明鏡の惑い

赤津龍之介

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第十四章 歳月の灰

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 メトロノームに合わせて上下運動するメジャーバトンのように、夏の日々は一日また一日と規則正しく移り変わり、やがて夏休みが終わって二学期が始まると、鼓笛隊の練習はいよいよ本格化した。それまでは鍵盤ハーモニカを吹奏する五年生と一緒に、ピンク色の絨毯が敷かれた音楽室で六年生は打楽器を練習していたが、とうとう行進しながら演奏する練習が始まったのである。涼子と真花名と悠太郎は、同時に白いホイッスルを鋭く吹き鳴らしながら、メジャーバトンを回転させて高々と掲げ、演奏と行進のテンポを指定する予備運動を行なうと、それぞれの隊を率いて進み始めた。豪胆な涼子の姿はいかにも堂々としていたし、きびきびとした真花名の姿も立派なものであった。しかし悠太郎のしゃっちょこばった姿勢はどうにも滑稽で、同級生や五年生の失笑を誘った。自分が笑いものにされていることを聞き取った悠太郎は、すぐさまホイッスルを鋭く吹き鳴らして全員を注目させると声を張り上げた。「みんな、どうか聞いてもらいたい。みんなはぼくが指揮する姿を見て笑っている。みんなが笑うのはもっともだ。ぼくはこんなにしゃっちょこばっているのだから、みんなが笑うのも無理はない。だがみんな、どうか分かってもらいたい。ぼくは真剣なんだ。ぼくが真剣に指揮していることを、みんなにはどうか分かってもらいたい。ぼくはマーチングの成功を真剣に願っている。鍵盤ハーモニカの五年生も、打楽器の六年生も、全員が調和のうちに素晴らしい音楽を演奏できるようにと願っている。誰ひとりとして落ちこぼれたと感じることもなく、誰ひとりとして取り残されたと感じることもなく、全員がリズムとメロディーとハーモニーによって調和した夢のような鼓笛隊となって、この浅間山の麓の校庭を行進できるようにと切に願っている。そのためならできることは何でもするつもりだ。たしかにぼくは虚弱でスポーツが得意ではない。ぼくは運動会の勇者ではない。しかし音楽のことなら少しは心得ている。鍵盤ハーモニカの指遣いや息継ぎのタイミング、小太鼓や中太鼓のスティックの持ち方、大太鼓やシンバルやベルリラの扱い方で分からないことがあったら、ぼくに何でも訊いてほしい。今さら先生には訊けないようなことなら、なおのことぼくに訊いてほしい。すぐに正しい答えを与えると約束しよう。そしてリズムや音に狂いが聞き取れたときには、ぼくのほうからも指摘する。そのときはよりよい演奏のために、どうか協力してもらいたい。ぼくの滑稽な姿を笑うことは構わない。だが一緒に音楽を演奏することには、みんなもどうか真剣であってほしい。これが至らない指揮者からのお願いだ」そう言って悠太郎は深々と頭を下げた。静かに話を聞いていたみんなは、その姿を見てざわついた。やがて芹沢カイが小太鼓を鳴らして賛意を表すと、佐原康雄が中太鼓を、戸井田一輝がシンバルを、佐藤隼平がベルリラをそれぞれ打ち鳴らしてそれに続き、音の波はほとんど六年生の打楽器全体に広がった。ただ大太鼓の神川直矢だけは、悠太郎に賛意を示す音の群れに加わらなかった。鍵盤ハーモニカに片手を塞がれた五年生たちは拍手をすることもできず、呆気に取られて悠太郎を見ていた。涼子の黒曜石のような目と真花名の茶色い目は、冴子先生の肉の厚い頬にむっつりとした表情が浮かぶのを映していた。
