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第十六章 遠い遠い昔
一
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物思いから我に返った悠太郎は、いったい俺は何をしていたのだったかと自問した。そうだった。「中学生になってもなお、あの人は俺なんかに何か用があるのだろうか。いったいあの人が俺を呼んでいるというのは、本当のことなのだろうか。いつも俺をからかってばかりのペトラ先輩が、またも俺を担いで笑いものにしようとしているだけではないか。そうだとしたら、ペトラさんはあんまりひどい。俺の同級生には、俺にゲターンなどというあだ名をつけて笑いものにするひどい奴がいるが、ペトラ先輩も同類なのだろうか。いかに相手が先輩とはいえ、そういう非道には厳重に抗議しなければならない。しかしただそれたけのことでも俺にできるだろうか」と暗い思いに沈みながら、俺は中学校の校舎の東側の階段を、教室のある二階から音楽室のある三階へと昇りつつあったのだった――。もう一学期の期末試験も済んだ夏休み前のこととて、悠太郎は白い半袖のTシャツ姿であった。
誰が弾いているのか、いつしか音楽室からはピアノの音が聞こえていた。それはたどたどしい〈ロング・ロング・アゴー〉であった。ああ、あのバイエル併用の練習曲集に、オレンジ色の表紙も鮮やかな『夢みるピアニスト』に載っていた〈ロング・ロング・アゴー〉だ。ドソミソ・ドソミソ・ドソミソ・ドソミソ――左手に出てくる音型を指してピアノ教室の佐藤陽奈子先生は、「これはアルベルティ・バスというの。イタリアの作曲家ドメニコ・アルベルティが好んで用いたから、そう呼ばれているのよ」と教え、左手の5の指つまり小指で弾くいちばん低い音に、ほかの三つの音が従属するようバランスに注意せねばならないと付け加えた。いちばん低いバスの音は、音楽全体の支えだというではないか。「なんだか不思議ですね。左手の小指はいちばん力がなくて弱い指なのに、そんなに重たい役目を負わされるなんて。左手の小指が可哀想です。これは楽器を考え出した人の設計ミスではないのですか?」と俺は言ったものだ。そうして俺はこの曲を、観光ホテル明鏡閣の大食堂に置いてあったピアノで練習していたものだ。調律の狂ったあのピアノを俺は好きだった。手入れが行き届いた陽奈子先生のグランドピアノが謹厳な師匠だとすると、明鏡閣のおんぼろなアップライトピアノは心安い友達といった感じがした。美しく波立ちきらめく照月湖が右手の窓に望まれていた。すると不意にクラッカーの弾ける音がした。驚いて振り向いた俺に、薄黒いサングラスをかけたサカエさんこと黒岩栄作さんは、「ユウくん、九歳のお誕生日おめでとう!」とお祝いを言った。まだ生きていた剽軽者の橋爪進吉さんは、ゲジゲジ眉毛の顔をひしゃげたように笑わせながら、何と言ったのだったか。「キューサイの青汁!」だったか「救済の星!」だったか、とにかく駄洒落を言ってクラッカーを鳴らした。まだ支配人だった紳士的な南塚亮平さんも、バイク好きの若い林浩一さんも、紫色の三角巾を被ったおロク婆さんも、白い三角巾を被ったおタキ婆さんも、ギョロ目のライサク老人こと桜井謙助さんも、次々にクラッカーを爆発させると、縮れたカラフルな紙テープが夢のように緩やかに舞い落ちた。この夏が終わって九月になれば、俺は十三歳になる。してみればあれはもう四年も前ということになる。こうして何もかもが、遠い遠い昔になってゆく。過ぎゆく日々は、いったいどこへ行くのか。過ぎ去った日々は、いったいどこにあるのか。いま音楽室のグランドピアノで〈ロング・ロング・アゴー〉を弾いているのは、昔の俺であろうか。いや、そんなはずはないのだ。ビデオテープを巻き戻すように、時を戻すことはできない。昔の俺が今の俺と出会うはずはない。時は留めることもできず、戻すこともできないということを思い知るために、ただそのためだけに俺は今まで生きてきたような気がする。また夏が来た。俺はこの六里ヶ原で、こうしてひとつまたひとつと季節を積み重ねてきた。その終わりは、いったいどういうことになるのだろう。今こうして校舎の階段を昇ってゆくように、俺は季節の階段を昇ってゆく。その先には、いったい何が待っているのだろう。何が待つのか、俺は恐れる。弾む若い命など、どうして信じられよう――。
初めての中間試験も期末試験も、得点が目に見える主要五教科については、悠太郎は他の追随を許さない成績で切り抜けた。五教科の合計はもちろん教科別の得点でも、悠太郎は秀子の望み通り、誰にも負けはしなかった。もちろん得意科目と苦手科目はあったし、それらの科目のそれぞれで多少の危機は経験した。例えば国語では、詩の音読も随筆や説明文の読解も申し分なかったが、漢字練習のプリントを忘れていて溜め込んでしまい、提出期限前に慌てることになった。タヌキと呼ばれる綿貫正先生が、提出期限までにプリントを計画的に進めるようにと説明したのに、悠太郎はそれを聞いていなかった。タンポポの思いを歌った詩を教科書で読んだ悠太郎は、風に運ばれ飛んでゆく綿毛の行方を夢見ていたので、現実に対して注意力を失っていたのである。色眼鏡をかけた角刈りの綿貫先生はいかにも古狸らしく、プリントを全然提出しない悠太郎にわざと何も言わずにおいた。提出期限の直前になって、タヌキ先生がみんなの前で注意を促したとき、悠太郎は罠にかかったことを知ってぎょっとした。そんな悠太郎の顔を見て、タヌキ先生は「してやったり」とばかり意地の悪い笑みを浮かべた。悔しがった悠太郎は意趣返しを考えついた。漢字練習のプリントには、練習したその字を使って短文を書く欄が用意されていた。悠太郎は「透」の字の用例として、「透明なタヌキ汁の上澄み」と書いてやった。そのほかの例文で悠太郎は、クラシック音楽のことに多く言及した。そうして赤ペンが入って返却されたプリントを見てみれば、意外にもタヌキ先生が作曲家や演奏家について詳しいことが判明した。あるとき用事があって職員室を訪ねた悠太郎は、タヌキ先生の机の上に『最新名曲解説全集』が何巻か積んであるのを見た。そうしたわけで漢字練習のプリントはちょっとした危機ではあったが、それによって音楽愛好家の先達を見つけたわけでもあった。生徒を十把一絡げに敵視する棚橋晶子先生より、タヌキ先生のほうがよほど音楽のことで話もできれば頼りにもなると悠太郎は判断した。
