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第十三章 暗い道
三
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逮捕されていた教団の医師が、地下鉄の事件について全面的に自供を始めたと報じられたのは、五月に入ってすぐのことであった。実行犯と送迎役が判明し、捜査はいっそうの進展を見せた。指名手配犯が六里ヶ原の空き別荘に潜伏しているという噂は、ますますもってまことしやかに囁かれていたし、この町に教団施設があることは全国的にもそれなりに知られていたから、ゴールデンウィークにわざわざ浅間北麓へ遊びに行こうと考える人が少なくなったのは当然であった。真壁の家の前から続く舗装された道を通って、春の太陽を車体で照り返しながら新緑の林間を走る自動車は、近年の同じ時期と比較してあまりにも少なかった。ボート遊びもへら鮒釣りも全然売り上げが伸びなかったから、ライサク老人はがっかりしてギョロ目を見開き、額に三筋の皺を寄せた。たらこ唇のマッちゃんが切り盛りするレストラン照月湖ガーデンは、ほとんど営業しているとは見えなかったし、照月湖モビレージもおタキ婆さんやおロク婆さんが落胆したほどの不景気であった。熊川リバーサイドモビレージは、その新しさも手伝ってわずかに健闘したが、それでも狐目の春藤秋男さんは、こんなはずではなかったとばかり不服そうに口を尖らせた。照月湖温泉の入浴客も減り、観光ホテル明鏡閣の宿泊客にはキャンセルが相次いだ。板前の新海岳史さんは包丁と鋏を振るう機会にあまり恵まれず、諦めたようににかっと歯を見せて泣き笑いのような顔をした。株式会社浅間観光にとって、この連休に重なった騒動は新たな打撃であった。サカエさんこと黒岩栄作支配人は、七三に分けたふさふさの黒髪を搔き乱しながら、「俺たちは尊師のおかげでおめえ、損したよ」と吐き捨てるように駄洒落を言ったが、その表情が暗かったのは薄黒いサングラスのせいばかりではなかったと、秀子は連休明けのある夕方に帰宅してすぐ悠太郎に話した。
五月六日の土曜日には学校があり、午前中の授業と給食が終われば集団下校であったから、黒いランドセルを背負った悠太郎は、「交通安全」と書かれた黄色い旗と閉じた雨傘に両手を塞がれながら、班長としてハイロン班を率いつつ、黒い軽石を積み重ねて作られた校門を後にした。率いたといっても、エルフのような尖り耳の石井尚美や、カモメのように繋がった太い眉毛のスケちゃこと早川大輔や、「オハイオ州からおはようさん!」のブチ公こと竹渕智也が卒業してしまったので、悠太郎は赤いランドセルを背負った入江いづみとふたりだけで帰るのであった。兄を亡くしたいづみは、周囲の児童たちから同情と好奇の目を集めながら誇らかにそれらを拒絶し、ますます不規則になってきた生活のために遅刻や欠席を繰り返しながらも、それがどうしたと言わんばかりにつんと取り澄ましていた。悠太郎には例外的によく懐いていたが、それは今は亡き紀之と三人で遊んだ昔の思い出のゆえに違いなかった。その日もいづみは閉じた空色の雨傘を片手に、悠太郎の後ろを歩きながらあれこれと喋った。朝方に少しばかり降った雨はすでにすっかり上がっていたから、芽吹き始めた樹々の若葉が潤んだように輝いて目に眩しかった。「昨日の夜、お姉ちゃんと一緒に映画のビデオを観たの。ホラー映画よ。男の人と女の人が裸で重なりあっていると、お団子みたいに串刺しにされて死んじゃうの」といづみが何食わぬ口調で言ったとき、悠太郎はびっくりして立ち止まった。悠太郎のランドセルにぶつかったいづみは、「痛い。ちょっとユウくん、急に止まらないでよ」と抗議した。