63 / 73
第二十一章 留まる夏
三
しおりを挟む
さてちょうどその頃、甘楽集落の家で佐藤陽奈子先生はグランドピアノに向かっていた。なぜか不思議と若やいだ感情が胸に戻ってきたので、くるぶしを覆わないスラックスと半袖のブラウスを身に着けた陽奈子先生は、ガラス扉のついた本棚から、フランツ・リストの〈愛の夢第三番〉の使い古した楽譜を取り出した。改めて書き込みの多いその楽譜を調べていると、ハンガリー留学時代の記憶がありありと甦ってきた。午後の開拓地の静けさのなかで、畑のトウモロコシがざわざわと風に鳴るのが聞こえたとき、陽奈子先生は一瞬自分がブダペストにいるのか六里ヶ原にいるのか分からなくなった。そうしてひと通り譜読みを終えると、陽奈子先生はその豪華にして艶麗な夜想曲を弾き始めた。靴下を履かない素足に、真鍮のペダルがひんやりと快かった。重低音に支えられた主旋律の上を、アルペジオが夕映えに光り輝く水のように次々と渦巻いた。鍵盤の広い範囲をかけめぐる急速な半音階的パッセージは、どこまでも細分化し続ける細波のきらめきのようであり、星々をちりばめた夜空が鳴らす黄金の鈴の音のようであった。とうの昔から手に馴染んでいたはずの名曲であった。だが弾き進むうちに陽奈子先生は、その名曲が今さらながら新鮮な感銘を伴って迫ってくるのに驚いた。「昔は私も年齢相応に、愛の夢に酔い痴れたことがあった。そんな季節が終わったのは、いつのことだったろう。バッハとウィーン古典派の絶対音楽を至上のものと決めつけ、ロマン派の音楽を遠ざけたのはいつからだったろう」と、曲を弾き終えた陽奈子先生は自問した。「私がこの曲を弾いていると知ったら、悠太郎くんは驚くでしょうね。この曲のもとになっているのは歌曲だと知ったら、彼はきっと興味を持つでしょう」と考えた陽奈子先生は、その歌曲の歌詞を声に出して歌ってみた。おお愛せよ、おまえが愛し得る限り! おお愛せよ、おまえが愛したいだけ! その時は来るのだ、その時は来るのだ、おまえが墓辺に立って嘆くその時は――。ふと歌声を切った陽奈子先生は、込み上げる懐かしさのあまり切れ長の目を細めた。「忘れていた、こんな感情は忘れていた! 本当に、人間が愛し得る時は短い。私にとって揺らめくような愛の季節が終わったのは、いつのことだったろう。バッハとウィーン古典派の絶対音楽を至上のものと決めつけ、ロマン派の音楽を遠ざけたのはいつからだったろう」と陽奈子先生が物思いに沈んでいると、遠くで畑のトウモロコシがざわざわと風に鳴った。「それはここに、六里ヶ原に来てからではなかったか。結婚してからではなかったか。娘が生まれてからではなかったか」と陽奈子先生は思い当たった。
またブダペストのことを陽奈子先生は思い出した。音楽院で熱心にピアノのレッスンを受けたこと。イシュトヴァーン大聖堂でのミサに列席したこと。「漁夫の砦」と呼ばれる、白い七つの尖塔のある要塞に登って、滔々たるドナウ河の流れを眺め続けたこと。そして音楽院の大ホールで鳴り響いたハイドンのオラトリオ《四季》のこと。「そうだった。あのとき《四季》を聴いたことで、私は六里ヶ原に来たのだった。そのことはいつか娘に話そう。場合によっては悠太郎くんにも……」という陽奈子先生の思いは、ハイドンのオラトリオに歌われた夏の描写へと移っていった(そういえば《四季》には、ハンネ、ルーカス、シモンという三人の語り手が登場するが、夏の部で第一声を発するのはルーカスであった。そのことに陽奈子先生は突然思い当たり、「やはりあのときにすべては決まったのだ」と感慨を新たにした)。夜が明ける。灰色のヴェールに包まれて穏やかな朝日が昇る。朝の光に追われてのろのろと、重苦しい夜が退いてゆく。朝の鳥が鋭い声で鳴いて、眠っている農民たちを仕事へと呼び起こす。目醒めた羊飼いは喜び勇む羊の群れを集め、牧草が豊かに茂る緑の丘へと、その群れを追ってゆく。空は晴れやかな紺青に輝き渡り、山々の頂は燃えるような金色に輝いている。太陽は燃える威容で荘厳に輝いている。万歳! おお太陽よ、万歳! 光と命の源よ。万有の魂にして目であるものよ。私たちはあなたに感謝を捧げる。あなたの恵みを誰が語り尽くせよう? この喜びを誰が語り尽くせよう? 私たちを喜ばせる太陽に感謝しよう。私たちを生かしてくれる太陽に感謝しよう。私たちを養ってくれる太陽に感謝しよう。太陽に力を与えた創造主に感謝しよう。すべてが活動を始め、畑は色とりどりに飾られている。日焼けした草刈り人たちに、豊かに実った穀物の穂が波打っている。大鎌が一閃すれば穀物は地に落ち、まとめられて束になる。しかし真昼ともなれば太陽は灼熱し、曇りのない空から激しい炎を照りつけている。自然は圧しひしがれている。花は萎れ草は枯れ、泉は干上がり、あらゆるものが熱の猛威を示し、人も獣も力なく、地面に倒れ伸びている――。
「六里ヶ原の夏は、あのオラトリオに歌われたほど厳しくなくて幸いだった。年々暑くなってきてはいるけれど」と陽奈子先生は考えた。「ブダペストでピアノを学んで、あのオラトリオを聴いて、農村に行くことを決めて、この六里ヶ原へ来た。何かを決めてそれを実行し、その結果を受け容れることは、何かが実現されることだ。何かが実現されればされるほど、可能性はより少なくなる。夢というものが可能性と不可分であってみれば、この六里ヶ原へ来て結婚し子供を持ったことで、愛の夢の季節が終わったことは当然ではないか。でも私は悔いてはいない。たしかに酷薄な無理解には曝され続けた。それでもこの自然のなかで農作業に勤しむことで、土や肥料のなかにも神の御言葉を読み取るという修練を実践できた。子供たちは、特に上の子はよく育った。開いたピアノ教室では、よい生徒に恵まれた。それらのことは無理解から生じる悲しみを償って余りある幸いだった。これ以上のことを神に望むのは、謙抑の徳を忘れることだろう。なぜ突然〈愛の夢〉など弾いてみる気になったのか、ようやく分かった。