数学に悠太郎は早くも苦手意識を持ち始めていた。この教科を担当するのは、小学校四年生のとき悠太郎を担任した富里豊先生であった。あのとき新任教師であったユタカちゃんは、今やそれなりに豊かな経験を積んで、中学校の教壇に立っているわけであった。富里先生は逆三角形に引き締まったスリムな体に、しばしば上下紫色のジャージを着ていた。顎の尖った小さな顔の離れた両目は、相変わらず初々しい内気さを示して愛想よく笑っていた。そんなユタカちゃんが正の数と負の数を教えるところから、中学校の数学は始まった。もはや算数ではなく数学となった教科名に、まず悠太郎は気圧された。そして負の数などというものは、わけが分からなかった。林檎の集まりから林檎をひとつ減らすように、1を引くというのは理解できた。しかしマイナス1という数がそれとして存在するということは、どう思い描いてよいのか分からなかった。ましてや負の数に負の数を足したり、負の数から負の数を引いたり、負の数同士を掛け合わせたりするなどということは想像を絶した。小学校のあいだは「3足す2」とか「4引く3」とか言っていたみんなが、中学校に入学するや示し合わせたように「3プラス2」とか「4マイナス3」とか言うようになったのも不気味であった。そのくせ「掛ける」や「割る」はそのままなのが奇妙であった。a・b・cとかx・y・zとかいった文字が式のなかで踊った。その惑乱的なダンスは悠太郎に、照月湖の水面の揺らめきを思わせた。「算数とは、目に見える具体的なものから、目に見えない抽象的なものへと考えを進める訓練です」と、小学校で富里先生が話してくれたことを悠太郎は思い出した。そして算数は絶対音楽に似ていると考えたことも思い出した。数学ともなれば、なおのこと具体的なものから抽象的なものへと向かう訓練であり、そうだとすればなおのこと絶対音楽に似ているのではないか? 個々の数字や文字や符号が、耳には聞こえない音楽を奏でているのだと思えば、厄介な数学も悠太郎にとって少しは耐えやすくなるのであった。
ところで両目の離れたユタカちゃんは、同じく両目の離れた社会科の埴谷高志先生ともども「職員室モアイ隊」の一員に数えられていたが、モアイ隊なるものの結成を呼びかけたのは理科の尾池賢一先生であり、彼こそが悠太郎たちの学年の担任であった。過疎化が進む町の中学校のこととて学年に組の別はなく、一学年にはひとクラスしかないのである。佐藤留夏子たちの学年の担任が埴谷先生ひとりであるように、悠太郎たちの学年の担任も尾池先生ひとりであった。尾池先生はいくらか面長ではあったが、キューピー人形を思わせるぱっちりした両目はさして離れているわけでもなかったし、顔つきがさして角ばっているわけでもなかったから、モアイ隊に数えられた四人の教員のなかでは、いちばんモアイらしからぬ感じを与えた。ホームルームや理科の時間が始まるとき、黒板の前に立ち顎を引いて姿勢を正すと、弛んだその顎は二重にも三重にもだぶついた。陸上部の顧問として敏捷に走りまわっていたが、二十代の終盤にしてはその腹は出ていた。尾池先生が語るところによれば、それはビール腹というものらしかった。さて理科の授業の最初に尾池先生は、理科室にある実験器具の名称をみんなに憶えさせた。フラスコやビーカーやアルコールランプや駒込ピペットの絵をノートに描き、名称を書き添えて暗記することが要求された。さて理科は物理・化学・生物・地学に分けられるのだと尾池先生は教えた。「ちなみに俺が大学で専攻していたのは天文学だ。特にブラックホールを研究していた。そうした分野も中学校の理科の分類でいえば地学に含まれる。おまえたち、ブラックホールはすげえぞ。質量が物凄くでかい天体だ。その大きすぎる重力のゆえに、光さえも脱出できない。まあ質量とは何であり重力とは何であり光とは何であるか、これからだんだん勉強していきましょう。皆さんがしっかり勉強してくれないと、俺の心がブラックホールです!」と尾池先生が話すと、みんなは乱反射する湖のように笑った。生物では植物を観察してそれぞれの部位の名称を憶えたり、光合成や受粉の仕組みを理解したりしなければならなかった。化学では水溶液について、物質が水に溶けるとはどういうことかを教え込まれた。理科もまた数学と並んで、悠太郎に苦手意識を起こさせる教科であった。
そのモアイ隊の隊長である社会科の埴谷高志先生が、一年生に要らざる入れ知恵をしたことがあった。「おまえたち、尾池先生にこう言ってみろ。溶岩がやっと固まったよ。それはようがんした。がっはっは!」と埴谷先生は、破れ鐘のようなでかい声で一年生を唆したのである。これを実行に移したのは芹沢カイであった。理科の授業が終わったあるとき、カイは雀斑の散った顔に努めて真面目な表情を浮かべながら、「尾池先生」と声をかけた。振り向いた尾池先生の前でカイはまず「溶岩がやっと固まったよ」と言い、それからあたかも別の人物が応答するかのように「それはようがんした」と言った。悠太郎はそのひとり芝居の巧みさゆえに、埴谷先生がそのギャグを教えてくれたとき以上に笑ってしまったが、尾池先生は二重にも三重にもだぶつく顎を引きつけたまま表情を変えなかった。ややあって尾池先生は「悠太郎くん、この程度で笑っているようじゃ、きみもまだまだですね。カイくん、誰にそんなくだらないことを吹き込まれたんですか?」と言った。「埴谷先生です」とカイが白状すると、尾池先生は「やっぱり埴谷さんか。まったくしょうがねえな、あの人は。まあ自分の声がでかすぎて難聴になるような人だからな」と呆れ、「そんなことを面白がるきみたちもきみたちです。鬼押出しの黒い奇岩に頭をぶつけて転生してください!」と言い放った。