「びっくりするようなことをいづみが言うからだろう」と悠太郎が振り向いて言い返すと、「この程度でびっくりするの? ユウくんはお子様ね」といづみはからかうように言いながら弓なりの眉を水平に持ち上げた。「いづみがアダルトすぎるんだよ。夜遅くまでそんなビデオを観ているから、朝起きられないんじゃないか。そんなのは健全な小学生の生活じゃないよ。今朝だってなかなか出てこなかったから気が揉めたぜ。班長の苦労も分かってくれよな」と悠太郎が説教すると、いづみは気怠そうに鼻で笑って、「ユウくんは真面目ね。お兄ちゃんみたい」と言った。その言葉に悠太郎は、二歳年下のこの少女の悲哀を感じ、それ以上は何も言えずにまた前を向いて歩き出した。
やがて三角形の土地に建つ三角屋敷ことホテル・スワンズハートに近づいたとき、「ユウくん、これから一緒に照月湖まで歩かない?」といづみが提案したので、悠太郎は「いいよ」と了承して右方向への分かれ道に進路を取った。決められた通学路を外れると、悠太郎は「交通安全」の黄色い旗を巻いて、ランドセルのなかへ押し込んでしまった。いづみは子ウサギのように結んだ髪を弾ませて悠太郎の隣に来たので、赤と黒のランドセルが並んだ。卒業した尚美や大輔や智也が勘ぐっていたようには、悠太郎はいづみを異性としてことさらに意識したことがなかった。しかしかつて浅間観光に関わった親を持ついづみに対して、ほかの誰にも持っていない親近感を抱いていることは確かであった。弓なりの眉や円かな目や白い前歯に、誰より慕わしかった湖の騎士こと紀之の面影を宿すいづみを、悠太郎は美しかった湖の思い出を分かち合う大切な妹のように感じていた。悠太郎はいづみの閉じた空色の傘に目を留めた。「その傘、いい色だね」と悠太郎が言うと、いづみは「いいでしょう。雨の日でもこれを差していれば、頭の上にはいつも青空があるのよ」と答え、目の醒めるようなスカイブルーの傘を誇らしげに広げると、〈待つわ〉の一番のBメロディーを歌いながら、頭上で弧を描くようにその傘を踊らせた。悠太郎はいつかの冬に明鏡閣で開かれたクリスマスパーティーを思い出し、「いづみのお姉さんの好きな歌だったね。ずっと前にカラオケで歌っていたのを憶えているよ」と言って、一番のAメロディーを歌った。するといづみは続きを歌い、「次のところ、二番の歌詞もいいのよ」と言って、二番のBメロディーを歌った。「そうだったのか。分かってほしい人に限って、分かってくれないものなのかもしれないね。本当に淋しい歌だなあ」と悠太郎はしみじみ言って、また入江香澄さんのことを思い出し、「いづみのお姉さんは、ひとりだよね?」と尋ねた。「ひとり? 独身かっていう意味? ユウくんはお姉ちゃんのことを狙っているの?」といづみは訊き返した。「まさか、狙っているわけないだろう。そういう意味じゃないよ。いづみのお姉さんは、ふたりも三人もいないよね?」と悠太郎が問うと、「そういう意味なら、たしかにひとりよ。どうして?」といづみは不思議がった。「あの頃ね、ぼくがまだ一年生の頃、ガーデンで働くお姉さんの姿が、ふたりにも三人にも見えるような気がしたんだ。湖の妖精の儚い幻でも見ているような気がしたんだ」と悠太郎は言った。
明鏡閣前の駐車場を見下ろす高台のローラースケート場もまた、例の男性アイドルグループのブームが去った今では駐車場として使われていたが、自動車の数はその駐車場を満たすには全然足りなかった。明日の日曜日まで仕事が休みの大人たちは多いのであろうが、それにもかかわらず観光ホテル明鏡閣は、来るつもりのない客をいつまでも待っている淋しい人のように見えた。ふたりは地面まで届く赤い屋根の明鏡閣を右手に見て通り過ぎ、いづみにとっては懐かしいに違いないレストラン照月湖ガーデンの近くまで歩んだ。ボート番小屋へと続く石段の近くにある大きな岩をベンチ代わりに、ふたりは並んで座りながら物言わず湖を見ていた。手漕ぎボートもスワンボートもコーヒーカップボートもほとんど出ておらず、桟橋に係留されたままで虚しく揺れていた。緑色の水面に映った午後の太陽が、伸びたり縮んだりしながら惑乱的なダンスを踊っていた。向こう岸に咲いた山桜の花が風にふるえていた。遠くでオオルリの鳴き声がした。
