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第十六章 遠い遠い昔
三
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「そうだった。今こうして向かいつつある音楽室でそんなことがあったから、俺はゲターンと呼ばれることになったのだ。そんなふうに俺を呼んでからかうのは、まったく幼稚で低俗なひどい連中だ。だがもしペトラ先輩が俺を担いで笑いものにしようとしているのだったら、そんなペトラ先輩も連中の同類ではないか。もしそうであったなら、やはり俺は厳重に抗議しなければならない。いったい今日この昼休みに、留夏子先輩が俺を呼んでいるというのは、本当のことなのだろうか。いったい何の用があってそんなことをするのだろう。それにしてもこの〈ロング・ロング・アゴー〉は懐かしい。このたどたどしさは、昔の俺が弾いているようだ。俺はこのドアを開けるべきだろうか。それともこのドアに背を向けて引き返すべきだろうか。このドアの向こうでは、何か途方もないことが待っているような気がする。今ならまだ逃げられる。逃げるべきではないか? だがもしも留夏子さんが本当に俺を呼んでいるとすればどうだろう? 何かお困りなのではないか? それで俺が何かの役に立てるなら、やはり逃げるわけにはゆかない。ならば起こるべきことが起こればいいのだ……」悠太郎がそう考えて、円い窓に内側からカーテンが引かれた音楽室のドアをノックすると、〈ロング・ロング・アゴー〉を奏でるピアノの音が鳴りやんだ。「真壁です。入ります」と言って悠太郎はドアを開け、部屋のなかへ入った。
カバーをかけたグランドピアノにもたれかかっていたペトラこと岩瀬麻衣が、ツインテールの髪を弾ませながら振り返り、のんびりした声で「マッカベさん、やっぱり来てくれたんだね」と言って、ほのかな赤みの差した顔に微笑みを浮かべた。「ほらルカ、頼もしい味方が現れたよ。これでもう恐れることはないよ」とペトラは言ったが、留夏子は背筋を伸ばして椅子に座ったまま、切れ長の目で鍵盤を見るともなく見ていた。留夏子がそうしてピアノに向かっているところは、陽奈子先生にそっくりだと悠太郎には思われた。先生にも少女時代があったのだという梨里子の言葉が思い出された。それにしても留夏子さんはどうしたのだろう、とにかく何か言わなければならないと悠太郎は考え、「留夏子先輩がピアノを弾いているところは、初めて見ました」と口を切った。留夏子は悠太郎のほうへ顔を向けると、「この曲は憶えていたの。というか、今日になって突然思い出したの。手が憶えていたのね。私はバイエルも終わらせられなかったけど、この曲は習ったのね。それこそ遠い遠い昔に」と言い、「真壁は最近どうしていますか? 去年のアマデウスも、もう遠い昔のようだわ。この頃でもまだピアノを弾いていますか? 音符を書いたりしていますか?」と問うた。そんな留夏子にペトラは「なんであんたが敬語になるのさ?」と突っ込んだ。
留夏子の話し声から、普段の凛々たる爽やかさが感じられないことを、悠太郎は不審に思った。「はい、相変わらずピアノを弾いたり、カノンやフーガの音符を書いたりしています。暇さえあれば……」と悠太郎は答えたが、余計なことを言ってしまったとすぐに思った。いくら家庭学習に力を入れているとはいえ、農作業を手伝わない悠太郎にとって、暇などいくらもあるに決まっていた。留夏子は開拓農家の子として、牛の世話や畑の草むしりやトウモロコシの箱詰めを手伝いながら、それでも同学年では他の追随を許さない学業成績を収めていた。そんな留夏子を前にすると、悠太郎は自分の境遇がひどく恥ずかしいもののように感じられ、睫毛の長い目を悄然と伏せて黙ってしまった。
留夏子はそんな後輩を不憫に思い、「そうだ、思い出した。小学校を卒業するとき約束したわね。また中学校で会ったら、そのときは宮沢賢治の話でもしましょうって。六年生の教室にあった絵入りの作品集は、全部読んだ?」と言って話題を転じようとした。悠太郎は突然生き生きとなって顔を上げ、「はい、全部読みました」と大きな目を輝かせて答えた。「真壁はどの童話がいちばん好き?」と問う留夏子に、「童話はもちろん素晴らしいものが多くありますが、あの作品集では一巻がまるごと詩に充てられていました。今にして思えば、児童向けの作品集としては、冒険的な編集方針ではなかったでしょうか。賢治の詩は難解でしたが、私は不思議とその詩に惹きつけられて、繰り返し読みました」と悠太郎は答えた。それを聞いた留夏子は、口許だけに微笑みを浮かべた。「あれは編集者の見識よね。さすがは真壁ね、そういうことが分かるなんて」と、いくらか力を取り戻した声で嬉しそうに留夏子は言い、「真空溶媒」を暗唱し始めた。途中から悠太郎は留夏子の声に唱和した。そうしてふたりは改めて目と目を見交わし、おずおずと微笑みを交わした。「やっぱり私は、あなたを待っていた。真壁、自分の家が農家じゃないことを恥じなくていいのよ。あなたはあなたなりの重荷を背負って、立派にやっている。あなたは楽をしてなんかいない。それを言ったら私だって、テニスをしながら勉強しているんだから、賢治から見れば気楽なものでしょうね。本当の勉強はテニスをしながらやるようなものじゃないって、賢治は詩に書いていたでしょう? 私ね、ラケットを振りながら時々思うのよ。賢治はテニスをずいぶん悪く言ってくれたものだって」と留夏子は珍しく少しおどけてみせた。ペトラがそこへ割って入った。「はいはい、おふたりは幼い頃のように仲良しになりました。さあルカ、本題に入りなさい」
