明鏡の惑い

赤津龍之介

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第十七章 燃ゆる火

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 年上の女子たちふたりがそんなことを話しているとは露知らず、悠太郎は階段を三階から一階まで下って職員室を訪ねた。綿貫正先生の机に積んであった『最新名曲解説全集』を借り出して、そこにシューマンの〈流浪の民〉について書かれていないか調べてみようと思ったのである。「おお、親愛なる音楽の友よ」と角刈りのタヌキ先生は悠太郎の来意を聞くと、椅子にふんぞり返りながら色眼鏡の奥の目を笑わせた。「音楽について事典や本を読もうとするのはいいことだ。鳴り響く音を享楽して終わりでは、その体験が確かな知識として残らない。だから音楽を常に言葉によって把握するように努めるのはいいことだ。いま鳴り響きながら通り過ぎていった音楽は何であるのか、その意味が言葉によって、わずかなりとも心のなかに留まるからな。まあ俺は国語教師なんかやっているから人一倍本は読むほうだが、それでも音楽となると、若い頃は音の響きを享楽してばかりだったな。それではいけないと思って、こんな本を買い込んでみたんだ。俺は特に楽器を習ったりしていないが、それでも読んでいて面白いものだ。ピアノを習っている真壁くんが読めば、また一段と面白いだろう」とその道の先達らしい教えを垂れたタヌキ先生は、「ところでお目当てのジャンルは何かな? 交響曲かい? 協奏曲かい? 室内楽曲かい? この解説書はジャンル別にまとめられている。ここに持ってきてあるものがすべてじゃないんだ。何しろ全二十八巻あるからね。残りは俺の家で埃を被っているよ。必要とあらば、持ってきてあげてもいい」と言った。
 悠太郎はしばしのあいだ沈黙を守りながら、物問いたげな目を机の上にある本に走らせた。合唱曲について調べたいという希望を、できれば秘したままにしておきたかったのである。幸いにしてそこには「声楽曲」と記された四冊があったので、悠太郎は独唱曲とも合唱曲とも明らかにすることなく、「声楽曲の巻をお借りしたいのですが」と言うことができた。「声楽曲と来たか。そういえば真壁くんはドイツ歌曲にご執心だと聞いたよ。音楽の時間にシューベルトの〈魔王〉を歌ったんだって? なかなか無茶をするねえ。しかし聴いてみたかった気もするよ。あれだね、ドイツ・リートというのは近代ドイツ市民社会の精神の結晶だね。いや俺は昔トーマス・マンの小説や評論に読み耽ったことがあるんだけどね、それというのも日本の作家でトーマス・マンに影響を受けた人は何人もいるけど、俺はそんな作家のなかでも、北杜夫の『どくとるマンボウ』シリーズをよく読んだね。その北杜夫の『楡家にれけの人びと』も面白くて、それで作者が手本にしたというトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』に夢中になったものだよ。豪勢な穀物商会の一家が没落してゆくあの物語はきみ、何とも哀切甘美だよ。ヴァイオリニストを母親として生まれた一族最後の少年ハノーは、実生活で役に立つことが何もできなくて、ワーグナーの音楽にうっとりと惑溺してね。ある一族が生活力を衰退させてついに滅びるときは、どこでもああしたものかもしれないな。真壁くんにはああなってほしくないところだ。ともあれああいう描写には、トーマス・マンの音楽体験がよく表れているね。俺が国語教師でありながら、文学と同じくらい音楽を愛好するのは、つまりトーマス・マンの影響が実に大きいわけだよ。まあ音楽への愛は言葉への愛に比べたら、危険な愛であり禁断の愛だよ。ところが分かっちゃいるけどやめられないんだな、これが。言葉は精神を目醒めさせ、音楽は眠り込ませると、トーマス・マンはどこかで書いていなかったかな。音楽を聴くときにも、常に言葉とともに目醒めてあれ! というのが、国語教師として俺がきみに言いたいことだよ。ええと、何の話をしていたんだっけ? そうそう、ドイツ・リートだったね。