埴谷先生のくだらないことといえば、これだけにはとどまらなかった。国々の名前を憶えることに悠太郎が苦手意識を持った地理の時間に、埴谷先生はこんなことを言ったのである。「おまえたち、太平洋と大西洋を漢字で書くとき、間違えちゃいけないぞ。いい憶え方を教えてやろう。太平洋は男の海で、大西洋は女の海だ。太平洋の太にはイチモツがついている。がっはっは!」と埴谷先生が、海の名を板書しながら破れ鐘のようなでかい声で言うと、一年生の教室にはぎらぎらと光る湖のような笑いが起こった。そしてまたしてもほかの先生を巻き込んだくだらないことを埴谷先生はしでかしたのだが、それは全然悪意がないと言って済ませることはできなかった。巻き込まれたのは体育を教える小幡敏夫先生であったが、彼もまたモアイ隊に所属しているだけあって、その引き締まった顔は角ばっていて面長で、唇はどこか原始人を思わせた。体育が苦手ながらも走り込みを毎朝続ける悠太郎の努力を、小幡先生はよく見てもいれば、それなりに評価してもいた。そんな小幡先生を、埴谷先生は社会の時間のたびに何かにつけて「Whatʼs the matter, オー・バター!」などと言って笑いの種にするのである。そのあたりでやめておけばまだよかった。ところが埴谷先生は、悠太郎たちにとって最初の中間試験の問題に、よせばいいのに解答の選択肢としてアウストラロピテクスやクロマニヨン人に加えて「小幡原人」というのを作ったのである。しかも中間試験で一年生の社会科を監督したのが、偶然にも小幡先生だったからもういけなかった。みんなが笑いを堪える教室は、細波立つ湖の水面のようにきらめいた。何事かと問題用紙を見た小幡先生は、程なく自分の名前が悪用されたことに気がついた。小幡先生が原始人めいた唇をわなわなとふるわせながら、「埴谷の野郎!」と吐き捨てるようにつぶやいたので、試験中にもかかわらず教室の光る笑いの波は、いっそうひたひたと打ち寄せたのである。
英語は得意科目であったが、やはり問題がなくはなかった。筆記体の練習をするのに、ヘンデルのオラトリオ《マカベウスのユダ》の台本を繰り返し書き写したせいで、古い英語の綴り方が身に着いてしまったのである。宿題や授業で悠太郎は、いわゆる三人称単数現在のsを、うっかりthで綴ってしまうことがあった。ムースで前髪をイワトビペンギンのように逆立てた金子芳樹先生は、時々現れる悠太郎の古風な綴りを見て訝った。「まったく真壁くんには驚かされてばかりだな。あっという間に筆記体が書けるようになったと思ったら、今度は人称語尾のthが出てきたか。まさか中学生を教えていて、欽定訳聖書のような綴りを見るとは思わなかったよ。英語にも歴史があって、そのなかでいろいろ変化してきた。ちょうど日本語に古文があるのと同じようなものだ。だが学校の試験はもちろん、ゆくゆくは高校受験でもthは減点の対象になる。古風な英語を読むなとは言わないが、解答用紙にうっかり書かないよう気をつけてくれ」という金子先生の忠告を守って、中間試験でも期末試験でも悠太郎は学年一位を守った。英語に関しては幸薄そうな諸星真花名がいつも二位であり、アメリカで酪農を学びたい佐原康雄が「ジーザス!」とか「ガッデム!」とか言いながら、その下で芹沢カイと争っているような具合であった。カイは英単語の綴りを憶えるのに独自の工夫をしていた。例えばeraserを「いれあしえあ」と憶えるのだそうである。何がどうなればeraserが「いれあしえあ」になるのか、悠太郎には皆目分からなかったが、その「いれあしえあ」という響きがいかにもカイらしいとは思えた。そんな生徒たちがいるにはいたが、英語が苦手な生徒たちとの差は開いていた。一学期の期末試験に至ってもなお、小文字のbとdの区別もつかない生徒がいた。また神川直矢はあるときbe動詞の変化を問う問題に当てられ、「I is happy」という堂々たる珍解答によって、教室を乱反射する湖のように笑わせては、自分でもまた機関銃のように高笑いしていた。
真壁の家の名誉を守るという使命を負わされた悠太郎にとって、試験前でないときはなかった。中学校生活の始まりからしてすでに中間試験前であり、中間試験が終わればその瞬間から期末試験前なのである。学校では家庭学習の時間の目安として「学年プラス一時間」ということが言われたが、悠太郎はその上さらに最低でも一時間は上乗せすることを自分に課していた。悠太郎が日々どれほど気を張っていたか誰も知らなかった。「悠太郎くんばかり一位にしておくのは可哀想だ。みんなも頑張って追いつき追い越せ」などと言って、担任の尾池先生は一年生をけしかけたから悠太郎はたまらなかった。「国語や英語ではとても勝てないな。だがゲターンの野郎は理数系が苦手らしいぞ。突破できるとすればそこだろう。みんな数学や理科を勉強しろ」と大柴映二は聞こえよがしにみんなを煽動した。悠太郎は猟犬の群れに襲われる獣のような心境になった。三年間も気を張って首位を守り続けなければならないと思うと、気が遠くなるほど心細かった。しかし不幸な母のため、また親子を養ってくれる祖父母のために、悠太郎は是が非でも孤塁を死守せねばならなかった。ただ一度の落伍にも、どんな罰が下されるか知れたものではなかった。