「折り入って真壁に頼みがあるの」と留夏子は切り出した。「クラス合唱曲集にシューマンの〈流浪の民〉という曲があるでしょう? あれについて教えてほしいの。私たちの学年ね、あれを二学期にある合唱コンクールの自由曲に選んじゃったの。ほの暗いロマンティックな情感に、わけも分からずみんなして惹かれちゃったのね。候補を何曲か聴かせてもらったなかで、多くの人が〈流浪の民〉に手を挙げて、あれよあれよという間に決まっちゃったのよ。楽譜をちょっと見れば、難しい曲であることくらい分かるでしょうに。混声四部だし、それぞれの声部には独唱も要求されるし、おまけに歌詞は文語でしょう? 難しい言葉にはところどころ注釈が書いてあるけど、それだけじゃとても理解できない。そもそもなぜあの人たちは流浪しているの? ニイルって何? 考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそう。私たちはどんな情景を思い描いて歌えばいいのか、私は指揮者としてどんなふうに練習を導いてゆけばいいのか、皆目見当がつかなくて、こうして困り果てているの」
「そこで見かねたあたしが、マッカベさんを推薦したってわけよ」とペトラが合いの手を入れた。「今やマッカベさんは佐藤教室の高弟だもの。そりゃピアノの超絶技巧は持っていないかもしれないけど、それでも楽典の知識に裏打ちされた読譜力では並ぶ者がいないでしょう。聴音も学んでいて耳がいい。ソルフェージュもやっていて、人の声への理解がある。そこへもってきて、あんた最近じゃドイツ歌曲にご執心だっていうじゃない。歌曲は詩と音楽の幸福な結婚なんでしょう? 詩の意味がいかに音楽で表現されているか、あんたは誰よりもよく感じ取れるでしょう? 期末試験のときの〈魔王〉の噂は、あたしたちの学年にまで聞こえているよ。どうよ、そんなあんたをゲターンなんて呼んで馬鹿にする同学年を見限って、その豊かな才能を私たちのために、ルカのために使ってくれない? 指揮者を引き受けたときね、ルカは苦しかったと思う。まるでみんなして無言のうちに、ルカを空気の薄い山の頂上へでも押し上げるようだった。あたしはピアノ伴奏でルカを支える。でもあたしだけじゃ無理なの。お願いマッカベさん、六里ヶ原の明鏡と呼ばれるあんたの力が必要なの。教えてくれるなら、どんな些細なことでもいいから。ヒントだけでもいいから」
留夏子と〈流浪の民〉、〈流浪の民〉と留夏子――その組み合わせがあまりに自然なことに思われたので、悠太郎は不思議がった。いつかどこかで同じことがあったように思われたから、その既視感に驚きこそすれ、切り出された話そのものには大して驚きはしなかった。一学年にひとクラスしかないこの中学校では、合唱コンクールは学年対抗戦である。いかに一年生や二年生が「金賞取るぞ!」と息巻いてみたところで、よほどのことがない限り三年生が金賞を取り、二年生が銀賞を取り、一年生が銅賞を取るのである。要するに茶番なのである。よほどのことがない限り――。いま不意に悠太郎は、そのよほどのことを起こしてみたいという思いに襲われた。最高学年として幅を利かせている三年生の先輩たちに、悠太郎は小学校生活が始まった頃から、大いに含むところがあった。何かにつけては中指を突き上げ、悠太郎の同級生をしばしば泣かせていた中島猛夫が、あの学年にはいる。猛夫が鼻の穴を広げながら粗野な声で、「おい隼平、おまえどうして野球部を辞めたんだ?」と喚けば、それを合図に隼平を囲んだ男子たちは、「体力の限界っす! 体力の限界っす!」と声を合わせて囃し立てたものだ。いつかのPTA会長の息子は、髪の生え際に鬼の角のような剃り込みを入れ、中学校へも自転車を使わずに自動車で乗りつけ、常日頃から学生服に身を固めた姿を現している。徒党を組んで授業をボイコットし、テスト用紙をみんなして無解答で提出しては、あの重戦士のような関ダンベヤー先生に、「おいこら、おまえたち! こんなことをしてどうするんだやあ! そんなことじゃあ駄目だんべやあ!」と言わせたのが、つまりはあいつらなのだ。あいつらが一学年下の留夏子たちに金賞を奪われるのを、悠太郎はどうしても見てみたい気がした。
