明鏡の惑い

赤津龍之介

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第十一章 濁り水

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 自動車の運転免許を取ったことのない千代次は、その分よく歩いて生きてきたせいか、八十歳に近くなっても杖も突かずに、矍鑠かくしゃくたる歩きぶりを示した。唐松林にカッコウの声が谺するなか、碁盤の目のように区画された学芸村の道を歩いて、千代次は藤原山荘を訪問した。「ようこそ真壁理事。東京での理事会以来ですなあ。いや今年の暑さは実にやり切れません。観測史上最大の猛暑になるという話ですよ。とても東京にはいられなくて、早々にこの高原へ逃げてきた次第です」と言って千代次を迎えた藤原容三博士は、テーブルの椅子に座った千代次の前に茶碗を置いた。この暑いのに熱い緑茶かと思った千代次は、それを啜ると極度に細い目を上げて居室を見た。本棚には原子物理学の専門書が、判型別に整然と並べられていた。「ではご用件を伺いましょう」と藤原博士も椅子に座った。「照月湖のことです」と千代次は切り出した。「すでにご存知かもしれませんが、照月湖にアオコが発生しました。水が緑色に濁って、ひどく臭います。株式会社浅間観光としても困ったことですが、学芸村に別荘を持つ人たちにとっても一大事かと思います。原因の解明と水質の改善は、一企業の手に余ることです。守る会にご協力いただけないかというのが、本日のお願いです」
 「なるほど、お話は分かりました」と藤原博士は、右半分が染みだらけの顔に笑みを浮かべた。「楢沢の池の異変については、当会でも把握しておりました。真壁理事の仰言る通り、学芸村にとっても由々しき事態です。当会が陳情して町や県を動かすことも考えねばなりませんな。ただそれには必須となる条件があります」
 「それは何でしょう。お金ですか?」
 「いいえ、お金などではありません」
 「ならそれは何ですか? できることなら何でもします」
 「本当ですかな?」
 「ええ本当です」
 「きっとですな?」
 「ええ、きっといたします」
 「それなら教えてあげましょう。その条件とは……」
 「その条件とは?」
 「株式会社浅間観光の即時立ち退きです!」
 ぎょっとした千代次は、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、なぜ浅間観光が立ち退かなければならないのか、浅間観光は高層建築などひとつも造ったことはない、熊川のほとりにあった浅間観光ホテルは学芸村俱楽部を改築したものだったし、枢密顧問官の鷹山荘だって長いこと保全していたし、照月湖のほとりの観光ホテル明鏡閣だって二階までしかない、学芸村と調和を保つという増田ケンポウ社長の方針に従ってわが社はやってきたのだと疑義を呈した。これに対して藤原博士は、楢沢の池で鯉を飼うことも環境破壊に繋がる、鯉はカワニナを食べてしまうから、カワニナを餌とする蛍の幼虫は生きることができない、昔は楢沢の池から離れた別荘地まで蛍が飛んできたものだが、近年めっきり少なくなったのは浅間観光のせいではないか、それにまた熊川のほとりに新たなキャンプ場とは、歴然たる森林破壊ではないかと論難した。これに応えて千代次は、照月湖で養魚を行なうことは造営計画の当初から考えられていたのだ、熊川のほとりの土地を整備すれば、荒れ放題のままにしておくよりは景観がよくなるのだと抗弁して、ハンカチで額の汗を拭いながら、いつかもこんなことがあったような気がすると思った。