そんな日々にあって、ピアノを弾くことは悠太郎にとっての慰めであり気分転換であった。中学生になってもなお悠太郎は、甘楽集落にある佐藤陽奈子先生のピアノ教室に通い続けていた。いかに熱心ではない卓球部といえども平日には練習があるので、ピアノのレッスンには日曜日に通うことになった。その日曜日といえどもテニス部は練習があるのか、そうでなくても勉強で忙しいのか、留夏子がレッスンの様子を見に来ることはなくなっていた。中学校生活の怱忙のさなかにあって音楽を求めるこの生徒を、陽奈子先生はいよいよ深く慈しみ、切れ長の目を眩しいものでも見るように細めながら、『ソナタアルバム』やバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を教えるのであった。まだ悠太郎がブルグミュラーの練習曲を弾いていた頃、陽奈子先生は「私の教室では、いずれバッハとウィーン古典派をみっちり教えます。それが音楽史で最も重要だと思うから」と言ったことがあったが、とうとうその言葉が現実のものとなったのである。そして楽典もより高度な教材によって教えられるようになり、悠太郎は和声や対位法の奥深い知識を少しずつ学んだ。そうした知識は悠太郎の読譜力を飛躍的に向上させ、ピアノ演奏のレッスンをより実り多いものにした。
『平均律クラヴィーア曲集』は、二十四調それぞれのプレリュードとフーガから成っていた。プレリュードによってその調を隅々まで測量し、続くフーガを準備するのだと陽奈子先生は教えた。規則的な分散和音の連続が、敬虔な歌を展開するハ長調のプレリュードを悠太郎は愛した。グノーはこのプレリュードを伴奏に用いて〈アヴェ・マリア〉を作曲したのだと陽奈子先生は教え、悠太郎が弾くピアノに合わせて凛々たる声で、その声楽曲を歌いさえした。ラテン語はモーツァルトのレクイエムをレコードで聴いただけなので、「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています」という意味の歌詞のなかでは、マリアのほかにはまたもやイエスの名前しか分からなかったとはいえ、悠太郎の演奏はその歌声の祈りの深さに感応していった。グノーがこういう歌を作曲したくなったのも無理はないと悠太郎には思われた。フーガはインヴェンションやシンフォニアのとき以上に、一声部ずつ丁寧に練習することが要求された。たどたどしいながらも、ともかく始めから終わりまでハ長調のフーガを通して弾けたとき、悠太郎は自分の両手によって起こったことが信じられないような喜びを覚えた。ただひとつだけで湧き出る清冽な泉のような主題が、同じように清冽なあの泉やこの泉と呼び合い、合流して尽きせぬ流れとなり輝きをいや増した。すべてはひとつの主題に基づいており、そこには何らの夾雑物もなかった。
フーガが単一主題的だとすると、古典派ソナタは複数主題的であると陽奈子先生は教えた。ソナタ形式については『ソナチネアルバム』で学んだが、今やフーガと比較することでその特徴をよりよく捉えることができるというのである。「古典派ソナタでよく使われるソナタ形式やロンド形式は、性格の異なる複数の主題を対比させるところに面白さがあるの。フーガがひとつの主題を反行させたり逆行させたりしながらも、結局はどこまでもひとつの主題に基づくのに対して、ソナタではふたつとか三つの主題が対話するの。フーガを叙事詩に、ソナタを劇に喩える音楽学者もいるわ。フーガは個人でソナタは社会だと言う人もいる」と陽奈子先生は、『ソナタアルバム』のページの余白に赤鉛筆で書き込みながら教えたが、開かれていたのはハイドンのソナタ第四十八番ハ長調であった。『ソナタアルバム』ではまずハイドンを集中的に勉強しようというのが、陽奈子先生の方針であった。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を見開きながら、その方針をいくらか不思議に思った。そんな悠太郎の思いを読み取ったかのように陽奈子先生は言った。「悠太郎くんはモーツァルトやベートーヴェンを弾きたいでしょうね。若くして亡くなったモーツァルトの疾走する悲しみとか、過酷な運命に立ち向かうベートーヴェンの戦いとか、そういうものを得てして人は面白いと思う。それに比べて長生きしたハイドンの真に古典的な音楽は、凡庸だとかつまらないとか言われがちなの。でも悠太郎くんにはそういう俗論に惑わされてほしくない。夜空を見上げたと考えてみて。最初は真っ暗なところがいちばん深いと思うかもしれない。でもそれはただの雲なの。夜空の限りなく深いところには、星々が澄んだ光を輝かせている。本当の深さは、暗いところではなくて明るいところにあるの。ハイドンの明朗闊達さは、まさしくそういうものよ。ハイドンの中庸を得た明るさを身に着けておくことは、きっと悠太郎くんの役に立つと思うの」
それで悠太郎は、『ソナタアルバム』に収められているなかでは最も易しいハイドンのソナタを弾き始めた。ところが提示部で第一主題から第二主題へと続けたとき、陽奈子先生は演奏をやめるように言った。「第一主題と第二主題が、あまりにも自然に連続しすぎね。それまでとは異質なものが現れることを、もっと強調して。舞台に新しい人物が登場するみたいに。ソナタ形式では多くの場合、第二主題が出てくるとき、聴いている人には分からないくらいわずかにテンポを落とすとうまくいくわ」と陽奈子先生が指導したので、悠太郎は芹沢カイのひとり芝居を思い出した。「溶岩がやっと固まったよ」に当たるのが第一主題で、それから別人になって「それはようがんした」に当たる第二主題で応答すればよい。そのように弾いてみたら、果たしてうまく行った。陽奈子先生は教えたことが即座に実現されるのに驚いて、「そう、それよ。コツが分かったじゃない」と言った。「ひとり芝居のつもりでやってみたんです。カイくんが学校でやっていたんです。溶岩がやっと固まったよ。それはようがんした」と悠太郎が答えたので、先生は笑いながら「本当に悠太郎くんは、どんなことからでも学ぶのね。そんな駄洒落からソナタ形式を理解する人なんか見たことないわ」と感嘆した。そしてふと思い出したように陽奈子先生は、「カイくんか。たしかウェーバーの〈狩人の合唱〉が得意だったわね。まだピアノを続けているの?」と言った。「もうやめてしまったようです」と悠太郎は答えた。先生と生徒は深い淋しさのうちにしばらく黙っていた。時折吠えるコリー犬のバネットも年老いたようであった。悠太郎には時の流れる静かな音が聞こえるような気がした。