 このことがあってから、同級生たちは折に触れて、悠太郎に励ましの言葉をかけてくれるようになった。「俺はユウちゃんの指揮が好きだぜ。なんだか安心して演奏ができるよ」とカイが雀斑の散った顔をニヤリと笑わせれば、「俺もユウちゃんには案外指揮の才能があると思うよ」と康雄が荒れた唇で同意した。「軍隊らしくないのがいいんだよ。軍隊らしくない鼓笛隊の指揮者は、戦後五十年の今年に相応しいんじゃないか?」と一輝がいくらか鳥の嘴めいた唇を笑わせれば、「さすがは母さんの愛弟子だけのことはある。俺がこの六年で見てきたどんな指揮者とも違う音を、ユウは聴いているんだろうな」と隼平がいくらか斜視気味の目を眩しそうに細めた。それからの練習で、みんなの音楽は次第にまとまっていった。悠太郎はあるときは大太鼓の遅れを指摘し、またあるときはシンバルにもっと大きな音を出すよう要請した。さらには校歌を吹奏する鍵盤ハーモニカの半数に、主旋律とハーモニーを作る副旋律を吹くよう口頭で指示を出しさえした。試しに言われた通り吹いてみた五年生たちは、聴き飽きた校歌の旋律が新たな表情を見せることを面白がり、改めてこの指揮者を尊敬の目で見るようになった。即席でなされたこの編曲には、六年生一同ともども、冴子先生もまた驚かざるを得なかった。そうこうするうちに、しゃっちょこばっていた悠太郎の体からも、次第に無駄な力が抜けていった。そうしたことを悠太郎は宿題の日記に書き留めた。
 そんな日々にあって悠太郎の支えとなったのは、六年生の教室にある絵入りの宮沢賢治作品集であった。あの巻やこの巻を悠太郎は昼休みに教室で貪り読み、あるいは借りて帰って家で耽読した。沙車さしゃという場所での出来事として物語られる「かりの童子」からは、砂漠に立つ砂糖水のような陽炎が揺らめき、あんずやスモモの白い花が香り、玉髄の雲の峰が光り、列をなして空を飛ぶ雁の羽音が聞こえた。誰もどこへも行かないでいいのかという十二歳の童子の問いは、十二歳の誕生日を迎えようとしていた悠太郎の胸に迫った。「いちょうの実」では冷たく澄み切った朝の丘に立つ樹から、様々に言葉を交わした銀杏いちょうの実たちは、北風に吹かれて一斉に飛び立っていった。そして「銀河鉄道の夜」! ちょうど理科の草壁敬子先生が、げっそりと頬のこけた顔をやや左に傾げながら、教室や照月湖のほとりで星について教えてくれたように、童話のなかでは先生が午後の教室でジョバンニやカムパネルラたちに銀河のことを教えていた。ケンタウル祭の夜には悠太郎はジョバンニとともに、ネオンの灯る時計屋の店先に飾られた星座早見をのぞき込んだ。丘の頂にある天気輪の柱から、いつしか銀河鉄道に乗り込んだ悠太郎は、そこにカムパネルラの姿を認めた。いや、カムパネルラと名乗っていたのは入江紀之であった。小学校六年生の姿をしたノリくんであった。ふたりは銀色のススキが波立つ銀河の岸辺や、金色の円光を戴いた白い十字架のある島や、大昔の胡桃や獣の骨が出土する海岸を通り過ぎた。アルビレオの観測所では、透明なサファイアとトパーズの球が静かに回っていた。汽車はきらびやかな燐光のなかを進んでいった。あらゆる光でちりばめられたサウザンクロスに着いたとき、車内から「ハルレヤ」の合唱が起こった。一緒に行こうと言いながら悠太郎が振り返ると、今まで紀之が座っていた席にその姿はなかった。悠太郎は我に返って本から目を上げ、鬱蒼とした林の葉叢が宵闇のなかで夕風にざわめくのを聞いた。
 さてその頃のフクロウが鳴くある夜、狐目の春藤秋男さんが災難に遭った。照月湖モビレージの管理棟で執務を終えた春藤さんが、明鏡閣の近くにある独身社員寮を目指して歩いていると、突然四人の人影に取り囲まれた。「浅間観光の春藤というのはおまえだな」とそのうちのひとりが言った。「誰だ?」と春藤さんは、とっさに懐中電灯の光を怪しげな人影に向けたが、四人とも顔には覆面をしていた。ふたりが素早く春藤さんの両脇を抑え、ひとりが春藤さんから奪った懐中電灯でその顔を照らすと、手の空いた人物は「なるほど、聞いていた通り狐目の男だ。間違いない。やれ。ただし殺すなよ。そこまでのことは頼まれていないからな」と言った。