トーマス・マンの文章を読んでいると、近代ドイツ市民の内面性ということがよく分かったね。フランスの市民は革命を成し遂げた。王様の首をギロチンでちょん切って、市民たちは政治体制を変革した。ところがドイツ語圏ではそうは行かなかった。政治的に挫折した市民たちは現実の変革を断念して、極度に内向した詩的世界を発展させた。子供たちは子供部屋で、グリム童話のようなメルヒェンに読み耽る。大人たちは小さな集まりのなかで、さもなければまったくひとりで歌曲を愛好する。シューベルトの歌曲集《冬の旅》のなかにある〈菩提樹〉なんか、そういう内面性の極みだよね。トーマス・マンの小説『魔の山』でこの〈菩提樹〉がどう使われているか、真壁くんも是非いつか読んでみてほしいね。あの場面にきみ、シューベルトの〈菩提樹〉を持ってくるのは……」いつになく駄弁を弄するタヌキ先生の話を、悠太郎は適当に聞いていた。「文学と音楽について話せる相手ができたと思って、喜んでいるのかもしれないな」と悠太郎は考えた。独唱曲について調べようとしているのだと、タヌキ先生が勘違いしてくれたのは好都合であった。お礼を言って職員室を辞すると、悠太郎は四冊の重たい本を抱えて一年生の教室へ戻った。
 まさか四冊すべてを自転車に括りつけて持ち帰るわけにもゆかなかったから、悠太郎は空き時間を見つけて借りた本を調べた。一八一〇年生まれのロマン主義者シューマンの音楽は、おそらく声楽曲篇の二冊目である第二十二巻にあるだろうと見当をつけてページをめくれば、果たして〈流浪の民〉作品二九の三の概説と解説が譜例とともに載っていた。概説によればこの曲は、流浪する民族の一夜の宿泊を描いた詩に作曲されたもので、シューマンの合唱曲としては最初期の作品であるが、古今の合唱音楽を通じて最も広く歌われているという。冒頭の短い前奏の暗示する律動が全曲に一貫して流れており、その点では変化に乏しいことや、しかし各声部の融合法が巧妙かつ色彩的であり、旋律も活気に溢れているので聴衆を惹きつけることや、少ない手段でひとつの情景を巧妙に描いていることが書かれていたので、悠太郎はそれだけでも楽曲分析の取っ掛かりが得られたように思った。しかしこの概説のなかで何より目を惹いたのは、演奏に際して流浪の民族の情緒を出すため、任意でトライアングルとタンバリンも加えてよいという記述であった。「留夏子さんたちが実際にトライアングルとタンバリンを鳴らしたら、さぞや効果的だろうな。合唱コンクールでそんな鳴り物を使ったら、みんなびっくりするだろう。これは早速の収獲だった。やはり調べてみるものだ」と思いながら悠太郎は、残りの三冊をロッカーに残して、〈流浪の民〉のことが載っている一冊だけを持ち帰った。北軽井沢の信号に近いコンビニエンスストアでコピーを取って、留夏子やペトラと共有しなければならなかったし、概説に続く解説を家で楽譜と突き合わせ、ピアノを弾きながら読み込みたかったからである。
 闇のなかでざわざわと鳴る樹々の声を聞きながら、学習机に向かって解説を読んだ悠太郎は大きな不満を感じた。クラス合唱曲集に載っている石倉小三郎訳の歌詞が、明治四十年頃から親しまれてきたものであると知れたことは収獲であった。しかし楽曲解説が当の訳詞にまったく依拠して書かれているのでは話にならなかった。それではドイツ語の歌詞と音楽の関係について、何も言っていないに等しいではないか――。三つの譜例のなかに、ドイツ語の歌詞の断片ならばあることはあった。しかし明らかになったのは、たったの三行でしかなかった。この三行からだけでも、秀子が大学時代に使っていたという独和辞典で調べれば、何がしかのことは読み取れないではなさそうであった。しかしできることなら、ドイツ語の歌詞の全体とその直訳を知りたかった。「歌詞対訳については、第一の線が駄目になったな。あまり人騒がせなことはしたくなかったが、やむを得まい。第二の線に当たってみるか」と悠太郎は思案した。