誰が弾いているのか、いつしか音楽室からはピアノの音が聞こえていた。それはたどたどしい〈ロング・ロング・アゴー〉であった。ああ、あのバイエル併用の練習曲集に、オレンジ色の表紙も鮮やかな『夢みるピアニスト』に載っていた〈ロング・ロング・アゴー〉だ。ドソミソ・ドソミソ・ドソミソ・ドソミソ――左手に出てくる音型を指してピアノ教室の佐藤陽奈子先生は、「これはアルベルティ・バスというの。イタリアの作曲家ドメニコ・アルベルティが好んで用いたから、そう呼ばれているのよ」と教え、左手の5の指つまり小指で弾くいちばん低い音に、ほかの三つの音が従属するようバランスに注意せねばならないと付け加えた。いちばん低いバスの音は、音楽全体の支えだというではないか。「なんだか不思議ですね。左手の小指はいちばん力がなくて弱い指なのに、そんなに重たい役目を負わされるなんて。左手の小指が可哀想です。これは楽器を考え出した人の設計ミスではないのですか?」と俺は言ったものだ。そうして俺はこの曲を、観光ホテル明鏡閣の大食堂に置いてあったピアノで練習していたものだ。調律の狂ったあのピアノを俺は好きだった。手入れが行き届いた陽奈子先生のグランドピアノが謹厳な師匠だとすると、明鏡閣のおんぼろなアップライトピアノは心安い友達といった感じがした。美しく波立ちきらめく照月湖が右手の窓に望まれていた。すると不意にクラッカーの弾ける音がした。驚いて振り向いた俺に、薄黒いサングラスをかけたサカエさんこと黒岩栄作さんは、「ユウくん、九歳のお誕生日おめでとう!」とお祝いを言った。まだ生きていた剽軽者の橋爪進吉さんは、ゲジゲジ眉毛の顔をひしゃげたように笑わせながら、何と言ったのだったか。「キューサイの青汁!」だったか「救済の星!」だったか、とにかく駄洒落を言ってクラッカーを鳴らした。まだ支配人だった紳士的な南塚亮平さんも、バイク好きの若い林浩一さんも、紫色の三角巾を被ったおロク婆さんも、白い三角巾を被ったおタキ婆さんも、ギョロ目のライサク老人こと桜井謙助さんも、次々にクラッカーを爆発させると、縮れたカラフルな紙テープが夢のように緩やかに舞い落ちた。この夏が終わって九月になれば、俺は十三歳になる。してみればあれはもう四年も前ということになる。こうして何もかもが、遠い遠い昔になってゆく。過ぎゆく日々は、いったいどこへ行くのか。過ぎ去った日々は、いったいどこにあるのか。いま音楽室のグランドピアノで〈ロング・ロング・アゴー〉を弾いているのは、昔の俺であろうか。いや、そんなはずはないのだ。ビデオテープを巻き戻すように、時を戻すことはできない。昔の俺が今の俺と出会うはずはない。時は留めることもできず、戻すこともできないということを思い知るために、ただそのためだけに俺は今まで生きてきたような気がする。また夏が来た。俺はこの六里ヶ原で、こうしてひとつまたひとつと季節を積み重ねてきた。その終わりは、いったいどういうことになるのだろう。今こうして校舎の階段を昇ってゆくように、俺は季節の階段を昇ってゆく。その先には、いったい何が待っているのだろう。何が待つのか、俺は恐れる。弾む若い命など、どうして信じられよう――。
初めての中間試験も期末試験も、得点が目に見える主要五教科については、悠太郎は他の追随を許さない成績で切り抜けた。五教科の合計はもちろん教科別の得点でも、悠太郎は秀子の望み通り、誰にも負けはしなかった。もちろん得意科目と苦手科目はあったし、それらの科目のそれぞれで多少の危機は経験した。例えば国語では、詩の音読も随筆や説明文の読解も申し分なかったが、漢字練習のプリントを忘れていて溜め込んでしまい、提出期限前に慌てることになった。タヌキと呼ばれる綿貫正先生が、提出期限までにプリントを計画的に進めるようにと説明したのに、悠太郎はそれを聞いていなかった。タンポポの思いを歌った詩を教科書で読んだ悠太郎は、風に運ばれ飛んでゆく綿毛の行方を夢見ていたので、現実に対して注意力を失っていたのである。色眼鏡をかけた角刈りの綿貫先生はいかにも古狸らしく、プリントを全然提出しない悠太郎にわざと何も言わずにおいた。提出期限の直前になって、タヌキ先生がみんなの前で注意を促したとき、悠太郎は罠にかかったことを知ってぎょっとした。そんな悠太郎の顔を見て、タヌキ先生は「してやったり」とばかり意地の悪い笑みを浮かべた。悔しがった悠太郎は意趣返しを考えついた。漢字練習のプリントには、練習したその字を使って短文を書く欄が用意されていた。悠太郎は「透」の字の用例として、「透明なタヌキ汁の上澄み」と書いてやった。そのほかの例文で悠太郎は、クラシック音楽のことに多く言及した。そうして赤ペンが入って返却されたプリントを見てみれば、意外にもタヌキ先生が作曲家や演奏家について詳しいことが判明した。あるとき用事があって職員室を訪ねた悠太郎は、タヌキ先生の机の上に『最新名曲解説全集』が何巻か積んであるのを見た。そうしたわけで漢字練習のプリントはちょっとした危機ではあったが、それによって音楽愛好家の先達を見つけたわけでもあった。生徒を十把一絡げに敵視する棚橋晶子先生より、タヌキ先生のほうがよほど音楽のことで話もできれば頼りにもなると悠太郎は判断した。