懐中電灯を照月湖に投げ捨てた人物が、拳で春藤さんの腹を一撃した。やれと命じた人物も顔を殴った。地面に倒れ込んだ春藤さんに、四人の覆面たちは寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加えた。その後のことは春藤さん自身がもうよく憶えていなかった。ただ覆面たちがいずこへともなく散っていった後で、タコ殴りに殴られた春藤さんが、急な坂道を登って真壁の家に助けを求めたことだけは確かであった。悠太郎が朝起きて居間へ行くと、そこには黒縁の眼鏡を割られて顔じゅう痣だらけになった春藤さんが、仰向けになって長々と伸びていたのである。程なく秀子が起きてきて、昨夜の出来事を話して聞かせた。そこへ梅子が起きてきてその有様を認めると、パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら、「なんでこんな者がうちにいるんだ! おまえは夜のあいだに男を連れ込んだのか!」といきり立った。「だって怪我をしていたのよ。放っておけないでしょう」と秀子は答えたが、「そんな者は、!」と梅子は吐き捨てるように言った。ちなみに「かまんどけ」とは、構わないでおけという意味である。千代次も起きてきて、いかにも嫌なものを見たとでも言いたげに顔を歪めた。それを見た悠太郎は、祖父の顔から宇宙全体が腐り始めるような気がした。誰がこんなひどいことをしたのだろう、春藤さんはなぜこんな目に遭ったのだろうと悠太郎は考え、クラシックカーの祭典をめぐる浅間観光と学芸村のトラブルのことに思い当たった。浅間観光は別荘地内に勝手に道を作った。そしてその場所の原状回復工事にかかった費用の支払いをめぐって、自動車会社とまでトラブルになったとも聞いていた。しかし古株村民たちにせよ自動車会社にせよ、まさかこれほどの暴力に訴えようとは信じられなかった。いつにも増して険悪な家族に囲まれながら、悠太郎は不穏な気分で朝食を取って登校の支度を進めた。その日は運動会の総練習が行なわれることになっていたのである。
 さてその総練習で鼓笛隊を指揮した悠太郎が、時々起こる大太鼓のリズムの遅れを指摘したとき、「文句があるならてめえで太鼓を叩きやがれ。そのご立派な棒なら、今からだって俺が振ってやる。てめえではひとつの音も出さねえくせに、綺麗に飾り立てた棒なんざ振り回して、俺たちにああしろこうしろとぬかしやがる。いかにもてめえらしいな」と神川直矢は憤懣ふんまんを爆発させた。「先生、悠太郎はいつもこうです。さっきだって組体操のタワーで、俺が地べたに這いつくばって土台になっているところへ、悠太郎は乗っかりました。鼓笛隊でも自分では音を出さずに、華やかなところだけを持っていきます。悠太郎は自分で泥にまみれたり、自分の手を汚したりは絶対にしないんです。そういう生き方は卑怯だと俺は思います。俺だって畑仕事や牛乳搾りの手伝いがなければ、もっと勉強したり音楽を習ったりできるんです。悠太郎が鼓笛隊の総指揮を務めるというなら、せめて組体操の土台にでもなってもらいたいと思います」と直矢は松本冴子先生に言った。副指揮者として悠太郎の隣にいた真花名は、ふるえがちな声を励ますように、「直矢くんの言うことは違うと思います。悠太郎くんはただバトンを振っていただけじゃありません。みんなに楽器の鳴らし方や指遣いを教えてくれました。びっくりするような編曲を次々と考えてくれました。知恵と力のすべてを、私たちのために使ってくれたんです。とても苦労したんです」と言った。小太鼓の芹沢カイも目許に静かな知性を光らせながら、「組体操では体の頑丈な者が土台になるのは当然です。指揮者としての適性とは、全然別の話だと思います」と真花名に加勢した。しかし冴子先生は、何を思ったか直矢に同意した。「言われてみればそれもそうね。泥にまみれず華やかなところだけを持っていくって、まるでどこかの観光ホテルみたいね」