私から生まれた私でない者が、今や愛の夢の季節にあるのだ。そして私がこの高原でなすべきことには、いよいよ終わりが近づいているのだ。来年には娘が、再来年には息子と悠太郎くんが高校生になれば、そして私の厄介な例の手続きが済めば、この六里ヶ原での私の生活は終わるだろう。残された時間で娘と息子に何を教えるか、悠太郎くんに何を教えるか、よくよく思慮深くあらねばならない……」陽奈子先生はそう考えると、再び本棚のガラス扉を開けてピアノ連弾曲の楽譜を探した。そのときふと〈愛の夢第三番〉のもとになった歌曲の歌詞の続きが思い出された。その歌詞を陽奈子先生は声に出して歌った。長らく忘れていたその歌詞は、不思議と淀みなく流れ出てくるのであった。……そしておまえの心が燃え立ち、愛を抱き育むよう気遣いなさい、おまえの心に対してもうひとつの心が、愛のうちに温かく脈打っている限り! そしておまえに胸を開いてくれる人に、できる限り優しくしてあげなさい! 彼のあらゆる時間を喜ばしくしてあげなさい、悲しい時間にはしないであげなさい! そしておまえの口をよく慎みなさい、やがて非情な言葉が言われるのです! おお神様、悪意があったわけではないのです。相手はしかし去ってゆき、そして泣くのです――。遠くで畑のトウモロコシがざわざわと風に鳴るように、陽奈子先生の心もまた悲しい予感にざわめいた。「おお神様、悪意があったわけではないのです」と陽奈子先生は声に出して言った。「別れゆく者たちをも、どうか憐れんでください……」
さてちょうどその頃、観光ホテル明鏡閣の狭苦しい社員食堂では、留夏子と悠太郎が力を合わせて、チャンドラカルナ・ムリ・ギリさんの言い分をひと通り聞き終えていた。といっても主力はやはり飛び抜けて英語力に秀でた留夏子で、悠太郎はいくらか理解しながらその場に居合わせたという程度であった。黒岩サカエ支配人や林浩一さんや久世利文さんや秀子は、ほとんど信じ難いものでも見るように、事の成り行きを見守っていた。そんな社員たちに中学校三年生の留夏子は物怖じすることなく、チャンドラさんから聞いたことを明快に話した。「チャンドラさんは、レストラン照月湖ポカラ・ガーデンの登原店主による酷使と虐待に耐えかね、助けを求めてこちらへ来ました」と留夏子が言うと、社員たちは驚いた。その驚きは〈ポカラ〉での異変によるものでもあり、また英会話によってそれを明らかにしつつある少女によるものでもあった。「おいおい、本当かよ。冗談じゃねえぞ、これは」と言ったサカエさんの表情が暗かったのは、薄黒いサングラスのせいばかりではなかった。「マジなんでしょうね。現にこうして逃げてきて、あの剣幕だったんだから、マジっすよ」と久世さんが、その喉仏のように注意力を鋭くしながら言った。「酷使と虐待って、どんなことをされたの?」と、秀子が下膨れの憂い顔で問うた。悠太郎は登原聖司さんに会ったときのことを思い出していた。いかにも胆力がありそうな地を這うような声や、料理人の白衣に包まれた筋肉質の体や、鋭い鉤鼻に近い猛禽のような目や、オールバックにセットされた頭がありありと思い浮かんだ。チャンドラさんの今の話は断片的に聞き取れた。食い物屋の食えない男が、いかにもやりそうなことだ――。社員食堂の窓の向かいに、やや前傾して取りつけられた長方形の鏡は、円形の花壇に咲き誇るヒマワリの花々を映していたが、今それを見る者は誰もいなかった(なんとそれらは夏の午後の日射しを浴びて燃え輝いていたことか!)。
「ナンの生地の捏ね方が足りないと言っては叩き、カレーのスパイスの調合が違うと言っては殴り、店内の掃除が行き届いていないと言っては足蹴にし、接客に問題があると言っては休憩時間を与えない。翌日の仕込みは夜遅くまでかかるから、入浴もできずにドラム缶での行水を強いられる。そんなことが毎日毎日繰り返されるそうです。今日は特に暴力が激しくなって、チャンドラさんは身の危険を感じ、意を決して逃げてきたんです」と留夏子は説明した。それを聞いて秀子は、前々から懸念していたことがこうして顕在化したのだと思った。大繁盛する〈ポカラ〉に、秀子は何やら不穏なものを感じていたのである。店主の登原さんも、手島妙子さんもチャンドラカルナ・ムリ・ギリさんも、照月湖温泉へ入浴に来なかった。夜遅くまで仕込みの仕事があって、温泉が閉まる時刻に間に合わないらしいのである。その代わりにレストランの脇にあるプレハブ小屋の陰で、三人がドラム缶のような容器にお湯を溜めて行水していることを秀子は知った。「あの人たちはいったい何をやっているのかしら。接客業なんだから、お風呂くらいちゃんと入ればいいのに。お店のなかでお香を焚いているのは、体臭を隠すためだったりして」と秀子は考えたことがあった。手島さんのことも思いやられた。登原店主の正式な奥さんという人は東京にいて、手島さんはどうやら愛人らしかった。登原さんは手島さんを殴ることがあるが、手島さんは殴られても殴られてもネパールまでついてゆくし、六里ヶ原までついてくるのだという噂もあった。ネパール人青年のチャンドラカルナさんも、どうやら登原店主から相当に酷使されているらしいことを、秀子はうすうす感づいていたのである。秀子は勢いを盛り返しつつあるかに見えたこの会社に、取り返しのつかない事態が起こってしまったことを知った。あたかもヒマラヤにある壮麗な寺院が、ゆっくりと崩れ落ちるのを見せられるような思いがした。