数学に悠太郎は早くも苦手意識を持ち始めていた。この教科を担当するのは、小学校四年生のとき悠太郎を担任した富里豊先生であった。あのとき新任教師であったユタカちゃんは、今やそれなりに豊かな経験を積んで、中学校の教壇に立っているわけであった。富里先生は逆三角形に引き締まったスリムな体に、しばしば上下紫色のジャージを着ていた。顎の尖った小さな顔の離れた両目は、相変わらず初々しい内気さを示して愛想よく笑っていた。そんなユタカちゃんが正の数と負の数を教えるところから、中学校の数学は始まった。もはや算数ではなく数学となった教科名に、まず悠太郎は気圧された。そして負の数などというものは、わけが分からなかった。林檎の集まりから林檎をひとつ減らすように、1を引くというのは理解できた。しかしマイナス1という数がそれとして存在するということは、どう思い描いてよいのか分からなかった。ましてや負の数に負の数を足したり、負の数から負の数を引いたり、負の数同士を掛け合わせたりするなどということは想像を絶した。小学校のあいだは「3足す2」とか「4引く3」とか言っていたみんなが、中学校に入学するや示し合わせたように「3プラス2」とか「4マイナス3」とか言うようになったのも不気味であった。そのくせ「掛ける」や「割る」はそのままなのが奇妙であった。a・b・cとかx・y・zとかいった文字が式のなかで踊った。その惑乱的なダンスは悠太郎に、照月湖の水面の揺らめきを思わせた。「算数とは、目に見える具体的なものから、目に見えない抽象的なものへと考えを進める訓練です」と、小学校で富里先生が話してくれたことを悠太郎は思い出した。そして算数は絶対音楽に似ていると考えたことも思い出した。数学ともなれば、なおのこと具体的なものから抽象的なものへと向かう訓練であり、そうだとすればなおのこと絶対音楽に似ているのではないか? 個々の数字や文字や符号が、耳には聞こえない音楽を奏でているのだと思えば、厄介な数学も悠太郎にとって少しは耐えやすくなるのであった。
ところで両目の離れたユタカちゃんは、同じく両目の離れた社会科の埴谷高志先生ともども「職員室モアイ隊」の一員に数えられていたが、モアイ隊なるものの結成を呼びかけたのは理科の尾池賢一先生であり、彼こそが悠太郎たちの学年の担任であった。過疎化が進む町の中学校のこととて学年に組の別はなく、一学年にはひとクラスしかないのである。佐藤留夏子たちの学年の担任が埴谷先生ひとりであるように、悠太郎たちの学年の担任も尾池先生ひとりであった。尾池先生はいくらか面長ではあったが、キューピー人形を思わせるぱっちりした両目はさして離れているわけでもなかったし、顔つきがさして角ばっているわけでもなかったから、モアイ隊に数えられた四人の教員のなかでは、いちばんモアイらしからぬ感じを与えた。ホームルームや理科の時間が始まるとき、黒板の前に立ち顎を引いて姿勢を正すと、弛んだその顎は二重にも三重にもだぶついた。陸上部の顧問として敏捷に走りまわっていたが、二十代の終盤にしてはその腹は出ていた。尾池先生が語るところによれば、それはビール腹というものらしかった。さて理科の授業の最初に尾池先生は、理科室にある実験器具の名称をみんなに憶えさせた。フラスコやビーカーやアルコールランプや駒込ピペットの絵をノートに描き、名称を書き添えて暗記することが要求された。さて理科は物理・化学・生物・地学に分けられるのだと尾池先生は教えた。「ちなみに俺が大学で専攻していたのは天文学だ。特にブラックホールを研究していた。そうした分野も中学校の理科の分類でいえば地学に含まれる。おまえたち、ブラックホールはすげえぞ。質量が物凄くでかい天体だ。その大きすぎる重力のゆえに、光さえも脱出できない。まあ質量とは何であり重力とは何であり光とは何であるか、これからだんだん勉強していきましょう。皆さんがしっかり勉強してくれないと、俺の心がブラックホールです!」と尾池先生が話すと、みんなは乱反射する湖のように笑った。生物では植物を観察してそれぞれの部位の名称を憶えたり、光合成や受粉の仕組みを理解したりしなければならなかった。化学では水溶液について、物質が水に溶けるとはどういうことかを教え込まれた。理科もまた数学と並んで、悠太郎に苦手意識を起こさせる教科であった。
そのモアイ隊の隊長である社会科の埴谷高志先生が、一年生に要らざる入れ知恵をしたことがあった。「おまえたち、尾池先生にこう言ってみろ。溶岩がやっと固まったよ。それはようがんした。がっはっは!」と埴谷先生は、破れ鐘のようなでかい声で一年生を唆したのである。これを実行に移したのは芹沢カイであった。理科の授業が終わったあるとき、カイは雀斑の散った顔に努めて真面目な表情を浮かべながら、「尾池先生」と声をかけた。振り向いた尾池先生の前でカイはまず「溶岩がやっと固まったよ」と言い、それからあたかも別の人物が応答するかのように「それはようがんした」と言った。悠太郎はそのひとり芝居の巧みさゆえに、埴谷先生がそのギャグを教えてくれたとき以上に笑ってしまったが、尾池先生は二重にも三重にもだぶつく顎を引きつけたまま表情を変えなかった。ややあって尾池先生は「悠太郎くん、この程度で笑っているようじゃ、きみもまだまだですね。カイくん、誰にそんなくだらないことを吹き込まれたんですか?」と言った。「埴谷先生です」とカイが白状すると、尾池先生は「やっぱり埴谷さんか。まったくしょうがねえな、あの人は。まあ自分の声がでかすぎて難聴になるような人だからな」と呆れ、「そんなことを面白がるきみたちもきみたちです。鬼押出しの黒い奇岩に頭をぶつけて転生してください!」と言い放った。
