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第十五章 筆記体
一
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「中学生になってもなお、あの人は俺なんかに何か用があるのだろうか。いったいあの人が俺を呼んでいるというのは、本当のことなのだろうか。いつも俺をからかってばかりのペトラ先輩が、またも俺を担いで笑いものにしようとしているだけではないか。そうだとしたら、ペトラさんはあんまりひどい。俺の同級生には、俺にゲターンなどというあだ名をつけて笑いものにするひどい奴がいるが、ペトラ先輩も同類なのだろうか。いかに相手が先輩とはいえ、そういう非道には厳重に抗議しなければならない。しかしただそれたけのことでも俺にできるだろうか」と暗い思いに沈みながら真壁悠太郎は、中学校の校舎の東側の階段を、教室のある二階から音楽室のある三階へと昇りつつあった。悠太郎はエメラルドグリーンに紫色のラインが入ったジャージを穿き、白い半袖のTシャツを着ていた。この町の西の中学校の生徒たちは、雪のない季節には自転車で通学するから、式典や定期試験のとき以外は学生服を身に着けず、平素はジャージを制服代わりにして過ごすのである。ところでそのジャージが悠太郎には禍の種であった。「まったく俺はついてないな」と階段の踊り場で立ち止まった悠太郎は独りごちたが、その声はすでに声変わりして低いバリトンであった。校舎の二階の東端にある、青いカーペットが敷かれた多目的室で入学式が挙行され、男子たちが詰襟の、女子たちがセーラーの学生服を身に着けてこの中学校に迎えられる頃には、悠太郎の声はすでに変わっていたのである。悠太郎は自分が濁った湖にでもなってゆくような気がして、初めのうちはその声を気味悪く思った。しかしまもなく音楽の授業で歌曲と出会い、その声を存分に活かす喜びを味わえたことは幸いであった。それにしても前年度までは濃いグリーンであったジャージが、悠太郎の入学する年度からエメラルドグリーンに変更されたことは禍であった。
「まったく俺はついてないな」と悠太郎は、やはりあのときも銀色に光る自転車で国道を北へと――つまりまだ雪の残る寝観音のような浅間山から遠ざかって――走りながら独りごちたのである。六里ヶ原第二小学校から来た御所平の大柴映二は、もはや靴のことを「くちゅ」と発音するようなことはなかった。しかしエージョリアンと呼ばれるようになっていた映二の細長い目と、悠太郎に向けた幼稚園以来の敵意は相変わらずで、悠太郎が何か話しかけると突然わざと「生肉!」とか「カバディカバディカバディカバディ!」とかナンセンスなことを言って、会話を成り立たなくするようなことがあった。そうした流れであるとき映二が放った「マンジュゴーシャ、おまえが総指揮でやれ!」という言葉は、小学校での鼓笛隊の大切な思い出を踏みにじって、悠太郎の心を深く傷つけた。それを聞いた大屋原第三集落の神川直矢は、白目の冴えた小さな目を笑わせながら、「言われてみればその通りだな。エメラルドグリーンのクルタがよくお似合いだ。ユウ、正大師のステージに昇格した気分はどうだ? てめえなんざ、あいつのようにぶっさ刺されちまえ!」とまで言ったのである。「まったく俺はついてないな。映二も直矢もどうして俺にあんなことを言うのだろう。俺にあんなことを言うのは、あいつらが野卑で低俗だからだ」と悠太郎は考えながら自転車を漕ぎ、四つの厳めしい石碑がある甘楽のバス停を通り過ぎて、自動車店のあたりまで来た。北軽井沢地域から国道を北上し――つまりその分浅間山から遠ざかって――鷹繋山や浅間隠の連山を東に、白根山から四阿山への連なりを遥か北西に見渡しながら応桑地域へと向かう下り坂は、その自動車店のあるあたりで一時的に急勾配になっていたから、悠太郎にとって下校時には心臓破りの坂となったが、登校時にはペダルを漕がずに風を切って坂を降りるのが楽でもあれば気持ちよくもあった。時あたかも高原の遅い春の到来を前にした頃で、悠太郎の内心の鬱屈した思いには無関心に、玲瓏と透き通った風が爽やかに吹いていた。悠太郎は暗い思いを忘れようとでもするかのように、いつもより勢いをつけて急勾配を下ろうとした。ところがアスファルトに砂が浮いていたために、悠太郎は盛大にすっ転んだのである。