「ユウくん、今日ここで一緒に死なない?」と、いづみが何食わぬ口調で出し抜けに言ったので、悠太郎はまたびっくりして「何を言うんだ」と応じた。「モビレージからハシリドコロを採ってきて、ボートの上で一緒に食べるの。さっきユウくんが妖精の話をしたから思いついたのよ。春の妖精の毒で一緒に死ぬの。いいアイデアでしょう?」といづみは楽しそうに言った。「誘ってもらって光栄だが、ぼくは遠慮するよ。アオコでこんなに濁ってしまった湖で死にたくはない」と悠太郎が答えると、「じゃあ昔みたいに水がきれいだったら?」といづみはなおも問うた。「昔みたいにか……。そうだね、それなら悪くないかもしれないな。湖畔が賑やかで、水がきれいで、ノリくんがいて……。本当に昔は楽しかったね。あの頃のままだったら、あの頃のままで終われたら、どんなによかったか知れない。だけど……。だけどやっぱりよくないよ。いづみ、元気を出すんだ。ぼくたちは生きてゆかなければならない。まだまだこれから生きてゆかなければならない」と悠太郎は揺れ惑いながら言葉を継いだ。「生きていたって、どうせ私たちが歩くのは、私たちが歩かされるのは、暗い道に決まっているもの」といづみは呟くように言って、揺らめき波立つ緑色の水面を放心したように眺めた。「暗い道か。幸せの青い鳥なんか信じられないっていう気持ちは、ぼくにも分かるよ」と悠太郎は答え、「いづみはもう帰ったほうがいい。スワンズハートまで送るよ」と言って立ち上がった。「いいの。ここでお別れしましょう。私は大丈夫。ちょっと冗談を言ってみただけ。ユウくんこそ気をつけて帰ってね」と言っていづみは立ち上がるとスカイブルーの傘を開き、カーテシーのように片足を斜め後ろに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げて上体を傾け、こましゃくれたお辞儀をして「ユウくん、ありがとう。楽しかった」と言った。「明日が日曜だからって、あんまり夜更かしするんじゃないよ。早寝早起き病知らずって言うからね。月曜の朝は遅れずに出てきてくれよ」と悠太郎は忠告すると小さく手を振り、いづみに別れて急な坂道を登っていった。
夕方になって秀子が明鏡閣から帰宅し、激しく叩きつけるように自動車のドアを閉め、玄関のドアをがばと開けバタンと閉め、廊下をドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らして、居間への引き戸をガラガラと開け、悠太郎の姿を認めるや、「いづみちゃんのお母様が明鏡閣へご挨拶に見えたわ」と話した。秀子によれば蝋のように白い顔色の小柄な入江美和さんは、夫と離婚し娘たちを連れて実家に帰ることにしたのだという。やさぐれた風貌の入江信次郎シェフは、息子を失った悲しみと不景気のために身を持ち崩し、際限もなくパチンコを打って浪費するばかりになってしまったのだという。「よかったわね悠太郎、通学班の厄介者がいなくなって。本当に困った子だったわ。去年の夏休みにはスケちゃのお母様が、車でラジオ体操の送り迎えをしてあげていたけど、今年はまさか私がやってあげなくちゃならないのかって不安だったのよ。誰がそんな親切にしてあげるもんですか、冗談じゃないわ。でもよかった、これで厄介払いができたわ。本当によかった」と秀子は上機嫌で言って、隙間の空いた大きな前歯を剥き出して笑みを浮かべた。「いつ発つんですか? いづみはいつ発つんですか? どこへ行くんですか?」と尋ねる悠太郎に、「もう発たれたわ。さあ、どこだったかは忘れた。遠くの県の山奥よ」と秀子は答えた。まだ水が澄んでいた頃の照月湖の美しい思い出が、またひとつ決定的に失われたことを感じた悠太郎の胸のなかを、灰色の虚しい風が吹き過ぎた。湖を背にしてスカイブルーの傘を開き、新緑の午後の光を受けとめていたいづみの姿を悠太郎は思い出した。あれを最後の姿としていづみはぼくに残そうとしたのだ、そのための場所としていづみは湖畔を選んだのだと悠太郎は思った。
