明鏡の惑い

赤津龍之介

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第二十三章 烏川

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 それから一年と数ヶ月が経ち、高校受験を明日に控えた悠太郎は、高崎にある和田橋の歩道に立って、烏川からすがわの流れを眺めていた。当日の朝はヒデッサ伯父様が、緑色のミニクーパーで会場まで送ってくれると言ったが、悠太郎はそれを固辞した。試験会場となる高校までは、自分の足で歩いてゆくのでなければ気が済まなかったのである。だからこうして前日に、高校の場所を確かめておいた。英久伯父様と正子伯母様のマンションまで帰る道すがら、悠太郎はこうして和田橋の上にしばし佇み、夕映えに輝く流れを眺めていた。すぐ目の前で碓氷川と合流した烏川は、橋の下を通って悠太郎の背後へと流れ続けた。冷たいからっ風に、その川面は波立っていた。目を上げれば、厳しく晴れた冬の夕空に榛名山が望まれた。いつか軽井沢で正子伯母様が買ってくれたエディー・バウアーのコートが、痩せ衰えた悠太郎の体を包んでいた。冷たいからっ風が吹きつけるたびに、衰弱したその体はぐらりと揺れて、今にも倒れんばかりであった。この一年と数ヶ月で視力が急激に衰えた悠太郎は、レンズの厚い眼鏡をかけるようになっていた。中学校三年生になった頃からか頭痛がし始め、それは日を追ってひどくなっていった。そうして頭痛に耐え、からっ風にぐらりぐらりと揺れながら、悠太郎は再び流れ続ける烏川を眺めつつ、この一年と数ヶ月のあいだに起こったことを思い出した。
 「儚いものだな、人と人の結びつきなど」と悠太郎は考えずにはいられなかった。英語暗唱大会の郡大会に出たあの日、留夏子と手を繋いだことを悠太郎は思い出した。あれは三人の代表が出番を終え、昼休みに食堂で焼肉を食べた後、ふたりがなぜか歩いて会場まで戻る道々でのことであった。だが会場に戻ってからの出来事は、悠太郎にとって悪夢のような展開を見せた。生徒たちは文化会館のホールに再び集い、審査結果の発表を聞いた。一年生の部では赤木美帆が三位になった。二年生の部では悠太郎が二位になった。そこまではよかった。しかしあろうことか留夏子には、何の賞も与えられなかった。県大会に進めるのは三年生だけであったから、悠太郎たちの町の西の中学校は、県大会に代表を送り損ねたわけであった。この結果を聞いた悠太郎は、全身の血が凍るような心地がした。留夏子とふたりで歩んだ昼休みの幸福感など、いっぺんに消し飛んでしまった。何かの間違いであると信じたかった。だがいくらそう信じたところで、発表された結果は結果であった。選ばれた他校の生徒たちは、登壇して賞状と商品を授与されていた。その現実を取り消すことは不可能であった。留夏子は賞に漏れたことを、別段気にしていない様子であった。悠太郎がもらった賞品を見てその高価なことに驚き、「音楽の好きな真壁のためにあったような賞品じゃない」と言う留夏子には、不思議なほど何の屈託もなかった。その賞品というのは、日本の童謡や唱歌を網羅的に英語訳した楽譜とカセットテープのセットで、カセットテープには日本語と英語の両方による歌唱が収められているという豪華さであった。定価の表示を見れば、なんと四万円を超えていた。留夏子の言う通り普段の悠太郎ならば、この戦利品を喜ぶはずであった。しかし悠太郎は激しく自分を責めていた。「俺が代表として出てきたから、留夏子さんは浮かれてしまったのだ。それでわずかな油断を生じて、入賞を逃したのだ」と、帰りの自動車のなかでも悠太郎は考え続けた。しかし助手席に座った留夏子は、運転する金子芳樹先生と、羊羹ようかんにコーヒーは合うか合わないかといったような他愛もない話をしていた。「羊羹にコーヒー? 羊羹にコーヒーは合わないだろう。羊羹にはやっぱり、渋い緑茶がいいだろう」と金子先生が言ったことを、悠太郎は奇妙なほど鮮明に憶えていた。