「それでチャンドラさんは、これからどうしたいんですか?」と尋ねる林さんの平たい顔からは、さしものにこやかな笑みも消え失せていた。怯えたような目を泳がせながらチャンドラさんが英語で答えると、今度は悠太郎がそれを訳した。「ネパールに帰国したところで、こちらのシーズンが終われば彼らもネパールに来ます。カトマンズの家も故郷の家も登原さんに知られている以上、ネパールで身の安全は期し難いのです。東京でインド料理店を営む知人がいるので、ひとまずは彼を頼るつもりです。旅費は持っています。この会社には感謝していますから、警察沙汰にはしたくありません。この会社の売り上げに〈ポカラ〉が占める割合は大きいでしょうから。私は手島さんと違って、殴られても殴られてもついてゆくということはできないのです。東京へ逃げます」と考え考え言った悠太郎が留夏子のほうを見ると、この年上の少女は「よくできました」とばかり切れ長の目を細めて頷いた。「そういうことじゃあおめえ、しょうがねえな」と黒岩支配人が言った。「林くん、ちょっくら会社の車で、軽井沢駅まで送ってやってくれや。チャンドラさんは、寮から手荷物を急いで持ってきな。……ああユウくん、チャンドラさんにそう言ってやってくれ」
これからすぐに林さんが軽井沢駅まで送ってくれるから、独身社員寮へ行って手荷物を急いでまとめるようにと悠太郎が告げると、チャンドラさんは喜んで感謝した。勇躍するように社員食堂を出ようとしたチャンドラさんであったが、ドアの前でふと立ち止まると振り返って、「Mr. Tobara, Mafia, Mafia!」と吐き捨てるように言った。その場にいる誰にとっても、もはや翻訳の必要はないその言葉は、情け容赦もない雇い主のもとで酷使と虐待に耐えてきたチャンドラさんの、煮詰められた真情の吐露に違いなかった。ドアを開けてチャンドラさんが、次いで林さんが退室した。チャンドラカルナ・ムリ・ギリさんは、不思議なお香の匂いを残して、六里ヶ原を立ち去っていった。黒岩サカエ支配人は「ぎりぎりの無理をしていたんだろうな。まあ洒落にはならねえが……」と言ったが、誰も笑いはしなかった。
いかり型の久世利文さんは、茫洋たる海の彼方を眺めるような目で、窓の向かいの鏡に映る景色を見ていたが、ふと思い出したように留夏子のほうを向いて、「あの、間違ってたらすいません。佐藤さん、もしかして〈めぐし乙女〉の人っすか?」と尋ねた。少しばかり頬を紅潮させた留夏子は、「私をそんなふうに呼んでくださる方もいます」と答えた。それを聞いた久世さんは、「うおお、まじっすか! 〈流浪の民〉の名演のこと、噂に聞いてたんすよ。俺、実は大学ではグリークラブにいた関係で、今でも合唱には興味あって、ずっと気になってたんすよね。まさか本人にこんな形で会えるとは思わなかったっすよ。なるほどこれだけ聡明なら、奇跡の名演を作れるのも無理はないっす。指揮もしてソプラノ独唱も歌って、すごいじゃないっすか」と感激を表した。黒岩サカエ支配人は咳払いして気を取り直すと、「佐藤さんもユウくんも、よく来てくれた。おかげで助かったよ。何とお礼を言ったらいいか……。本来ならここでゆっくりお茶でも飲んで、お菓子でも食べていってもらいたいところだが、こんな厄介事があった後だ。〈ポカラ〉の店主が乗り込んできたところに、きみたちが居合わせても具合が悪かんべえ。あとは俺たちで何とかするから、外にある自販機で好きなジュースでも買って飲んでくれ」と言って、ふたりにそれぞれ百円硬貨を手渡した。「ありがとうございます」と留夏子が言い、「ありがとうございます」と悠太郎が言って、ふたりは社員食堂という名の従業員詰所を辞した。お辞儀をして顔を上げた留夏子は、ふと詰所の壁に飾られている一枚の写真に気がついた。恰幅のよいその写真の男は、片えくぼを浮かべた恵比寿顔で豪快に笑っていた。
後に残った社員たちは、登原店主が乗り込んでくるまでのあいだ、なおもふたりのことを噂した。「秀子さん、あの子が息子さんの彼女っすか? 素晴らしいじゃないっすか!」と、なおも感激が冷めやらぬ様子で久世さんが言った。「あの小さかったユウくんが、はあそんな年頃だな。感慨深いな」と黒岩サカエ支配人が、薄黒いサングラスの奥で目尻を下げた。「まさか。彼女なんかじゃないわよ。息子がついているピアノの先生の娘さん。ただそれだけ」と秀子は応じたが、その胸のなかにはどす黒いものが渦巻いていた。「彼女? 彼女だって? あれが息子の? 冗談ではない。そんなはずがあるものか。だいたい留夏子ちゃんのことばかり褒めるのは不公平ではないか。今日のことでは息子だって、留夏子ちゃんと同じくらい活躍したのだ。たしかに英語力において息子はいくらか劣っていたかもしれないが、それは留夏子ちゃんのほうが一学年上なのだから、仕方ないではないか。息子はけっして留夏子ちゃんに劣る者ではない。ましてや留夏子ちゃんを愛するはずがない。愛するだって? 息子があれを? 冗談ではない。息子がこの私を差し置いて、どこぞの女を愛することなどあってたまるか。私たちは母ひとり子ひとりで、どこまでも行くのだ。どこまでもどこまでも生きてゆくのだ……」
そんなこととは知らないふたりは、白いペンキの剥げかけた小さな扉から外に出ると、それぞれ自動販売機で缶ジュースを買った。プルタブを開けようとした留夏子が、「さっき戸井田さんからいただいたラムネを飲んだばかりね」と思い出したように言った。「そういえばそうでした。今またこれを飲んでは、糖分の取りすぎになりますね。明日の楽しみにしましょうか」と悠太郎が応じた。「明日の楽しみか。それもいいわね。明日が来るのが、ちょっと楽しみになる。それにしても、こんな今日でもやっぱり終わってゆくのね」と言いながら、留夏子はよく冷えたジュースの缶を火照った頬に当てた。「時間のなかでは、あらゆる〈今〉は次の〈今〉へと移りゆきますからね。一日また一日と、次々に継起するのが時間です」と言いながら、悠太郎は留夏子のそうした仕草を心から可憐だと思った。留夏子が自転車を停めておいた湖畔へと、ふたりは並んでゆっくりと歩いていった。夏の日の午後は、はや夕方へと傾いて熟しつつあった。涼やかな風が樹々の葉叢をさやがせ、今を限りと蝉たちが鳴きしきっていた。「そういえば、社員食堂にあったあの写真の人、水五訓の人じゃない? お名前は何ていったかしら」と留夏子が問うた。「そうですよ。