悠太郎が痛みに耐えて起き上がり、エメラルドグリーンのジャージに滲む赤黒い血を認め、肘や膝の広い範囲に及んだ擦り傷を確かめ、歪んでひん曲がった自転車を起こしていると、銀色に光る自転車で颯爽と坂道を下ってきた女子生徒が、緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声で、「どうしたの? 大丈夫?」と傷ついた少年を気遣いながらひらりと降車した。悠太郎はもちろん慕わしいその声を知っていたので、「留夏子先輩。おはようございます」と言って白いヘルメットを被った頭を下げた。自転車通学時に生徒たちが着用を義務づけられているそのヘルメットは、転倒したとき頭を打たなかったので割れてはいなかった。「真壁じゃない。おはよう。まあ、ひどい傷ね。そんなに血が出て、痛かったでしょう」と留夏子は切れ長の目を痛ましそうに細めたが、悠太郎は「私の体なんかどうなろうと構わないんです。しかし自転車を壊してしまいました。後輪が回らなくなりました。買ってもらったばかりなのに、家族に申し訳ないことをしました」と言って睫毛の長い目を悄然と伏せた。留夏子はしばし考えをめぐらした後で、「そう。ここから後輪を持ち上げながら自転車を押して歩くとすると、部活の朝練には間に合わないわね。私が体育館に寄って、卓球部の人たちに伝えておくから、真壁は学校に着いたらすぐに保健室で手当てしてもらってね」と言い、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と応じた悠太郎に別れを告げて再び自転車に跨った。悠太郎は凛乎たるその後ろ姿を憧れの眼差しで見守っていたが、留夏子はすぐにブレーキをかけて停止すると振り返って言った。「真壁、誰かがあなたに害を加えたとしても、その害悪のためにあなたが堕落しないように願いなさい。あなたが害を被ったことで堕落しなければ、その誰かはあなたにどんな害も与えなかったことになるから。いつかあなたも『重力と恩寵』を母さんに借りて読むといいわ」そう言い残すと留夏子はまた颯爽と自転車を走らせ、ソフトテニス部の朝練習が待つ学校へと向かっていった。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて、慕わしいその後ろ姿が遠ざかってゆくのを見送りながら、魂を照らすようなその言葉の意味を思いめぐらした。そうするうちに、中学生として留夏子と個人的に話をしたのは、これが最初であることに思い至った。なんと無様な姿を見せてしまったことだろうと悠太郎は恥じ入り、「まったく俺はついてないな」とまた独りごちた。
壊れた自転車を押しながら学校にようやくたどり着くと、悠太郎は保健室で篠原豊子先生の手当を受けた。豊子先生は五十路も半ばを過ぎた小柄な女性で、色褪せた髪はつむじのあたりから薄くなっていたが、よく笑うその目には、少年少女たちの心身を見守る叡智の光が湛えられていた。豊子先生は青春の始まりにおける困難を見つめながら、少年少女たちの若さに好んで身を浸していた。だからこのときも悠太郎を手当てしながら、「ウッス、真壁くん、手ひどくやられたっすね。痛恨の一撃っすね。消毒は染みるっすよ。覚悟はいいっすか?」などと、多くの男子生徒たちが使う口調を真似して語りかけたのである。「さあこれでよしと。まあ怪我には気をつけてほしいっすが、それはそれとして真壁くんのことはいろいろ聞いてるっす。何か苦しいことがあったら、保健室に顔を見せてほしいっす。若い男の生き血を啜って、婆さんはピチピチに若返るっす」と言う豊子先生にお礼を述べて、悠太郎は保健室を後にした。一年生の教室には同じ卓球部の芹沢カイが、朝練習後のグラウンドの走り込みを終えて戻ってきていた。「ユウちゃん、ひどい目に遭ったな。佐藤先輩が知らせてくれたよ。うわあ、えらく血が出たな。傷はどうだい?」と気遣うカイに、「ああ、痛かった。だけど手当てしてもらったから大丈夫だろう。しかし朝練を休むことになって心苦しい」と悠太郎は応じた。「まあ気にすることはない。うちはそんなに熱心な部じゃないし、顧問の富里先生だって、そう厳しいわけじゃない」とカイは言って、雀斑の散った顔をニヤリと笑わせた。「だがバレー部のペトラ先輩には用心したほうがいいぜ。佐藤先輩がユウちゃんの怪我のことを知らせたとき、ペトラ先輩は大笑いしていたよ。どこかで会えば、ひとしきりからかわれることを覚悟しなきゃなるまい。いや、俺まで笑っちゃいけないんだが、しかしペトラ先輩はよくあんなふうに大笑いできるよな。こういっちゃ失礼だが、まるで馬鹿笑いだ。ユウちゃんはとりわけペトラ先輩を笑わせると見える。ひょっとしたらペトラ先輩は、ユウちゃんに気があるのかもしれないな。まあとにかく用心してくれ」
