明鏡の惑い

赤津龍之介

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第十四章 歳月の灰

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 指揮者に志願しようかという揺れ惑いがちな思いを決意へと変えたのは、六里ヶ原マラソンのときに起こったある出来事であった。観光協会が「きみよ浅間の風になれ!」のスローガンのもと大々的に開催するそのイベントを、悠太郎は相変わらず恐怖していたが、そのイベントがあるおかげで明鏡閣にも宿泊客が集まるとあっては、悠太郎は喜ぶべきか悲しむべきか分からなかった。高原で走りたいランナーたちが全国各地から参集するイベントを盛り上げるため、六里ヶ原第一小学校の児童たちは、有無を言わせず強制参加させられることになっていた。いくら雨乞いをしようが空頼みに終わるほかない雨天決行であったが、その年の当日はそれなりに晴れ、初夏の日射しが青空から降っていた。種目は五キロ・十キロ・ハーフマラソンと分かれていて、それぞれに異なったコースが設定されていた。五キロ走るだけでも苦しい悠太郎は、学年一の俊足を誇る佐原康雄が十キロの部に出場すると聞いたとき、大きな目を黒々と見開いて愕然とするほかなかった。ゼッケンを身に着けた人々でごった返す北軽井沢グラウンドで、残酷にも号砲が五キロの部のスタートを告げると、悠太郎は冥府にでも赴くような気持ちで、「歓迎 六里ヶ原マラソン」と書かれた黄色いエアブローアーチから吐き出されるように走り始めた。
 混雑するスタート地点付近の人いきれと坂道を登る疲労は、熱気の不快さをいっそう強めた。梅雨に緑を濃くした樹々が両側に迫る県道を、悠太郎は多くの大人たちや子供たちに追い抜かれながら走った。木隠れの浅間山を右手に望みながら、折り返し地点まで県道を南下するあいだにも、相変わらず悠太郎の脇腹は激しく痛み、口のなかには血の味がしていた。しかし唐松林が枝を伸ばすなかに、高崎まで五十六キロという青い標識が出ているのを悠太郎はしかと見た。高崎は航空自衛隊に所属する森山英久伯父様の出身地であり、また祖父の千代次は資産運用に関わる用事で年に一度は出掛けていた。祖父は高崎の商業学校で学んだということであった。家族にゆかりの深い高崎が、自分ともまた無関係では終わらないことを、悠太郎は息を弾ませて走りながら予感した。
 そのとき悠太郎は給水所の近いことを認めた。水を満たした紙コップが長いテーブルの上に並べられ、ランナーたちが走りながらその紙コップを手に取って、冷たい水を口に含むなり、頭から被るなりできるようになっていた。その給水所では、白い二本の側線の入った濃いグリーンのジャージを穿き、白いTシャツを着た何人かの少年少女たちが持ち場に着いていた。あれは中学生たちだ、ぼくも来年には入学することになる、この町の西の中学校の生徒たちだと悠太郎は思った。そうだった、中学校の一年生は六里ヶ原マラソンでボランティアをすると聞いたことがある。あそこにいるのがそのボランティアの生徒たちだ。中学生になればもうこのマラソンに強制参加させられることもない。この苦しみも今年で最後なのだ。ところであの長いポニーテールの少女の凛とした挙措は、ひどく懐かしい感じがする。ああ、何ということだ。あれは留夏子さんではないか。地下鉄で起こった事件に続いた混乱に紛れてすっかり忘れていたが、事件当日に挙行された卒業式の日に留夏子さんは、「六年生の教室には美しい絵入りの宮沢賢治作品集があるの。私は全部読んだ。悠太郎も読むべきよ。中学校でまた会ったら、賢治のことでも話しましょう」と言い残して去っていったのだった。ぼくはそんなことをすっかり忘れていた。留夏子さんだってぼくのことをすっかり忘れているだろう。ピアノを習いに陽奈子先生のところへ行っても姿を見なくなった。中学校の勉強や部活動で忙しいのだろう。留夏子さんはぼくに気がつくまい。ぼくもまた気づかぬふりで水をもらって、あの切れ長の目の前を走り過ぎよう――。そう考えながら悠太郎は差し出された紙コップを右手で掴んだ。