そんなこと、よく憶えていますね。増田ケンポウ社長です。浅間観光の創業者です」と悠太郎が答えた。「憶えているわよ。自ら活動して他を動かすは水なり。障害に遭いて激し、その勢力を百倍するは水なり。常におのれの進路を求めてやまざるは水なり。自ら潔うして他の汚濁を洗い、しかも清濁併せ容るるは水なり。洋々として大海を満たし、発しては雲となり、雨と変じ、凍っては玲瓏たる氷雪と化す、しかもその性を失わざるは水なり。幼い頃に憶えたことって、案外忘れないものよ」と留夏子はたやすく「水五訓」を諳んじてみせた。「こんなに賢いんだもの、誰も敵わないわけですよ」と悠太郎は驚いて言ったが、「しかしケンポウ社長は軍国主義者ですよ。軍事工業に関係して財をなした人です。浅間観光はつまり、そういう会社です。そんな人の思想は、留夏子さんには相応しくありません」と暗い声で続けた。
ベンチ代わりの大きな岩のあたりまで来たとき、「留夏子さん、渡したいものがあるのですが」と言った悠太郎がバッグのなかから取り出したのは、緑色のシュシュであった。それは悠太郎が布地とゴムを買い求め、手ずから縫って作ったものであった。やや暗い落ち着いた緑色の軽やかな布地は、豊かに波打ちながら環をなしていた。「ちょっと遅くはなりましたが、十五歳の誕生日おめでとうございます」と悠太郎が言うと、「憶えていてくれたの?」と留夏子は驚いて切れ長の目を細めた。「七月七日は憶えやすいですよ。私よりちょうど二ヶ月早いだけですし」と悠太郎が応じると、留夏子は「ありがとう」と言ってシュシュを受け取り、しばし緑色の円環から湖をのぞき見るようにしていた。「着けてみてもいい?」と留夏子が問えば、「もちろんですよ」と悠太郎が答えた。そこで留夏子は髪を解き、贈られたシュシュで再び束ねた。何かにつけて簡素な身なりをしてばかりの留夏子には見られなかった、ある華やいだ気配がその身に立ち現れた。悠太郎はそんな留夏子を心から美しいと思った。しかし「これでどう?」と留夏子に問われても、悠太郎は何とも答えられなかった。「どう? 似合うと思う?」と留夏子はなおも問うたが、やはり悠太郎は睫毛の長い目を伏せたまま何も言えなかった。口許にだけ微笑みを浮かべた留夏子は、沈黙するこの年下の少年を、もう少しからかってやろうと思って言った。「鏡よ鏡、六里ヶ原の明鏡よ、おまえには、今の私がどう映る? 鏡よ鏡、六里ヶ原の明鏡よ、答えておくれ」
「十五の夏は、ひとつの夏のなかにあります」と、二重瞼の物問いたげな大きな目を上げた悠太郎は答え、「この六里ヶ原で留夏子さんにめぐり来た十五の流れる夏は、ただひとつの留まる夏の時間的な現れです。永遠の留まる夏の光は、いま留夏子さんを照らしています。この高原を離れ、十六になっても十七になっても、ずっとそのようであってほしいと私は願っています。永遠なるものの真実と善良さと美しさが、これからもずっと留夏子さんを照らし続けてほしいと願っています」と続けた。「留まる夏、永遠の夏……」と言いながら、留夏子は湖に浮かぶボートを眺めやりつつ、「今日の日は消えてゆくように思われる。この夏もまた終わってゆくように思われる。そのわけは、時間の〈今〉はいかなる〈今〉も、次の〈今〉に移りゆくべき可能性を持っているがゆえに、不完全であるからである」と言った。「しかし反対に」と悠太郎が反論を切り出し、「流れる夏が時間を造り、留まる夏が永遠を造ると言われた。しかるに留夏子さんの名前は留まる夏を表している。よって留夏子さんにとっては、今日の日もこの夏も、ただ時間であるばかりでなく永遠でもある」と続けた。「答えて言わなければならない」と留夏子が主文を切り出し、「今日の日もこの夏も消えはしない。消えると思われるのは、ただ時間においてのみである。永遠においては今日の日もこの夏も、ほかの日やほかの夏と同じくあり続ける。そして永遠の留まる夏のなかで、私たちは再び会えるであろう」
揺らめき波立つ水面をきらめかせる太陽は、山の向こうへと傾きつつあった。鳥たちの歌声が聞こえ、レストラン照月湖ポカラ・ガーデンからはカレーの香りがした。「おいしそうではあるのよね」と留夏子が言い、「一度は食べてみたいと思っていたんだけど、今日のようなことがあった後ではね……。どんなおいしい料理を出されても、喜んで食べることはできなくなった」と続けた。「味はたしかにいいですよ。インドから来た宝石商に褒められたことを、店主が自慢していました。しかしその店主は、なかなかに食えない男です」と悠太郎は応じた。「チャンドラカルナさんのことが心配ね。うまく逃げられるかしら」と留夏子は懸念した。「カトマンズでもここでも、散々に苦労してきたのでしょう。これからは穏やかな日々が送れるといいのですが」と悠太郎もその身を案じた。「大人の世界は、様々な暴力や不条理に満ちている」と留夏子は言い、「今日私は、その一端に触れたのね。なんだか見てはいけないものを見てしまったみたい。見ないで済ませていれば、それなりに幸せな日々が送れたかもしれない。でも現に私は見てしまった。暴力と不条理の一端を見て、それに関わってしまった。このことが今後の私を変えてゆくでしょう。知らないで済ませることが罪になるような悪は、やっぱりあるのね。トマスが言うように悪は善の欠如であるとしても、現実に起こっている善の欠如をどうなくしてゆくかという課題は、やはり人間が負わなければならないと思うの。少しでもそういう課題を果たせるような仕事に、できれば私は就きたい」と続けた。「やはり形相の実現は生成の目的ですか」と悠太郎は言った。