ペトラ先輩というのは、幼稚園時代に留夏子と仲良しだった岩瀬麻衣を指す呼び名であった。このあだ名がつけられたのは、大屋原第二集落の真霜譲治がマッシモ・ジョルジョと呼ばれるようになったのと同じ事情によっていた。苦学の労働者であるカイの父親が、いつかテレビゲームに登場するピーターという名を見て、「英語ではピーター! ドイツ語ではペーター! フランス語ではピエール! スペイン語ではピエトロ! ギリシャ語で岩を意味するペトロスから来ている! 女性名はペトラ!」と、草軽バスのエンジンの爆音のように言ったことが広まったので、岩瀬麻衣はいつしかペトラと呼ばれるようになっていたのである。垂れ目のペトラはしかしほのかな赤みの差した頬と、昔のようには間延びしないまでものんびりとした話しぶりと、ツインテールの黒髪と、柔軟でしなやかな体つきをした美しい少女に成長していた。留夏子は中学校に入学するとき、再会したペトラと固く抱擁を交わしたという噂が、悠太郎たちの学年まで伝わってきていた。悠太郎やカイの所属する卓球部は、ペトラ先輩が所属するバレーボール部と体育館を分け合って練習していた。防球フェンスを並べて仕切ったステージ側の狭い部分を卓球部が、そのほかの広い部分をバレーボール部が使っていたのである。悠太郎はサーブやレシーブといった卓球の練習の合間に、ふとペトラ先輩に目を奪われる瞬間があった。猫のように柔軟に跳躍して伸び縮みするペトラ先輩の姿態を見るたび、悠太郎の心の湖は妖しく揺らめき、恐ろしいほどに光った。
「あっはっは! マッカベさん! チャリでこけたんですって? ルカから聞いたよ。うっかりさんだなあ。あらあら、そんなに血を出して、出血大サービスって感じじゃない。まったくマッカベさんは、あっはっは! 生真面目なくせにどこか抜けていて、何をやっても面白いんだから。あんたのおかげで卒業までは笑いの種に困らないよ。本当におかしいんだから、マッカベさんは。あっはっは!」と、カイが警告した通り悠太郎は、休み時間に廊下ですれ違ったペトラ先輩にからかわれた。悠太郎はペトラ先輩ののんびりした言葉と明るい笑い声を聞かされると、自分がからかわれているにもかかわらず、なぜか笑い出したくなってくるのであった。留夏子の親友であり、留夏子とは別種の美しさを備えたペトラが、こんな仕方であれ自分を相手にしてくれることを、悠太郎はそれほど悪くないと感じていた。ともあれこの場合には、反発するようなふりをするのも遊戯のうちであったから、悠太郎は笑いを堪えてわざと険しい表情を作ると言い返した。「お言葉ですが岩瀬先輩、いったいこれが笑い事でしょうか。打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれません。幸いにして死にはしませんでしたが、もし傷口から悪い菌でも入って私が手足を失うようなことにでもなれば、先輩はそうしてお笑いになったことを、きっと後悔なさると思います」するとペトラ先輩は、「相変わらずマッカベさんの敬語は折り目正しいなあ。端正かつ毅然とした格調があるね。あっはっは! あんたは何を言っても面白いんだから。まったくもう、マッカベさんは。あっはっは!」といっそう笑いを募らせていったが、次の瞬間には憑き物が落ちたように真顔になって、「ごめんなさい。あんたの無事が嬉しくて、ついはしゃいじゃった。あたしはあんたの言葉を聞くのが好きよ。でもあたしはあんたに何か言わせたいと思っても、こうしてからかうしか能がないから。要するにルカのようにはあんたと話せないの」とやや上目遣いになって言った。
悠太郎はそんなペトラ先輩を、やはりいくらか愛らしいと思った。悠太郎がけっして完全には魅了されないことを承知の上で、ペトラ先輩はこの生真面目な後輩に対して、自分の魅力を試しているのであった。そのくらいのことは悠太郎にも感じ取れたし、また秀子から聞かされていた話のために、この笑い上戸の先輩を気遣う思いも持っていた。秀子によればペトラ先輩の家は応桑の農家であった。農家は農家でも、満蒙開拓団の生き残りたちが六里ヶ原に入植する以前からの農家であった。ペトラ先輩の母親は、やはり明るく笑う屈託のない人で、ペトラ先輩は三人姉妹の真ん中だということであった。岩瀬農園の母屋の土間にはアップライトピアノが置かれていて、三人姉妹はそれで音楽を楽しんでおり、ペトラ先輩は中学生になると、〈若い翼は〉でも〈夢の世界を〉でも〈あの素晴らしい愛をもう一度〉でも、クラス合唱の伴奏を片端から弾けるようになったという。ところが最近になってペトラ先輩の父親は、愛人を作って一緒に逃げたというではないか。残された母親や娘たちは、それでも明るく笑いながら畑をやっているという。そんなペトラ先輩が少しでも愁いを忘れてくれるなら、自分なんか笑われたっていいではないかと思った悠太郎は、「岩瀬先輩、どうか謝らないでください。先輩が何くれと笑いのめすことで、私を気遣ってくださっていることは存じております。私などでよろしければ、どうぞ卒業までお笑いください。私も先輩の笑い声が嫌いではないのです。ついでながら言っておきますが、入学したあとで留夏子先輩と話したのは、今朝転んだときが最初でした。これからは話すこともないと思います」と言ってみた。するとペトラ先輩は、「そうかな? これからはよく話すようになるよ。今は何も言わなくても、ルカは内心あんたを頼りにしてる。同学年のみんなには、ルカを敬して遠ざけるようなところがあるから、ただでさえ薄い高原の空気が、あいつのまわりではいっそう薄いみたいなの。とにかくあんたはもっと自分を大切にしてね、心も体も。さもないとルカが悲しむよ」と秘密を告げるように答えて去った。