 そのとき信じ難いことが起こった。緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声が、静かに、しかし凛乎として「悠太郎、頑張れ」と囁いたのである。あたかも光の成分のようなものが冷たい水に混じって口から入り、悠太郎の暗い肉体に染み渡り、魂を照らすかのようであった。脇腹の激しい痛みも、喉の奥からの血の味も悠太郎は忘れた。留夏子さんはぼくのことを憶えていてくれた。憶えていてくれたばかりでなく、ぼくを励ましてくれた。ただそのことだけで、ぼくは走れる。高崎までだって地の果てまでだって走れるような気がする――。大輪の花のようなカーブミラーが途方に暮れたように佇むところで、コースが浅間隠山のある東へ曲がり栗平へ向かっても、悠太郎は歩くことなく、むしろ速度を上げて走り続けた。ぼくの心臓は暴れるみたいに鼓動して、こめかみは奇妙な叫び声を立てている。それでもぼくは壊れない。留夏子さんがあの言葉をくれたからには、ぼくは自分が壊れてしまうことを望まない。「悠太郎、頑張れ」と留夏子さんは励ましてくれた。だからぼくは頑張ろう。弱い体でぼくになし得る最善のことをしよう。ぼくは鼓笛隊の指揮者になろう――。気がつけばゴール地点の北軽井沢グラウンドまで、悠太郎は一度も歩くことなく戻っていた。ゼッケンに埋め込まれたチップによって計測されたタイムが、しばらくして悠太郎のもとに届いた。もちろん一年生の頃から一年また一年と成長するにつれて、五キロを走るタイムはだんだんと速くなってはいた。しかしその年の記録は、例年の推移からは考えられないほどの急激な変化を示していた。
 さてマラソンと聞いて観光ホテル明鏡閣の黒岩栄作支配人は、照月湖を一周する遊歩道の長さを測定しなければならないことを思い出した。ローラー距離計の車輪を転がしながらサカエ支配人が遊歩道を歩むと、緑濃い樹々の葉叢をさやがせながら吹き渡る初夏の風が、七三に分けられたふさふさの髪を揺らしては通り過ぎていった。アオコで緑色に濁ってしまった湖の水面がきらめくのを、時々サカエ支配人は薄黒いサングラス越しに眺めやった。「そうともよ、濁っても照月湖よ。それでもやっぱり俺たちの湖畔は美しい……」と考えながら、サカエさんはついに湖を一周した。そしてカウンターに表示された数値を認めると、含んだような笑い声を立てながら会心の笑みを浮かべた。「見ろ秀子ちゃん、話し半分とはこのことだぞ」とサカエさんは明鏡閣に戻ってくると、ローラー距離計のカウンターを示しながら言った。「一周ちょうど一キロだったよ。増田ケンポウ社長はおめえ、なかなか大した法螺吹きだったな」と笑ったサカエさんは、これでまたひとつうまい策が浮かんだと言った。それを聞いた秀子は、隙間の空いた大きな前歯を剥き出して笑いながら、「そんなことってあるのね。老父が聞いたら、さぞやびっくりするでしょうね」と応じ、ややあって思い出したように、「〈サカエさんの奇策なら奇岩作戦ですね〉って息子が言っていた。黒い岩なら鬼押出しにたくさんありますからって」と付け加えた。「奇岩作戦? ユウくんがそう言ったのかい?」と驚いたサカエさんは、「ユウくんは相変わらずなかなかの詩人だな。いつか光子さんが俺のことを軍師のようだと言ったが、奇岩作戦なんて名づけられると、本当に軍師にでもなった気がするよ」と感心しながら言って、小気味よさそうに含んだような笑い声を立てた。