埴谷先生のくだらないことといえば、これだけにはとどまらなかった。国々の名前を憶えることに悠太郎が苦手意識を持った地理の時間に、埴谷先生はこんなことを言ったのである。「おまえたち、太平洋と大西洋を漢字で書くとき、間違えちゃいけないぞ。いい憶え方を教えてやろう。太平洋は男の海で、大西洋は女の海だ。太平洋の太にはイチモツがついている。がっはっは!」と埴谷先生が、海の名を板書しながら破れ鐘のようなでかい声で言うと、一年生の教室にはぎらぎらと光る湖のような笑いが起こった。そしてまたしてもほかの先生を巻き込んだくだらないことを埴谷先生はしでかしたのだが、それは全然悪意がないと言って済ませることはできなかった。巻き込まれたのは体育を教える小幡敏夫先生であったが、彼もまたモアイ隊に所属しているだけあって、その引き締まった顔は角ばっていて面長で、唇はどこか原始人を思わせた。体育が苦手ながらも走り込みを毎朝続ける悠太郎の努力を、小幡先生はよく見てもいれば、それなりに評価してもいた。そんな小幡先生を、埴谷先生は社会の時間のたびに何かにつけて「Whatʼs the matter, オー・バター!」などと言って笑いの種にするのである。そのあたりでやめておけばまだよかった。ところが埴谷先生は、悠太郎たちにとって最初の中間試験の問題に、よせばいいのに解答の選択肢としてアウストラロピテクスやクロマニヨン人に加えて「小幡原人」というのを作ったのである。しかも中間試験で一年生の社会科を監督したのが、偶然にも小幡先生だったからもういけなかった。みんなが笑いを堪える教室は、細波立つ湖の水面のようにきらめいた。何事かと問題用紙を見た小幡先生は、程なく自分の名前が悪用されたことに気がついた。小幡先生が原始人めいた唇をわなわなとふるわせながら、「埴谷の野郎!」と吐き捨てるようにつぶやいたので、試験中にもかかわらず教室の光る笑いの波は、いっそうひたひたと打ち寄せたのである。
英語は得意科目であったが、やはり問題がなくはなかった。筆記体の練習をするのに、ヘンデルのオラトリオ《マカベウスのユダ》の台本を繰り返し書き写したせいで、古い英語の綴り方が身に着いてしまったのである。宿題や授業で悠太郎は、いわゆる三人称単数現在のsを、うっかりthで綴ってしまうことがあった。ムースで前髪をイワトビペンギンのように逆立てた金子芳樹先生は、時々現れる悠太郎の古風な綴りを見て訝った。「まったく真壁くんには驚かされてばかりだな。あっという間に筆記体が書けるようになったと思ったら、今度は人称語尾のthが出てきたか。まさか中学生を教えていて、欽定訳聖書のような綴りを見るとは思わなかったよ。英語にも歴史があって、そのなかでいろいろ変化してきた。ちょうど日本語に古文があるのと同じようなものだ。だが学校の試験はもちろん、ゆくゆくは高校受験でもthは減点の対象になる。古風な英語を読むなとは言わないが、解答用紙にうっかり書かないよう気をつけてくれ」という金子先生の忠告を守って、中間試験でも期末試験でも悠太郎は学年一位を守った。英語に関しては幸薄そうな諸星真花名がいつも二位であり、アメリカで酪農を学びたい佐原康雄が「ジーザス!」とか「ガッデム!」とか言いながら、その下で芹沢カイと争っているような具合であった。カイは英単語の綴りを憶えるのに独自の工夫をしていた。例えばeraserを「いれあしえあ」と憶えるのだそうである。何がどうなればeraserが「いれあしえあ」になるのか、悠太郎には皆目分からなかったが、その「いれあしえあ」という響きがいかにもカイらしいとは思えた。そんな生徒たちがいるにはいたが、英語が苦手な生徒たちとの差は開いていた。一学期の期末試験に至ってもなお、小文字のbとdの区別もつかない生徒がいた。また神川直矢はあるときbe動詞の変化を問う問題に当てられ、「I is happy」という堂々たる珍解答によって、教室を乱反射する湖のように笑わせては、自分でもまた機関銃のように高笑いしていた。
真壁の家の名誉を守るという使命を負わされた悠太郎にとって、試験前でないときはなかった。中学校生活の始まりからしてすでに中間試験前であり、中間試験が終わればその瞬間から期末試験前なのである。学校では家庭学習の時間の目安として「学年プラス一時間」ということが言われたが、悠太郎はその上さらに最低でも一時間は上乗せすることを自分に課していた。悠太郎が日々どれほど気を張っていたか誰も知らなかった。「悠太郎くんばかり一位にしておくのは可哀想だ。みんなも頑張って追いつき追い越せ」などと言って、担任の尾池先生は一年生をけしかけたから悠太郎はたまらなかった。「国語や英語ではとても勝てないな。だがゲターンの野郎は理数系が苦手らしいぞ。突破できるとすればそこだろう。みんな数学や理科を勉強しろ」と大柴映二は聞こえよがしにみんなを煽動した。悠太郎は猟犬の群れに襲われる獣のような心境になった。三年間も気を張って首位を守り続けなければならないと思うと、気が遠くなるほど心細かった。しかし不幸な母のため、また親子を養ってくれる祖父母のために、悠太郎は是が非でも孤塁を死守せねばならなかった。ただ一度の落伍にも、どんな罰が下されるか知れたものではなかった。
そんな日々にあって、ピアノを弾くことは悠太郎にとっての慰めであり気分転換であった。中学生になってもなお悠太郎は、甘楽集落にある佐藤陽奈子先生のピアノ教室に通い続けていた。いかに熱心ではない卓球部といえども平日には練習があるので、ピアノのレッスンには日曜日に通うことになった。その日曜日といえどもテニス部は練習があるのか、そうでなくても勉強で忙しいのか、留夏子がレッスンの様子を見に来ることはなくなっていた。中学校生活の怱忙のさなかにあって音楽を求めるこの生徒を、陽奈子先生はいよいよ深く慈しみ、切れ長の目を眩しいものでも見るように細めながら、『ソナタアルバム』やバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を教えるのであった。まだ悠太郎がブルグミュラーの練習曲を弾いていた頃、陽奈子先生は「私の教室では、いずれバッハとウィーン古典派をみっちり教えます。それが音楽史で最も重要だと思うから」と言ったことがあったが、とうとうその言葉が現実のものとなったのである。そして楽典もより高度な教材によって教えられるようになり、悠太郎は和声や対位法の奥深い知識を少しずつ学んだ。そうした知識は悠太郎の読譜力を飛躍的に向上させ、ピアノ演奏のレッスンをより実り多いものにした。