やはりペトラ先輩が俺にちょっかいを出すのは、ある程度まで留夏子先輩の代理としてなのだなと悠太郎は思った。そうであろうと読んでいればこそ、留夏子先輩の気持ちについてペトラ先輩に探りを入れてみたのだが、果たしてそれは無益ではなかった。ペトラ先輩の言葉を聞いた悠太郎は、伸音ペダルをいっぱいに踏み込んだグランドピアノの内部のような予感に満たされた。ところでペトラ先輩と悠太郎がそんなふうに話している場面は、しばしば多くの生徒たちの目に留まった。ペトラ先輩が何かにつけて「マッカベさん、あっはっは!」と笑っていることも、多くの生徒たちが知っていた。物事の表面しか見ようとしない生徒たちは、ペトラ先輩が悠太郎に好意を持っているとか、いやその反対なのだとか、いやすでにふたりは両想いなのだとか憶測したが、事情はそれほど単純ではなかったのである。芹沢カイは知性を湛えた目で事態を見誤っていたし、留夏子の弟でテニス部の佐藤隼平もまた灯台下暗しで、斜視気味の目を真相に向けることなく、誤った憶測を吹聴していた。バレーボール部でペトラ先輩の近くにいる金谷涼子ならば、黒曜石のように光る目で物事の奥を見通しているかもしれない。テニス部で留夏子先輩の近くにいる諸星真花名もまた、きらきら光る茶色の目で真実を見ているかもしれない。しかし隠れた事情に感づいている生徒は、ごく少数であろうと思われた。「いっそ好都合だ。勘違いをする者には、させておけばいい」と悠太郎は思った。「しかし母から聞いた話は驚きだった。ペトラさんはあの馬鹿笑いの奥に、いつも涙を隠しているのかもしれないな。いやペトラさんだけじゃない。楽しく中学校生活を送っているように見える誰も彼もが、見えないところでつらいことに耐え、重いものを背負っているのかもしれない。だがそのいちいちに俺は立ち入ることができない。俺は俺の重荷を背負うことで精一杯なのだから。それでも留夏子さんがまだ俺を気に懸けてくれているなら、それだけで俺は頑張れる。それにしても大きくなるとは、やはり濁った湖になることなのだろうか。こんなふうにしてお互いの気持ちを探り合うとは、俺たちもずいぶん不純になったものだ」
不純といえば、思春期に特有の関心を大声であけすけに語ることは、悠太郎にとって不純の最たるものであった。ある日一時間目の授業が終わって休み時間になると、二年生の竹渕智也がシティーボーイ風の前髪をはらりと風に流しながら、「オハイオ州からおはようさん!」と言って一年生の教室のドアを開けたが、しっかりとした顎の骨格のゆえかその声はよく響いた。男子テニス部の最終兵器を自称する竹渕先輩のギャグに、一年生のみんなは乱反射する湖のように笑いさんざめいた。ところがその後がいけなかった。竹渕先輩はよく響く声で、「アダムはその妻エヴァを知った! どうだ一年生諸君、きみたちにはこの〈知った〉ということの意味が分かるか?」と続けたのである。乱反射する湖のような笑いはいっそう強烈に光った。悠太郎はそのことを厭わしく思った。そういうことは小学校高学年ともなれば保健体育の時間に教わる。それに牛を飼っている開拓農家の家の子は、学校で教わるよりも早く雌雄の交わりについて知るだろう。大柴映二の父親は家畜人工授精師を兼ねた獣医だから、エージョリアンはそうしたことに詳しいと見えて、しばしばみんなのあいだで「種つけ!」と叫びながら腰を振るという下卑た仕草をしては笑いを取っていた。そうしたことは何もかも、悠太郎にとっては不純の最たるものであった。ところがそこへ竹渕先輩から「どうだ真壁、きみには分かるか? 言ってみろ、アダムとエヴァは何をした?」と迫られたからたまらなかった。分からないと言っても恥ずかしいし、分かると言ってもなおのこと恥ずかしいような気がして、悠太郎は睫毛の長い目を悄然と伏せて黙り込んだ。アダムがエヴァを知ったということは、アダムはエヴァと寝たに違いない。アダムはエヴァとやったのだ。竹渕先輩にそう答えてしまおうか。しかしそんなことを口に出すのはあまりにも恥ずかしい――。
