明鏡の惑い

赤津龍之介

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第十章 星めぐり

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 そんな天候不順の夏にも、悠太郎はピアノのレッスンに通った。佐藤農園の母屋まで海を割るように渡ってゆく広い広いトウモロコシ畑も、多くの開拓農家が作っている夏野菜と同じく、その年は不作であった。「涙とともに種を蒔く人は、喜びの歌とともに刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」と唱えながら、陽奈子先生がまだ暗いうちに収穫したトウモロコシは、例年より目に見えて実入りがよくないのだと、悠太郎は放送委員会の活動で一緒になった留夏子から聞かされていた。悠太郎が畑道を歩んでゆくとき、トウモロコシの緑の葉が湿った生ぬるい風を受けて、曇り空の下で不吉にざわざわと鳴っていた。悠太郎はすでに赤と黄色の『子供のバイエル』やオレンジ色の『夢みるピアニスト』を一曲残らず学び終え、このころは『バーナムピアノテクニック』や『ブルグミュラー25の練習曲』や『ソナチネアルバム』を勉強していた。ある日いよいよ『ソナチネアルバム』に入ったことを、悠太郎は真壁の家で祖父の千代次に報告した。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、「ソナチネ? 何だそりゃあ? なら知っているが」と言いながら、孫が音楽の教養を順調に身に着けていることに機嫌をよくして、珍しく笑ったものである。悠太郎の部屋に突然新しいアップライトピアノが運び込まれたのは、それからすぐのことであった。ピアノが来たばかりではなく、真壁の家の家庭用電気製品も、この頃ずいぶん様変わりした。台所には電子レンジが導入されたし、電話はもはやダイヤル式の黒電話ではなくなっていた。グレーのスリムなデジタルコードレス電話機は親機と子機に分かれていた。その子機は増築された家の新しい西側に設置されていた。真壁の家族が「新居」と呼ぶ新たな居住空間のために、テレビがもう一台購入された。
 黒い鏡のように部屋のなかを映す、鍵盤の蓋に鍵穴のついたアップライトピアノで、悠太郎は飽くことなく練習に励んだ。観光ホテル明鏡閣の大食堂にある古ぼけたピアノの音も懐かしかったが、しかしこれからは家でいつでも調子の合った楽器を弾けるのだ。『バーナムピアノテクニック』には〈歩こう、走ろう〉とか〈スキップしよう〉とか〈ホッピングしよう〉とかいった曲ごとに、題名で示された動作をする棒人間の絵が描かれていたので、悠太郎は大いに面白がりながらイメージを広げることができた。『ブルグミュラー25の練習曲』は、とりわけ悠太郎の気に入った。〈アラベスク〉の暗い情念や〈牧歌〉の朗らかなのどかさを悠太郎は愛し、あたかも詩でも読むように、それらの題名が表すところを汲み取って表現しようと努めた。それに引き替えベートーヴェンの易しい作品から始められた『ソナチネアルバム』は、表現の参考にすべき題名がついていないこともあって、悠太郎には無味乾燥なつまらないものに感じられた。
 悠太郎のそうした傾向を見て取った陽奈子先生は、レッスンのとき左隣の椅子に座って背筋をまっすぐに伸ばしながら、絶対音楽と標題音楽について、古典派とロマン派について、凛とした声で大切な教えを語った。「そうね、ユウくんの年頃なら、曲の内容を表す題名がついていたほうが分かりやすいかもしれないわね。そういう題名のついた音楽を、標題音楽というの。標題は絵のような情景や文学的な内容を、音楽に結びつけようとするの。それは主にロマン派の作曲家たちがしたことよ。でもロマン派には古典派が先立っているの。古典派の音楽は、音そのものの構造がすべてであるような音楽なの。こういう音楽は絶対音楽と呼ばれるのよ」と話しながら、陽奈子先生は赤鉛筆で『ソナチネアルバム』の楽譜の余白にふたつの対概念を書き記した。「それなら絶対音楽は全然言葉と関係ないかっていうと、そんなことはないの。例えばこのソナチネのここのところ、音がふたつずつスラーで結ばれているでしょう? スラーで結ばれたふたつの音のうちでは、ひとつめの音が強くて、ふたつめの音が弱い。ふたつめの音がひとつめの音に従属していて、ふたつめの音はひとつめの音から派生するの。