「お話は分かりました。できる限りご協力しましょう」と悠太郎が返答すると、ペトラは笑顔になって垂れた目尻を下げながら、「よかった! ありがとうマッカベさん。ほらねルカ、頼んでみるもんでしょうが」と声を弾ませた。「ありがとう真壁」と留夏子は言ったが、「ペトラに言われるまでもなく、あなたのことは考えました。あなたに頼ることを、真っ先に考えたと言っていいほどよ。でもいいの? あなたはあなたの学年のために、やるべきことがあるんじゃないの? あなたに裏切りを唆しているようで、私は心苦しい」と声を落とした。「そのことはいいんです。合唱コンクールについて私は自分の学年に、何の期待も持っておりません。男声のパートリーダーくらいは形ばかりやるでしょうが、そもそも一年生はまだ男子の声が不安定です。高度な曲目は到底歌えません。一年生では三年生に勝てないのです。憎き三年生を打ち負かせるとすれば、それは二年生しかいないのです。二年生の皆さんに、私は望みを託します。できそうなこととして、早速いくつか心当たりが思い浮かんできました」と悠太郎は低音の声で言った。二重瞼の物問いたげな大きな目が、黒々と燃え輝いていた。
「どこから手を着けましょう」と留夏子は言って、切れ長の目で悠太郎を見た。ペトラも悠太郎を注視した。ふたりの視線を受けとめながら、悠太郎は低音の声で事を分けて明快に答えた。「まず最低限やらなければならないのは、楽譜に書かれている歌詞の理解です。何を言っているのか分からないままで歌うべきではありません。しかしそれだけのことならば、留夏子さんにもできるでしょう。二年生では古文の授業も進んでいるでしょうから、私の出る幕がないほど、留夏子さんにとってそれはたやすいことでしょう。その最低限を早々にクリアした上で、私はむしろ楽曲の分析を詳細にやりたいと思います。歌われる歌詞の意味を、音符に結びつけなければなりません。四声部がどう重なり合い、どう絡み合い、どうピアノ伴奏と関わるのか、微に入り細に入り解明しましょう。そしてさらにその先の段階があります。できることなら原曲の音源を手に入れ、おそらくドイツ語であろう歌詞と、その日本語訳を知ることです。もしこれが可能になれば、文語訳の歌詞で訳者が言い尽くせなかった情景を思い描くことができますし、またシューマンが書いた音符の意味をよりよく理解できるでしょう」
「さすがはマッカベさん! あんたが味方なら百人力よ。ねえルカ、頼もしいじゃないの」とペトラは感激したように言った。「そこまでやってくれるの? 私たちのために、そこまで……」と戸惑ったように言った留夏子は、「私も棚橋先生に、原曲を聴きたいと言ってみたの。そうしたら怒鳴られた。〈余計なことをするな!〉って。だからその線は望みなしね。自分で放送室を探してみたけど、見当たらなかった」と打ち明けた。「そうでしたか。それは災難でしたね。音楽に関心を持った生徒を、音楽の先生が怒鳴るとは、世も末ですね。これが世紀末というものでしょうか」と応じた悠太郎は、「私は原曲の音源と歌詞対訳について、別の線をふたつほど考えています。どちらかが当たればいいのですが……。とにかくそうと決まれば私は今日からでも、早速行動を開始します。では失礼します」と言って昼休みの音楽室を退出しようとした。円い窓にカーテンが引かれたドアの近くまで歩んだとき、悠太郎はなおもグランドピアノのほうへ向き直って言った。「留夏子先輩、このお話を私にしてくださって、ありがとうございます。小学校二年生だったあの夏の日から、私が今まで陽奈子先生のピアノ教室に通ってきたのは、このためだったような気がします。誰もが驚く〈流浪の民〉の名演奏を、きっと一緒に作りましょう!」
ふたりの年長の女子生徒は、年下の男子生徒が出てゆくのを見送った。「彼の目は喜びに輝いていた。あたしには、あんな顔を見せたことないよ。あんなに生き生きした彼を、あたしは知らなかった。よっぽどルカのことが好きなのね」とペトラは真顔で言った。「そんなことないでしょう。私はあの子を教えているピアノの先生の娘だから、粗略に扱えないというだけよ。そこにつけ込むようなことは、やっぱりすべきじゃなかった」と留夏子は溜息をついた。「何を言ってるのさ。あの子なんて言わないことね。彼はもう幼稚園の園庭で、無邪気にあんたと手を繋いでいた幼児じゃないんだよ。彼はもう男だよ。異性であるあんたを慕う男として、彼は力を貸してくれる。そのつもりでいることね」とペトラは応じた。「彼の気持ちを勝手に決めつけないで」と留夏子は言ったが、「それじゃあんたのほうはどうなのさ?」とペトラに切り込まれて、しばしピアノの鍵盤を見つめた。白鍵と黒鍵をすべて合わせて八十八鍵盤だったかしらと、留夏子は意味もなく考えながら言った。「それは、私だって彼がいてくれることを心強く思う。その思いは幼稚園の頃から変わっていないと信じていた。でも変わらないはずがないわよね。あれからこんなにも長い時間が過ぎたのだから。合唱の曲が決まって指揮者になってから、私ずっと自問していたの。これは本当に二年生の合唱を成功させるためにしていることなのかって。ひょっとしたら心の奥底では、合唱がどんな演奏になろうと、どうでもいいと思っているんじゃないかしら。ただ彼と話す口実が欲しかっただけじゃないかしら。ただ彼と一緒に秘密を持ちたかっただけじゃないかしら。そう考えると、私は自分の邪悪さが恐ろしくなるの」