そのときどすの利いた大きな声が「おいブチ公! てめえくだらねえことをほざいて真壁を困らせるんじゃねえ」と智也に呼びかけた。その声の主は、瞼の厚い目に闘志を湛えた真霜譲治であった。マッシモ・ジョルジョは野球部で日々汗を流していた。「おおジョルジョ、くだらないとは何だ。これがくだらないものか。俺たちにとって焦眉の急だ。喫緊の課題だ」と智也は反論したが、「そうだとしても、でけえ声であけすけにほざくんじゃねえよ。てめえは品位ってものを知らねえのか。たしかに人間は天使じゃねえが、そうかといって獣でもねえはずだ。畜生に身を落とすんじゃねえ。真壁の精神の純潔と禁欲的な克己心を、てめえも少しは見習いやがれ。真壁はなあ、卓球部としての毎朝の走り込みが終わった後でも、ひとり残ってグラウンドを余計に走ってやがる。その動機が何なのか、俺は知らねえ。だが自分の体力の弱さを知ったうえで、それを乗り越えようと努力する根性は見上げたもんじゃねえか。ブチ公、てめえも見習って勉強しやがれ」とジョルジョにやっつけられてぐうの音も出なかった。「今日のところは見逃してやる。だが忘れるな真壁。いつかおまえに大人の階段を昇らせてやるぞ」と言い置いて、竹渕先輩は退散していった。悠太郎は言葉にならない感謝を胸に抱いてジョルジョ先輩に一礼した。「無理するんじゃねえぞ真壁。てめえの優れていることは、俺たち二年生の教室にも聞こえている。俺たちの担任の埴谷先生が、よくてめえのことを褒めているよ。てめえはてめえらしく、てめえのペースで成長しやがれ」とジョルジョ先輩は悠太郎に言い聞かせて立ち去った。一年生のみんなは、凪いだ湖のように静かになっていた。
「まったく俺はついてないな」と悠太郎は、やはりあのときも銀色に光る自転車で国道を北へと――つまりまだ雪の残る寝観音のような浅間山から遠ざかって――走りながら独りごちたのである。六里ヶ原第二小学校から来た御所平の大柴映二は、もはや靴のことを「くちゅ」と発音するようなことはなかった。しかしエージョリアンと呼ばれるようになっていた映二の細長い目と、悠太郎に向けた幼稚園以来の敵意は相変わらずで、悠太郎が何か話しかけると突然わざと「生肉!」とか「カバディカバディカバディカバディ!」とかナンセンスなことを言って、会話を成り立たなくするようなことがあった。そうした流れであるとき映二が放った「マンジュゴーシャ、おまえが総指揮でやれ!」という言葉は、小学校での鼓笛隊の大切な思い出を踏みにじって、悠太郎の心を深く傷つけた。それを聞いた大屋原第三集落の神川直矢は、白目の冴えた小さな目を笑わせながら、「言われてみればその通りだな。エメラルドグリーンのクルタがよくお似合いだ。ユウ、正大師のステージに昇格した気分はどうだ? てめえなんざ、あいつのようにぶっさ刺されちまえ!」とまで言ったのである。「まったく俺はついてないな。映二も直矢もどうして俺にあんなことを言うのだろう。俺にあんなことを言うのは、あいつらが野卑で低俗だからだ」と悠太郎は考えながら自転車を漕ぎ、四つの厳めしい石碑がある甘楽のバス停を通り過ぎて、自動車店のあたりまで来た。北軽井沢地域から国道を北上し――つまりその分浅間山から遠ざかって――鷹繋山や浅間隠の連山を東に、白根山から四阿山への連なりを遥か北西に見渡しながら応桑地域へと向かう下り坂は、その自動車店のあるあたりで一時的に急勾配になっていたから、悠太郎にとって下校時には心臓破りの坂となったが、登校時にはペダルを漕がずに風を切って坂を降りるのが楽でもあれば気持ちよくもあった。時あたかも高原の遅い春の到来を前にした頃で、悠太郎の内心の鬱屈した思いには無関心に、玲瓏と透き通った風が爽やかに吹いていた。悠太郎は暗い思いを忘れようとでもするかのように、いつもより勢いをつけて急勾配を下ろうとした。ところがアスファルトに砂が浮いていたために、悠太郎は盛大にすっ転んだのである。
悠太郎が痛みに耐えて起き上がり、エメラルドグリーンのジャージに滲む赤黒い血を認め、肘や膝の広い範囲に及んだ擦り傷を確かめ、歪んでひん曲がった自転車を起こしていると、銀色に光る自転車で颯爽と坂道を下ってきた女子生徒が、緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声で、「どうしたの? 大丈夫?」と傷ついた少年を気遣いながらひらりと降車した。悠太郎はもちろん慕わしいその声を知っていたので、「留夏子先輩。おはようございます」と言って白いヘルメットを被った頭を下げた。自転車通学時に生徒たちが着用を義務づけられているそのヘルメットは、転倒したとき頭を打たなかったので割れてはいなかった。「真壁じゃない。おはよう。まあ、ひどい傷ね。そんなに血が出て、痛かったでしょう」と留夏子は切れ長の目を痛ましそうに細めたが、悠太郎は「私の体なんかどうなろうと構わないんです。しかし自転車を壊してしまいました。後輪が回らなくなりました。買ってもらったばかりなのに、家族に申し訳ないことをしました」と言って睫毛の長い目を悄然と伏せた。留夏子はしばし考えをめぐらした後で、「そう。ここから後輪を持ち上げながら自転車を押して歩くとすると、部活の朝練には間に合わないわね。私が体育館に寄って、卓球部の人たちに伝えておくから、真壁は学校に着いたらすぐに保健室で手当てしてもらってね」と言い、「ありがとうございます。よろしくお願いします」と応じた悠太郎に別れを告げて再び自転車に跨った。