時間はおそらく終末へ向かって先へ先へと流れてゆく。始まったものは終わってゆく。あったものはなくなってゆく。人は年を取ってやがて死んでゆく。記憶はやがて失われてゆく。どうしてみんなはこんなに淋しいことが平気なのだろう。どうしてみんなは楽しげに笑っていられるのだろう――。睫毛の長い目を悄然と伏せながら悠太郎は、五月十六日の図工室で、画用紙に鉛筆で下描きした三羽のオナガに水彩絵の具で色を塗りつつ、幼い頃から相も変わらぬ物思いに沈んでいた。オナガの嘴から頭にかけての黒の強烈さと釣り合いを取るためには、羽根の灰色や水色をなるべく不透明にする以外に、解決策はなさそうであった。横長の画面の右端に縦書きした「愛鳥週間」の文字は青く塗ったが、「週」の字のしんにょうの点はオナガの羽根にすることを思いついたので、羽根の形に灰色と水色で塗った。あとは背景を黄緑色に塗るばかりであったが、やってみると色むらが出て予想以上に大変であった。このポスターはつまるところ失敗するだろう。どこかで道を間違えたのか、それとも最初から間違っていたのかと悠太郎は自問しつつ手を動かした。
その日も教団施設への強制捜査が実施されていた。迷彩の防護服を身に着け防毒マスクを被った夥しい捜査員たちは早朝に出動し、悠太郎がひとりで登校するために家を出る時刻には、すでに富士山麓に林立するサティアン群に突入していた。隊列の先頭ではいち早く毒ガスに反応するというカナリアが、鳥籠に入れられ捧げ持たれていた。カナリアがあんなふうに使われるなんて、ひどい愛鳥週間もあったものだと悠太郎は考えた。今頃捜査はどうなっているだろう。真理教王国は崩壊するのだろうか。始まったものは終わってゆく。あったものはなくなってゆく。だからきっと崩壊するだろう。だがあんな教団だって、誰かにとっては大切なものなのだ。帰依して信じる人々にとっては、かけがえのないものなのだ。もちろん毒ガスなんか撒かれないでほしい。拉致監禁や銃撃や異臭騒ぎのような恐ろしいことは早く終わってほしい。だがそのとき大勢の信者たちはどうなるのか。大切なものが崩壊してゆくのを目の当たりにする悲しみならば、浅間観光の衰退を見つめているぼくはよく知っている。明鏡閣やモビレージに泊まった思い出を大切にしてくれている人々と、あの教団の信者とではどちらが多いだろう。四十歳でお母様と同い年の教祖ミードーも、彼を信じて修行した信者たちも、なんという暗い道を歩んだことだろう。そして同じような暗い道を、ぼくもまた歩むことになるような気がする。幸せの青い鳥なんか信じられなかったから、ぼくはオオルリを描かなかった。鳥籠から放たれて自由になった黄色いカナリアを描くべきであったか。それとも純白に発光しながら紺碧の大空を飛翔する一羽のカモメを描くべきであったか。エメラルドグリーンのクルタを着て刺されてしまったあの人だって、きっと犯罪を起こしたくて出家したのではないはずだ。自由の思想や完全性への歩みに、きっとあの人も強く惹かれたのだ。きっとあの人は飛びたかったのだ。お金儲けのことばかり考える人々の群れを離れて、純白に輝きながら自由に飛びたかったのだ。いや、きっと褒められたかったのだ。ぼくがお祖父様に褒められたいように、あの人は教祖に褒められたかったのだ。教祖にだけは分かってほしかったのだ。逮捕された幹部たちだって、何も毒ガスが撒きたくて修行を始めたのではないはずだ。どこかで道を間違えたのか、それとも最初から間違っていたのか――。悠太郎はそんな物思いに沈みながら、ポスターの背景をなす黄緑色を塗っていた。