 「真壁理事、あなたには困りましたなあ。これだから学のない人は」と藤原博士は、右半分が染みだらけの顔にますます笑みを浮かべて言った。「あなたはご自分の立場がお分かりでないようだ。私に助けを求めに来ておきながら、説教を垂れようというのですか? だいたい先程から黙って聞いておれば照月湖、照月湖とほざきおる。照月湖? そんな名前を私たちは認めませんよ。あれは学芸村の楢沢の池だ。浅間観光の照月湖ではない! 楢沢の池を照月湖などと称して観光地にしたのが、環境破壊のそもそもの始まりだとお分かりになりませんか? 増田ケンポウ? 三十年も昔に死んだ人間の名前を出して、恩を売ろうというのですか? その忌々しい名前が、いつまでも通用すると思いなさるな。そもそもあの戦争屋が、金に物を言わせてこの桃源郷を侵略したことこそ、環境破壊の最たるものではありませんか。そうですとも、浅間観光は環境破壊です。学芸村の環境を壊すものは何であれ、私たちはこれを許さないのです。うるさいキャンプファイアーにうるさいボート場にうるさいスケートリンク。平和で静かだった私たちの桃源郷を、よくも長いあいだここまで荒らしてくれたな。だがそれももうおしまいだ。楢沢の池があのざまでは、浅間観光も商売あがったりでしょう。滅亡の時は近いですぞ。さあどうされる真壁理事、いやさ株式会社浅間観光の真壁永久名誉顧問。増田ケンポウの犬め、戦争屋の手先め。悔しいか? 恐ろしいか? もっと深々と頭を下げろ。泣き叫んで助けを求めろ。這いつくばって赦しを乞え! は・は・は! そうだ、小学校で話をしていたときねえ、ひと目で分かりましたよ、あなたのお孫さんが。大きな目を見開いて私を見つめていましたっけ。いや実に気持ちの悪い目でしたなあ。顔は目ばかりで体は痩せこけて、実に気持ちの悪いお孫さんですなあ。満足に食事を与えているのかね? 浅間観光のおかげで結構な暮らしをなさっているはずだが、孫に与える食べ物は出し惜しんでいなさるか? せいぜい今のうちに滋養のあるものを食べさせてあげるんですな。浅間観光が潰れれば、お宅の暮らしも楽ではなくなるでしょうからなあ。気持ちの悪いあなたのご家族も、浅間観光もろともきっと叩き出してやりますぞ。増田ケンポウとあなたの所業は、天人ともに許さざる悪行です。その報いを必ず受けていただきますよ、あなた! は・は・は! 本日こうして熱い緑茶をお出ししたのは、教養人としてのせめてもの情けです。これからはしこたまお飲みになるがよろしい、あなたのお好きな照月湖とやらの、臭い緑の濁り水をね。ぐらぐら沸いた緑の煮え湯を、しこたま飲むがよろしいのですよ、あなた! は・は・は! お話はこれまでです。気をつけてお帰りください。そして浅間観光がどうあっても立ち退かないなら、夜道にはくれぐれも気をつけるがよろしい。照月湖とやらに月の照る夜ばかりではありませんからな、あなた! は・は・は! ではさようなら」
 辱められ恫喝までされて帰ってきた千代次は、学校から帰宅した悠太郎に「不首尾だった!」と吐き捨てるように言った。「何だっちゅうんだ! 恩知らずめ! 何だっちゅうんだ、偉そうにインテリぶりやがって! 増田ケンポウを戦争屋だと? この俺を戦争屋の犬だと? ふざけるな! 何が反戦平和だ、何が寛容だ! てめえらのほうが争いの種を蒔きやがって、てめえらこそいっとう不寛容じゃねえか! 何が学芸村の環境を守る会だ! あんなものは浅間観光を締め出す会じゃねえか! 死んだ枢密顧問官の家が財政難で傾いたとき、増田ケンポウが土地を買ってやらなけりゃあ、学芸村だって瓦解していてもおかしくなかったんだ! それをあの連中め、なんちゅう忘恩だ! なんちゅう忘恩だ! この地域の経済は、浅間観光で持っているようなもんだ! スーパーの〈ダイマルヤ〉なんざ、浅間観光の仕入れだけで、ひと夏に二千万円も売り上げるんだ! ひと夏に二千万円だぞ! 浅間観光の仕入れだけでだぞ! 自動車を運転しねえ別荘の連中が、歩いて買い物に行けるスーパーが営業していられるのは、浅間観光があればこそだ! 