明鏡の惑い

赤津龍之介

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第九章 左手の小指

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 万緑輝く夏休みへと向かって悠太郎は、黒い軽石を積み重ねて作られた小学校の校門を後にした。白い反射テープが貼られた黒いランドセルは、夏休みの宿題で重かった。野球部に入った少年たちには、終業式の日でも野球の練習があった。薄汚れた白球を、獣じみて汗臭いグローブで受けたり、粗暴な上級生からケツバットを食らったり、ご苦労なことだ。勝手にしろ! ぼくは帰る――。そんなことを考えたら、嫌なことをひとつ思い出した。一年生のときに被らされていた黄色い帽子の代わりに、二年生からは好きな帽子を選ぶことができた。しかし悠太郎が千代次に選ばされたのは、西武ライオンズの野球帽であった。この町で最初にグローブを着けた人々のひとりだったとか、来日したベーブ・ルースの試合を観戦したことがあるとかいうのが自慢の祖父は、おのれの趣味を是が非でも悠太郎に押しつけずにはおかなかった。これに四年生の中島猛夫が目をつけた。猛夫は鼻の穴を膨らませて粗野な声で、「おいコラァ、悠太郎てめえ、野球部に入らねえくせに、なんで野球帽を被ってやがる? ああ? ぶっ殺すぞ、この野郎!」と喚き散らし、この弱い下級生の頭から帽子を剝ぎ取って地べたに叩きつけ踏みにじったのみならず、眉間に皺を寄せて産毛だらけの猿めいた顔を歪め、中指を突き上げたのであった。帰り着いた真壁の家では泥に汚れたその帽子を見て、千代次もまた悠太郎に怒りをぶつけた。だがそんなことは、幼稚園時代にお母様が教えてくれた表現で言えば、日常茶飯事なのであった。
 集団下校ではあったが、通学班は早々に解散された。いま悠太郎はひとりではあったが、粗暴な上級生に脅かされる圧迫感からは自由であった。通学路を鬱蒼と覆う楢木立のアーチは、今を限りと鳴きしきる蝉たちの声を木洩れ日と響き合わせていた。生い茂る下生えの草叢のなかからエノコログサを一本摘み取ると、悠太郎はそれを口にくわえてぶらぶらと歩きながら、これからある程度は許される怠惰ゆえの解放感に陶然とした。学芸村に別荘を持つ詩人が書いた校歌の歌詞の通り、針葉の緑を濃くした唐松の林に、時折カッコウの声が谺した。振り返って見上げれば眩しい青空には、隆々たる入道雲が湧いて白く光りながら、浅間山の噴煙と見分け難く混じり合っていた。寝観音のような浅間山を背にして下校する悠太郎の胸には、何か新たな素晴らしいことが始まりそうだという予感が満ちていた。
 とはいえ夏休みには毎朝ラジオ体操を課せられるから、悠太郎は平日には早起きをして、ハイロン集落の公民館に出向かねばならなかった。通学班での登下校のとき親切にしてくれる早川大輔に夏休み中も会えることは、悠太郎にとって嬉しいことであった。三年生になったスケちゃは悠太郎に、明け方クヌギの樹に蜜を塗ってカブトムシやクワガタムシを何匹捕まえたとか、もちろん自分は持っていないが世界一大きなカブトムシはヘラクレスオオカブトという名前なのだとか、銀色にきらきらと輝く騎士ガンダムのカードダスを何枚集めたとか話してくれた。割合に裕福な家庭のスケちゃは、悠太郎がこれからピアノを習うことに理解と共感を示した。「悠太郎がピアノか。そりゃいいや。留夏子のお母さんに習うのか。そりゃますます面白いな。繊細なおまえには野球部なんかよりよほど合っている。かく言う俺も野球部の粗暴さが嫌で入らなかったからな。ともかくピアノとは素晴らしい。上達したら是非俺にも一曲聴かせてほしいもんだ」と言って、スケちゃは愉快そうに悠太郎を励ました。悠太郎は大輔に対しては、自分が浅間観光の永久名誉顧問の孫であり、学芸村の真壁理事の孫であることを恥じなくてもいいような気がした。湖の騎士たるノリくんが卒業してこのかた、悠太郎にとって頼りにできる身近な上級生は、差し当たりスケちゃしかいなかった。