すると荒らかな足音が、廊下を図工室へと近づいてきた。激しい勢いで図工室のドアを開けたのは、宮沢賢治をこよなく愛する小林教頭先生であった。広い額に皺の多い教頭先生は、雛鳥の羽毛のような髪の毛がちょこんと乗っている頭を突き出しながら、足早に図工室のみんなのなかへ入ってくると、普段はあまり通りのよくない細い声をこのときばかりは張り上げて、「教祖逮捕! 教祖逮捕!」と興奮して叫んだ。図工室をざわめかせたのは、多くは安堵の声であった。しかしなぜか悠太郎は、物問いたげな目から大粒の涙が画用紙の上に落ちるのを、どうすることもできなかった。
五月六日の土曜日には学校があり、午前中の授業と給食が終われば集団下校であったから、黒いランドセルを背負った悠太郎は、「交通安全」と書かれた黄色い旗と閉じた雨傘に両手を塞がれながら、班長としてハイロン班を率いつつ、黒い軽石を積み重ねて作られた校門を後にした。率いたといっても、エルフのような尖り耳の石井尚美や、カモメのように繋がった太い眉毛のスケちゃこと早川大輔や、「オハイオ州からおはようさん!」のブチ公こと竹渕智也が卒業してしまったので、悠太郎は赤いランドセルを背負った入江いづみとふたりだけで帰るのであった。兄を亡くしたいづみは、周囲の児童たちから同情と好奇の目を集めながら誇らかにそれらを拒絶し、ますます不規則になってきた生活のために遅刻や欠席を繰り返しながらも、それがどうしたと言わんばかりにつんと取り澄ましていた。悠太郎には例外的によく懐いていたが、それは今は亡き紀之と三人で遊んだ昔の思い出のゆえに違いなかった。その日もいづみは閉じた空色の雨傘を片手に、悠太郎の後ろを歩きながらあれこれと喋った。朝方に少しばかり降った雨はすでにすっかり上がっていたから、芽吹き始めた樹々の若葉が潤んだように輝いて目に眩しかった。「昨日の夜、お姉ちゃんと一緒に映画のビデオを観たの。ホラー映画よ。男の人と女の人が裸で重なりあっていると、お団子みたいに串刺しにされて死んじゃうの」といづみが何食わぬ口調で言ったとき、悠太郎はびっくりして立ち止まった。悠太郎のランドセルにぶつかったいづみは、「痛い。ちょっとユウくん、急に止まらないでよ」と抗議した。「びっくりするようなことをいづみが言うからだろう」と悠太郎が振り向いて言い返すと、「この程度でびっくりするの? ユウくんはお子様ね」といづみはからかうように言いながら弓なりの眉を水平に持ち上げた。「いづみがアダルトすぎるんだよ。夜遅くまでそんなビデオを観ているから、朝起きられないんじゃないか。そんなのは健全な小学生の生活じゃないよ。今朝だってなかなか出てこなかったから気が揉めたぜ。班長の苦労も分かってくれよな」と悠太郎が説教すると、いづみは気怠そうに鼻で笑って、「ユウくんは真面目ね。お兄ちゃんみたい」と言った。その言葉に悠太郎は、二歳年下のこの少女の悲哀を感じ、それ以上は何も言えずにまた前を向いて歩き出した。