「そうだとしても、自然なことじゃない。心惹かれる相手に近づくためなら、人間はどんなことでもするものだよ。そのくらい、少しも邪悪なんかじゃない」とペトラは留夏子の自責の念を和らげようとしたが、「自然なことはつまり、罪なことではないかしら」と留夏子に思い詰めたような声で言い返されてたじろいだ。「まったくルカは清らかでお堅いなあ。そういうところが彼とそっくり」とペトラは言い、「あんたの心の思い程度で罪になるなら、この学校は重罪人の巣窟だよ。一度しかない青春の始まりを、もっと素直に楽しんだらいいのに。それともあんた将来は尼さんにでもなるつもり?」と続けた。「そういう選択肢も排除しない」と留夏子が答えると、「今のうちから聖女様ごっこは感心しないよ」とペトラが応じた。
「聖女どころじゃないのよ」と自嘲気味に留夏子が言った。「私ね、女子テニス部の練習が終わると、時々一年生の諸星を呼びとめて、打ち合いの相手になってもらうの。片づけたネットを、わざわざまた出してきて……。誰もいないコートで、ネットを挟んで向き合って、ふたりきりでラリーをするの。いつもそのうちだんだん熱くなってきて、本当の試合のようになる。諸星は小柄だけどその分とても素早くて、よく前へ飛び出してボレーで攻めてくる」
「バレー部の練習が終わって体育館から出てきたとき、そんなふたりを見たことがあったよ」とペトラが応じた。「そうしてボレーを打ち込まれても、あんたは悠然として落ち着きを失わずに、低い姿勢で返していたね。すると今度は真花名ちゃんが、また素早く飛び退ってそのボールを打ち返す。いい戦いぶりだったよ。もちろんあんたのほうが全然上手だけどね。あたしと一緒にいた金谷涼子ちゃんが、黒曜石のように光るあの目で、ふたりの様子を憂わしそうに見ていたっけ。それでテニスの打ち合いがどうかした?」
「私は邪悪なの」と留夏子は言った。「なぜいつも諸星を呼びとめるのかしら? たしかに彼女はそこらの上級生よりもテニスが上手だから、打ち合っていても手応えがある。でも彼女でなくてはいけないのかしら? 私は自分の心に訊いてみるの。彼女でなくてはいけないのだと、心の奥が答えるの。私は彼女に思い知らせているの。あなたなんか私の敵ではない、あなたなんか物の数ではないと諸星に思い知らせるために、私はラケットを振るってボールを打ち込んでいるの。私は心の奥底で、邪魔になりそうなものを消してしまいたいと願っている。完膚なきまでに叩きのめしてしまいたいと願っている。ああペトラ、そんな私の邪悪さに、いつか神罰が下されるわ。諸星と打ち合っていて、七つにひとつは私が負けるの。ちょうど必ず七つにひとつ、私は打ち負かされるの……」
「これまでは、そうだったかもしれない。そんな形でしか、あんたの思いを表せなかったかもしれない。でも今ではもう違うじゃないか。あんたは一歩を踏み出したじゃないか」とペトラは留夏子を宥めるように言った。しかし留夏子は「一歩を踏み出した? 一歩を踏み出すのが常にいいことなの? 聖者は完徳へ向かって一歩を踏み出すでしょうし、殺人者は殺人へ向かって一歩を踏み出すでしょう。その一歩をどこへ踏み出すかが問題なのよ。教えてペトラ、私はいったいどこへ向かって一歩を踏み出したの?」と激しく言い返した。「それは」とペトラは答えた。「あんたが歩んでみなければ分からないことだよ」
返す言葉を失った留夏子は、再び両手を鍵盤に乗せて〈ロング・ロング・アゴー〉を弾き始めた。うっすらと静脈の浮いた気品のある手は、ハ長調の単純な曲をたどたどしく鳴らした。ふと留夏子は曲を途切れさせると、独り言のように「遠い遠い昔」と言った。「ねえペトラ、私たちが幼稚園にいたあの日々は、今では遠い遠い昔よね。それでもあのときは今だったわけよね。今が昔になって、また次の今が今になって、その今もまたすぐに昔になる。このことは、なんて悲しいんでしょう。私がこうして悩んでいた今日のことも、やがては遠い遠い昔のことになるでしょう。私たちがこの世に生きていたことも、そのうち遠い遠い昔になるでしょう。もしかしたら地上に人類がいたことも、この地球があったことも、この太陽系があったことも、この銀河系宇宙があったことも、いつか遠い遠い昔のことになるのかもしれない。すべては一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。そう考えると、私たまらなく淋しくなるの。本当に人の一生って何なのかしら。一生がほんの一瞬のきらめきにすぎないなら、なぜ人はわざわざ悩み苦しみながら成長しなければいけないのかしら。なぜあどけないままでいられないのかしら……」