 次の瞬間には悠太郎が殺気をんで猛然と駆け出した。右手に構えたメジャーバトンの先端は、狂いなく冴子先生の喉元を狙っていた。やはり副指揮者として悠太郎の近くにいた涼子は、とっさに飛び出してその足を払うと、地面に倒れた悠太郎の背に乗ってこれを組み伏せながら、「馬鹿野郎! これまでの努力を無駄にするつもりかい! 堪えなくてどうするんだ!」と、もがく少年の耳許で語気鋭く囁いた。小太りの冴子先生は、いくらか面喰いながらその有様を見下ろしていたが、肉の厚い頬に不気味な笑いを浮かべて言った。「おやおや、どうしたの? 悔しいの? 観光ホテルのお坊ちゃん。女の子に組み伏せられて身動きもできないほど弱いくせに、プライドだけは一丁前ね。たまには泥にまみれるのもいい勉強でしょう。みなさんいいですか、英語のhumanityつまり人間性とhumidityつまり謙虚さは、同じくラテン語のhumusつまり土を語源とするそうです。時には地べたに這いつくばって、謙虚な人間性を養うのもいいでしょう。悠太郎くんと真花名さんとカイくんは、組体操のタワーで土台になってください」
 この言葉を聞いた悠太郎は暴れるのをやめた。自分の軽挙妄動が友人たちを巻き込んでしまったことを、悠太郎は深く悔いた。悠太郎はメジャーバトンを振るうだけの腕力こそついたとはいえ、相変わらず華奢であった。真花名はテニスで鍛えているとはいえ小柄であった。カイは未熟児として誕生しただけあって、同学年の誰より身長が低かった。この三人をタワーの土台にするなど、およそ正気の沙汰ではなかった。
 運動会の当日となった明くる朝、カイは真花名と悠太郎を、多目的スペースから廊下ひとつ隔てた談話スペースに誘った。楕円形のテーブルに着いた三人は、額を集めて話し合っていた。「……とまあ親父が言うにはそういうわけだ。俺が潰されても小太鼓がひとり欠けるだけだが、指揮者のふたりに何かあったら鼓笛隊は潰滅だ。まあ気休めにしかならないかもしれないが、このやり方で何秒かは凌げるはずだ。できることはやってみるべきだと俺は思う。どうだい?」とカイが言うと、「カイくんが教えてくれた通りにやってみようよ。ユウちゃんが……その……恥ずかしくなければ」と真花名が応じた。「恥ずかしがっている場合ではなさそうだね。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれだ。小太鼓も指揮者も、誰ひとり欠けてはならない。カイくんの言う通りにやろう」と悠太郎は同意した。
 高く澄んだ青空の下で色とりどりの万国旗は風に翻り、浅間山は白い煙を吐きながら寝観音のような山容を示していた。前へ倣え! 直れ! 気をつけ! 休め! 児童たちは赤・白・青・黄の四団に分けられ、はためく団旗のもと同じ色の鉢巻を額に巻いていた。そんな児童たちの活躍を見ようと、親たちや老人会の年寄りたちが観客席に居並んでいた。徒競走やリレー競走や玉入れや大玉転がしやマスゲームが次々と繰り広げられ、組体操ではサボテンやカシオペアや扇が演じられ、ついに三段タワーを組み上げる運びとなった。冴子先生が吹き鳴らすホイッスルの合図とともに、カイと悠太郎と真花名は四つん這いになった。そして次の瞬間には左からカイが、右から真花名が、真ん中の悠太郎にぴったりと身を寄せた。カイの提案通り密着することでいくらか安定した土台に、二段めの児童たちが、そして頂点の直矢が重さを加えた。悠太郎の腕はふるえ、膝には砂粒がめり込み、息は苦しくなった。それでもほんの数秒を凌げばよいのだと、悠太郎は自分に言い聞かせた。ところがホイッスルは吹かれなかった。ほとんど永遠のような長いあいだ、悠太郎はカイと真花名の体温を感じながら、人間の悪意の重さに耐えていた。かつてヨシュアの声に従って太陽が中天に留まったときのように、時間が止まったかのようであった。