悠太郎は凛乎たるその後ろ姿を憧れの眼差しで見守っていたが、留夏子はすぐにブレーキをかけて停止すると振り返って言った。「真壁、誰かがあなたに害を加えたとしても、その害悪のためにあなたが堕落しないように願いなさい。あなたが害を被ったことで堕落しなければ、その誰かはあなたにどんな害も与えなかったことになるから。いつかあなたも『重力と恩寵』を母さんに借りて読むといいわ」そう言い残すと留夏子はまた颯爽と自転車を走らせ、ソフトテニス部の朝練習が待つ学校へと向かっていった。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて、慕わしいその後ろ姿が遠ざかってゆくのを見送りながら、魂を照らすようなその言葉の意味を思いめぐらした。そうするうちに、中学生として留夏子と個人的に話をしたのは、これが最初であることに思い至った。なんと無様な姿を見せてしまったことだろうと悠太郎は恥じ入り、「まったく俺はついてないな」とまた独りごちた。
壊れた自転車を押しながら学校にようやくたどり着くと、悠太郎は保健室で篠原豊子先生の手当を受けた。豊子先生は五十路も半ばを過ぎた小柄な女性で、色褪せた髪はつむじのあたりから薄くなっていたが、よく笑うその目には、少年少女たちの心身を見守る叡智の光が湛えられていた。豊子先生は青春の始まりにおける困難を見つめながら、少年少女たちの若さに好んで身を浸していた。だからこのときも悠太郎を手当てしながら、「ウッス、真壁くん、手ひどくやられたっすね。痛恨の一撃っすね。消毒は染みるっすよ。覚悟はいいっすか?」などと、多くの男子生徒たちが使う口調を真似して語りかけたのである。「さあこれでよしと。まあ怪我には気をつけてほしいっすが、それはそれとして真壁くんのことはいろいろ聞いてるっす。何か苦しいことがあったら、保健室に顔を見せてほしいっす。若い男の生き血を啜って、婆さんはピチピチに若返るっす」と言う豊子先生にお礼を述べて、悠太郎は保健室を後にした。一年生の教室には同じ卓球部の芹沢カイが、朝練習後のグラウンドの走り込みを終えて戻ってきていた。「ユウちゃん、ひどい目に遭ったな。佐藤先輩が知らせてくれたよ。うわあ、えらく血が出たな。傷はどうだい?」と気遣うカイに、「ああ、痛かった。だけど手当てしてもらったから大丈夫だろう。しかし朝練を休むことになって心苦しい」と悠太郎は応じた。「まあ気にすることはない。うちはそんなに熱心な部じゃないし、顧問の富里先生だって、そう厳しいわけじゃない」とカイは言って、雀斑の散った顔をニヤリと笑わせた。「だがバレー部のペトラ先輩には用心したほうがいいぜ。佐藤先輩がユウちゃんの怪我のことを知らせたとき、ペトラ先輩は大笑いしていたよ。どこかで会えば、ひとしきりからかわれることを覚悟しなきゃなるまい。いや、俺まで笑っちゃいけないんだが、しかしペトラ先輩はよくあんなふうに大笑いできるよな。こういっちゃ失礼だが、まるで馬鹿笑いだ。ユウちゃんはとりわけペトラ先輩を笑わせると見える。ひょっとしたらペトラ先輩は、ユウちゃんに気があるのかもしれないな。まあとにかく用心してくれ」
ペトラ先輩というのは、幼稚園時代に留夏子と仲良しだった岩瀬麻衣を指す呼び名であった。このあだ名がつけられたのは、大屋原第二集落の真霜譲治がマッシモ・ジョルジョと呼ばれるようになったのと同じ事情によっていた。苦学の労働者であるカイの父親が、いつかテレビゲームに登場するピーターという名を見て、「英語ではピーター! ドイツ語ではペーター! フランス語ではピエール! スペイン語ではピエトロ! ギリシャ語で岩を意味するペトロスから来ている! 女性名はペトラ!」と、草軽バスのエンジンの爆音のように言ったことが広まったので、岩瀬麻衣はいつしかペトラと呼ばれるようになっていたのである。垂れ目のペトラはしかしほのかな赤みの差した頬と、昔のようには間延びしないまでものんびりとした話しぶりと、ツインテールの黒髪と、柔軟でしなやかな体つきをした美しい少女に成長していた。留夏子は中学校に入学するとき、再会したペトラと固く抱擁を交わしたという噂が、悠太郎たちの学年まで伝わってきていた。悠太郎やカイの所属する卓球部は、ペトラ先輩が所属するバレーボール部と体育館を分け合って練習していた。防球フェンスを並べて仕切ったステージ側の狭い部分を卓球部が、そのほかの広い部分をバレーボール部が使っていたのである。悠太郎はサーブやレシーブといった卓球の練習の合間に、ふとペトラ先輩に目を奪われる瞬間があった。猫のように柔軟に跳躍して伸び縮みするペトラ先輩の姿態を見るたび、悠太郎の心の湖は妖しく揺らめき、恐ろしいほどに光った。