浅間観光がなくなれば、ダイマルヤだって潰れる! そうなれば困るのは、結局てめえらじゃねえか! そんな子供でも分かるようなことが分からなくて、何が原子物理学者だ、何が知識人だ! インテリの大馬鹿どもめ! 悟り澄ました人間の屑どもめ! 人でなしどもめ! 赦せねえ! 赦せねえ! 赦せねえ!……」と千代次は叫び、喚き、吠え、唾を飛ばし、泡を吹き、よだれを垂らしながら、古い胡桃材の座卓を握り拳で殴り続けた。悠太郎は落胆しながら、そんな祖父を物問いたげな目で見ていた。湖水がきれいに澄んでいた時代には二度と戻れないのだという思いは、牛乳が食パンを浸すように悠太郎の心を重くした。窓の外では血のような赤い光のなかで、夕蝉がこれを限りと鳴きしきっていた。
 悪いことは続くもので、秀子によって入江紀之の訃報が伝えられたのは、それからまもなくのことであった。中学校に入ってから受け続けたいじめを苦にしての自殺ということになっていた。悠太郎は別れ際の紀之のことを思い出した。「じゃあなユウ、気をつけて帰れよ」と顔を上げてやや明るく言い残すと、紀之は蒸し暑い夜のなかを、校舎の裏の自転車置き場へ消えていったのであった。「楽器を壊されてしまった。それでもう弾けなくなった。まあ詳しくは言わないが、そんなこんながあってな。この中学校へ入ってすぐのことだ。それで空手を始めた。力を求めた。強くなりたいと思った」と紀之は、暗がりのなかで肩をすくめて話したのであった。「ではノリくんは、あのときもう死ぬつもりだったのだろうか。自分の身に何があったかを、ぼくに言い残したのだろうか」と悠太郎は考えながら、五月の夜の道場に現れた紀之の姿を思い描こうとした。背が高くて筋肉質なその姿も、ひげの剃り跡が濃いその顔も、しかしすぐに消えてしまった。高校一年生の入江先輩は、すぐさま小学校六年生のノリくんに戻っていった。日曜日に急な坂道を降りてゆけば、ノリくんはレストラン照月湖ガーデンの前で、「ユウ、よく来たな。今日もひとりなのか?」と円かな目に光を湛えながら、きらめく明澄な湖を背景にして悠太郎を歓迎してくれるような気がした。「それにしても、大きくなるとは嫌なものだな。俺はなんだか自分が濁った水にでもなってしまったような気がする。照月湖の澄んだ水に、ユウとボートを浮かべたあの頃が懐かしい」と、独り言のように紀之は言ったのだ。「ノリくんもまた、照月湖でのぼくとの思い出を、懐かしいと思っていてくれたのだ。ノリくんはいつもぼくと遊んでくれた。ボートに乗せてくれた。絵を描いてくれた。若木の枝で剣を作ってくれた。本当にノリくんは、ぼくにとって湖の騎士だった。ぼくはいつもノリくんのようになりたいと願っていた。でもノリくんは最後に、ぼくのようになりたかったと言った。なぜだろう、こんなに弱いぼくなのに。ノリくんはぼくのピアノを聴かなかったら、死ななかったのではないか。いや、あの人は、そんなことに左右される人ではない。決意していたのなら、きっと実行しただろう。それなら最後にぼくのピアノを聴いて、失ってしまった音楽を少しでも取り戻せたことはよかったのだ。それにしても、なんとつらい別れだろう。なんというつらいことが、この世にはあるのだろう……」と悠太郎は、揺らめく湖のように思い惑った。
 「真壁! 引き手がなってない!」と空手道場の赤木駿副師範が、脂ぎった顔の睨むような目で悠太郎を見据えながら、野太い声で注意した。悠太郎はそれきり一歩も動けなくなってしまった。いったいみんなは入江先輩の死を知らないのだろうか?――短いあいだとはいえ、同じ道場で稽古をともにした門弟がこの世から消えたというのに、いつも通り突きや蹴りを繰り出すことができるみんなのことが、悠太郎には信じられなかった。ジュン、カズ、なぜなんだ? きみたちはなぜそうしていられる? 美帆さん、なぜなんですか? あなたはなぜそうしていられるんですか?――「真壁! いったいおめえはどうしたんだ? 空手の道場でめそめそする奴があるか! 本当におめえは女の腐ったような奴だな! 