『平均律クラヴィーア曲集』は、二十四調それぞれのプレリュードとフーガから成っていた。プレリュードによってその調を隅々まで測量し、続くフーガを準備するのだと陽奈子先生は教えた。規則的な分散和音の連続が、敬虔な歌を展開するハ長調のプレリュードを悠太郎は愛した。グノーはこのプレリュードを伴奏に用いて〈アヴェ・マリア〉を作曲したのだと陽奈子先生は教え、悠太郎が弾くピアノに合わせて凛々たる声で、その声楽曲を歌いさえした。ラテン語はモーツァルトのレクイエムをレコードで聴いただけなので、「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています」という意味の歌詞のなかでは、マリアのほかにはまたもやイエスの名前しか分からなかったとはいえ、悠太郎の演奏はその歌声の祈りの深さに感応していった。グノーがこういう歌を作曲したくなったのも無理はないと悠太郎には思われた。フーガはインヴェンションやシンフォニアのとき以上に、一声部ずつ丁寧に練習することが要求された。たどたどしいながらも、ともかく始めから終わりまでハ長調のフーガを通して弾けたとき、悠太郎は自分の両手によって起こったことが信じられないような喜びを覚えた。ただひとつだけで湧き出る清冽な泉のような主題が、同じように清冽なあの泉やこの泉と呼び合い、合流して尽きせぬ流れとなり輝きをいや増した。すべてはひとつの主題に基づいており、そこには何らの夾雑物もなかった。
フーガが単一主題的だとすると、古典派ソナタは複数主題的であると陽奈子先生は教えた。ソナタ形式については『ソナチネアルバム』で学んだが、今やフーガと比較することでその特徴をよりよく捉えることができるというのである。「古典派ソナタでよく使われるソナタ形式やロンド形式は、性格の異なる複数の主題を対比させるところに面白さがあるの。フーガがひとつの主題を反行させたり逆行させたりしながらも、結局はどこまでもひとつの主題に基づくのに対して、ソナタではふたつとか三つの主題が対話するの。フーガを叙事詩に、ソナタを劇に喩える音楽学者もいるわ。フーガは個人でソナタは社会だと言う人もいる」と陽奈子先生は、『ソナタアルバム』のページの余白に赤鉛筆で書き込みながら教えたが、開かれていたのはハイドンのソナタ第四十八番ハ長調であった。『ソナタアルバム』ではまずハイドンを集中的に勉強しようというのが、陽奈子先生の方針であった。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を見開きながら、その方針をいくらか不思議に思った。そんな悠太郎の思いを読み取ったかのように陽奈子先生は言った。「悠太郎くんはモーツァルトやベートーヴェンを弾きたいでしょうね。若くして亡くなったモーツァルトの疾走する悲しみとか、過酷な運命に立ち向かうベートーヴェンの戦いとか、そういうものを得てして人は面白いと思う。それに比べて長生きしたハイドンの真に古典的な音楽は、凡庸だとかつまらないとか言われがちなの。でも悠太郎くんにはそういう俗論に惑わされてほしくない。夜空を見上げたと考えてみて。最初は真っ暗なところがいちばん深いと思うかもしれない。でもそれはただの雲なの。夜空の限りなく深いところには、星々が澄んだ光を輝かせている。本当の深さは、暗いところではなくて明るいところにあるの。ハイドンの明朗闊達さは、まさしくそういうものよ。ハイドンの中庸を得た明るさを身に着けておくことは、きっと悠太郎くんの役に立つと思うの」
それで悠太郎は、『ソナタアルバム』に収められているなかでは最も易しいハイドンのソナタを弾き始めた。ところが提示部で第一主題から第二主題へと続けたとき、陽奈子先生は演奏をやめるように言った。「第一主題と第二主題が、あまりにも自然に連続しすぎね。それまでとは異質なものが現れることを、もっと強調して。舞台に新しい人物が登場するみたいに。ソナタ形式では多くの場合、第二主題が出てくるとき、聴いている人には分からないくらいわずかにテンポを落とすとうまくいくわ」と陽奈子先生が指導したので、悠太郎は芹沢カイのひとり芝居を思い出した。「溶岩がやっと固まったよ」に当たるのが第一主題で、それから別人になって「それはようがんした」に当たる第二主題で応答すればよい。そのように弾いてみたら、果たしてうまく行った。陽奈子先生は教えたことが即座に実現されるのに驚いて、「そう、それよ。コツが分かったじゃない」と言った。「ひとり芝居のつもりでやってみたんです。カイくんが学校でやっていたんです。溶岩がやっと固まったよ。それはようがんした」と悠太郎が答えたので、先生は笑いながら「本当に悠太郎くんは、どんなことからでも学ぶのね。そんな駄洒落からソナタ形式を理解する人なんか見たことないわ」と感嘆した。そしてふと思い出したように陽奈子先生は、「カイくんか。たしかウェーバーの〈狩人の合唱〉が得意だったわね。まだピアノを続けているの?」と言った。「もうやめてしまったようです」と悠太郎は答えた。先生と生徒は深い淋しさのうちにしばらく黙っていた。時折吠えるコリー犬のバネットも年老いたようであった。悠太郎には時の流れる静かな音が聞こえるような気がした。
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