やがて観客席がざわつき始めたのでついにホイッスルが吹かれ、三人はようやく重圧から解放された。組体操が終わると、真花名は悠太郎に駆け寄って、「ユウちゃん、大丈夫だった?」と訊いた。カイもまた駆け寄ってきて、「ユウちゃん、しんどかったな。平気かい?」と声をかけた。「まったく平気というわけじゃないさ。体があちこち痛い。だが骨まで折れたわけじゃなさそうだ。ぼくは動ける。ふたりのほうこそ大丈夫かい?」と悠太郎が言うと、カイも真花名も笑顔で頷いた。そのとき悠太郎は、真花名のきらきら光る茶色い目の目尻に、早くも笑い皺が刻まれているのを認めて胸を衝かれた。この少女が十二年のあいだに積み重ねてきた心労を、悠太郎はほとんど思いやったことがなかった。やがて涼子が「おうい、あんたたち、無事かい?」と言いながら駆け寄ってきた。「カイくんのおかげでどうにか無事だよ。あとは鼓笛隊だけだ。存分にやろうね」と答えた悠太郎は、「サカエさん、明鏡閣の皆さん、留夏子さん、ついにこの時が来ました。陽奈子先生、見ていてください。ノリくん、空の上からきっと見守っていてください」と心のなかで呼びかけた。
 指揮者の三つのホイッスルが音を合わせて鋭く吹き鳴らされ、飾り紐が巻きついた三本のメジャーバトンが、秋の光に輝きながら回転して六里ヶ原の天空を指し示すと、その先端についた房飾りが踊るように弾んだ。指揮者たちがバトンを振りながら先頭に立って歩き始めると、太鼓は異世界からの軍勢のどよめきのような〈ドラムマーチ〉を轟かせながら後に続いて行進が始まった。やがて鼓笛隊はそれぞれの指揮者が率いる三つの隊に分かれて、浅間山を望む校庭に展開した。みんなはベレー帽を被って整然たる隊列で行進していた。澄んだ日の光のなかでシンバルが金色に、ベルリラが銀色に鳴り響くなかを、五年生が鍵盤ハーモニカで牧歌的なヘ長調の校歌を奏でた。鍵盤ハーモニカは一番を完全なユニゾンで、二番を悠太郎が施した二声部のハーモニーで奏した。三番ではいっそう驚くべきことが起こった。ある箇所で三つの隊に分かれた鍵盤ハーモニカが、あたかも谺のように時間差をつけて波状的に応答し合ったから、歌詞に歌い込まれた「学ぼう・遊ぼう・働こう」という三つの教訓が、戯れながら追いかけ合っているかのようであった。この編曲は悠太郎が、ピアノ教室で習っているバッハに触発されて思いついたものであった。二声のインヴェンションを習い終え、三声のシンフォニアを練習していた悠太郎は、三つの声部の模倣的な動きを、鼓笛隊に応用しようと考えたのである。しかし悠太郎が提案したポリフォニーはあくまで疑似的なものに留まり、すぐさま合一してホモフォニーの流れとなるようにしてあったから、演奏する児童たちにさしたる困難は生じなかった。まるで示し合わせていたずらをする悪童たちのように、五年生たちは嬉々として音楽的な奇術に打ち興じたのである。
 〈お料理行進曲〉でも同様のことが起こった。勇壮でありながらどこか哀愁を帯びたマーチの旋律は、太鼓やシンバルが打ち鳴らされるなかを、ひとしきり鍵盤ハーモニカのユニゾンで奏でられた。最初の繰り返しのとき、やはり三つの隊による谺のような応答が起こり、太鼓やシンバルはいっそう賑やかに轟音を発した。しかし二度目の繰り返しのとき、打楽器の轟音が突然やんだ。三つの隊の鍵盤ハーモニカが静寂のなかで織り成す夢のレースを、ベルリラの凛々たる響きだけが銀の糸で縫い取っていた。四小節のあいだ続いた夢を醒ますかのように、シンバルが黄金の音を鳴り響かせると、小太鼓や中太鼓や大太鼓が再び加わって堂々と曲は閉じられた。〈草競馬〉でも同様のことが起こった。鍵盤ハーモニカが奏でる三声部は模倣的に互いを追いかけ合ったから、あたかも見渡す限りの大牧場で、光の馬たちが競い合いながら一日じゅう駆けまわるかのようであった。幻の牧場で勇躍する光の駿馬たちは、やがて天馬となって秋の青空へと高く高く昇っていった。