やがて三角形の土地に建つ三角屋敷ことホテル・スワンズハートに近づいたとき、「ユウくん、これから一緒に照月湖まで歩かない?」といづみが提案したので、悠太郎は「いいよ」と了承して右方向への分かれ道に進路を取った。決められた通学路を外れると、悠太郎は「交通安全」の黄色い旗を巻いて、ランドセルのなかへ押し込んでしまった。いづみは子ウサギのように結んだ髪を弾ませて悠太郎の隣に来たので、赤と黒のランドセルが並んだ。卒業した尚美や大輔や智也が勘ぐっていたようには、悠太郎はいづみを異性としてことさらに意識したことがなかった。しかしかつて浅間観光に関わった親を持ついづみに対して、ほかの誰にも持っていない親近感を抱いていることは確かであった。弓なりの眉や円かな目や白い前歯に、誰より慕わしかった湖の騎士こと紀之の面影を宿すいづみを、悠太郎は美しかった湖の思い出を分かち合う大切な妹のように感じていた。悠太郎はいづみの閉じた空色の傘に目を留めた。「その傘、いい色だね」と悠太郎が言うと、いづみは「いいでしょう。雨の日でもこれを差していれば、頭の上にはいつも青空があるのよ」と答え、目の醒めるようなスカイブルーの傘を誇らしげに広げると、〈待つわ〉の一番のBメロディーを歌いながら、頭上で弧を描くようにその傘を踊らせた。悠太郎はいつかの冬に明鏡閣で開かれたクリスマスパーティーを思い出し、「いづみのお姉さんの好きな歌だったね。ずっと前にカラオケで歌っていたのを憶えているよ」と言って、一番のAメロディーを歌った。するといづみは続きを歌い、「次のところ、二番の歌詞もいいのよ」と言って、二番のBメロディーを歌った。「そうだったのか。分かってほしい人に限って、分かってくれないものなのかもしれないね。本当に淋しい歌だなあ」と悠太郎はしみじみ言って、また入江香澄さんのことを思い出し、「いづみのお姉さんは、ひとりだよね?」と尋ねた。「ひとり? 独身かっていう意味? ユウくんはお姉ちゃんのことを狙っているの?」といづみは訊き返した。「まさか、狙っているわけないだろう。そういう意味じゃないよ。いづみのお姉さんは、ふたりも三人もいないよね?」と悠太郎が問うと、「そういう意味なら、たしかにひとりよ。どうして?」といづみは不思議がった。「あの頃ね、ぼくがまだ一年生の頃、ガーデンで働くお姉さんの姿が、ふたりにも三人にも見えるような気がしたんだ。湖の妖精の儚い幻でも見ているような気がしたんだ」と悠太郎は言った。
明鏡閣前の駐車場を見下ろす高台のローラースケート場もまた、例の男性アイドルグループのブームが去った今では駐車場として使われていたが、自動車の数はその駐車場を満たすには全然足りなかった。明日の日曜日まで仕事が休みの大人たちは多いのであろうが、それにもかかわらず観光ホテル明鏡閣は、来るつもりのない客をいつまでも待っている淋しい人のように見えた。ふたりは地面まで届く赤い屋根の明鏡閣を右手に見て通り過ぎ、いづみにとっては懐かしいに違いないレストラン照月湖ガーデンの近くまで歩んだ。ボート番小屋へと続く石段の近くにある大きな岩をベンチ代わりに、ふたりは並んで座りながら物言わず湖を見ていた。手漕ぎボートもスワンボートもコーヒーカップボートもほとんど出ておらず、桟橋に係留されたままで虚しく揺れていた。緑色の水面に映った午後の太陽が、伸びたり縮んだりしながら惑乱的なダンスを踊っていた。向こう岸に咲いた山桜の花が風にふるえていた。遠くでオオルリの鳴き声がした。
「ユウくん、今日ここで一緒に死なない?」と、いづみが何食わぬ口調で出し抜けに言ったので、悠太郎はまたびっくりして「何を言うんだ」と応じた。「モビレージからハシリドコロを採ってきて、ボートの上で一緒に食べるの。さっきユウくんが妖精の話をしたから思いついたのよ。春の妖精の毒で一緒に死ぬの。いいアイデアでしょう?」といづみは楽しそうに言った。「誘ってもらって光栄だが、ぼくは遠慮するよ。アオコでこんなに濁ってしまった湖で死にたくはない」と悠太郎が答えると、「じゃあ昔みたいに水がきれいだったら?」といづみはなおも問うた。「昔みたいにか……。そうだね、それなら悪くないかもしれないな。湖畔が賑やかで、水がきれいで、ノリくんがいて……。本当に昔は楽しかったね。あの頃のままだったら、あの頃のままで終われたら、どんなによかったか知れない。