「息子はとても楽しみにしている。またこの湖畔が賑やかになるのを見たがっている。その願いは私も同じよ。できることなら何でもやりましょう」と秀子が言うと、「そいつは心強い。もうじき俺が大まかにまとめた考えを、みんなに発表して意見をもらうつもりだ。そうして練り上げた業績回復計画を、本社に上げて認めさせる。風向きをガラーリ変えるぞ」とサカエさんは意気込み、「いつか俺はユウくんに約束したんだ。将来ユウくんが何になっても帰ってこられる懐かしい場所を、俺たちはしっかり残してゆくと。ユウくんだって小さいなりに戦ってきたし、今も戦っている。だから俺たちも負けられねえ」と言った。
 さてマカベウスのユダならぬ真壁悠太郎の戦場は小学校にあった。ピンク色の絨毯が敷かれ、吸音のための多孔質ボードが壁全体に貼られた音楽室で、高いところから作曲家たちの肖像画が見守るなか、六年生たちは今年の運動会の鼓笛隊で担当する楽器を決めようとしていたのである。「では指揮をやりたい人」と松本冴子先生が小太りの体に共鳴させた声で言うと、涼子と真花名と悠太郎が同時に手を挙げた。「何ですって?」と冴子先生は、肉の厚い頬に苦笑を浮かべた。「涼子さんや真花名さんはともかくとして、悠太郎くんが指揮ですって? 鼓笛隊の指揮者なんて、運動会の華ですよ。虚弱なあなたの役割ではありません。悪いことは言わないから、やめておきなさい」と言った冴子先生であったが、「運動会といっても、鼓笛隊は音楽的なものだと思います。音楽は悠太郎くんの得意分野です」と黒曜石のような目を光らせて言う涼子や、「正確なテンポ感とリズム感も、音の狂いを聴き分ける耳のよさも、楽器についての知識も、悠太郎くんには全部備わっています。私たちと一緒に指揮をするのに、不足はないと思います」とふるえがちな声を励ますように言う真花名の反論に遭った。肉の厚い頬にむっつりとした表情を浮かべながら溜息をついた冴子先生は、「いいですか悠太郎くん。音楽は音楽でも、鼓笛隊は軍楽です。戦う人々を奮い立たせるための音楽です。今から五十年前、日本は戦争に敗れました。それで軍隊を放棄し、平和憲法を制定して民主主義国家になりました。もっとも自衛隊はありますけどね。けれどいかに憲法九条が戦争を否定しようとも、これからいかに世界が平和になろうとも、人生が戦いであるという事実は変わりません。学校とは弱肉強食・優勝劣敗の人生を、児童たちが勝ち抜けるように教育するところです。その小学校最後の運動会で鼓笛隊の指揮を執るのは、屈強で勇敢な児童でなければなりません。無様な失敗は許されませんよ」と威圧するように言い、「試しにこれを持ってみなさい。あなたに振るえると思いますか?」と先端近くに飾り房のついたメジャーバトンを渡した。銀色の金属球がついた端のすぐ上の部分を悠太郎は握ると、その重さを確かめるようにゆっくりと上下に動かしてみた。「そのバトンの重さが、軍隊を率いる責任の重さです。あなたは屈強な戦士になれますか? あなたは勇敢な将軍になれますか?」と冴子先生は言った。悠太郎はしばしうつむいて考えていたが、やがて顔を上げて物問いたげな大きな目を見開くと、「ぼくにだって守るべきものはあります」と答えた。「守るべきもの? あなたが? 虚弱なあなたは守られているのがせいぜいでしょう。とにかくあなたが指揮者に不適格だと思われたら、そのときにはすぐに降りてもらいますからね」と冴子先生が言うと、「そのときは俺が指揮者をやります」と大屋原第三集落の神川直矢が、白目の冴えた小さな目を面白そうに笑わせながら言った。「それはいいわね。要領のいい直矢くんなら、すぐに代役が務まるでしょう。さすがは開拓の子らしいパイオニア精神とハングリー精神ね」と冴子先生は愉快そうに応じた。悠太郎は目を上げて、高いところのいちばん左端に貼られたバッハの隣にあるヘンデルの肖像画を見た。ヘンデルよ、ぼくの弱いmachineを導きたまえと悠太郎は祈った。