 この話が持ち上がったときから悠太郎が密かに当てにしていたのは、田無に住んでいる森山正子伯母様のことであった。この田舎にいたのでは、たとえ軽井沢まで下りたとしても、クラシック音楽のCDを満足に揃えた店はなかった。しかしいつかの誕生日プレゼントに《マカベウスのユダ》のCDを、正子伯母様は新宿の伊勢丹で探してきてくれたではないか。伯母様は自分でもイタリア・オペラに凝っているというから、様々なCDを探したことのある馴染みの売り場なのだろう。まだ七月だが、前倒しの誕生日プレゼントとしてお願いしてみるか――。そうしたわけで悠太郎は、シューマンの〈流浪の民〉を収録したCDの探索を、電話で正子伯母様に依頼したのである。できれば歌詞対訳つきのものが欲しいという希望が、その際に言い添えられた。
 夏休みが始まったばかりのある夜、正子伯母様から電話が入った。「ユウちゃん、例の件だけとね……。いいお知らせと、よくないお知らせがあるの」と正子は聡明そうな声で告げた。「まずはいいお知らせから。シューマンの合唱曲集を見つけた。〈流浪の民〉をはじめとして十三曲が入っている。シューマンゆかりのライプツィヒの合唱団が歌っている。それで、次はよくないお知らせなんだけど、解説はついておりませんと帯に書いてある。オペラのCDを見ていても感じるんだけど、この頃は不景気のせいか何なのか、歌詞対訳のついていない商品が多くなってきたわね。楽譜から歌詞を拾い上げて、その翻訳を依頼して、それらを編集して印刷する。レコード会社がそのためのお金を惜しんだら、声楽曲のファンが減ってしまう。そうすればマーケットはますます縮小して、結局はレコード会社が損をするんじゃないかしら。悪循環って、こういうことを言うんでしょうね。シューマンの合唱曲集も、つまりはそういうことだと思う。力になれなくてごめんなさいね」
 「いや、そんなことはありませんよ。原曲の音源だけでも探してくれて感謝しています」と悠太郎が応じると、正子はなおも鋭い着眼を示して告げた。「実はね、ちょっと気になったことがあったの。録音された年を確認したら、一九七八年とあった。結構昔でしょう? それで考えたの。もしかしたら同じ音源が、過去にも国内で発売されていたんじゃないかって。そう思ってレコード会社に問い合わせてみたの。果たして私の勘は当たっていたわ。一九八五年には、解説と歌詞対訳つきで発売したんですって。ユウちゃんがまだ二歳の年ね。古いレコードやCDをたくさん集めたような場所になら、あるいはあるかもしれないけれど、六里ヶ原あたりには大きな図書館もないでしょうしね……。とにかく力になれるのはここまでね。見つけたCDは送っておいたから、じきに着くでしょう。それじゃ元気でね。あまり根を詰めないでね……」
 程なく届いたそのCDで、悠太郎は〈流浪の民〉を繰り返し聴いた。部屋に据えつけられたレコードプレーヤーつきのステレオコンポからは、ざわざわと鳴る樹々の葉叢のようにドイツ語の合唱がざわめいていたが、歌詞対訳なしでは何を言っているのかまったく分からないのは当然であった。そうして理解できない音声に耳を傾けているうちに、悠太郎には自然の音響と人語の音韻との区別が、だんだん曖昧なものに感じられてくるのであった。「やはりこれでは手も足も出ないな。徒手空拳でも一心不乱に耳を傾ければ、何か聞き取れるかもしれないと思ったが、やはり皆目分からない。ドイツ語で歌われるときの雰囲気だけでも、この音源から感じ取れるのがせめてもの収獲だな。この音源をカセットテープにダビングして留夏子さんに渡せば、それなりに役立ててくれないものでもあるまい。もっと留夏子さんのために何かできると思っていたが、大してお役に立てなかったな。しかし留夏子さんが〈流浪の民〉のことを言ったのは、本当にこれが初めてだったろうか。このCDのジャケットを飾る細っこい樹の枝の写真も、いつかどこかで見たことがあったような気がする……」