だけど……。だけどやっぱりよくないよ。いづみ、元気を出すんだ。ぼくたちは生きてゆかなければならない。まだまだこれから生きてゆかなければならない」と悠太郎は揺れ惑いながら言葉を継いだ。「生きていたって、どうせ私たちが歩くのは、私たちが歩かされるのは、暗い道に決まっているもの」といづみは呟くように言って、揺らめき波立つ緑色の水面を放心したように眺めた。「暗い道か。幸せの青い鳥なんか信じられないっていう気持ちは、ぼくにも分かるよ」と悠太郎は答え、「いづみはもう帰ったほうがいい。スワンズハートまで送るよ」と言って立ち上がった。「いいの。ここでお別れしましょう。私は大丈夫。ちょっと冗談を言ってみただけ。ユウくんこそ気をつけて帰ってね」と言っていづみは立ち上がるとスカイブルーの傘を開き、カーテシーのように片足を斜め後ろに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げて上体を傾け、こましゃくれたお辞儀をして「ユウくん、ありがとう。楽しかった」と言った。「明日が日曜だからって、あんまり夜更かしするんじゃないよ。早寝早起き病知らずって言うからね。月曜の朝は遅れずに出てきてくれよ」と悠太郎は忠告すると小さく手を振り、いづみに別れて急な坂道を登っていった。
夕方になって秀子が明鏡閣から帰宅し、激しく叩きつけるように自動車のドアを閉め、玄関のドアをがばと開けバタンと閉め、廊下をドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らして、居間への引き戸をガラガラと開け、悠太郎の姿を認めるや、「いづみちゃんのお母様が明鏡閣へご挨拶に見えたわ」と話した。秀子によれば蝋のように白い顔色の小柄な入江美和さんは、夫と離婚し娘たちを連れて実家に帰ることにしたのだという。やさぐれた風貌の入江信次郎シェフは、息子を失った悲しみと不景気のために身を持ち崩し、際限もなくパチンコを打って浪費するばかりになってしまったのだという。「よかったわね悠太郎、通学班の厄介者がいなくなって。本当に困った子だったわ。去年の夏休みにはスケちゃのお母様が、車でラジオ体操の送り迎えをしてあげていたけど、今年はまさか私がやってあげなくちゃならないのかって不安だったのよ。誰がそんな親切にしてあげるもんですか、冗談じゃないわ。でもよかった、これで厄介払いができたわ。本当によかった」と秀子は上機嫌で言って、隙間の空いた大きな前歯を剥き出して笑みを浮かべた。「いつ発つんですか? いづみはいつ発つんですか? どこへ行くんですか?」と尋ねる悠太郎に、「もう発たれたわ。さあ、どこだったかは忘れた。遠くの県の山奥よ」と秀子は答えた。まだ水が澄んでいた頃の照月湖の美しい思い出が、またひとつ決定的に失われたことを感じた悠太郎の胸のなかを、灰色の虚しい風が吹き過ぎた。湖を背にしてスカイブルーの傘を開き、新緑の午後の光を受けとめていたいづみの姿を悠太郎は思い出した。あれを最後の姿としていづみはぼくに残そうとしたのだ、そのための場所としていづみは湖畔を選んだのだと悠太郎は思った。
時間はおそらく終末へ向かって先へ先へと流れてゆく。始まったものは終わってゆく。あったものはなくなってゆく。人は年を取ってやがて死んでゆく。記憶はやがて失われてゆく。どうしてみんなはこんなに淋しいことが平気なのだろう。どうしてみんなは楽しげに笑っていられるのだろう――。睫毛の長い目を悄然と伏せながら悠太郎は、五月十六日の図工室で、画用紙に鉛筆で下描きした三羽のオナガに水彩絵の具で色を塗りつつ、幼い頃から相も変わらぬ物思いに沈んでいた。オナガの嘴から頭にかけての黒の強烈さと釣り合いを取るためには、羽根の灰色や水色をなるべく不透明にする以外に、解決策はなさそうであった。横長の画面の右端に縦書きした「愛鳥週間」の文字は青く塗ったが、「週」の字のしんにょうの点はオナガの羽根にすることを思いついたので、羽根の形に灰色と水色で塗った。あとは背景を黄緑色に塗るばかりであったが、やってみると色むらが出て予想以上に大変であった。このポスターはつまるところ失敗するだろう。どこかで道を間違えたのか、それとも最初から間違っていたのかと悠太郎は自問しつつ手を動かした。