「そういう話は彼としなよ」とペトラが言うと、留夏子はまた〈ロング・ロング・アゴー〉を弾き始めた。切れ長の目にうっすらと涙を浮かべてピアノを弾く友の横顔を、ペトラは気遣わしげに見守った。そうして慣れないピアノを弾く留夏子の脳裏に、いつかのトウモロコシ畑の情景が浮かんだ。一面に生い茂る背の高いトウモロコシを仰ぎ見たのは、もう遠い遠い昔のことであった。ピアノを習いに来た彼を連れて畑道をたどったのは、遠い遠い昔のことであった。そうした思いが呼び起こす悲しみに限りなく浸されながら、留夏子は昼休みが終わる五分前まで、〈ロング・ロング・アゴー〉を弾くことをやめなかった。
カバーをかけたグランドピアノにもたれかかっていたペトラこと岩瀬麻衣が、ツインテールの髪を弾ませながら振り返り、のんびりした声で「マッカベさん、やっぱり来てくれたんだね」と言って、ほのかな赤みの差した顔に微笑みを浮かべた。「ほらルカ、頼もしい味方が現れたよ。これでもう恐れることはないよ」とペトラは言ったが、留夏子は背筋を伸ばして椅子に座ったまま、切れ長の目で鍵盤を見るともなく見ていた。留夏子がそうしてピアノに向かっているところは、陽奈子先生にそっくりだと悠太郎には思われた。先生にも少女時代があったのだという梨里子の言葉が思い出された。それにしても留夏子さんはどうしたのだろう、とにかく何か言わなければならないと悠太郎は考え、「留夏子先輩がピアノを弾いているところは、初めて見ました」と口を切った。留夏子は悠太郎のほうへ顔を向けると、「この曲は憶えていたの。というか、今日になって突然思い出したの。手が憶えていたのね。私はバイエルも終わらせられなかったけど、この曲は習ったのね。それこそ遠い遠い昔に」と言い、「真壁は最近どうしていますか? 去年のアマデウスも、もう遠い昔のようだわ。この頃でもまだピアノを弾いていますか? 音符を書いたりしていますか?」と問うた。そんな留夏子にペトラは「なんであんたが敬語になるのさ?」と突っ込んだ。
留夏子の話し声から、普段の凛々たる爽やかさが感じられないことを、悠太郎は不審に思った。「はい、相変わらずピアノを弾いたり、カノンやフーガの音符を書いたりしています。暇さえあれば……」と悠太郎は答えたが、余計なことを言ってしまったとすぐに思った。いくら家庭学習に力を入れているとはいえ、農作業を手伝わない悠太郎にとって、暇などいくらもあるに決まっていた。留夏子は開拓農家の子として、牛の世話や畑の草むしりやトウモロコシの箱詰めを手伝いながら、それでも同学年では他の追随を許さない学業成績を収めていた。そんな留夏子を前にすると、悠太郎は自分の境遇がひどく恥ずかしいもののように感じられ、睫毛の長い目を悄然と伏せて黙ってしまった。
留夏子はそんな後輩を不憫に思い、「そうだ、思い出した。小学校を卒業するとき約束したわね。また中学校で会ったら、そのときは宮沢賢治の話でもしましょうって。六年生の教室にあった絵入りの作品集は、全部読んだ?」と言って話題を転じようとした。悠太郎は突然生き生きとなって顔を上げ、「はい、全部読みました」と大きな目を輝かせて答えた。「真壁はどの童話がいちばん好き?」と問う留夏子に、「童話はもちろん素晴らしいものが多くありますが、あの作品集では一巻がまるごと詩に充てられていました。今にして思えば、児童向けの作品集としては、冒険的な編集方針ではなかったでしょうか。賢治の詩は難解でしたが、私は不思議とその詩に惹きつけられて、繰り返し読みました」と悠太郎は答えた。それを聞いた留夏子は、口許だけに微笑みを浮かべた。「あれは編集者の見識よね。さすがは真壁ね、そういうことが分かるなんて」と、いくらか力を取り戻した声で嬉しそうに留夏子は言い、「真空溶媒」を暗唱し始めた。途中から悠太郎は留夏子の声に唱和した。そうしてふたりは改めて目と目を見交わし、おずおずと微笑みを交わした。「やっぱり私は、あなたを待っていた。真壁、自分の家が農家じゃないことを恥じなくていいのよ。あなたはあなたなりの重荷を背負って、立派にやっている。あなたは楽をしてなんかいない。それを言ったら私だって、テニスをしながら勉強しているんだから、賢治から見れば気楽なものでしょうね。本当の勉強はテニスをしながらやるようなものじゃないって、賢治は詩に書いていたでしょう? 私ね、ラケットを振りながら時々思うのよ。賢治はテニスをずいぶん悪く言ってくれたものだって」と留夏子は珍しく少しおどけてみせた。ペトラがそこへ割って入った。「はいはい、おふたりは幼い頃のように仲良しになりました。さあルカ、本題に入りなさい」