留夏子は自転車を押しながら、悠太郎を家まで送りたがった。ふたりは急な坂道を登り、舗装された林間の道を歩いた。涼やかな夕風が緑濃い樹々を吹き渡ると、葉叢は波音のようにさやいだ。土と樹脂と積もり積もった枯葉が匂っていた。林の静けさに包まれていると、明鏡閣での今日の騒動が噓のようであった。「しかし実際にそれはあったのだ」と悠太郎は、暗鬱な思いに沈んでいった。これはまぎれもなく不祥事であった。株式会社浅間観光が起こした不祥事であった。チャンドラカルナさんが警察沙汰にしなくても、暴力と不条理の上にレストランの大繫盛が築かれていた以上、いつかは露見しないものでもなかった。そこから会社のすべてが崩れてしまっても、何ら不思議ではなかった。「凋落だ、黄昏だ」と悠太郎は考えた。流れる夏が過ぎ去るように、浅間観光の栄華もまた流れ去るのではないか――。永遠の留まる夏を思って生きてゆく美しい年上の少女は、しかし銀色に光る自転車を押しながら、凛々としかも艶やかに悠太郎の右隣を歩いていた。
またブダペストのことを陽奈子先生は思い出した。音楽院で熱心にピアノのレッスンを受けたこと。イシュトヴァーン大聖堂でのミサに列席したこと。「漁夫の砦」と呼ばれる、白い七つの尖塔のある要塞に登って、滔々たるドナウ河の流れを眺め続けたこと。そして音楽院の大ホールで鳴り響いたハイドンのオラトリオ《四季》のこと。「そうだった。あのとき《四季》を聴いたことで、私は六里ヶ原に来たのだった。そのことはいつか娘に話そう。場合によっては悠太郎くんにも……」という陽奈子先生の思いは、ハイドンのオラトリオに歌われた夏の描写へと移っていった(そういえば《四季》には、ハンネ、ルーカス、シモンという三人の語り手が登場するが、夏の部で第一声を発するのはルーカスであった。そのことに陽奈子先生は突然思い当たり、「やはりあのときにすべては決まったのだ」と感慨を新たにした)。夜が明ける。灰色のヴェールに包まれて穏やかな朝日が昇る。朝の光に追われてのろのろと、重苦しい夜が退いてゆく。朝の鳥が鋭い声で鳴いて、眠っている農民たちを仕事へと呼び起こす。目醒めた羊飼いは喜び勇む羊の群れを集め、牧草が豊かに茂る緑の丘へと、その群れを追ってゆく。空は晴れやかな紺青に輝き渡り、山々の頂は燃えるような金色に輝いている。太陽は燃える威容で荘厳に輝いている。万歳! おお太陽よ、万歳! 光と命の源よ。万有の魂にして目であるものよ。私たちはあなたに感謝を捧げる。あなたの恵みを誰が語り尽くせよう? この喜びを誰が語り尽くせよう? 私たちを喜ばせる太陽に感謝しよう。私たちを生かしてくれる太陽に感謝しよう。私たちを養ってくれる太陽に感謝しよう。太陽に力を与えた創造主に感謝しよう。すべてが活動を始め、畑は色とりどりに飾られている。日焼けした草刈り人たちに、豊かに実った穀物の穂が波打っている。大鎌が一閃すれば穀物は地に落ち、まとめられて束になる。しかし真昼ともなれば太陽は灼熱し、曇りのない空から激しい炎を照りつけている。自然は圧しひしがれている。花は萎れ草は枯れ、泉は干上がり、あらゆるものが熱の猛威を示し、人も獣も力なく、地面に倒れ伸びている――。
「六里ヶ原の夏は、あのオラトリオに歌われたほど厳しくなくて幸いだった。年々暑くなってきてはいるけれど」と陽奈子先生は考えた。「ブダペストでピアノを学んで、あのオラトリオを聴いて、農村に行くことを決めて、この六里ヶ原へ来た。何かを決めてそれを実行し、その結果を受け容れることは、何かが実現されることだ。何かが実現されればされるほど、可能性はより少なくなる。夢というものが可能性と不可分であってみれば、この六里ヶ原へ来て結婚し子供を持ったことで、愛の夢の季節が終わったことは当然ではないか。でも私は悔いてはいない。たしかに酷薄な無理解には曝され続けた。それでもこの自然のなかで農作業に勤しむことで、土や肥料のなかにも神の御言葉を読み取るという修練を実践できた。子供たちは、特に上の子はよく育った。開いたピアノ教室では、よい生徒に恵まれた。それらのことは無理解から生じる悲しみを償って余りある幸いだった。これ以上のことを神に望むのは、謙抑の徳を忘れることだろう。なぜ突然〈愛の夢〉など弾いてみる気になったのか、ようやく分かった。私から生まれた私でない者が、今や愛の夢の季節にあるのだ。そして私がこの高原でなすべきことには、いよいよ終わりが近づいているのだ。来年には娘が、再来年には息子と悠太郎くんが高校生になれば、そして私の厄介な例の手続きが済めば、この六里ヶ原での私の生活は終わるだろう。残された時間で娘と息子に何を教えるか、悠太郎くんに何を教えるか、よくよく思慮深くあらねばならない……」陽奈子先生はそう考えると、再び本棚のガラス扉を開けてピアノ連弾曲の楽譜を探した。そのときふと〈愛の夢第三番〉のもとになった歌曲の歌詞の続きが思い出された。その歌詞を陽奈子先生は声に出して歌った。長らく忘れていたその歌詞は、不思議と淀みなく流れ出てくるのであった。……そしておまえの心が燃え立ち、愛を抱き育むよう気遣いなさい、おまえの心に対してもうひとつの心が、愛のうちに温かく脈打っている限り! そしておまえに胸を開いてくれる人に、できる限り優しくしてあげなさい! 彼のあらゆる時間を喜ばしくしてあげなさい、悲しい時間にはしないであげなさい! そしておまえの口をよく慎みなさい、やがて非情な言葉が言われるのです! おお神様、悪意があったわけではないのです。相手はしかし去ってゆき、そして泣くのです――。遠くで畑のトウモロコシがざわざわと風に鳴るように、陽奈子先生の心もまた悲しい予感にざわめいた。「おお神様、悪意があったわけではないのです」と陽奈子先生は声に出して言った。「別れゆく者たちをも、どうか憐れんでください……」