 ところが石井観光農園の尚美は、エルフのような尖り耳をそばだててこの話を聞いていた。ハイロン通学班の班長だった大柄な女子が卒業した後、「交通安全」と書かれた黄色い旗を受け継いだのは尚美だったのである。「何がピアノ教室だ、この狂人め。おまえに相応しいのは精神病院だ」と尚美はしつこく繰り返した。公民館の向かいにある埃っぽいバラック小屋の屋根の下で、ラジオが体操の音楽と掛け声を流すなかを、皆の前に出て手本を示すのは班長となった尚美であった。こんな悪意に満ちた上級生と向かい合いながら、腕を振ったり膝を屈伸させたりジャンプしたり深呼吸したりするのは、悠太郎にとって苦痛以外の何物でもなかった。しかも体操が終わり、カードに出席の証のスタンプを押してもらう段になっても、尚美は悠太郎のカードに押印することを意地悪く渋った。しかしそんなことが起こるたび、スケちゃがカモメのように繋がった太い眉毛をひそめながら、「おい尚美、そういうことはよくないぞ。きみは公正ということを知らんのか。上級生にして班長たる者が、公正を行なわんでどうする」とたしなめて、悠太郎を守ってくれるのであった。例によって悠太郎は、途中まではスケちゃと一緒に、スケちゃが鬱蒼たる下り坂に消えてしまった後はひとりで、朝の風と光に草木の緑が輝く家路をたどった。浅間隠の連山の方角から昇った日の光が、雑木林を透かしてカーテンのように地上に降り注ぐ様を見れば、悠太郎はひとり物問いたげな目を黒々と見開きながら、いつもその美しさに陶然とするのであった。
 悠太郎が甘楽集落にある佐藤農園を目指したのは、緑濃い樹々の林を爽やかな風が吹き渡り、葉叢を透かして光る木洩れ日が歩むにつれて流れるある日のことであった。幼稚園の頃によく遊びに行った、近くにハルニレの樹がある戸井田農園では、精悍な風貌の研究熱心な幹夫さんが、口まわりに黒々と濃いひげを生やし、麦わら帽子を被った野良着姿で畑に立ちながら、キャベツやレタスや枝豆やトウモロコシばかりでなく、ズッキーニやプッチーニやモロヘイヤといった、六里ヶ原ではまだ珍しい野菜を収穫していると、悠太郎は一輝から聞いていた。佐藤農園は戸井田農園よりもさらに北にあるということだったので、悠太郎は夏の日射しを似合わない野球帽に受けながら、爽やかな風の吹き渡る見通しのよい開拓地の農道を進んだ。すると風のなかに笛のような音で、聞き憶えのある哀切なメロディーが聞こえてきた。それは悠太郎が幼稚園の年長組であったとき、一輝と遊んでいて自転車事故を起こし、九死に一生を得た後に鍵盤ハーモニカの音で聞いた、切々と訴えるようなメロディーであった。あのときアオイさんがドングリまなこをくりくりと動かしながら、〈グリーンスリーヴス〉だと浅い呼吸で教えてくれたそのメロディーは、今度は音楽の時間に上級生たちが吹いている縦笛で奏でられており、佐藤農園があるはずの場所に近づくにつれて、いっそうはっきりと聞き取れるようになっていった。
 それは広い広いトウモロコシ畑であった。その中央には母屋まで道がついていて、ピアノを習いに行くためにはこの畑道を通らなければならなかった。悠太郎にとって両側に並ぶトウモロコシの茎は、見上げるばかりに背丈が高かった。爽やかな風がトウモロコシ畑を海のようにざわめかせた。悠太郎は大きな目を見開きながら、植物の生命力とそれを育てる人間の営みに感嘆しつつ、海を割って進む人のように畑道を一歩一歩踏みしめて進んだ。すると畑の一隅から聞こえていた笛の音がふとやんだ。背丈の高いトウモロコシを掻き分け掻き分け、近づいてくる人影があった。小学校の体操着を身に着けたその人影は、「悠太郎」と緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声で呼びかけた。〈グリーンスリーヴス〉を吹いていたのが誰であったか知った悠太郎は「留夏子さん」と驚いて答えた。留夏子は眩しいものでも見るように切れ長の目を細めながら、「お母さんの生徒になってくれるんですってね。お母さんが待ってる。本当によく来てくれたわね。わが家へようこそ、悠太郎」と言って歓迎した。