 樹々が燦々たる日の光を浴びながら爽やかな風にさやぐなかを、女学園の生徒たちが笑いさんざめいて通り過ぎる夏休みに入ったばかりのあるとき、観光ホテル明鏡閣の黒岩栄作支配人は、社員食堂に従業員たちを集めた。いつもの面々に加えてこの夏には、横浜から来た学生アルバイトの久世利文くぜとしふみくんがいた。いかり肩の久世くんは鷲鼻も喉仏も鋭く尖っていたが、その目は茫洋たる海の彼方を眺めているかのようであった。久世くんには急激に首を後ろへ反らす癖があって、そのたびに鋭く尖った喉仏はいっそう突き出ることになった。黒岩サカエさんがその動作を面白がって、「くぜっ! くぜっ!」と言いながら真似すると、従業員一同は波立つ湖に反射して砕ける光のように笑うのであった。あるときは照月湖モビレージで、あるときはボート番小屋で、あるときは熊川リバーサイドモビレージで汗をかきかき働いた久世くんは、昼時になると社員食堂にのっそりと姿を現して、「腹が減りました」と言っては首を急激に後ろへ「くぜっ! くぜっ!」とばかり反らせるのであった。そうしたことを秀子は帰宅するや否や、激しく叩きつけるように自動車のドアを閉め、玄関のドアをがばと開けバタンと閉め、廊下をドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らして、居間への引き戸をガラガラと開けると、悠太郎に洗いざらい話して聞かせたので、悠太郎もまた面白がって「くぜっ! くぜっ!」と言いながら急激に首を後ろへ反らせた。
 さて黒岩サカエ支配人がわざわざ社員食堂に従業員たちを集めたのは、もちろん重大な発表があるからであった。サカエさんは珍しく煙草も吸わずにワープロ打ちの書類に目を落としていたが、やがて何度か咳払いをした。それでも調子が出ないらしいサカエさんは、喉の奥に消炎スプレーを噴霧するとようやく、「皆さんにも折に触れて意見をもらいながら練り上げた業績回復計画ですが、本社からの承認が下りました。改めてその内容を皆さんと共有しておきたいと思います」と言った。サカエ支配人が語った業績回復計画は三つの柱から成っていた。その第一は、洗濯場や独身社員寮の先にあるテニスコートのそのまた奥に弓道場を建設して、高校や大学の弓道部の合宿を誘致することであった。その第二は、レストラン照月湖ガーデンを工業新聞社の関係者に任せ、インド・ネパール料理店へと一新させることであった。その第三は、照月湖を一周する一キロの遊歩道をランニングコースとして整備し、マラソン選手の合宿を誘致することであった。ほとんどの従業員にとっては、それまでのサカエ支配人との話からおぼろげには見えていたことであったが、こうして改めてその全貌を聞かされてみれば、誰しも興奮を禁じ得なかった。「この計画で銀行から融資を引き出す。戦力の逐次投入はおめえ、愚策だものを。やるときは一気にやって、風向きをガラーリ変えるだよ。それからもうひとつ大事なことがあった。俺たちのあいだではこの計画を、奇岩作戦と呼称する。浅間観光なら浅間山の力をもらおうじゃねえか。業績回復計画については以上です。不景気で先の見えない厳しい時代だが、この湖畔を愛してくれる人たちにとって、明鏡閣は六里ヶ原の宝箱だ。俺はここを守るために最善を尽くしたい。みんなももうしばらく踏み留まって頑張ってくれるかい?」とサカエさんは言った。
