不思議と消えていった。
 真壁悠太郎の短い生涯のなかで、最も静かな時間が来た。揺れ惑ってやまなかった心のなかの湖は、いま初めて鏡のごとくに静まった。自分をこの烏川まで連れてきた運命を、悠太郎は今や愛した。明日何が起ころうと、誰をも恨むまい、何をも呪うまい。すべてはただなるようになってゆく。俺はそれを受け容れよう――。そう考えた悠太郎は、夕空を仰いで祈念した。「増田ケンポウ社長。真壁千代次の孫は、立派に戦って参ります。私亡きあとのわが家を、どうかお守りください。お祖父様、お祖母様。不出来な孫をお許しください。お母様、もし私が入試に受かれば、あなたは試験の得点だけではなくて、私のことも愛してくださいますか? うんとうんと愛してくださいますか? しかしそれは無用のことです。そんな愛はただのえこひいきにすぎません。私はこの一戦を通じて、真の実在に触れたいと願っています。私を大事にせず、私に優しくなく容赦もないものに触れたいと願っています。それはこの川の流れのように、時を選ばないものです。それはこのからっ風のように、人を選ばないものです。あなたもまた夫や息子を利用してではなく、ご自分で真の実在に触れることができますように。試験を目前にした私が、あなたの幸運を祈ります。皆様、お世話になりました。これより真壁悠太郎は、立派に死んで参ります」
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