 学校に帰り着いたのは掃除の時間の途中であったから、悠太郎もすぐさま仕事を手伝った。掃除が終わる頃には、大会の結果が校舎の隅々にまで伝わっていた。放課後に擦れ違う生徒たちの会話からは、美帆や悠太郎の健闘を称える声が聞かれた。それはそれでよかった。だがそれに引き替え佐藤さんには失望した――という声が教師たちから聞かれた。肝心の三年生が後輩たちに遅れを取るとは、わが校も不名誉なことでしたな――。生徒たちも囁き交わしていた。ねえ、これっていよいよ真壁先輩が、佐藤先輩に勝ったってこと? ルカったらどうしたんだろう、らしくないへまをやったね――。「違うのだ、違うのだ、違うのだ」と悠太郎は叫びたかった。「違うのだ。留夏子さんがこうなったのは、俺のせいなのだ。俺さえいなければ、留夏子さんは優勝だってできたはずだ。学力においてはもちろん、人格においても品性においても、俺などは留夏子さんの足許にも及ばないのだ。あなた方はそれを知っているはずではないか。よくよく知っているはずではないか。それなのに俺を勝者として称え、留夏子さんを敗者として貶めるのか。違うのだ、違うのだ、違うのだ、違うのだ、違うのだ……」と悠太郎は、六里ヶ原じゅうに叫んで回りたかった。そういう次第でふたりのあいだには、早くもその日のうちに気まずい雰囲気が漂い始めた。
 それから数日を経ずして、事態はいっそう悪いほうへと傾いた。登校して卓球部の朝練習を終え、グラウンドの走り込みを済ませて校舎へ戻ろうとしているとき、悠太郎は佐藤隼平に「ユウ、ちょっといいか? 訊きたいことがあるんだ」と、険を含んだ声で呼びとめられた。「ユウ、去年の合唱のとき、〈流浪の民〉のことで姉に力を貸していたというのは本当か?」と、隼平は問い詰めるように訊いた。なぜそのことが漏れたのだろうと悠太郎は訝りながら、あまり嘘をつかずに言い逃れようとして、「まあ本当といえば本当だよ。そういえば、いくつかの助言くらいはしたね」と答え、「それがどうかしたのかい?」と問うた。「いくつかの助言だと? 実際はそんなもんじゃないだろう!」と怒りを表した隼平は、「ドイツ語の歌詞の意味も、楽譜のアナリーゼも、タンバリンやトライアングルを加えることも、すべてユウの差し金だったっていうじゃないか。姉はあの演奏を指揮するのに、ユウを頼り切っていたっていうじゃないか。それだけだって裏切りだよ。自分の学年のために使うべき力を、競争相手である他学年のために惜しみなく使ったんだから、それは立派な利敵行為だよ。ここまでのことでは、ユウに責めがある。だがもっとひどいのは、それを今頃になって暴露したことだ。まあこのことについては、暴露したのはユウじゃないから、おまえを責めても仕方ないのかもしれないが……。とにかくな、ユウのお祖母様がそこらじゅうに触れ回ったことのせいで、姉は傷ついているんだよ。触れ回ったのがお祖母様であっても、その内容はユウのやったことである以上、俺はユウを責めないわけにはいかないんだよ」と続けた。悠太郎は顔から血の気が引くのを感じながら、「祖母が何を言ったんだ?」と問うた。
 隼平の話によれば、それはこういうことらしかった。英語暗唱大会の結果を知って調子に乗った梅子は、パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら喜色を満面に浮かべつつ、会う人会う人にこんな話をしては顰蹙ひんしゅくを買っているという。「ウッフフ、わったしの孫はねえ、本当に英語がよくできる! 郡の大会で学年二位を取ったよ! それに引き替え、優秀だ優秀だともてはやされていたピアノの先生の娘はどうだい? 三年生のくせに、何の賞も取れずに終わったじゃないか! わったしの孫のほうが優秀なのはねえ、何も英語ばかりじゃないよ! 音楽だってそうだものを! 