 「なんだかわくわくするなあ。これからが楽しみになってきましたよ」と林浩一さんは、平たい顔をにこやかに笑わせて言った。「乗りかかったボートだ。向こう岸に着くまで漕ぎ続けるしかあるめえ。この老骨の力が続く限り働くまでよ」と桜井謙助さんは言いながら、ギョロ目を見開いて額に三筋の皺を寄せた。「私も張り切って包丁と鋏を振るいますよ」と板前の新海岳史さんが泣き笑いのような顔で言えば、その妻のマッちゃんは「あたしはガーデンをお払い箱かい。まあいいや。明鏡閣の調理場で亭主を手伝うよ」と言ってたらこ唇を突き出した。「奇岩作戦とはいいセンスだね。力が湧いてくるような気がするよ」とおロク婆さんは、活力ある声で言って生き生きと目を輝かせた。「あたしは春藤さんについていくまでだよ。まあず面白い人だからね」とおタキ婆さんはおちょぼ口で言った。「俺ももうしばらく楽しませてもらうぜ。これからますます面白いことができそうだ」と狐目の春藤秋男さんは言った。「いいっすね。ここはいい会社っすね。六里ヶ原は、いいところっすね」と学生アルバイトの久世くんは言って、「くぜっ! くぜっ!」とばかり急激に首を後ろへ反らした。「きっとまたお客さんがたくさん来るようになるわ」と秀子は言った。「ありがたい。みんなで力を合わせて、浅間観光の新しい道を切り拓こうじゃねえか」と咳払いしながら言ったサカエ支配人は、「ときに春藤さん、例のイベントはもうすぐだが、抜かりはねえかい?」と尋ねた。「準備万端調ってるよ」と狐目の春藤さんは不敵な笑みを浮かべた。そんな一同の様子を、壁に飾られた増田ケンポウの写真が、片えくぼを浮かべた豪快な恵比寿顔で見守っていた。やや前傾した長方形の鏡のなかでは、円形の花壇に咲くサルビアやマリーゴールドが燃えるように輝いていた。そうしたことを帰宅した秀子から聞いた悠太郎は、やはりそれらのことを日記に書き留めた。
 小学校が夏休みに入るとき、悠太郎は冴子先生の許可を得て、鼓笛隊の指揮者が振るうメジャーバトンを家に持ち帰った。屋内でそんな長いものを振り回すのは危ないので、悠太郎は雨さえ降っていなければ、毎日のように庭でバトンを扱う練習をした。背筋を伸ばして胸を張った悠太郎は左手を腰に当てながら、右手でメジャーバトンを回転させた。バトンが上に向いた状態から一拍めで一回転させ、二拍めでもう一回転させ、三拍めで再び上を向けて高々と掲げ、四拍めでそのまま静止させる。次の一拍めでは額の前で、二拍めでは胸の前で、三拍めではまた額の前で、四拍めではまた胸の前で、手首のスナップを利かせて銀色の金属球を動かし拍子を刻む。それが基本となる予備運動で、その後は同じテンポで上がったり下がったりするメジャーバトンに合わせて、鼓笛隊の音楽と行進が展開されるはずであった。テンポに狂いがあってはならないと考えた悠太郎は、ピアノの練習のときに使うメトロノームを庭に持ち出した。幼い頃によく登って遊んだイロハモミジの樹の近くには、円形のガーデンテーブルが折り畳み式のパイプ椅子とともに置かれてあった。悠太郎はメトロノームをそのテーブルに置くと、一分間に百二十拍よりもやや遅いあたりにテンポを設定し、その正確な機械音に合わせてひたすらメジャーバトンを上げたり下げたりした。日盛りに今を限りと鳴きしきる蝉の声に満たされた庭では、爽やかな風に緑のイロハモミジの葉叢がさやぎ、炎のようなタイマツソウや、赤黒く燃えるダリアや、どこまでも明るい大輪のヒマワリや、慎ましい紫のキキョウがふるえ、青空で盛り上がる白い雲が、時として芝生に影を落とした。キアゲハやカラスアゲハが花の蜜を吸っては、重たいメジャーバトンを一心に振る少年のそばで舞っていた。