その日も教団施設への強制捜査が実施されていた。迷彩の防護服を身に着け防毒マスクを被った夥しい捜査員たちは早朝に出動し、悠太郎がひとりで登校するために家を出る時刻には、すでに富士山麓に林立するサティアン群に突入していた。隊列の先頭ではいち早く毒ガスに反応するというカナリアが、鳥籠に入れられ捧げ持たれていた。カナリアがあんなふうに使われるなんて、ひどい愛鳥週間もあったものだと悠太郎は考えた。今頃捜査はどうなっているだろう。真理教王国は崩壊するのだろうか。始まったものは終わってゆく。あったものはなくなってゆく。だからきっと崩壊するだろう。だがあんな教団だって、誰かにとっては大切なものなのだ。帰依して信じる人々にとっては、かけがえのないものなのだ。もちろん毒ガスなんか撒かれないでほしい。拉致監禁や銃撃や異臭騒ぎのような恐ろしいことは早く終わってほしい。だがそのとき大勢の信者たちはどうなるのか。大切なものが崩壊してゆくのを目の当たりにする悲しみならば、浅間観光の衰退を見つめているぼくはよく知っている。明鏡閣やモビレージに泊まった思い出を大切にしてくれている人々と、あの教団の信者とではどちらが多いだろう。四十歳でお母様と同い年の教祖ミードーも、彼を信じて修行した信者たちも、なんという暗い道を歩んだことだろう。そして同じような暗い道を、ぼくもまた歩むことになるような気がする。幸せの青い鳥なんか信じられなかったから、ぼくはオオルリを描かなかった。鳥籠から放たれて自由になった黄色いカナリアを描くべきであったか。それとも純白に発光しながら紺碧の大空を飛翔する一羽のカモメを描くべきであったか。エメラルドグリーンのクルタを着て刺されてしまったあの人だって、きっと犯罪を起こしたくて出家したのではないはずだ。自由の思想や完全性への歩みに、きっとあの人も強く惹かれたのだ。きっとあの人は飛びたかったのだ。お金儲けのことばかり考える人々の群れを離れて、純白に輝きながら自由に飛びたかったのだ。いや、きっと褒められたかったのだ。ぼくがお祖父様に褒められたいように、あの人は教祖に褒められたかったのだ。教祖にだけは分かってほしかったのだ。逮捕された幹部たちだって、何も毒ガスが撒きたくて修行を始めたのではないはずだ。どこかで道を間違えたのか、それとも最初から間違っていたのか――。悠太郎はそんな物思いに沈みながら、ポスターの背景をなす黄緑色を塗っていた。
すると荒らかな足音が、廊下を図工室へと近づいてきた。激しい勢いで図工室のドアを開けたのは、宮沢賢治をこよなく愛する小林教頭先生であった。広い額に皺の多い教頭先生は、雛鳥の羽毛のような髪の毛がちょこんと乗っている頭を突き出しながら、足早に図工室のみんなのなかへ入ってくると、普段はあまり通りのよくない細い声をこのときばかりは張り上げて、「教祖逮捕! 教祖逮捕!」と興奮して叫んだ。図工室をざわめかせたのは、多くは安堵の声であった。しかしなぜか悠太郎は、物問いたげな目から大粒の涙が画用紙の上に落ちるのを、どうすることもできなかった。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


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