去年の合唱であの娘は、〈流浪の民〉を指揮したでしょう? あのときだってねえ、裏であの娘を操っていたのはウッフフ、わったしの孫なんだよ! 嘘だと思うでしょう? ところがねえ、わったしはこの目でしかと見たんだよ! 〈流浪の民〉の歌詞と楽譜について詳しく記した書類が、孫の机の引き出しに入っていたんだよ! 歌われる文語訳の歌詞と、その口語訳と、ドイツ語の歌詞と、片仮名によるその発音と、ドイツ語の歌詞の日本語訳の五行をひとまとめにして、ワープロで打ってあったよ! まったくよくできた教材だったよ! わったしは感心したよ! ああいうものを見ればウッフフ、馬鹿でも歌の意味が分かるよ! 楽譜の分析もねえ、孫は細かい音符で譜例をいくつも書いて、微に入り細に入りやっていたよ! わったしはあれを読んで、本当に勉強になった! タンバリンやトライアングルを加えてもいいって書いてある本のコピーも、わったしの孫は持っていたよ! つまりは何から何まで、あの娘はわったしの孫に操られていたんだよ! あの名演を成し遂げたのはウッフフ、わったしの孫だよ! 今回の英語大会で、みんなも思い知ったでしょうに! 立派なピアノの先生を母に持つとはいえ、所詮あの娘は屯匪の孫だよ! 六里ヶ原の明鏡と謳われた孫にウッフフ、敵うものかね!」
 小学校二年生の夏から通い続けていた佐藤農園のピアノ教室を、突然辞めることになったのもその頃であった。秀子はある夕方、観光ホテル明鏡閣から帰宅すると、激しく叩きつけるように自動車のドアを閉め、玄関のドアをがばと開けバタンと閉め、廊下をドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らして、居間への引き戸をガラガラと開け、悠太郎の姿を認めるや否や、「もうピアノは辞めなさい。陽奈子さんのところへ行くのは、もうおしまい。これからは勉強に専念するように」と、一方的に申し渡したのである。多くの豊かなものを与えてくれた陽奈子先生ではあったが、事がこのようになった以上、挨拶に行くのも面倒だと悠太郎は考え、こっくりと頷いて秀子の言いつけに従った。隣町の音楽ペンション〈アマデウス〉で、留夏子のために〈ドリーの庭〉を弾くこともなくなったわけであった。「儚いものだな。終わるときは、こんなものか」とそのとき悠太郎は思ったし、今また烏川の流れを見下ろす和田橋の上で、「儚いものだな。終わるときは、あんなものか」と思っていた。
 浅間山が三度の冠雪で山裾近くまで白く染まり、いよいよ里にも雪が降ろうかという時期になると、悠太郎と留夏子はもはや朝の挨拶さえ交わさなくなっていた。高いところではヒレンジャクやキレンジャクが飛び交い、ヤドリギやナナカマドの実をついばんでいた。悠太郎にとっては空虚な朝と、空虚な昼と、空虚な夕方が中学校を流れ過ぎてゆくばかりであった。そんなある日の空虚な夕方、悠太郎は自転車置き場に近い焼却炉の前で、ペトラこと岩瀬麻衣先輩に呼びとめられた。「マッカベさん。ルカが呼んでるよ。あんたと話がしたいって言ってる」とペトラは、それまで見せたことがないほど真剣な面持ちで告げた。留夏子さんはまだ俺のことを心に懸けてくれているのか――。冷え切った悠太郎の胸の奥で、一瞬熱く燃えるものがあった。しかし一瞬にしてその熱は再び冷却した。「せっかくですが、私からは何もお話しすることはありません。私の不明によって、留夏子さんを傷つけてしまいました。どの面下げて話ができましょう」と言って、悠太郎は呼び出しを拒んだ。「あっはっは、まったく仲良しだなあ、あんたたちは」とペトラはわざと陽気に笑い、「まったく同じことをルカも言ってたよ。自分の至らなさゆえにあんたを傷つけたって。ルカはただそのことだけを気にしてた。だから大丈夫だよマッカベさん。まだ何も壊れてないんだよ。今あんたが来てくれさえすれば、この呼び出しに応じてくれさえすれば、すべては元通りになるんだよ。ふたりで歩む青空の道は、どこまでも続いてゆくんだよ」と言って悠太郎を説得し、「あんたたちの歩く道に、あたしはまた祝福の花を撒きたいんだよ。遠い昔の幼い日にそうしたみたいに」とまで言った。