 メトロノームに合わせて上下運動するメジャーバトンのように、夏の日々は一日また一日と規則正しく移り変わり、お盆休みの日曜日がやって来た。それは観光ホテル明鏡閣の黒岩サカエ支配人の言う「例のイベント」の日であった。狐目の春藤秋男さんが企てて準備万端整えたのは、浅間観光が大手自動車会社と共催するクラシックカーの祭典であった。白や黒や赤や青や黄色や緑の自動車が、夏の光を車体で照り返しながら行列をなして学芸村の道を通り、照月湖モビレージに勢揃いするのである。悠太郎は急な坂道の上からその祭典を見下ろしながら、物問いたげな大きな目を見開いて陶然とした。数え切れないほどの美々しい自動車に反射する、ますますもって数え切れないほどの太陽の、なんという眩しさだろう。見物に詰めかける人々でいっぱいになったキャンプ場の、なんという賑わいだろう。もともとモビレージは、自動車を乗り入れてキャンプができることを売りにしていたのだ。そのモビレージで自動車のイベントを開催しようと考えた春藤さんは、とても頭がいいし実行力もある。ただの怪しげなおじさんなんかじゃなかったんだ。毎年このイベントは開かれるのだろうか。こんな華々しいイベントなら毎年開かれればいい。そうすれば車が好きなお客さんで湖畔が賑やかになる。そこへサカエさんの奇岩作戦を合わせれば、浅間観光はきっと勢いを盛り返す。今に湖の水をきれいにする方法だって見つかって、そのうち景気だってよくなって、何もかもがまた昔のようになるかもしれない。ああ、それは夢だろうか。数限りない太陽を反射する美々しい自動車の祭典は夢だろうか。それが夢なら、ぼくはいつまでも夢みていたい。目醒めることなくいつまでもいつまでも夢みていたい――。そんなことを悠太郎は思いもしたし、また日記に書き留めもしたのである。
 華々しい夢のようなクラシックカーの祭典は成功裡に終わった。しかし幾日も経たないうちに、夢見る悠太郎に冷や水を浴びせかけるような知らせが飛び込んできた。学芸村の古株村民から、浅間観光に苦情が入ったのである。ボート場やキャンプ場がうるさいとか、別荘地内を行き交う女学生たちの話し声がうるさいとか、そういう苦情であればよくあることであったから、浅間観光としても適当に聞き流しておけばよかった。しかし今回の苦情は、そうすることができない性質のものであった。イベントのために春藤さんが、別荘地内に勝手に道を作っていたのである。黒岩サカエ支配人は溜息とともに煙草の煙を吐き出すと、「どえらいことをしてくれたな」と春藤さんに言って、七三に分けたふさふさの髪を掻き乱した。「浅間観光は創業当初から学芸村と緊張関係にあるって、俺は前から言っておいただろう。古株の村民たちを下手に刺激するようなことだけは、くれぐれも慎んでくれって言っておいただろう。道ひとつ舗装するだけだって大騒ぎだったんだよ。それなのにおめえ、よりにもよって無断で道なんか作るのは、スズメバチの巣に石を投げつけるようなもんじゃねえか」とサカエさんは春藤さんを叱責したが、「分かったよ。元に戻せばいいんだろう?」と応じる春藤さんは、事の重大さがあまり飲み込めていない様子で、いつものように不服そうに口を尖らせ、黒縁の眼鏡の奥で狐目を吊り上げていた。「そりゃあ原状回復工事は最低限の必須事項だよ」とサカエさんは答え、「まあ俺も支配人として管理不行き届きだったからな、工事は手伝うよ。一緒にさっさと終わらせちまおう。原状回復だけで済めばいいが、どうも嫌な予感がするな」と言った。そうしたことを秀子は帰宅するや否や、激しく叩きつけるように自動車のドアを閉め、玄関のドアをがばと開けバタンと閉め、廊下をドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らして、居間への引き戸をガラガラと開けると、悠太郎に洗いざらい話して聞かせたのである。悠太郎は不安を感じながらも、そのことを日記に書き留めた。
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