 やがてまた異世界からの軍勢のどよめきのような〈ドラムマーチ〉を轟かせながら、三つの隊は一列になって観客席の前を通った。誰かが投げた紙吹雪が、赤に青に黄色に翻りながら隊列の先頭に降りかかり、そのひとひらが悠太郎の右目を塞いだ。それでも悠太郎はバトンを振る右手のテンポを狂わせることもなければ、腰に当てた左手を動かすこともなかった。悠太郎は「くぜっ! くぜっ!」とばかり首を急激に後ろへ反らしてみたが、風向きが災いして紙吹雪のひとひらは右目から離れなかった。悠太郎が痛む体を強いて平衡を失うまいと努めていると、しばしば大太鼓がリズムに遅れがちな〈ドラムマーチ〉に合わせて、沈黙しているはずのベルリラが、モーツァルトのクラリネット協奏曲の主題を鳴らすのが聞こえた。悠太郎はベルリラを奏でる入江紀之の姿を思い出した。すると恵み深い風向きの変化が、悠太郎の右目から憂いを拭い去っていった。あとは紅白の紙花であしらわれたゲートをくぐって退場するばかりであった。それでは本当にぼくはやり遂げたのだろうか。それともこれは夢だろうか――。この時を封印しようとでもするかのように、悠太郎が行進しながら目を閉じると、瞼を透過する日の光で視界は明るいオレンジ色に染まった。運動会が終わった後の校庭に悠太郎が家族といたとき、カイの母親である芹沢美智子さんが近づいてきて、雀斑の散った顔を輝かせながら、「ユウくんはよくやったよ。立派な総指揮だったね」と言ったので、千代次は極度に細い目をしばたたきながら相好を崩してご満悦の体であった。しかし美智子さんの独特な富山訛りのイントネーションのために、悠太郎には「総指揮」が「葬式」と聞こえた。それで不吉な予感がしたことを、悠太郎は日記に書き留めた。
 メトロノームに合わせて上下運動するメジャーバトンのように、日々は一日また一日と規則正しく移り変わり、とうとう悠太郎は小学校を卒業した。二年生の頃から書き溜めてきた日記帳は、二十冊を超えていた。それは小学生として過ごした歳月の、またとない記念となるはずであった。ところが卒業式が終わったその日のうちに、梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら、悠太郎にも秀子にも断ることなく、それらの日記帳を裏庭のゴミ燃し場で焼いてしまったのである。「億のお金を積んだって買い戻せないのよ!」と悲鳴のような叫び声を上げた秀子が裏庭へ走ったので、悠太郎も母親についていった。もはや日記帳は形を留めておらず、ゴミ燃し場にはひと山の灰があるばかりであった。「そうね。焼けてしまってよかったのよ。思えば本当に惨めな日々だったわ」と独り言のように言った秀子は、やがて物問いたげな目をした息子の両肩を掴むと、涙を流しながら訴えた。「運動ができない子は、小学校ではスターになれないの。でも中学校では勉強ができる子がスターになるの。お願いよ悠太郎、中学校では勉強で与太奴等をぶっ潰して! お母様のために馬鹿奴等を蹴散らして! 絶対に誰にも負けないで! 絶対に、絶対に、絶対に……」そう懇願しながら秀子は、息子の両肩を掴んだ手にぶるぶると力を込めた。
 春の予感を孕んだ風に歳月の灰が舞い上がり、その年度もまたいつもの年度が終わったように終わっていった。アイシャドウの濃い目をぱちくりさせる三池光子さんが、タンポポの綿毛のような白髪を戴いたババさんを看取った後で、ひばりが丘の団地へと引っ越していったのもその年度のことであった。そして半殺しの目に遭った狐目の春藤秋男さんが、浅間観光の独身社員寮から荷物をまとめて逐電ちくでんしたのも、やはりその年度の終わり近くのことであった。
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