「折り入って真壁に頼みがあるの」と留夏子は切り出した。「クラス合唱曲集にシューマンの〈流浪の民〉という曲があるでしょう? あれについて教えてほしいの。私たちの学年ね、あれを二学期にある合唱コンクールの自由曲に選んじゃったの。ほの暗いロマンティックな情感に、わけも分からずみんなして惹かれちゃったのね。候補を何曲か聴かせてもらったなかで、多くの人が〈流浪の民〉に手を挙げて、あれよあれよという間に決まっちゃったのよ。楽譜をちょっと見れば、難しい曲であることくらい分かるでしょうに。混声四部だし、それぞれの声部には独唱も要求されるし、おまけに歌詞は文語でしょう? 難しい言葉にはところどころ注釈が書いてあるけど、それだけじゃとても理解できない。そもそもなぜあの人たちは流浪しているの? ニイルって何? 考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそう。私たちはどんな情景を思い描いて歌えばいいのか、私は指揮者としてどんなふうに練習を導いてゆけばいいのか、皆目見当がつかなくて、こうして困り果てているの」
「そこで見かねたあたしが、マッカベさんを推薦したってわけよ」とペトラが合いの手を入れた。「今やマッカベさんは佐藤教室の高弟だもの。そりゃピアノの超絶技巧は持っていないかもしれないけど、それでも楽典の知識に裏打ちされた読譜力では並ぶ者がいないでしょう。聴音も学んでいて耳がいい。ソルフェージュもやっていて、人の声への理解がある。そこへもってきて、あんた最近じゃドイツ歌曲にご執心だっていうじゃない。歌曲は詩と音楽の幸福な結婚なんでしょう? 詩の意味がいかに音楽で表現されているか、あんたは誰よりもよく感じ取れるでしょう? 期末試験のときの〈魔王〉の噂は、あたしたちの学年にまで聞こえているよ。どうよ、そんなあんたをゲターンなんて呼んで馬鹿にする同学年を見限って、その豊かな才能を私たちのために、ルカのために使ってくれない? 指揮者を引き受けたときね、ルカは苦しかったと思う。まるでみんなして無言のうちに、ルカを空気の薄い山の頂上へでも押し上げるようだった。あたしはピアノ伴奏でルカを支える。でもあたしだけじゃ無理なの。お願いマッカベさん、六里ヶ原の明鏡と呼ばれるあんたの力が必要なの。教えてくれるなら、どんな些細なことでもいいから。ヒントだけでもいいから」
留夏子と〈流浪の民〉、〈流浪の民〉と留夏子――その組み合わせがあまりに自然なことに思われたので、悠太郎は不思議がった。いつかどこかで同じことがあったように思われたから、その既視感に驚きこそすれ、切り出された話そのものには大して驚きはしなかった。一学年にひとクラスしかないこの中学校では、合唱コンクールは学年対抗戦である。いかに一年生や二年生が「金賞取るぞ!」と息巻いてみたところで、よほどのことがない限り三年生が金賞を取り、二年生が銀賞を取り、一年生が銅賞を取るのである。要するに茶番なのである。よほどのことがない限り――。いま不意に悠太郎は、そのよほどのことを起こしてみたいという思いに襲われた。最高学年として幅を利かせている三年生の先輩たちに、悠太郎は小学校生活が始まった頃から、大いに含むところがあった。何かにつけては中指を突き上げ、悠太郎の同級生をしばしば泣かせていた中島猛夫が、あの学年にはいる。猛夫が鼻の穴を広げながら粗野な声で、「おい隼平、おまえどうして野球部を辞めたんだ?」と喚けば、それを合図に隼平を囲んだ男子たちは、「体力の限界っす! 体力の限界っす!」と声を合わせて囃し立てたものだ。いつかのPTA会長の息子は、髪の生え際に鬼の角のような剃り込みを入れ、中学校へも自転車を使わずに自動車で乗りつけ、常日頃から学生服に身を固めた姿を現している。徒党を組んで授業をボイコットし、テスト用紙をみんなして無解答で提出しては、あの重戦士のような関ダンベヤー先生に、「おいこら、おまえたち! こんなことをしてどうするんだやあ! そんなことじゃあ駄目だんべやあ!」と言わせたのが、つまりはあいつらなのだ。あいつらが一学年下の留夏子たちに金賞を奪われるのを、悠太郎はどうしても見てみたい気がした。
「お話は分かりました。できる限りご協力しましょう」と悠太郎が返答すると、ペトラは笑顔になって垂れた目尻を下げながら、「よかった! ありがとうマッカベさん。ほらねルカ、頼んでみるもんでしょうが」と声を弾ませた。「ありがとう真壁」と留夏子は言ったが、「ペトラに言われるまでもなく、あなたのことは考えました。あなたに頼ることを、真っ先に考えたと言っていいほどよ。でもいいの? あなたはあなたの学年のために、やるべきことがあるんじゃないの? あなたに裏切りを唆しているようで、私は心苦しい」と声を落とした。「そのことはいいんです。合唱コンクールについて私は自分の学年に、何の期待も持っておりません。男声のパートリーダーくらいは形ばかりやるでしょうが、そもそも一年生はまだ男子の声が不安定です。高度な曲目は到底歌えません。一年生では三年生に勝てないのです。憎き三年生を打ち負かせるとすれば、それは二年生しかいないのです。二年生の皆さんに、私は望みを託します。できそうなこととして、早速いくつか心当たりが思い浮かんできました」と悠太郎は低音の声で言った。二重瞼の物問いたげな大きな目が、黒々と燃え輝いていた。