 留夏子は悠太郎を従えて、長いポニーテールを弾ませ弾ませ歩みながら澄んだ声で話した。「お母さんはね、今日も日が昇る前にトウモロコシを収穫していたの。涙とともに種を蒔く人は、喜びの歌とともに刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。お母さんの好きな聖書の御言葉よ。今朝もきっとこれを唱えながら収穫していたのね。私も農作業を手伝うときには、繰り返し唱えるように言われているの。聖書が農作業に尊厳を与えるんですって。でもお祖父ちゃんやお祖母ちゃんは、そういうのを変わっているって言うの。それにお父さんは……いいえ、やめましょう、今そんなことを話すのは。今日はせっかく朝からお母さんが嬉しそうで、私まで楽しくなっていたところだもの。涙とともに種を蒔く人は、喜びの歌とともに刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる……」
 広々とした開拓地を吹き渡る爽やかな夏の風が、見上げるばかりに背の高いトウモロコシの海をざわざわと鳴らすと、悠太郎には幼稚園のお山の上でのことが痛ましく思い出された。「私ね、夜中にお母さんがお祈りしてるのを聞いちゃった。〈てんにましますかみさま、かいたくのたみをおゆるしください。ろくりがはらのたみをおゆるしください。かれらはなにをしているのかじぶんでわからないのです〉――。ねえユウちゃん、これってどういう意味?」と留夏子は問うた。悠太郎が「ぼくにも分からないよ。ごめんね、ぼくにも分からない」と答えながら、こんなときにも白い滑り台はあんなに白く眩しいのだなと考えているあいだにも、笹叢は風にさらさらと鳴っていたものだ。あれはもう遠い昔のことのような気がする――。
 猛然と吠え掛かる犬の声と、大地の鼓動のように連打される低音の上をきらめき流れるピアノの音で、悠太郎は物思いから我に返った。見れば庭の片隅には犬小屋が置かれ、そのまわりには古タイヤがうず高く積み上げられていた。いつか大屋原の第一集落まで一緒に五キロの道のりを歩いたとき、康雄が「燃すんだよ」と教えてくれたように、佐藤農園でもまた種を蒔いた畑の霜除けとして燃やされるのであろうが、差し当たり古タイヤの山は、重そうな鎖をものともせず跳ねまわるコリー犬の遊び場と化していた。毛並み豊かなそのコリー犬は、見知らぬ悠太郎に猛然と吠え掛かるかと思えば留夏子にはじゃれつき、その手にあるプラスチックのソプラノリコーダーを奪い取ろうとしたが、敏捷な留夏子の動きにはぐらかされてそれが叶わぬと知ると、悔し紛れに古タイヤを思い切り噛んではまた吠えまくった。「こらバネット! どうどう! お友達の悠太郎よ。今日からお母さんの生徒になるの。そんなに吠えないの。仲良くしなさい」と留夏子が命じるように言葉をかけると、バネットと呼ばれたその犬はいくらかおとなしくなったものの、悠太郎がおっかなびっくり近づいて手を差し出そうとすると、なおも唸って歯を剝き出したので、悠太郎はまた後ずさりした。「悠太郎、無理をすることはないわ。うちでも私以外にはなかなか懐かない犬だもの。バネットって私がつけたの。ライオンみたいだから」と言うと、留夏子は母屋の玄関のドアを開けて呼ばわった。「お母さん、束ねた穂を背負ってきたわよ」
 滔々と流れるように歌っていた逞しいピアノの音がふとやんで、静かな素早い足音が玄関に近づいてきた。それは素足のくるぶしを覆わない黒いスラックスと、簡素な半袖の白いブラウスを身に着けた佐藤陽奈子先生であった。その腕には、農作業とピアノで鍛えられたに違いない筋肉が豊かについていた。「ちょっとルカ、ユウくんを束ねた穂とは何よ」とたしなめた陽奈子先生の凛とした声には、しかし優しさがこもっていた。「あら、いいじゃない、本当のことだもの。お母さんだって嬉しくて、ピアノで喜びの歌をうたっていたじゃない。さっきの曲はベートーヴェンの田園ソナタで、お母さんの大切な曲でしょう?」とやり返す留夏子に、「そうね。その通りかもしれないわ」と陽奈子先生は応じた。留夏子がそのまま大人になったような陽奈子先生の切れ長の目は、眩しいものでも見るように細められて悠太郎に注がれた。「ユウくん、本当によく来てくれたわね。バネットにはびっくりしたでしょう? ちょっと獰猛なところがあって。そのうち仲良くなれたらいいわね。とにかくピアノの部屋へ行きましょう」そう言って陽奈子先生は悠太郎を案内しながら、やはりこの子は他人から愛されることに慣れていないなと思った。歓迎されればされるほど、野球帽を脱いだ悠太郎が睫毛の長い目を伏せ、身を固くしていたからである。
 その部屋には黒光りするグランドピアノが、爽やかな風も通れとばかり、優美な曲線を描く屋根を全開にして置かれてあった。鍵盤の蓋も開かれたままで、譜面台には年季の入ったソナタの楽譜が置かれていた。ガラス扉のついた本棚には、数多くの楽譜類が整然と収納されていたので、悠太郎はそれらの背表紙に書かれた名前を可能な限り読みながら、その名前を小学校の音楽室に貼られている作曲家の肖像画と結びつけようとした。本棚には楽譜類のほかにも、『聖フランシスコの小さき花』とか『トマス・アクィナス』とか『重力と恩寵』とか『恩寵の音楽』とか『音楽と言語』とか『星の輝きを宿した無知』とかいった書物があった。この部屋から始まるであろう精神の成長を予感して、悠太郎の小さな胸は喜びではち切れんばかりであった。物問いたげな大きな目を見開きながら、再び譜面台を見つめた悠太郎は、ピアノ・ソナタ第一五番《田園》という文字列を楽譜から読み取ると、「いつかぼくにもこんな曲が弾けるようになるでしょうか」と恐る恐る問うた。「きっと弾けるようになるわよ。そうなるように、しっかり練習するのよ」と答えたのは留夏子であった。「まあルカ、よく言うわね。あなたはバイエルも終わらせずに練習を放り出したくせに」と陽奈子先生はやり返し、「悠太郎くんもまずはバイエルからよ。早速始めましょう」と、赤い表紙の『子供のバイエル』上巻を本棚から取り出して手渡した。
 するとそこへ、もうひとりの少女がしゃなりしゃなりと現れた。いや悠太郎がそれを少女と思ったのは錯覚であった。淡い茶色の長いプリーツスカートの裾を揺らし、胸元に黒いリボンを結んだ白い半袖のブラウスという清楚な出で立ちで現れたのは、誰あろうひょろ長い手足を持て余した隼平であった。留夏子の弟である内向的な隼平は、早々に野球部を辞めたのでこうして家におり、この日は姉の衣服を借りて女装することで、同級生の悠太郎を驚かせようと企んだのである。隼平はいくらか斜視気味の目をはにかんだように笑わせながら、「わが家へようこそ、悠太郎」と姉の口振りを真似した。悠太郎はびっくりするやら面白いやらで、この家に来て初めて笑顔を見せた。そんな有様を留夏子と陽奈子先生が呆れたように見ているあいだにも、戸外ではバネットが重たい鎖をがちゃがちゃ鳴らしながら吠えまくっていた。
 そうだった。もう一年以上も前に、そんなことがあったのだ――。時々また雨漏りがするようになった観光ホテル明鏡閣の大食堂で、調律の狂ったアップライトピアノに向かい、毛深いながら美しい両手の指で〈ロング・ロング・アゴー〉を弾く悠太郎の脳裏には、右手の窓の向こうで揺らめく照月湖にボートが浮かぶのにも似て、それから一年のあいだに起こった様々なことが夢のように浮かんでは消えていった。
 もちろんピアノはいきなり両手で弾けたわけではなかった。赤い表紙の『子供のバイエル』上巻は、右手の練習から始まっていた。レッスンのとき、悠太郎の左隣の椅子に座った陽奈子先生は、親指から小指までの五本の指をそれぞれ番号で呼ぶことや、五線譜の音符と鍵盤の対応関係や、手の形の保ち方や指先での打鍵の仕方を丁寧に教えたし、悠太郎も大きな目を黒々と見開きながら根気よくそれらを学んだ。一曲また一曲と、練習曲には陽奈子先生の赤鉛筆で書き込みがなされ、やがて曲番号のあたりに花丸がつけられた。差し当たりそれは右手だけのことにすぎなかった。ところがピアノより早く両手を同時に使ってみる機会が悠太郎に訪れた。あるとき資産運用に関わる用事で高崎へ出掛けた千代次が、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、帰りに大きな家電量販店でワープロを買ってきたのである。
 それは東芝ルポという機種で、黒くてずっしりと重たい機体は、どこか親しみやすそうな丸みを帯びていた。思ったことをキーボードで打ち込めば、ファミコンのような粗いドットでぎざぎざしてはいるが、それでも手書きよりよほど印刷物に近い端正な文字になるのである。機能1や機能2のキーを使って指定すれば、選んだ文字列を倍角や縦倍角や四倍角に拡大することもできたし、網掛けや斜体で目立たせることもできた。倍率を指定してもっと拡大した文字は、太字や白抜きにすることさえも可能なのである。そうして入力した文字列を感熱紙という特殊な紙に、あるいはインクリボンを消費すれば普通の紙にも印刷することができた。この奇跡のような機械に魅了された悠太郎は、小学校二年生なりの読解力で基本と応用のマニュアルに読み耽っては、様々な機能を試してみた。ところで基本のマニュアルには、両手を使ったタイピングの練習方法が書かれていた。梅子は金縁の老眼鏡をかけてそれを読み読み、パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、ボケ防止にはちょうどいいよ。はまきく・はまきく・はまきく・はまきく……」などと、両手の人差し指と中指を使うところから練習を始めたので、悠太郎もそれを真似した。陽奈子先生のピアノ教室で『子供のバイエル』が、左手の練習や両手の練習へと進んでも、悠太郎はさしたる抵抗を感じなかったが、それにはこのワープロのタイピング練習が与って力があったのである。あるとき悠太郎はゲームのガイドブックから、そのストーリーをワープロで打って書き写したことがあった。その日の宿題の日記には、そのことを書いた。すると担任の丸橋清一先生は、日記のページの余白に赤いボールペンで、「いつか自分のストーリーをワープロで打てるといいですね!」と書いてよこしたのである。悠太郎は心の奥の大切なものに無神経な手で触られたような気がしたが、しかし軽薄で子供っぽい丸橋先生とはいえ、やはり学校の先生になれる程度には馬鹿ではないし、人を見る目はあるのだなと思ったりもした。そしてワープロは時々不気味な感情を、悠太郎の胸に呼び起こすことがあった。不可能なコマンドを入力してしまったとき、「位置不適当。取消キーを押してください」とか「組み合わせ不適当。取消キーを押してください」とかエラーメッセージが表示されるたび、なぜか悠太郎は樹々の葉叢がざわざわと鳴る静けさのなかで、死の恐怖を思ったのである。
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