 ああ、懐かしい。俺とあの人に降り注いだ、濃いピンク色のゼラニウムの花びら。大きくなったらどんなことが待ち受けているのか、何の予感も持たないわけではなかったが、それでもあどけなく無邪気でいられたあの日々。あの頃から今までずっと、留夏子さんは俺を導いてくれた。だがその結果はこの有様ではないか。なんと余計なことを、あの人はしたのだろう。なんと余計なことを、俺はあの人にさせてしまったのだろう――。「組み合わせ不適当。取消キーを押してください」と悠太郎は、呻くような声を絞り出した。「何を言ってるのさ?」とペトラは問うたが、悠太郎は構わずに続けた。「ふたりでなんか、歩んではならなかったのです。私はあの人に関わってはならなかったのです。私はいなければよかったのです。六里ヶ原の明鏡などと呼ばれるような者でさえなければよかったのです。いや離婚した母に連れられてこの地に戻る途中で、電車に轢かれて死んでいればよかったのです。生まれてこなければよかったのです。そうすれば、この高原が生み出した奇跡のようなあの人を、誰より慕わしいあの人を、こうして不名誉に陥らせることもなかったでしょう。だから私は、これから消えるのです。あの人にとって、存在しないも同然の者になります。この呼び出しに応じないという仕方で、もう何も話さないという仕方で、消えるのです」
 「そんなのひどすぎるよ」とペトラは悲しげに目を潤ませ、「ルカにとってもひどいし、あんた自身にとってもひどすぎるよ。そんなことしたって、誰も幸せにならないよ。強情を張るもんじゃないよ。だいたい私、私って、あんたは自分のことばかりじゃん。問題はルカがどう思ってるかでしょう? ルカはあんたのことが好きなんだよ。心の底から好きなんだよ。考えてもみてよ。今あんたが来てくれなくて、ふたりがこれっきりになったら、あいつはどんな思いで受験に臨むことになる? これまでみたいに一級下のあんたがそばにいてさ、話し相手になって、支えてあげてよ。そうじゃなかったら、あんまりひどいよ。何もかもが残酷すぎるよ」と訴えた。「たしかに、いっときは傷つくことでしょう」と悠太郎は答え、「しかし痛みもいっときのことです。耐えていただかなければなりません。あの人ほどの学力があれば大丈夫です。私とどうこうなったくらいでは、受験に失敗することなどありません。これはふたりが通らなければならない道なのです。私たち本来のあるべき関係、つまり全然関係ないという関係を修復するために、通らなければならない道なのです」と述べた。「ルカにとって亡き者になろうという決心は、どうあっても変わらないんだね?」というペトラの問いに、悠太郎は「変わりません」と答えた。「それじゃ、もうあたしには何も言えないよ。どうすることもできないよ。あんたの決めたことを、あいつは尊重するでしょう」と諦めたペトラは、「何か伝えることはある?」と問うた。悠太郎はしばし考え、「何もありません」と答えた。「そっか」と応じたペトラは、「マッカベさん、こんな結末を見ることになったのは残念だけど、それでもあんたはこれから先、進んで不幸を求めるようなことはしないでね。この先の人生でも、こういうことはきっとあると思う。そのときには、きっとまともな選択をして、幸せになってね」と言い残して、焦げ臭い焼却炉の前を立ち去っていった。