「どこから手を着けましょう」と留夏子は言って、切れ長の目で悠太郎を見た。ペトラも悠太郎を注視した。ふたりの視線を受けとめながら、悠太郎は低音の声で事を分けて明快に答えた。「まず最低限やらなければならないのは、楽譜に書かれている歌詞の理解です。何を言っているのか分からないままで歌うべきではありません。しかしそれだけのことならば、留夏子さんにもできるでしょう。二年生では古文の授業も進んでいるでしょうから、私の出る幕がないほど、留夏子さんにとってそれはたやすいことでしょう。その最低限を早々にクリアした上で、私はむしろ楽曲の分析を詳細にやりたいと思います。歌われる歌詞の意味を、音符に結びつけなければなりません。四声部がどう重なり合い、どう絡み合い、どうピアノ伴奏と関わるのか、微に入り細に入り解明しましょう。そしてさらにその先の段階があります。できることなら原曲の音源を手に入れ、おそらくドイツ語であろう歌詞と、その日本語訳を知ることです。もしこれが可能になれば、文語訳の歌詞で訳者が言い尽くせなかった情景を思い描くことができますし、またシューマンが書いた音符の意味をよりよく理解できるでしょう」
「さすがはマッカベさん! あんたが味方なら百人力よ。ねえルカ、頼もしいじゃないの」とペトラは感激したように言った。「そこまでやってくれるの? 私たちのために、そこまで……」と戸惑ったように言った留夏子は、「私も棚橋先生に、原曲を聴きたいと言ってみたの。そうしたら怒鳴られた。〈余計なことをするな!〉って。だからその線は望みなしね。自分で放送室を探してみたけど、見当たらなかった」と打ち明けた。「そうでしたか。それは災難でしたね。音楽に関心を持った生徒を、音楽の先生が怒鳴るとは、世も末ですね。これが世紀末というものでしょうか」と応じた悠太郎は、「私は原曲の音源と歌詞対訳について、別の線をふたつほど考えています。どちらかが当たればいいのですが……。とにかくそうと決まれば私は今日からでも、早速行動を開始します。では失礼します」と言って昼休みの音楽室を退出しようとした。円い窓にカーテンが引かれたドアの近くまで歩んだとき、悠太郎はなおもグランドピアノのほうへ向き直って言った。「留夏子先輩、このお話を私にしてくださって、ありがとうございます。小学校二年生だったあの夏の日から、私が今まで陽奈子先生のピアノ教室に通ってきたのは、このためだったような気がします。誰もが驚く〈流浪の民〉の名演奏を、きっと一緒に作りましょう!」
ふたりの年長の女子生徒は、年下の男子生徒が出てゆくのを見送った。「彼の目は喜びに輝いていた。あたしには、あんな顔を見せたことないよ。あんなに生き生きした彼を、あたしは知らなかった。よっぽどルカのことが好きなのね」とペトラは真顔で言った。「そんなことないでしょう。私はあの子を教えているピアノの先生の娘だから、粗略に扱えないというだけよ。そこにつけ込むようなことは、やっぱりすべきじゃなかった」と留夏子は溜息をついた。「何を言ってるのさ。あの子なんて言わないことね。彼はもう幼稚園の園庭で、無邪気にあんたと手を繋いでいた幼児じゃないんだよ。彼はもう男だよ。異性であるあんたを慕う男として、彼は力を貸してくれる。そのつもりでいることね」とペトラは応じた。「彼の気持ちを勝手に決めつけないで」と留夏子は言ったが、「それじゃあんたのほうはどうなのさ?」とペトラに切り込まれて、しばしピアノの鍵盤を見つめた。白鍵と黒鍵をすべて合わせて八十八鍵盤だったかしらと、留夏子は意味もなく考えながら言った。「それは、私だって彼がいてくれることを心強く思う。その思いは幼稚園の頃から変わっていないと信じていた。でも変わらないはずがないわよね。あれからこんなにも長い時間が過ぎたのだから。合唱の曲が決まって指揮者になってから、私ずっと自問していたの。これは本当に二年生の合唱を成功させるためにしていることなのかって。ひょっとしたら心の奥底では、合唱がどんな演奏になろうと、どうでもいいと思っているんじゃないかしら。ただ彼と話す口実が欲しかっただけじゃないかしら。ただ彼と一緒に秘密を持ちたかっただけじゃないかしら。そう考えると、私は自分の邪悪さが恐ろしくなるの」
「そうだとしても、自然なことじゃない。心惹かれる相手に近づくためなら、人間はどんなことでもするものだよ。そのくらい、少しも邪悪なんかじゃない」とペトラは留夏子の自責の念を和らげようとしたが、「自然なことはつまり、罪なことではないかしら」と留夏子に思い詰めたような声で言い返されてたじろいだ。「まったくルカは清らかでお堅いなあ。そういうところが彼とそっくり」とペトラは言い、「あんたの心の思い程度で罪になるなら、この学校は重罪人の巣窟だよ。一度しかない青春の始まりを、もっと素直に楽しんだらいいのに。それともあんた将来は尼さんにでもなるつもり?」と続けた。「そういう選択肢も排除しない」と留夏子が答えると、「今のうちから聖女様ごっこは感心しないよ」とペトラが応じた。