「あっはっは! マッカベさん! チャリでこけたんですって? ルカから聞いたよ。うっかりさんだなあ。あらあら、そんなに血を出して、出血大サービスって感じじゃない。まったくマッカベさんは、あっはっは! 生真面目なくせにどこか抜けていて、何をやっても面白いんだから。あんたのおかげで卒業までは笑いの種に困らないよ。本当におかしいんだから、マッカベさんは。あっはっは!」と、カイが警告した通り悠太郎は、休み時間に廊下ですれ違ったペトラ先輩にからかわれた。悠太郎はペトラ先輩ののんびりした言葉と明るい笑い声を聞かされると、自分がからかわれているにもかかわらず、なぜか笑い出したくなってくるのであった。留夏子の親友であり、留夏子とは別種の美しさを備えたペトラが、こんな仕方であれ自分を相手にしてくれることを、悠太郎はそれほど悪くないと感じていた。ともあれこの場合には、反発するようなふりをするのも遊戯のうちであったから、悠太郎は笑いを堪えてわざと険しい表情を作ると言い返した。「お言葉ですが岩瀬先輩、いったいこれが笑い事でしょうか。打ち所が悪ければ、死んでいたかもしれません。幸いにして死にはしませんでしたが、もし傷口から悪い菌でも入って私が手足を失うようなことにでもなれば、先輩はそうしてお笑いになったことを、きっと後悔なさると思います」するとペトラ先輩は、「相変わらずマッカベさんの敬語は折り目正しいなあ。端正かつ毅然とした格調があるね。あっはっは! あんたは何を言っても面白いんだから。まったくもう、マッカベさんは。あっはっは!」といっそう笑いを募らせていったが、次の瞬間には憑き物が落ちたように真顔になって、「ごめんなさい。あんたの無事が嬉しくて、ついはしゃいじゃった。あたしはあんたの言葉を聞くのが好きよ。でもあたしはあんたに何か言わせたいと思っても、こうしてからかうしか能がないから。要するにルカのようにはあんたと話せないの」とやや上目遣いになって言った。
悠太郎はそんなペトラ先輩を、やはりいくらか愛らしいと思った。悠太郎がけっして完全には魅了されないことを承知の上で、ペトラ先輩はこの生真面目な後輩に対して、自分の魅力を試しているのであった。そのくらいのことは悠太郎にも感じ取れたし、また秀子から聞かされていた話のために、この笑い上戸の先輩を気遣う思いも持っていた。秀子によればペトラ先輩の家は応桑の農家であった。農家は農家でも、満蒙開拓団の生き残りたちが六里ヶ原に入植する以前からの農家であった。ペトラ先輩の母親は、やはり明るく笑う屈託のない人で、ペトラ先輩は三人姉妹の真ん中だということであった。岩瀬農園の母屋の土間にはアップライトピアノが置かれていて、三人姉妹はそれで音楽を楽しんでおり、ペトラ先輩は中学生になると、〈若い翼は〉でも〈夢の世界を〉でも〈あの素晴らしい愛をもう一度〉でも、クラス合唱の伴奏を片端から弾けるようになったという。ところが最近になってペトラ先輩の父親は、愛人を作って一緒に逃げたというではないか。残された母親や娘たちは、それでも明るく笑いながら畑をやっているという。そんなペトラ先輩が少しでも愁いを忘れてくれるなら、自分なんか笑われたっていいではないかと思った悠太郎は、「岩瀬先輩、どうか謝らないでください。先輩が何くれと笑いのめすことで、私を気遣ってくださっていることは存じております。私などでよろしければ、どうぞ卒業までお笑いください。私も先輩の笑い声が嫌いではないのです。ついでながら言っておきますが、入学したあとで留夏子先輩と話したのは、今朝転んだときが最初でした。これからは話すこともないと思います」と言ってみた。するとペトラ先輩は、「そうかな? これからはよく話すようになるよ。今は何も言わなくても、ルカは内心あんたを頼りにしてる。同学年のみんなには、ルカを敬して遠ざけるようなところがあるから、ただでさえ薄い高原の空気が、あいつのまわりではいっそう薄いみたいなの。とにかくあんたはもっと自分を大切にしてね、心も体も。さもないとルカが悲しむよ」と秘密を告げるように答えて去った。
やはりペトラ先輩が俺にちょっかいを出すのは、ある程度まで留夏子先輩の代理としてなのだなと悠太郎は思った。そうであろうと読んでいればこそ、留夏子先輩の気持ちについてペトラ先輩に探りを入れてみたのだが、果たしてそれは無益ではなかった。ペトラ先輩の言葉を聞いた悠太郎は、伸音ペダルをいっぱいに踏み込んだグランドピアノの内部のような予感に満たされた。ところでペトラ先輩と悠太郎がそんなふうに話している場面は、しばしば多くの生徒たちの目に留まった。ペトラ先輩が何かにつけて「マッカベさん、あっはっは!」と笑っていることも、多くの生徒たちが知っていた。物事の表面しか見ようとしない生徒たちは、ペトラ先輩が悠太郎に好意を持っているとか、いやその反対なのだとか、いやすでにふたりは両想いなのだとか憶測したが、事情はそれほど単純ではなかったのである。