 かくて留夏子と決裂した悠太郎には無関心に、季節は六里ヶ原をめぐっていった。靴底に踏まれて崩れる霜柱のように、悠太郎にとっての世界は崩れていった。白根山を越えて吹く冷たい烈風のなか、受験生たちはそれぞれの試練に立ち向かっていった。受験が終わり、三年生を送るための予餞会の日が来た。三年生を送る会である以上、一年生や二年生の出し物が重きをなすのは当然であったが、送り出される三年生たちもまた、いくらかの出し物で下級生への感謝を表した。そんな出し物のひとつが、留夏子のリコーダー演奏であった。藁半紙に印刷されたプログラム冊子には、〈「グリーンスリーヴス」による変奏曲〉と記されていた。アルトリコーダーを携えた留夏子が、ピアノで伴奏を弾くペトラを伴って体育館のステージに出た。いつもながらに凛々たる姿勢の留夏子ではあったが、色白になってやつれたその面輪に、悠太郎は胸を衝かれた。ふたりはそれなりに温かい拍手で迎えられて一礼すると、ペトラはピアノの椅子に座った。留夏子はしかし演奏を始める前に、挨拶を述べた。「皆さん、本日はありがとうございます。そしてこれまで、ありがとうございました。おかげで無事に卒業を迎えることができます。しかし皆さん、どうか忘れないでください。いま卒業しようとしている私たちは、一年後、二年後の皆さんなのです。この十五年、いろいろなことがありました。いろいろな出来事を起こしながら、時間は速やかに流れてゆきます。皆さん、どうか永遠を思って生きてください。留まるものに思いを致しながら、流れる時を生きてください。身のまわりにどんな出来事が起こっても、流れ去らずに留まるものの姿を、その根底に見つけるようにしてください。私が最後に言いたかったのは、そのことです。もう思い残すことはありません。では聴いてください」
 鋭く鳴る風のように響き出したその主題は、留夏子が幼い頃から気に入っていたメロディーであった。そうだった。俺はあの日、止まらなくなった自転車を止めようとして、花壇の黒土に突っ込んで、九死に一生を得た。ジンジャーエール、死んじゃえーる……。そのとき北のほうから冷たい風に乗って、鍵盤ハーモニカの音色で美しく哀切なメロディーが聞こえてきた。甘楽集落の戸井田農園で遊んでいるとき、トウモロコシの実る夏の頃からしばしば断片的に聞こえていた旋律であった。「あら、また〈グリーンスリーヴス〉ね。誰かしらね、前よりもすっかりうまくなっちゃって。この開拓にも音楽の好きな人がいるのね」とアオイさんは浅い呼吸で感心していた。俺はその切々と訴えるようなメロディーに耳を澄ました。たしかに幼稚園で聞き慣れ、また吹き慣れた鍵盤ハーモニカの音であったが、晩秋の開拓集落に孤絶して響くその調べは、俺がそれまで耳にしたどんな鍵盤ハーモニカの音よりも心に染みた。その音楽を奏でている人間に、俺は改めて強く惹きつけられるのを感じたものだ。あの頃はまだ陽奈子先生も、ピアノ教室を開いてはいなかった。吹いていたのが留夏子さんだったと分かったのは、俺が初めてピアノを習いに行ったあの夏の日のことだった。そのメロディーは、今度はソプラノリコーダーで奏でられていた。佐藤農園のトウモロコシ畑は広かった。その中央には母屋まで道がついていて、ピアノを習いに行くためには、その畑道を通らなければならなかった。俺にとって両側に並ぶトウモロコシの茎は、見上げるばかりに背丈が高かった。爽やかな風がトウモロコシ畑を海のようにざわめかせた。俺は海を割って進む人のように、畑道を一歩一歩踏みしめて進んだ。すると畑の一隅から聞こえていた笛の音がふとやんだ。背丈の高いトウモロコシを掻き分け掻き分け、近づいてくる人影があった。体操着を身に着けたその人影は、「悠太郎」と朝風のような声で呼びかけた。俺は「留夏子さん」と驚いて答えた。留夏子さんは眩しいものでも見るように切れ長の目を細めながら、「お母さんの生徒になってくれるんですってね。お母さんが待っているわ。本当によく来てくれたわね。わが家へようこそ、悠太郎」と言って歓迎してくれた――。そうした思い出を次から次へと呼び起こしながら、留夏子の吹き鳴らす変奏は光っては翳り、昇っては降り、高まっては低まり、波打っては渦を巻いた。ペトラはピアノの音を花びらのように撒いていった。そうして鳴り響く変奏曲には、もはや人間的な感情が微塵も残っていなかった。