「聖女どころじゃないのよ」と自嘲気味に留夏子が言った。「私ね、女子テニス部の練習が終わると、時々一年生の諸星を呼びとめて、打ち合いの相手になってもらうの。片づけたネットを、わざわざまた出してきて……。誰もいないコートで、ネットを挟んで向き合って、ふたりきりでラリーをするの。いつもそのうちだんだん熱くなってきて、本当の試合のようになる。諸星は小柄だけどその分とても素早くて、よく前へ飛び出してボレーで攻めてくる」
「バレー部の練習が終わって体育館から出てきたとき、そんなふたりを見たことがあったよ」とペトラが応じた。「そうしてボレーを打ち込まれても、あんたは悠然として落ち着きを失わずに、低い姿勢で返していたね。すると今度は真花名ちゃんが、また素早く飛び退ってそのボールを打ち返す。いい戦いぶりだったよ。もちろんあんたのほうが全然上手だけどね。あたしと一緒にいた金谷涼子ちゃんが、黒曜石のように光るあの目で、ふたりの様子を憂わしそうに見ていたっけ。それでテニスの打ち合いがどうかした?」
「私は邪悪なの」と留夏子は言った。「なぜいつも諸星を呼びとめるのかしら? たしかに彼女はそこらの上級生よりもテニスが上手だから、打ち合っていても手応えがある。でも彼女でなくてはいけないのかしら? 私は自分の心に訊いてみるの。彼女でなくてはいけないのだと、心の奥が答えるの。私は彼女に思い知らせているの。あなたなんか私の敵ではない、あなたなんか物の数ではないと諸星に思い知らせるために、私はラケットを振るってボールを打ち込んでいるの。私は心の奥底で、邪魔になりそうなものを消してしまいたいと願っている。完膚なきまでに叩きのめしてしまいたいと願っている。ああペトラ、そんな私の邪悪さに、いつか神罰が下されるわ。諸星と打ち合っていて、七つにひとつは私が負けるの。ちょうど必ず七つにひとつ、私は打ち負かされるの……」
「これまでは、そうだったかもしれない。そんな形でしか、あんたの思いを表せなかったかもしれない。でも今ではもう違うじゃないか。あんたは一歩を踏み出したじゃないか」とペトラは留夏子を宥めるように言った。しかし留夏子は「一歩を踏み出した? 一歩を踏み出すのが常にいいことなの? 聖者は完徳へ向かって一歩を踏み出すでしょうし、殺人者は殺人へ向かって一歩を踏み出すでしょう。その一歩をどこへ踏み出すかが問題なのよ。教えてペトラ、私はいったいどこへ向かって一歩を踏み出したの?」と激しく言い返した。「それは」とペトラは答えた。「あんたが歩んでみなければ分からないことだよ」
返す言葉を失った留夏子は、再び両手を鍵盤に乗せて〈ロング・ロング・アゴー〉を弾き始めた。うっすらと静脈の浮いた気品のある手は、ハ長調の単純な曲をたどたどしく鳴らした。ふと留夏子は曲を途切れさせると、独り言のように「遠い遠い昔」と言った。「ねえペトラ、私たちが幼稚園にいたあの日々は、今では遠い遠い昔よね。それでもあのときは今だったわけよね。今が昔になって、また次の今が今になって、その今もまたすぐに昔になる。このことは、なんて悲しいんでしょう。私がこうして悩んでいた今日のことも、やがては遠い遠い昔のことになるでしょう。私たちがこの世に生きていたことも、そのうち遠い遠い昔になるでしょう。もしかしたら地上に人類がいたことも、この地球があったことも、この太陽系があったことも、この銀河系宇宙があったことも、いつか遠い遠い昔のことになるのかもしれない。すべては一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。そう考えると、私たまらなく淋しくなるの。本当に人の一生って何なのかしら。一生がほんの一瞬のきらめきにすぎないなら、なぜ人はわざわざ悩み苦しみながら成長しなければいけないのかしら。なぜあどけないままでいられないのかしら……」
「そういう話は彼としなよ」とペトラが言うと、留夏子はまた〈ロング・ロング・アゴー〉を弾き始めた。切れ長の目にうっすらと涙を浮かべてピアノを弾く友の横顔を、ペトラは気遣わしげに見守った。そうして慣れないピアノを弾く留夏子の脳裏に、いつかのトウモロコシ畑の情景が浮かんだ。一面に生い茂る背の高いトウモロコシを仰ぎ見たのは、もう遠い遠い昔のことであった。ピアノを習いに来た彼を連れて畑道をたどったのは、遠い遠い昔のことであった。そうした思いが呼び起こす悲しみに限りなく浸されながら、留夏子は昼休みが終わる五分前まで、〈ロング・ロング・アゴー〉を弾くことをやめなかった。
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