気合いを入れろ! しっかりしろ!」と駿副師範は怒鳴りつけた。しかし遠くからそんな悠太郎の様子を見ていた赤木篤師範は、近づいてきて弟に「副師範、はあよかんべえ」と言った。そして乾燥した長い顔を悠太郎に向けると、「真壁、ここまでよく頑張ったな。初めから無理があるような気はしていたが、それにしてはよく続いたほうだ。おまえの親御さんには、俺から話しておく。これからは自分に向いたことを、本気でやるように」と申し渡した。稽古が終わり、これを最後と挨拶をして打ち萎れながら帰ってゆく悠太郎を見送ると、単純な篤師範はしかし細い目で星空を見上げて、「正子ちゃん、これでよかんべえ?」と心のなかで問いかけた。
 悪いことは続くもので、熊川リバーサイドモビレージの開発も大詰めの頃、剽軽者の橋爪進吉さんが負傷した。橋爪さんは道具類を満載した幌つきのジープに乗っていた。河畔から明鏡閣への帰り道を運転していた春藤秋男さんは、突然道路を一匹のリスが横切ったのに驚いて急ブレーキを踏んだ。橋爪さんはその拍子に腰を痛めたのである。もはや勤務できなくなった橋爪さんは、身動きもならず臥せってしまった。家まで見舞いに行った秀子の話によれば、橋爪さんは天井から吊った綱に掴まって寝間着姿の身を起こしながら、「まあずひでえ目に遭ったよ。リスが通ってハイリスク」と言って、ゲジゲジ眉毛の顔をひしゃげたように笑わせたという。しかし経過は誰も予想していなかったほど悪いものであった。体の要である腰を痛めた橋爪さんは、ひとつまたひとつと内臓を病んで、とうとう死んでしまったのである。
 何もかもが昨日のことのようだと、秀子から訃報を伝えられた悠太郎は思った。外仕事から戻ったばかりの橋爪さんが、野良着を脱いで痒い背中をぎざぎざの柱にこすりつけながら、ゲジゲジ眉毛の顔をひしゃげたように笑わせて煙草を吸っていたのも、食器棚から茶托を一枚取り出して自分の頭に乗せ、「照月湖から河童が出てきて、カッパッパー!」と言ってぼくを大笑いさせたのも、つい昨日のことのような気がする。照月湖で開催された樹氷まつりをめぐる特許権の問題で、福島の温泉旅館に出張したのも橋爪さんだったという。「まあず参ったね、俺たちはただ夜中にホースで、樹に水をぶっかけて凍らせただけだっちゅうのに、特許がどうのとか文句言われてさあ。俺が急いで福島の旅館へ飛んでったら、まあずたまげたねえ、そこの女将がだよ、十二単なんか着て出てくるの。俺は面食らったけど、一生懸命説明したよね、俺たちはただ水かけただけなんだって。だけど十二単の女将は、いっくら言っても分かってくれねえの。特許権の侵害には法的措置の一点張りよ。耐え難きを耐え、忍び難きを忍びっちゅうやつだね、俺は謝ってきたよ。二度としませんごめんなさいって頭下げてさ。まあず残念だったね、あんなに盛り上がったのに。照月湖の樹氷まつり、夢幻のごとくなり」と橋爪さんが話して聞かせてくれたのも、つい昨日のことのような気がする。あの頃ぼくはまだ幼稚園児で、バブルはまだ弾けていなくて、照月湖の水はまだきれいだった。「ぼくは死にましぇーん!」と言っておどけた橋爪さんは死んでしまった。すると橋爪さんが「わが浅間観光は永久に不滅です!」と言ったことも、当てにはならないのだろうか。不滅の反対は、滅びるということだ。緑色に濁った生臭い照月湖のほとりで、事業の神様が創った株式会社浅間観光は滅びてゆくのだろうか――。
 今は亡き懐かしい人々を思いながら、悠太郎は夜ひとりでピアノに向かっていた。最後の一曲まで習い終えた『ブルグミュラー25の練習曲』の楽譜をめくっていると、〈さようなら〉のページが目に留まった。「どうして美帆さんはぼくにあんなことを要求したのだろう。どうしてノリくんは死ななければならなかったのだろう。どうして橋爪さんは死んでしまったのだろう」と考えながら悠太郎は、かつて夜の体育館でしたようにその曲を弾き始めた。アレグロ・モルト・アジタート、イ短調、四分の四拍子。アジタートとは「激情的に」という意味のイタリア語だと陽奈子先生は教えてくれたし、楽譜に赤鉛筆で書き込んでもくれた。ためらいがちに始まる序奏はしかし、第三小節にしてスフォルツァンドへと高まる。激した感情をさらけ出すような七度の上行と、崩れ落ちるような和声的短音階の下降! 時の流れが止まることを願うかのようなラレンタンド! しかしテンポはすぐに戻り、切々と嘆き訴えるように波打つ右手の三連符を、吐息のように、あるいは滴る涙のように下降する左手の四分音符が支える――。なんという悲しみ! なんという愁嘆! こんな悲しみやこんな愁嘆は、たしかにぼくには関わりがあるのだ。胸の底から込み上げる悲傷のような左手の三連符のアルペジオ! また右手に移った三連符の嘆きの下に、次から次へと寄せ来るスフォルツァンドの慟哭! こんな悲傷やこんな慟哭は、ぼくにはやはり関わりがあるのだ。 ほら、イ短調は平行調のハ長調に変わった。美帆さんには関わりのない平行調ということも、ぼくにはやはり大切なことだ。エスプレッシーヴォは「表情豊かに」という意味のイタリア語だ。感情を外に押し出すということだ。エスプレッシーヴォということが、ぼくにはよく分かる。 別れゆくふたりがいるとして、それが友達なのか恋人なのかぼくは知らない。しかし楽しかった昔を懐かしむようなこのハ長調の部分にも感じられる、心の乱れと惑いはどうだ。形でも組手でもいつだって平常心で、乱れを知らないように見える美帆さん、空手機械のように素早くて強いあなたに、この惑乱は何の関わりがあるのでしょう? 美帆さん、あなたはこれっきり、音楽なんかを聴きたがってはいけません。ピアノなんかに近づいてはいけません。それはあなたの健やかさを害します。それはあなたの自然な強さを損ないます。あなたは過剰な感受性を抱えて弱くなってはいけません。ぼくのように病的になってはいけません。あなたは健やかに自然に強くあってください。なんとなればあなたにとっては、それがいちばん美しい在り方なのですから。ぼくはもうけっしてあなたのためにピアノを弾くことはしません。あんなことは本来あってはならなかったのです。なぜあなたはあんなことをぼくに要求したのですか? 敏捷な美帆さん、強い美帆さん、あなたの前でぼくがどんなに惨めだったか知っていますか? だがノリくんは? あの慕わしい湖の騎士は、ぼくのピアノをよかったと言ってくれた。ぼくのようになりたかったと言ってくれた。そうだ、ノリくんが言ってくれた通り、ぼくは自分のこの弱さを大切にしよう。白樺の枝がふるえ始める前から、風の思いを知るようなこの弱さを、ぼくはきっと大切にしよう。ああ、楽しかった懐かしい昔の思い出にも影が差す。この下降するメロディーの増二度音程は、ちょっとすごいな。そういうことがぼくには感じられる。そしてほら、また平行短調が、イ短調が回帰する。切々と嘆き訴えるように波打つ右手の三連符を、吐息のように、あるいは滴る涙のように下降する左手の四分音符が支える。なんという悲しみ! なんという愁嘆! こんな悲しみやこんな愁嘆は、やはりぼくには関わりがあるのだ。今度という今度はお別れだ。さようなら、さようなら、さようなら……。これきりだ。お別れだ――。
 最後の和音を弾き終え、物問いたげな大きな目を見開いて放心していた悠太郎は、レッスンのとき陽奈子先生に言われたことを思い出した。悠太郎の左隣の椅子に座った陽奈子先生は、標題音楽の場合には原語の意味に注意深くあるべきことを、凛とした声で教えてくれた。「〈さようなら〉の原題はAdieuというフランス語ね。このさようならは、毎日学校で言うようなさようならじゃないの。学校だったら明日また会えるでしょう? フランス語のAdieuは、もう二度と会えないような別れを意味するの。そんなつもりで弾いてね」
 そうだ、もう二度と会えないのだと、悠太郎は改めて哀惜の念を強くした。「ときにユウ、今日もひとりなのか? そうか、それなら一緒に遊ぼう。照月湖の浅瀬に蛙の卵を見にゆこう。妹も一緒に連れてゆこう」と誘ってくれたノリくん、「ユウは見たことがあるか? 水のなかを泳ぐオタマジャクシに足が生えて、尻尾がなくなって、やがて陸に上がって蛙になる。観察すると面白いぞ。動物であれ植物であれ、自然を観察するのは面白い。生命は神秘だな。俺たちが生まれてきて、ここにこうして生きていて、だんだん大きくなってゆくのも、つまりは神秘だ。分かるか、いづみはだんだんユウのようになり、ユウはだんだん俺のようになるんだ。それが命の不思議だ」と語ってくれたノリくん、「ユウ、ボートの上を歩くときは重心を低くするんだ。腰を落としてな。そうだ、うまいぞ。よくやった」と教え励ましてくれたノリくん、「いずれはユウにも漕ぎ方を教えてやろう。いろいろな漕ぎ方があるからな」と清々しい声で言い、片側のオールだけを漕いで船首の向きを変えたり、普段とは反対向きにオールを回してバックしたり、左右のオールを交互に使って危なっかしく蛇行したりして楽しませてくれたノリくんは、もういないのだ。あのとき青空と白い雲を映した清澄な湖水は、紀之が操るオールのブレードでふたつに割られてはまた融合し、オールの先から雫となって滴り水面に波紋を描いては、不可思議な呪文を唱えかつ綴っていた。波に揺られて風のように軽やかに水上を進みながら、悠太郎は胸がはち切れんばかりの甘美な陶酔を味わっていた。空の空色を映していっそう水色に光る水と、水の水色を映していっそう空色に光る空とのあわいに、悠太郎は自分が溶けてゆくのを感じたものであった。その照月湖の水も、今ではアオコで緑色に濁ってしまった。剽軽者の橋爪さんまで死んでしまった。始まったものは終わってゆく。生きていた人は死んでゆく。懐かしいものは失われてゆく。浅間観光は永久に不滅ではないのかもしれない。滅亡の時は近いのかもしれない。一九九九年の七月に、人類は滅亡するのかもしれない。もうすぐ五歳になろうという夏休みのあの日、ぼくは急な坂道の上に立って照月湖やガーデンを見下ろしながら、「なんという今の美しさだろう」と思ったものだ。「今このときの賑わいと、それを包んでいる深い静けさはどうだろう。こんな時間がいつまでも続いてゆくような気がする。ぼくはこんな時間がいつまでもいつまでも続いてほしいと思う。こんな今が過ぎ去るなんて、ほとんど考えられない。いったい今は過ぎ去るのだろうか。ぼくは一年また一年と大きくなる。お祖父様は一年また一年と年老いて死に近くなり、やがてお墓の下へゆく。人間は死ぬとき何を見るのだろう。ファミコンの電源を切った後のように、白黒の砂嵐が虚しく吹き荒れるのだろうか。それともテレビを消した後のように、何も映らないブラウン管が冷たく沈黙するのだろうか。一年また一年と時間が流れた後で、人はお墓の下へゆくのか。むしろお空の上へゆくのではないのか」と考えたものだ。あのときの今は、今どこにあるのか。湖の騎士ノリくんは、今どこにいるのか。ゲジゲジ眉毛の橋爪さんは、今どこにいるのか――。
 そんなことを考えながら悠太郎は、ふと視界の隅にほの光るものを認めた。もうとうに見頃の季節は過ぎたはずの蛍が一匹、網戸にとまってゆっくりと明滅していた。しばしのあいだ悠太郎は、そのほのかな明滅と呼吸を合わせていた。悠太郎は見ている光の実在を、ほとんど信じていなかった。ほとんど信じていないながら、涙に濡れた物問いたげな大きな目を見開いて、ほのかに明滅するその光を見つめ続けていた。しかし蛍とおぼしき光は、ブルグミュラーの〈さようなら〉の楽譜を置いたピアノのある部屋の窓を離れて、深い闇のなかへ飛び去っていった。
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