それは成長するトウモロコシのざわめく葉であり、オオルリやキビタキやアカハラの歌であり、飛び立つカラスの羽ばたきであり、そのカラスが落としてゆく一枚の羽根の回転であり、夏の凋落であり、つむじ風に舞う枯葉であり、白根山を越えて吹く冷たい烈風に踊る吹雪であり、軒先に連なる鋭い氷柱の一列であり、夜空をめぐる星々の輪舞であった。奏でられていたのは、黄色い表紙の器楽の教科書に載っていた楽譜ではなかった。易しく編曲されたのではない楽譜を、留夏子たちは手に入れていたに違いなかった。留夏子がすべての音にタンギングを施していないのを聴き取って、悠太郎はわが意を得たりと思った。音楽の時間には、すべての音にタンギングを施すように指導される。それは基本としては正しいだろう。しかしより高度なフレージングを実現するためには、敢えてタンギングをしないことも必要になってくる。その見極めのセンスにおいて、留夏子はまったく正しいと悠太郎は思った。トリルといいターンといい、またなんという装飾の技術であろう。なんという人間性を絶した非情の境地だろう。これほど非人間的な非情の境地へと、十五歳の少女を追いやったのは俺なのだ――。最初に提示された主題が最後に堂々と回帰して、全曲は閉じられた。信じられないものを聴いたとでも言いたげな静寂の後で、割れんばかりの拍手がふたりに贈られた。立ち上がったペトラと一緒に、留夏子は一礼した。悠太郎は顔を上げた留夏子と一瞬目を合わせてしまい、慌てて顔を伏せた。
 「あのとき何か言っていれば、また違ったかもしれないな。あなたの笛は素晴らしかったと、言っておきたかったな」と悠太郎は、夕映えの烏川を眺めながら思った。予餞会の翌日には、卒業式が粛々と挙行された。送辞や答辞や来賓の式辞が、粛々と続いていった。卒業生の合唱で歌われた〈想い出がいっぱい〉の歌詞に、悠太郎は胸を抉られるような心地がした。涙ながらに歌った留夏子は式が終わると、屋外で人垣を作って見送る下級生たちに笑顔を向けたり、言葉をかけたりしていた。だが悠太郎の前を通り過ぎる瞬間、その表情は凍りついた。白々と冷たい横顔を見せながら、留夏子は悠太郎の前を通り過ぎていった。「こんなに冷たい横顔が、人間の少女に作れるものなのか」と悠太郎は、胸が張り裂けるのを通り越して不思議と感心した。今また夕映えの烏川を眺めながら思い出しても、「あんなに冷たい横顔が、人間の少女に作れるものなのか」と、胸が張り裂けるのを通り越して、不思議と感心するのである。
 卒業式から数日後に、卒業生たちはもう一度学校に来て、高校入試の結果を報告した。留夏子も来たが、もちろん悠太郎は会わなかった。先生方や生徒たちの話では、留夏子は予定通り渋川の女子高に決まったということであった。悠太郎はその合格に胸を撫で下ろしたが、次の瞬間はたと思うところがあった。いつか「吾妻牧場碑」の前で、俺たちは渋川での再会を期したのではなかったか。しかるにふたりの関係は壊れてしまった。俺が今後も徹底して留夏子さんを避け続けるつもりなら、俺の進学先は渋川であってはならないことになる。ではどこへ行くか? 現実的に家族からも先生方からも認められるのは、渋川よりもレベルの高い高崎しかないではないか。「真壁も気をつけることね。次は遠からずあなたが言われる番よ。おまえの成績なら高崎も夢じゃないって」とあの人が予期していた通り、それはもとより明に暗に望まれていたことだ。これでもういよいよ逃げられなくなったわけだ。高崎へ! 高崎へ! 今後一年は、ひたすらそれを目指すのみ――。「あのときにすべてが決したのだ。留夏子さんのために和解の使者となってくれたペトラさんを、俺は追い返した。あの瞬間に、今こうして俺が和田橋の上に立つことは決まったのだ」と悠太郎は、夕映えの烏川を眺めながら思った。

        
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