さてちょうどその頃、観光ホテル明鏡閣の狭苦しい社員食堂では、留夏子と悠太郎が力を合わせて、チャンドラカルナ・ムリ・ギリさんの言い分をひと通り聞き終えていた。といっても主力はやはり飛び抜けて英語力に秀でた留夏子で、悠太郎はいくらか理解しながらその場に居合わせたという程度であった。黒岩サカエ支配人や林浩一さんや久世利文さんや秀子は、ほとんど信じ難いものでも見るように、事の成り行きを見守っていた。そんな社員たちに中学校三年生の留夏子は物怖じすることなく、チャンドラさんから聞いたことを明快に話した。「チャンドラさんは、レストラン照月湖ポカラ・ガーデンの登原店主による酷使と虐待に耐えかね、助けを求めてこちらへ来ました」と留夏子が言うと、社員たちは驚いた。その驚きは〈ポカラ〉での異変によるものでもあり、また英会話によってそれを明らかにしつつある少女によるものでもあった。「おいおい、本当かよ。冗談じゃねえぞ、これは」と言ったサカエさんの表情が暗かったのは、薄黒いサングラスのせいばかりではなかった。「マジなんでしょうね。現にこうして逃げてきて、あの剣幕だったんだから、マジっすよ」と久世さんが、その喉仏のように注意力を鋭くしながら言った。「酷使と虐待って、どんなことをされたの?」と、秀子が下膨れの憂い顔で問うた。悠太郎は登原聖司さんに会ったときのことを思い出していた。いかにも胆力がありそうな地を這うような声や、料理人の白衣に包まれた筋肉質の体や、鋭い鉤鼻に近い猛禽のような目や、オールバックにセットされた頭がありありと思い浮かんだ。チャンドラさんの今の話は断片的に聞き取れた。食い物屋の食えない男が、いかにもやりそうなことだ――。社員食堂の窓の向かいに、やや前傾して取りつけられた長方形の鏡は、円形の花壇に咲き誇るヒマワリの花々を映していたが、今それを見る者は誰もいなかった(なんとそれらは夏の午後の日射しを浴びて燃え輝いていたことか!)。
「ナンの生地の捏ね方が足りないと言っては叩き、カレーのスパイスの調合が違うと言っては殴り、店内の掃除が行き届いていないと言っては足蹴にし、接客に問題があると言っては休憩時間を与えない。翌日の仕込みは夜遅くまでかかるから、入浴もできずにドラム缶での行水を強いられる。そんなことが毎日毎日繰り返されるそうです。今日は特に暴力が激しくなって、チャンドラさんは身の危険を感じ、意を決して逃げてきたんです」と留夏子は説明した。それを聞いて秀子は、前々から懸念していたことがこうして顕在化したのだと思った。大繁盛する〈ポカラ〉に、秀子は何やら不穏なものを感じていたのである。店主の登原さんも、手島妙子さんもチャンドラカルナ・ムリ・ギリさんも、照月湖温泉へ入浴に来なかった。夜遅くまで仕込みの仕事があって、温泉が閉まる時刻に間に合わないらしいのである。その代わりにレストランの脇にあるプレハブ小屋の陰で、三人がドラム缶のような容器にお湯を溜めて行水していることを秀子は知った。「あの人たちはいったい何をやっているのかしら。接客業なんだから、お風呂くらいちゃんと入ればいいのに。お店のなかでお香を焚いているのは、体臭を隠すためだったりして」と秀子は考えたことがあった。手島さんのことも思いやられた。登原店主の正式な奥さんという人は東京にいて、手島さんはどうやら愛人らしかった。登原さんは手島さんを殴ることがあるが、手島さんは殴られても殴られてもネパールまでついてゆくし、六里ヶ原までついてくるのだという噂もあった。ネパール人青年のチャンドラカルナさんも、どうやら登原店主から相当に酷使されているらしいことを、秀子はうすうす感づいていたのである。秀子は勢いを盛り返しつつあるかに見えたこの会社に、取り返しのつかない事態が起こってしまったことを知った。あたかもヒマラヤにある壮麗な寺院が、ゆっくりと崩れ落ちるのを見せられるような思いがした。
「それでチャンドラさんは、これからどうしたいんですか?」と尋ねる林さんの平たい顔からは、さしものにこやかな笑みも消え失せていた。怯えたような目を泳がせながらチャンドラさんが英語で答えると、今度は悠太郎がそれを訳した。「ネパールに帰国したところで、こちらのシーズンが終われば彼らもネパールに来ます。カトマンズの家も故郷の家も登原さんに知られている以上、ネパールで身の安全は期し難いのです。東京でインド料理店を営む知人がいるので、ひとまずは彼を頼るつもりです。旅費は持っています。この会社には感謝していますから、警察沙汰にはしたくありません。この会社の売り上げに〈ポカラ〉が占める割合は大きいでしょうから。私は手島さんと違って、殴られても殴られてもついてゆくということはできないのです。東京へ逃げます」と考え考え言った悠太郎が留夏子のほうを見ると、この年上の少女は「よくできました」とばかり切れ長の目を細めて頷いた。「そういうことじゃあおめえ、しょうがねえな」と黒岩支配人が言った。「林くん、ちょっくら会社の車で、軽井沢駅まで送ってやってくれや。チャンドラさんは、寮から手荷物を急いで持ってきな。……ああユウくん、チャンドラさんにそう言ってやってくれ」
これからすぐに林さんが軽井沢駅まで送ってくれるから、独身社員寮へ行って手荷物を急いでまとめるようにと悠太郎が告げると、チャンドラさんは喜んで感謝した。勇躍するように社員食堂を出ようとしたチャンドラさんであったが、ドアの前でふと立ち止まると振り返って、「Mr. Tobara, Mafia, Mafia!」と吐き捨てるように言った。その場にいる誰にとっても、もはや翻訳の必要はないその言葉は、情け容赦もない雇い主のもとで酷使と虐待に耐えてきたチャンドラさんの、煮詰められた真情の吐露に違いなかった。ドアを開けてチャンドラさんが、次いで林さんが退室した。チャンドラカルナ・ムリ・ギリさんは、不思議なお香の匂いを残して、六里ヶ原を立ち去っていった。黒岩サカエ支配人は「ぎりぎりの無理をしていたんだろうな。まあ洒落にはならねえが……」と言ったが、誰も笑いはしなかった。