 悠太郎はCDプレーヤーをリモコンで操作して、〈流浪の民〉だけがひたすら繰り返されるように設定した。三十分のカセットテープのA面もB面も〈流浪の民〉で埋め尽くしておけば、巻き戻して頭出しをする手間が省けるだろうという配慮からであった。窓の外では眩しかった夏の日射しが急に翳り、遠くに聞こえ始めた雷鳴はすぐさま近くなった。悠太郎が慌てて閉め固めたガラス窓を、雨の雫が流れた。ドイツ語の〈流浪の民〉が鳴り響く部屋を取り巻いて、雷雨は樹々の葉叢を波立たせながら激しく荒れ狂った。自然の音響と人語の音韻が、文目も分かず入り乱れ融け合うなか、悠太郎の意識は眠気のあまり朦朧とし始めた。「いつかも俺はこうして何かの音楽を探していたのではなかったか」と悠太郎は、カーペットの上で仰向けに寝転びながら考えた。そうだ、俺は小学校の掃除の時間に流れていた音楽を探していたことがあった。俺は聞こえない川のような木洩れ日の印象としてしか、あの音楽を思い出せなくなっていた。あの燦々たる光が喜戯するような、澄み渡る天空から明るい風が吹き通うような音楽を、俺は小学校の放送室でひたすら探し続けた。そこへ留夏子さんが、放送委員会の委員長として勝手知ったるドアを開けて入りしな、「悠太郎、何かを探しているの? この頃ずいぶん熱心ね」と、いつもはマイクで校舎や校庭に響かせ慣れた爽やかな声をかけたが、そのとき俺には緑の唐松林を朝風が吹き渡ってゆくような感じがした。しかし俺は留夏子さんには目もくれず、カセットテープやレコードやCDのケースに記された曲名を確認しながら、「ぼくが一年生だった頃の掃除の時間に流れていた音楽を探しているんです。作曲者も曲名も一度教えてもらいましたが、忘れてしまいました。メロディーのひと節さえ、どうしても思い出せません。あの曲を探し出したくて放送委員会に入ったのですが、まだ見つかりません」と答えた。「そうやって何かを探しているうちに、おまえの人生は終わるんだわ」と留夏子さんは言った。そこで俺は初めて留夏子さんに顔を向け、「それは誰の人生でも、多かれ少なかれそんなものじゃありませんか?」と問い返した。「そうかもね。とにかくあまり根を詰めないように」と留夏子さんは言い置くと、早々に放送室を立ち去ってテニスコートへ向かっていった。それからも俺は思い出せない音楽をひたすら探し続けた。それが器楽曲であることは確かだったから、声楽を伴いそうな音源は、予め取り除けておいて再生しなかった。ビゼーの歌劇《カルメン》の抜粋とか、山田耕筰の歌曲集とか、歌詞対訳のついたシューマンの合唱曲集とかいったCDには見向きもしなかった。――あっ!
 一瞬にして鮮明になった意識とともに、悠太郎はがばと跳ね起きた。あった! あった! 歌詞対訳のついたシューマンの合唱曲集は、小学校の放送室にあった! あのとき俺はたしかに、これと同じ細っこい樹の枝のジャケット写真を見ていた。留夏子さんが〈流浪の民〉のことを言い出したときに俺を襲った既視感も、いま見た夢で説明がつく。正子伯母様が電話で教えてくれた情報がなければ、放送室の記憶が甦ることもなかったに違いない――。悠太郎は伯母様にどんなに感謝しても足りないと思った。いつしかCDからカセットテープへのダビングは終わっていた。雷雨はすでに過ぎ去り、再び明るく穏やかになった夕方の黄金色の大気のなかで、夏鳥たちが歌っていた。悠太郎は小学校で理科を教えている草壁敬子先生に、すぐさま連絡を取ろうと考えた。文学にも音楽にも詳しく、放送委員会を担当していたこともある草壁先生ならば、悠太郎の意図することに理解を示してくれると思われたからである。
 「そろそろ来る頃だと思っていました」と言って草壁先生は、黒い軽石を積み重ねて作られた校門で悠太郎を迎えた。中学校での部活動が終わってから自転車を走らせた悠太郎は、午後の早い時間に六里ヶ原第一小学校に着いたのである。小学校もまた夏休みではあるが、野球部やテニス部が練習をするので出勤している教職員はいた。「大きくなりましたね。低くなった声を電話で聞いたとき、誰かと思いました」と草壁先生は、げっそりと頬のこけた顔をやや左に傾げながら感慨深げに言った。「今回は、その声に関わるお願いでした。お聞き届けくださって、ありがとうございます」と悠太郎は自転車を停めて頭を下げた。「シューマンの合唱曲集のCDをお貸しします。解説と歌詞対訳も、ちゃんとついています。