芹沢カイは知性を湛えた目で事態を見誤っていたし、留夏子の弟でテニス部の佐藤隼平もまた灯台下暗しで、斜視気味の目を真相に向けることなく、誤った憶測を吹聴していた。バレーボール部でペトラ先輩の近くにいる金谷涼子ならば、黒曜石のように光る目で物事の奥を見通しているかもしれない。テニス部で留夏子先輩の近くにいる諸星真花名もまた、きらきら光る茶色の目で真実を見ているかもしれない。しかし隠れた事情に感づいている生徒は、ごく少数であろうと思われた。「いっそ好都合だ。勘違いをする者には、させておけばいい」と悠太郎は思った。「しかし母から聞いた話は驚きだった。ペトラさんはあの馬鹿笑いの奥に、いつも涙を隠しているのかもしれないな。いやペトラさんだけじゃない。楽しく中学校生活を送っているように見える誰も彼もが、見えないところでつらいことに耐え、重いものを背負っているのかもしれない。だがそのいちいちに俺は立ち入ることができない。俺は俺の重荷を背負うことで精一杯なのだから。それでも留夏子さんがまだ俺を気に懸けてくれているなら、それだけで俺は頑張れる。それにしても大きくなるとは、やはり濁った湖になることなのだろうか。こんなふうにしてお互いの気持ちを探り合うとは、俺たちもずいぶん不純になったものだ」
不純といえば、思春期に特有の関心を大声であけすけに語ることは、悠太郎にとって不純の最たるものであった。ある日一時間目の授業が終わって休み時間になると、二年生の竹渕智也がシティーボーイ風の前髪をはらりと風に流しながら、「オハイオ州からおはようさん!」と言って一年生の教室のドアを開けたが、しっかりとした顎の骨格のゆえかその声はよく響いた。男子テニス部の最終兵器を自称する竹渕先輩のギャグに、一年生のみんなは乱反射する湖のように笑いさんざめいた。ところがその後がいけなかった。竹渕先輩はよく響く声で、「アダムはその妻エヴァを知った! どうだ一年生諸君、きみたちにはこの〈知った〉ということの意味が分かるか?」と続けたのである。乱反射する湖のような笑いはいっそう強烈に光った。悠太郎はそのことを厭わしく思った。そういうことは小学校高学年ともなれば保健体育の時間に教わる。それに牛を飼っている開拓農家の家の子は、学校で教わるよりも早く雌雄の交わりについて知るだろう。大柴映二の父親は家畜人工授精師を兼ねた獣医だから、エージョリアンはそうしたことに詳しいと見えて、しばしばみんなのあいだで「種つけ!」と叫びながら腰を振るという下卑た仕草をしては笑いを取っていた。そうしたことは何もかも、悠太郎にとっては不純の最たるものであった。ところがそこへ竹渕先輩から「どうだ真壁、きみには分かるか? 言ってみろ、アダムとエヴァは何をした?」と迫られたからたまらなかった。分からないと言っても恥ずかしいし、分かると言ってもなおのこと恥ずかしいような気がして、悠太郎は睫毛の長い目を悄然と伏せて黙り込んだ。アダムがエヴァを知ったということは、アダムはエヴァと寝たに違いない。アダムはエヴァとやったのだ。竹渕先輩にそう答えてしまおうか。しかしそんなことを口に出すのはあまりにも恥ずかしい――。
そのときどすの利いた大きな声が「おいブチ公! てめえくだらねえことをほざいて真壁を困らせるんじゃねえ」と智也に呼びかけた。その声の主は、瞼の厚い目に闘志を湛えた真霜譲治であった。マッシモ・ジョルジョは野球部で日々汗を流していた。「おおジョルジョ、くだらないとは何だ。これがくだらないものか。俺たちにとって焦眉の急だ。喫緊の課題だ」と智也は反論したが、「そうだとしても、でけえ声であけすけにほざくんじゃねえよ。てめえは品位ってものを知らねえのか。たしかに人間は天使じゃねえが、そうかといって獣でもねえはずだ。畜生に身を落とすんじゃねえ。真壁の精神の純潔と禁欲的な克己心を、てめえも少しは見習いやがれ。真壁はなあ、卓球部としての毎朝の走り込みが終わった後でも、ひとり残ってグラウンドを余計に走ってやがる。その動機が何なのか、俺は知らねえ。だが自分の体力の弱さを知ったうえで、それを乗り越えようと努力する根性は見上げたもんじゃねえか。ブチ公、てめえも見習って勉強しやがれ」とジョルジョにやっつけられてぐうの音も出なかった。「今日のところは見逃してやる。だが忘れるな真壁。いつかおまえに大人の階段を昇らせてやるぞ」と言い置いて、竹渕先輩は退散していった。悠太郎は言葉にならない感謝を胸に抱いてジョルジョ先輩に一礼した。「無理するんじゃねえぞ真壁。てめえの優れていることは、俺たち二年生の教室にも聞こえている。俺たちの担任の埴谷先生が、よくてめえのことを褒めているよ。てめえはてめえらしく、てめえのペースで成長しやがれ」とジョルジョ先輩は悠太郎に言い聞かせて立ち去った。一年生のみんなは、凪いだ湖のように静かになっていた。
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