いかり型の久世利文さんは、茫洋たる海の彼方を眺めるような目で、窓の向かいの鏡に映る景色を見ていたが、ふと思い出したように留夏子のほうを向いて、「あの、間違ってたらすいません。佐藤さん、もしかして〈めぐし乙女〉の人っすか?」と尋ねた。少しばかり頬を紅潮させた留夏子は、「私をそんなふうに呼んでくださる方もいます」と答えた。それを聞いた久世さんは、「うおお、まじっすか! 〈流浪の民〉の名演のこと、噂に聞いてたんすよ。俺、実は大学ではグリークラブにいた関係で、今でも合唱には興味あって、ずっと気になってたんすよね。まさか本人にこんな形で会えるとは思わなかったっすよ。なるほどこれだけ聡明なら、奇跡の名演を作れるのも無理はないっす。指揮もしてソプラノ独唱も歌って、すごいじゃないっすか」と感激を表した。黒岩サカエ支配人は咳払いして気を取り直すと、「佐藤さんもユウくんも、よく来てくれた。おかげで助かったよ。何とお礼を言ったらいいか……。本来ならここでゆっくりお茶でも飲んで、お菓子でも食べていってもらいたいところだが、こんな厄介事があった後だ。〈ポカラ〉の店主が乗り込んできたところに、きみたちが居合わせても具合が悪かんべえ。あとは俺たちで何とかするから、外にある自販機で好きなジュースでも買って飲んでくれ」と言って、ふたりにそれぞれ百円硬貨を手渡した。「ありがとうございます」と留夏子が言い、「ありがとうございます」と悠太郎が言って、ふたりは社員食堂という名の従業員詰所を辞した。お辞儀をして顔を上げた留夏子は、ふと詰所の壁に飾られている一枚の写真に気がついた。恰幅のよいその写真の男は、片えくぼを浮かべた恵比寿顔で豪快に笑っていた。
後に残った社員たちは、登原店主が乗り込んでくるまでのあいだ、なおもふたりのことを噂した。「秀子さん、あの子が息子さんの彼女っすか? 素晴らしいじゃないっすか!」と、なおも感激が冷めやらぬ様子で久世さんが言った。「あの小さかったユウくんが、はあそんな年頃だな。感慨深いな」と黒岩サカエ支配人が、薄黒いサングラスの奥で目尻を下げた。「まさか。彼女なんかじゃないわよ。息子がついているピアノの先生の娘さん。ただそれだけ」と秀子は応じたが、その胸のなかにはどす黒いものが渦巻いていた。「彼女? 彼女だって? あれが息子の? 冗談ではない。そんなはずがあるものか。だいたい留夏子ちゃんのことばかり褒めるのは不公平ではないか。今日のことでは息子だって、留夏子ちゃんと同じくらい活躍したのだ。たしかに英語力において息子はいくらか劣っていたかもしれないが、それは留夏子ちゃんのほうが一学年上なのだから、仕方ないではないか。息子はけっして留夏子ちゃんに劣る者ではない。ましてや留夏子ちゃんを愛するはずがない。愛するだって? 息子があれを? 冗談ではない。息子がこの私を差し置いて、どこぞの女を愛することなどあってたまるか。私たちは母ひとり子ひとりで、どこまでも行くのだ。どこまでもどこまでも生きてゆくのだ……」
そんなこととは知らないふたりは、白いペンキの剥げかけた小さな扉から外に出ると、それぞれ自動販売機で缶ジュースを買った。プルタブを開けようとした留夏子が、「さっき戸井田さんからいただいたラムネを飲んだばかりね」と思い出したように言った。「そういえばそうでした。今またこれを飲んでは、糖分の取りすぎになりますね。明日の楽しみにしましょうか」と悠太郎が応じた。「明日の楽しみか。それもいいわね。明日が来るのが、ちょっと楽しみになる。それにしても、こんな今日でもやっぱり終わってゆくのね」と言いながら、留夏子はよく冷えたジュースの缶を火照った頬に当てた。「時間のなかでは、あらゆる〈今〉は次の〈今〉へと移りゆきますからね。一日また一日と、次々に継起するのが時間です」と言いながら、悠太郎は留夏子のそうした仕草を心から可憐だと思った。留夏子が自転車を停めておいた湖畔へと、ふたりは並んでゆっくりと歩いていった。夏の日の午後は、はや夕方へと傾いて熟しつつあった。涼やかな風が樹々の葉叢をさやがせ、今を限りと蝉たちが鳴きしきっていた。「そういえば、社員食堂にあったあの写真の人、水五訓の人じゃない? お名前は何ていったかしら」と留夏子が問うた。「そうですよ。そんなこと、よく憶えていますね。増田ケンポウ社長です。浅間観光の創業者です」と悠太郎が答えた。「憶えているわよ。自ら活動して他を動かすは水なり。障害に遭いて激し、その勢力を百倍するは水なり。常におのれの進路を求めてやまざるは水なり。自ら潔うして他の汚濁を洗い、しかも清濁併せ容るるは水なり。洋々として大海を満たし、発しては雲となり、雨と変じ、凍っては玲瓏たる氷雪と化す、しかもその性を失わざるは水なり。幼い頃に憶えたことって、案外忘れないものよ」と留夏子はたやすく「水五訓」を諳んじてみせた。「こんなに賢いんだもの、誰も敵わないわけですよ」と悠太郎は驚いて言ったが、「しかしケンポウ社長は軍国主義者ですよ。軍事工業に関係して財をなした人です。浅間観光はつまり、そういう会社です。そんな人の思想は、留夏子さんには相応しくありません」と暗い声で続けた。
ベンチ代わりの大きな岩のあたりまで来たとき、「留夏子さん、渡したいものがあるのですが」と言った悠太郎がバッグのなかから取り出したのは、緑色のシュシュであった。それは悠太郎が布地とゴムを買い求め、手ずから縫って作ったものであった。やや暗い落ち着いた緑色の軽やかな布地は、豊かに波打ちながら環をなしていた。「ちょっと遅くはなりましたが、十五歳の誕生日おめでとうございます」と悠太郎が言うと、「憶えていてくれたの?」と留夏子は驚いて切れ長の目を細めた。「七月七日は憶えやすいですよ。私よりちょうど二ヶ月早いだけですし」と悠太郎が応じると、留夏子は「ありがとう」と言ってシュシュを受け取り、しばし緑色の円環から湖をのぞき見るようにしていた。「着けてみてもいい?」と留夏子が問えば、「もちろんですよ」と悠太郎が答えた。そこで留夏子は髪を解き、贈られたシュシュで再び束ねた。何かにつけて簡素な身なりをしてばかりの留夏子には見られなかった、ある華やいだ気配がその身に立ち現れた。悠太郎はそんな留夏子を心から美しいと思った。しかし「これでどう?」と留夏子に問われても、悠太郎は何とも答えられなかった。「どう? 似合うと思う?」と留夏子はなおも問うたが、やはり悠太郎は睫毛の長い目を伏せたまま何も言えなかった。口許にだけ微笑みを浮かべた留夏子は、沈黙するこの年下の少年を、もう少しからかってやろうと思って言った。「鏡よ鏡、六里ヶ原の明鏡よ、おまえには、今の私がどう映る? 鏡よ鏡、六里ヶ原の明鏡よ、答えておくれ」