〈流浪の民〉について調べているんですって? これが小学校の放送室にあったことを、よく憶えていましたね」と言って、草壁先生はCDを悠太郎に渡した。「たまたま記憶に残っていたのです。いろいろな音源を漁っていたことがありますから、そのせいだと思います」と答えた悠太郎は、二重瞼の大きな目を黒々と見開いて校舎や体育館を眺めた。何やらすべてが小さく感じられた。校舎のなかに入れば、こびとの国に迷い込んだような感じがするのかもしれない。そうなれば、不可逆的な時の流れをいっそう強く感じることになったかもしれない。わざわざ屋外で待っていてくれた草壁先生の配慮に、悠太郎は感謝した。「ここを卒業してから、まだ一年と経ってはいない。それなのに新しい環境が古い環境に取って代われば、古い習慣はなんと速やかに心身から抜け落ちるのだろう。俺にとってこの小学校は、蛇が脱ぎ捨てた皮のようだ」と悠太郎は思った。白樺や楢の林では、今を限りと蝉が鳴きしきり、夏鳥たちが歌い交わしていた。
 「ところで悠太郎くん、現在まで歌い継がれている〈流浪の民〉の訳詞が、いつ頃作られたか知っていますか?」と草壁先生が問うた。「明治四十年頃だと書いてありました」と悠太郎は答えた。「よく調べていますね」と骸骨のような草壁先生は、大きなレンズの眼鏡の奥で目を光らせ、「ではあの訳詞が作られる以前のことは知っていますか?」と重ねて問うた。「あの訳詞以前ですか? いいえ、そこまでのことは何も存じません。シューマンのあの曲が、別の歌詞でうたわれていたのですか?」と悠太郎は、興味をそそられて問い返した。「それがね、面白いのよ。ちょっと笑ってしまうような話だけど……」と草壁先生は、蒼ざめて頬のこけた顔に笑みを浮かべて教えた。「石倉小三郎訳ができる前はね、〈流浪の民〉の曲はそのままに、もともとのドイツ語の歌詞とは全然関係ない歌詞を当て嵌めていました。幕末の日本で、月照げっしょうという僧侶が(月が照ると書いて月照ですね)安政の大獄で追われる身になり、西郷隆盛と一緒に海へ入って死のうとします。そのときの情景をうたった歌詞でした。題して〈薩摩潟さつまがた〉といいました」と教えた草壁先生は、シューマンのメロディーに乗せて西郷入水の情景を歌ってみせた。
 「月照という名の僧侶が、満月の夜に海で死ぬのですね。それはそれで美しいかもしれません。しかしなぜシューマンの曲をそんな歌詞でうたったのでしょう」と悠太郎は疑問を呈した。「西洋音楽をどうにか日本に移植するための工夫だったのでしょう。原詩を理解するには、ドイツやヨーロッパの文化的背景を理解しないといけませんから、西洋を学び始めたばかりの日本人にとっては難しかったのですね。明治維新が起こってから、それほど時間が経っていない頃です。徳川幕府を倒した新政府の正当性を、物語として歌い広めるという狙いもあったのかもしれません」と草壁先生は答え、「原詩といえば、ドイツ語の原題をZigeunerlebenといいますが、今日ではZigeunerという名称には差別的なニュアンスがつきまとうので、日常では使われなくなってきました。日本語でいうジプシーも同様です。もともとはエジプト起源の民族と考えられたのでそう呼ばれたのですが、今日ではあまり使わないほうがいいでしょう。代わりにロマと言っておくほうが無難です。〈流浪の民〉という邦題を考え出した石倉小三郎には、先見の明がありましたね。ドイツ語で歌われなくなる日が来ても、明治四十年頃に作られた日本語では、なお長く歌い継がれるのかもしれません」と教えた。「貴重なお話を聞かせていただきました。本当にありがとうございました」と悠太郎は、借り受けたCDを鞄に入れると草壁先生に一礼し、自転車に乗って昔の通学路を走った。風にさやぐ緑濃い樹々の葉叢を透かして、眩しい青空がせわしく明滅した。林間の道に綾なす光と影が、成長した悠太郎の体を撫でるように通り過ぎていった。悠太郎は時の経過を悲しく思った。しかし今は悲しみに浸っているときではなかった。慕わしい人のために、ひと仕事しなければならなかった。
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