英語でお父さんのことをfatherというでしょう? ドイツ語ではVaterというんだけど、fatherにせよVaterにせよ、アクセントのある第一音節が爆発的に始まって、アクセントのない第二音節は、アクセントのある第一音節に従属しているの。こういうゲルマン系の言葉とまったく同じことが、絶対音楽の音の構造にも現れているの。たしかにソナチネには小さなソナタという以上の意味はないわ。〈すなおな心〉とか〈家路〉とか〈せきれい〉とか〈つばめ〉とかいう、想像力に訴える曲名ではないでしょう。でもそういう絶対音楽でこそ、音の構造そのものを言葉のように語らせなければならないの。アクセントだけじゃないわ。ピアノとフォルテ、アウフタクトとアプタクト、レガートとスタッカート、ソナタ形式における第一主題と第二主題、それから和声の緊張と弛緩といった対比は、それ自体が言葉のように語るの。こういう対比からなる音の構造こそ、音楽の骨格なの。絶対音楽で鍛えた骨格がなければ標題音楽を弾いても、それはただの想像力の戯れであって音楽にはならないのよ。私の教室では、いずれバッハとウィーン古典派をみっちり教えます。それが音楽史で最も重要だと思うから」と陽奈子先生は語ると、「悠太郎くん、ウィーン古典派の作曲家を三人言えるかしら?」と問うた。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開きながら、小学校の音楽室に貼られている作曲家の肖像画を思い出して、「ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン?」と答えた。正しい答えを聞いた陽奈子先生は、教え甲斐のある生徒に出会えたことに改めて感激し、眩しいものでも見るように切れ長の目を細めながら、「よくできました」と言った。この教えを受けて以来、悠太郎の音楽観は一変した。ベートーヴェンやクレメンティやクーラウのソナチネを練習することが楽しくなったし、ブルグミュラーの練習曲を弾くときにも、標題が醸し出す気分に流されないよう自己を抑制しつつ、ソナチネと同じように音そのものの構造に注意を払うようになった。また『バーナムピアノテクニック』の曲名と棒人間の背後に、悠太郎はピアノを弾く手に要求される純粋なメカニックを透視するようになった。
 ところでそうしたレッスンでの陽奈子先生と悠太郎のやり取りを、留夏子はもはやソファに座って見守ってはいなかった。留夏子はスポーツ少年団のソフトテニス部に入っていたのである。悠太郎は留夏子の不在を心なしか物足りなく感じはしたが、それでもいつの間にかその不在に慣れていた。トウモロコシが不作の曇りがちな夏休みのその日も、留夏子は校庭の片隅に設けられたテニスコートで、緑の唐松林を吹き渡る朝風のようにボールを追っては、ラケットを力いっぱい振るっているはずであった。ピアノやソルフェージュや聴音や楽典のレッスンが終わると、悠太郎は隼平の部屋に立ち寄った。陽奈子先生や留夏子が「想像力の罪」と呼ぶスーパーファミコンを、見せてもらおうとしてのことである。もっとも留夏子は母親の真似をして、テレビゲームを「想像力の罪」と呼びはしたが、自分でも結構それを楽しんでいるようなところがあった。隼平や悠太郎を夢中にした《竜の戦士》というソフトも、留夏子が選んだのだと隼平は話した。
 留夏子や隼平が《竜の戦士》を遊んでいるところへ、悠太郎が来合わせたのは五月のゴールデンウィークのことで、そのグラフィックの美麗なことに悠太郎はまず魅了された。斜め見下ろし型の立体的な戦闘画面で、魔物に剣を振るう竜の戦士の後ろ姿が勇ましくも悲しかった。そして作中に流れる音楽は、またなんという音楽であったことか! 野を進むときの勇壮な行進曲からも、のどかな村の牧歌からも、荒廃した城下町の嘆くような哀歌からも、白熱する悲哀が感じられた。初めて三人でブラウン管に向かった頃、竜の戦士はマグマが赤熱する神殿の地下で、世界を侵略する帝国の将軍と一対一で斬り合っていた。ところが甲冑を身に着けた敵将の体力が半ばまで尽きた頃、強敵との戦いの場面に流れる音楽の珍しい特徴に悠太郎は気がついた。「ジュン、コマンドの入力をちょっと待ってよ。留夏子さんもちょっと聴いてください。拍子が変化している! ほら今は七拍子。ほら四拍子になった。ほら今度は五拍子。次は三拍子だ。すごいなあ、これが変拍子か! 話には聞いたことがあったけど、実際の曲は初めて聴いた。ほら今は七拍子。ほら四拍子になった。ほら今度は五拍子。次は三拍子だ……」と夢中で説明する悠太郎に、留夏子は「ほんとだ! やっぱり悠太郎は耳がいいのね。七拍子とか五拍子とか、本当にあるのね!」と言って眩しいものでも見るように切れ長の目を細めたが、隼平はしかし斜視気味の目で呆れたように悠太郎を見やりながら、「おいユウ、変拍子だか何だか知らないが、いい加減で将軍をやっつけちまおうぜ。マグマの熱で竜の戦士が茹で上がっちまう」と言ってAボタンで攻撃のコマンドを入れた。
 そうしたわけで悠太郎は、レッスンのある日やレッスンとは関係のない休日に、しばしば《竜の戦士》の進み具合を見るために隼平の部屋を訪ねた。背中に鳥の白い翼がある姫や、狼男の姿をした狩人といった仲間たちも加わった。爽やかな風が吹き渡る鳥人間の王国の穏やかな二拍子の舞曲や、終わらない昼が黄金を輝かせる町の浮き立つようなワルツが悠太郎を魅了した。ところで森の民の狼男は隼平のお気に入りであった。竹材に凧糸を張った弓を父親に作ってもらった隼平は、細い小枝で作った矢を弓弦につがえて引き絞り、畑の外れの樹々を射て遊んだ。だがその父親が悠太郎は苦手であった。滅多に姿を見せないその父親に出くわしたとき、悠太郎は挨拶して頭を下げるのだが、返ってくるのは冷淡な無視か、さもなければ敵意を含んだ舌打ちであった。いつも無精ひげを生やしたその父親は、血走った暗い目で悠太郎に一瞥を与えると、何も言わずに顔を背けてどこかへ行ってしまうのである。開拓農家に音楽は要らないと言っているらしいこの人に、ピアノ教室の生徒である自分は憎まれているなと悠太郎は感じた。あるときレッスンの前にこの人と出くわして敵意を浴びた悠太郎に、「昔はあんな人じゃなかったのよ」と陽奈子先生はぽつりと言った。
 トウモロコシが不作の曇りがちな夏休みのその日も、悠太郎は《竜の戦士》を見ようとレッスンの後で隼平の部屋を訪ねた。猫背の姿勢で座った隼平は、斜視気味の目に笑いを浮かべて悠太郎を迎えると、「今日はユウに見せたい画面があるんだ。ユウはきっとこういうのが好きだろうと思ってな」と告げた。竜神のやしろでデータをセーブした隼平は、スーパーファミコン本体のリセットボタンを押した。闇のなかを竜の戦士が歩んできて、剣を空に掲げると雷が落ちた。燃えるような文字のタイトル画面に、駆け上がるような三連符のアウフタクトが特徴的な、勇ましい行進曲が流れていた。その行進曲が終わると、燃える文字のタイトルロゴが左右に分かれて消え、画面は暗転した。きらめくようなチェンバロの音と、クレッシェンドする弦楽のユニゾンに伴われて暗闇のなかから浮かび上がってきたのは、幾層にも繚乱と輝き瞬く星々であった。そこに表示された恐るべき言葉に、悠太郎は二重瞼の大きな目をかっと見開いた。宇宙の営みに比べれば、人の一生などほんの一瞬のきらめきにすぎないと、その文字列は告げていた。
 悠太郎はブラウン管に映し出されたその星空に、自分が吸い込まれてゆくような気がした。顔から血の気が引いてゆくのが、自分でもよく分かった。頭の奥が痺れるような感じがした。漢字ドリルの「死」の文字を鉛筆で真っ黒に塗り潰したり、『人間の死にかた』という本の背表紙が見えなくなるようにそれを裏返したり、学習机の透明シートの下に広がる漢字一覧表の「死」の字を隠したりしても、隠された「死」の字は閉じられた死者の瞼もさながらに、その瞑目で悠太郎を執拗に凝視していた。悠太郎は自分を見つめ続ける死を、常に忘れようとしていた。しかし今このとき、ひとつのスーパーファミコンソフトのデモ画面が、そのあまりに美しい星空とあまりに残酷な言葉で、死ということを悠太郎の眼前に突きつけたのである。「俺から逃れられると思ったか? 俺を忘れられると思ったか?」と死が高笑いしながら勝ち誇っているように悠太郎には思われた。いつの間にか降り始めていた雨の音が強まるなかで、悠太郎はもはや隼平と何を話しているのか分からなかった。
 そうこうするうちにライオンのようなコリー犬のバネットが、重たい鎖をがちゃがちゃ鳴らしながら吠えまくる声が聞こえた。ラケットケースを肩に掛けて、雨に濡れながらテニスの練習から帰宅した留夏子は、弟の部屋に入るや細められた目で悠太郎の異変を見て取ると、「悠太郎、どうしたの? 何か怖いものでも見たの?」と問うた。悠太郎が睫毛の長い目を悄然と伏せて何も答えられずにいると、留夏子は何事かに思い当たったようであった。「ジュン、おまえまさか、悠太郎にあれを見せたの?」と姉は弟を問い詰め、弟が斜視気味の目を泳がせるのを見ると激しくその両肩を掴んだ。「どうしてそういうことをするの? 見せてはいけないって、あれほど言っておいたでしょう!」と留夏子が声を荒らげるのを聞くと、悠太郎は驚いて留夏子をなだめようとした。
 「いいんです留夏子さん。ジュンを怒らないでください。ジュンが見せてくれた画面の星空があんまり美しいものだから、出てきた言葉があんまりぼくの考えていることと同じだったから、ちょっとびっくりしただけです。ぼくは物心ついてからずっと死に怯えてきました。死を忘れようとしてきました。死から逃れようとしてきました。でもそれはきっと間違ったことだったんです。正面から立ち向かわなけれないけなかったんです。ずっと目を背けてきたものを、あの画面が突きつけてくれたことはよかったんです。遅かれ早かれ、こういうことは起こったと思います」と悠太郎は半ば自分に言い聞かせるように座を取りなすと、「ジュン、よかったらあの画面をもう一度見せてくれないかな。あの星空とあの言葉をよく憶えておきたいんだ。今日の日記に書けるように」と求めた。窮地を脱した隼平に、否やのあろうはずはなかった。二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて、悠太郎はブラウン管に再び映し出された星空の画面に見入り、あの恐ろしい言葉を記憶した。そんな様子を見た留夏子は切れ長の目を眩しそうに細めると、「悠太郎は竜の戦士みたいに強くなっているところね」と言った。
 トウモロコシの葉が夕明りのなかでざわざわと鳴る畑道を帰りながら、悠太郎は頭のなかであの言葉を繰り返していた。すると木村ミツル爺さんのことが突然思い出された。ミツル爺さんは昔この六里ヶ原で炭焼きを生業としていた人々のひとりで、森に分け入って樹を鋸で伐り倒しては鉈で枝を払い、運び出しては切断して炭焼き釜に入れていたというし、学芸村の草創期には、白いひげの枢密顧問官の大学に木炭を納めて収入を得ていたというから、そんなミツル爺さんが白内障の混濁した目で遠くを見ながら、「今は昔ですよ真壁さん。もう石油とガスと電気の時代です。炭焼きが必要なくなるなんて、あの頃は思いもしませんでしたよ」と千代次に往時を物語るのはいつものことであった。ところがその年の春のある日、森の民らしくワラビやコゴミやゼンマイを手土産に千代次を訪ねてきたミツル爺さんは、「今は昔ですよ真壁さん。もう石油とガスと電気の時代です。炭焼きが必要なくなるなんて、あの頃は思いもしませんでしたよ」と、同じ話を二度もしたのである。これには千代次も驚いて、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたいたし、悠太郎もまたびっくりして二重瞼の大きな目をかっと見開いてしまった。いつか水道屋の森山サダム爺さんが、「それだけえどあれだね真壁さん、木村さんはこの頃どうも少しボケたのう」と、てらてらした赤ら顔に笑いを浮かべながら、ドラ猫のような声でがなり立てたのはこのことであったかと、祖父と孫は顔を見合わせずにはいられなかった。
 いや、サダム爺さんの指摘を待つまでもなく、その年の正月に起こったある事件によって、真壁の家の者たちはそれらしい兆候を察知していた。悠太郎は家族とともにミツル爺さんの家を訪ね、ポチ袋に入ったお年玉をもらった。ところが三学期が始まってまもなく、悠太郎が小学校にいるあいだに真壁の家を訪ねてきたミツル爺さんは、「これをユウちゃんに」と二度目のお年玉を差し出したのである。千代次も梅子も不意を衝かれ、もういただいたはずだとは言い出しかねて、その場では受け取ってしまった。しかし帰宅した悠太郎に確かめると、この前のとき間違いなくもらったということであった。それで家族みんなして話し合ったうえで、二度目のお年玉をミツル爺さんに返すことにしたのである。人間の記憶が失われてゆくことを、悠太郎は不気味に感じた。老衰によって知的能力が失われてゆくことは死の前の死であり、生きていた人が忘れられてしまうことは死の後の死であるように悠太郎には思われた。お祖父様は増田ケンポウ社長に仕えて浅間観光のために働いた過去や、大好きな漢詩や土井晩翠の「星落秋風五丈原」をやがて忘れてしまうのだろうか。金縁の老眼鏡をかけてパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、ボケ防止にはちょうどいいよ。はまきく・はまきく・はまきく・はまきく……」とワープロのタイピング練習をしていたお祖母様も、やっぱりボケてしまうのだろうか。この世で起こったことはすべて忘れられ、なかったことになってしまうのだろうか。してみれば、すべては虚しいことではないか。人は何のために生まれて死んでゆくのか――。《竜の戦士》に表示されたあの言葉は、そっくりそのまま悠太郎の思いであった。学校で勉強し運動し、家では幼稚園以来の通信教育を受け、ピアノ教室ではソルフェージュや聴音や楽典を習い、空手の道場に通う。だが星空のただなかで、それらのすべては何だというのか。星でさえも、人間にとってはほとんど無限のような時間を生きた後で死滅すると、草壁敬子先生は教えなかっただろうか。太陽はいつ燃え尽きるだろう。ノストラダムスは一九九九年の七月に世界が滅亡すると予言したのではなかったか。一瞬のきらめきの後ですべては無に帰するなら、この宇宙に何の意味があるのか。そもそもなぜこの宇宙がわざわざあるのか――。そうしたことを悠太郎は日記に書いて、四年生の担任になった富里豊とみさとゆたか先生の離れた両目を瞠らせた。
 しばしば上下紫色のジャージを着ていた新任教師の富里先生は、逆三角形に引き締まったスリムな体つきをしていた。顎の尖った小さな顔の離れた両目は、初々しい内気さを示して愛想よく笑ったから、児童の母親たちは先生のことを親しみを込めて「ユタカちゃん」と呼ぶことがあった。富里先生は大学で数学を専攻していたので、児童たちに算数を教えるのが好きであった。垂直や平行ということを教えるとき、同じ一点を通る二本の平行な直線は引けないのだと富里先生は言いながら、大きな三角定規に沿って白いチョークで黒板にいくつもの線を引いてみせた。「直線が同じ一点を通るということは、直線がその一点で交わるということです。平行な直線は、どこまで行っても交わることはありません。平行ではない直線は、伸ばしていけばどこかで必ず交わります」とユタカちゃんが教えると、何人かの児童たちが異論を唱えた。小さな目を面白そうに笑わせた神川直矢は前に出て、「大きな点だったらどうなるんですか?」と言いながら、チョークで点を円のように大きく塗り広げると、その円のような大きな点を通る二本の平行線を、大きな三角定規で引いてみせた。直矢は黒板を見ているみんなを振り返って、機関銃のように高笑いした。「直矢くん、思いつきは面白いけど、きみのは点ではありません。大きさがあるから、これは面です。数学でいう点は、大きさを持たないんです。位置だけがあって大きさを持たない図形を点といいます。同じように数学では、線にも幅がありません。幅も厚さもない長さを線といいます」とユタカちゃんが説明すると、そうは言っても鉛筆やチョークで打つ点にはいくらかの大きさがあるではないか、鉛筆やチョークで引く線にはいくらかの幅があるではないかと、直矢はなおも異を唱えた。すると富里先生は愛想よく笑いながら、「たしかにノートや黒板に、鉛筆やチョークで打つ点には大きさがあります。数学が考える大きさのない点というものを、目に見えるようにすることは不可能です。でもそれは思考の世界にはあるのです。幅のない線も同じように、目に見えるようにはできませんが、考えることはできます。それが数学の面白いところです。皆さんだって目には見えないけれど考えられる物事のお世話になっているのですよ。皆さんはあの人やこの人に出会う。ところであの人でもこの人でもない純粋な人は目に見えますか? 見えないでしょう。見えないけれどもそれは思考のなかにあります。おかげで知らない人を見ても、それが人であることは分かります。一年生の頃、皆さんは算数セットを使っていましたね。一本の計算棒、二本の計算棒と、数を目に見えるようにするためです。手の指を使って計算をした人もいるかもしれません。しかし数そのものが目に見えますか? 三個の林檎は目に見える。しかし純粋な三そのものは考えられるだけです。にもかかわらず、何か見知らぬあるものを三つ見たときには、それが三つであると分かります。それが何かは分からなくても、三つであると数えることはできるのです。これは素晴らしいことだと思いませんか? 算数とは、目に見える具体的なものから、目に見えない抽象的なものへと考えを進める訓練です」と熱心に語った。悠太郎は物問いたげな目を見開いてその説明を聞きながら、数学と絶対音楽はどこか似ていると思った。
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