「十五の夏は、ひとつの夏のなかにあります」と、二重瞼の物問いたげな大きな目を上げた悠太郎は答え、「この六里ヶ原で留夏子さんにめぐり来た十五の流れる夏は、ただひとつの留まる夏の時間的な現れです。永遠の留まる夏の光は、いま留夏子さんを照らしています。この高原を離れ、十六になっても十七になっても、ずっとそのようであってほしいと私は願っています。永遠なるものの真実と善良さと美しさが、これからもずっと留夏子さんを照らし続けてほしいと願っています」と続けた。「留まる夏、永遠の夏……」と言いながら、留夏子は湖に浮かぶボートを眺めやりつつ、「今日の日は消えてゆくように思われる。この夏もまた終わってゆくように思われる。そのわけは、時間の〈今〉はいかなる〈今〉も、次の〈今〉に移りゆくべき可能性を持っているがゆえに、不完全であるからである」と言った。「しかし反対に」と悠太郎が反論を切り出し、「流れる夏が時間を造り、留まる夏が永遠を造ると言われた。しかるに留夏子さんの名前は留まる夏を表している。よって留夏子さんにとっては、今日の日もこの夏も、ただ時間であるばかりでなく永遠でもある」と続けた。「答えて言わなければならない」と留夏子が主文を切り出し、「今日の日もこの夏も消えはしない。消えると思われるのは、ただ時間においてのみである。永遠においては今日の日もこの夏も、ほかの日やほかの夏と同じくあり続ける。そして永遠の留まる夏のなかで、私たちは再び会えるであろう」
揺らめき波立つ水面をきらめかせる太陽は、山の向こうへと傾きつつあった。鳥たちの歌声が聞こえ、レストラン照月湖ポカラ・ガーデンからはカレーの香りがした。「おいしそうではあるのよね」と留夏子が言い、「一度は食べてみたいと思っていたんだけど、今日のようなことがあった後ではね……。どんなおいしい料理を出されても、喜んで食べることはできなくなった」と続けた。「味はたしかにいいですよ。インドから来た宝石商に褒められたことを、店主が自慢していました。しかしその店主は、なかなかに食えない男です」と悠太郎は応じた。「チャンドラカルナさんのことが心配ね。うまく逃げられるかしら」と留夏子は懸念した。「カトマンズでもここでも、散々に苦労してきたのでしょう。これからは穏やかな日々が送れるといいのですが」と悠太郎もその身を案じた。「大人の世界は、様々な暴力や不条理に満ちている」と留夏子は言い、「今日私は、その一端に触れたのね。なんだか見てはいけないものを見てしまったみたい。見ないで済ませていれば、それなりに幸せな日々が送れたかもしれない。でも現に私は見てしまった。暴力と不条理の一端を見て、それに関わってしまった。このことが今後の私を変えてゆくでしょう。知らないで済ませることが罪になるような悪は、やっぱりあるのね。トマスが言うように悪は善の欠如であるとしても、現実に起こっている善の欠如をどうなくしてゆくかという課題は、やはり人間が負わなければならないと思うの。少しでもそういう課題を果たせるような仕事に、できれば私は就きたい」と続けた。「やはり形相の実現は生成の目的ですか」と悠太郎は言った。
留夏子は自転車を押しながら、悠太郎を家まで送りたがった。ふたりは急な坂道を登り、舗装された林間の道を歩いた。涼やかな夕風が緑濃い樹々を吹き渡ると、葉叢は波音のようにさやいだ。土と樹脂と積もり積もった枯葉が匂っていた。林の静けさに包まれていると、明鏡閣での今日の騒動が噓のようであった。「しかし実際にそれはあったのだ」と悠太郎は、暗鬱な思いに沈んでいった。これはまぎれもなく不祥事であった。株式会社浅間観光が起こした不祥事であった。チャンドラカルナさんが警察沙汰にしなくても、暴力と不条理の上にレストランの大繫盛が築かれていた以上、いつかは露見しないものでもなかった。そこから会社のすべてが崩れてしまっても、何ら不思議ではなかった。「凋落だ、黄昏だ」と悠太郎は考えた。流れる夏が過ぎ去るように、浅間観光の栄華もまた流れ去るのではないか――。永遠の留まる夏を思って生きてゆく美しい年上の少女は、しかし銀色に光る自転車を押しながら、凛々としかも艶やかに悠太郎の右隣を歩いていた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私の神様は〇〇〇〇さん~不思議な太ったおじさんと難病宣告を受けた女の子の1週間の物語~
あらお☆ひろ
現代文学
白血病の診断を受けた20歳の大学生「本田望《ほんだ・のぞみ》」と偶然出会ったちょっと変わった太ったおじさん「備里健《そなえざと・けん」》の1週間の物語です。
「劇脚本」用に大人の絵本(※「H」なものではありません)的に準備したものです。
マニアな読者(笑)を抱えてる「赤井翼」氏の原案をもとに加筆しました。
「病気」を取り扱っていますが、重くならないようにしています。
希と健が「B級グルメ」を楽しみながら、「病気平癒」の神様(※諸説あり)をめぐる話です。
わかりやすいように、極力写真を入れるようにしていますが、撮り忘れやピンボケでアップできないところもあるのはご愛敬としてください。
基本的には、「ハッピーエンド」なので「ゆるーく」お読みください。
全31チャプターなのでひと月くらいお付き合いいただきたいと思います。
よろしくお願いしまーす!(⋈◍>◡<◍)。✧♡
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる