明鏡の惑い

赤津龍之介

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第八章 湖の騎士

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 おロク婆さんがくれたその紙に、紀之が絵を描いてみせたことがあった。それは樹々の芽に先んじて草萌えが始まっていた四月の終わりの日曜日で、紀之はレストラン照月湖ガーデンからすらりと長い脚で急な坂道を登ると、まだ芽吹かない楢や唐松や白樺の林間の舗装道路を、悠太郎と一緒に真壁の家まで歩んできた。紀之は明澄な光を湛えた目を円かに見開きながら「真壁さん、こんにちは。入江紀之です。ガーデンの父がいつもお世話になっています」と清々しい声で居間にいた千代次に挨拶した。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、年老いた顔に珍しく笑みを浮かべて面前の少年を歓迎した。株式会社浅間観光の永久名誉顧問たる千代次の自尊心をくすぐりながら、なおかつ少しも卑屈にならないだけの洗練された物腰を、紀之はすでに身に着けていた。千代次が書道の稽古をすべく自室に引っ込むと、悠太郎は縁側に置かれた学習机の上から、鉛筆とおロク婆さんがくれた紙を居間へ持ってきて紀之に渡した。紀之は手近にあった《スーパーマリオブラザーズ3》の取扱説明書を開くと掘り炬燵に座を占め、そこに載っている敵キャラクターを炬燵板に置いた紙の上に、次々と軽やかなタッチで迷いなく描いていった。イカの化け物を描きながら紀之は、説明書の絵では脚が七本しかないことを指摘して愉快そうに笑った。フグの化け物は一本一本の棘を精緻に写し取られた。歩く人食い花が、牙のある口から吹き上げる棘のある球もまた同様であった。歩く爆弾が爆発するところでは、まさしく電光石火の早業で星型が散らされた。だが一番の傑作は深い海底に咲く水中花で、透明感をもって重なり合うその花びらの細やかな輪郭線は、手本になった説明書の絵よりもよほど美しかった。悠太郎は大きな目を黒々と見開いてその花のスケッチに見入りながら、「ノリくんはすごいなあ。どうしてこんなにうまく描けるの?」と感嘆して問うた。紀之は明澄な光を湛えた円かな目を輝かせながら、「こんなのは簡単さ。よく見れば描けるんだよ。スケッチをするときは、描くものの比率をよく見ることが大事だ。まだ難しいかもしれないが、ユウだって今にこのくらいには描けるようになるぞ」と答えた。「この水中花に色鉛筆で色をつけてみてくれる?」と悠太郎が弱々しい声で頼むと、「もちろんさ!」と紀之は快諾して彩色作業に取り掛かった。眩しいほどに白い紙の上に描かれた淡い水中花のように、それは美しく夢幻的な時間であった。
 五月ともなれば温かい雨上がりの日に、唐松の林が魔法のように一斉に緑の芽を吹き、桜やコブシやタンポポやムスカリや水仙の花が、だんだん咲けばいいものを一斉に咲いて湖畔の賑わいを彩った。冬を追憶するかのようにユキヤナギの白い花の穂が咲きこぼれ、またレンギョウが黄色い星雲のように群れ咲く庭を横目に、観光ホテル明鏡閣や照月湖モビレージを訪れる客の自動車は、新たな季節の光を浴びて車体きらめかせながら、道路に長蛇の列をなした。レストラン照月湖ガーデンも常時満席の賑わいで、店内のテーブルに着いて食事をしたりコーヒーを飲んだりする客のみならず、カウンターでソフトクリームを買い求め、パラソルテーブルの椅子でそれを食べる客が引きも切らなかった。明鏡閣でもガーデンでもボート番小屋でも、大人たちがあくせくと忙しがるそんなとき、紀之はレストラン脇のプレハブ小屋に悠太郎を招き入れた。ガーデンを取り仕切る入江夫妻の繁忙期の仮住まいで、紀之は段ボールの空き箱にカッターナイフの刃を滑らせていた。ボート番小屋前の自動販売機に入れる缶飲料を収めていた段ボール箱を、紀之はギョロ目の桜井謙助さんからもらい受けておいたのである。紀之はその段ボールに鉛筆で手早く線を引いていった。その輪郭線通りに部品を切り出せば、それらを組み立ててちょっとしたヘリコプターができるということであった。紀之は明澄な光を湛えた円かな目を輝かせながら、悠太郎にカッターナイフの扱い方を教えた。「床を傷つけないように、切れてもいい段ボールを下に敷いてな。刃の進む方向に左手を置かないようにすれば、まず怪我はしない。怯えることはない。ぐっと深く刃を入れて、無駄な力を抜いてな。そうだ、うまいぞユウ、その調子だ」と清々しい声で言いながら、紀之は家でカッターナイフを使ったことがない悠太郎を励ました。妹のいづみは弓なりの眉を水平に持ち上げながら、眠たげな気怠さを湛えた目に注意力を集めつつ、鋏を使って部品の細部を整えていた。
 そんなふうにして三人がああでもない、こうでもないと工作に没頭していたとき、遠くから救急車のサイレンの音がガーデン前に近づいてきた。それを聞きとがめた紀之は、素早く立ち上がって小さな窓から外を見ると、独り言のように「キャンプ場だ」と言った。救急車はレストランの前から緩やかな坂道を降って、照月湖モビレージに躍り込んだらしかった。紀之は悠太郎といづみに向き直ると、「モビレージで何かあったらしい。事件か事故か、大したことでなければいいが……。現場へ行くのは危ないかもしれないから、念のために下の桜井さんのところへ行ってみよう。何か分かるかもしれない」と告げた。悠太郎は不吉な予感を胸にプレハブ小屋を出ると、紀之といづみの兄妹と一緒に大きな石段を湖へと下りた。手漕ぎボートや足漕ぎのスワンボートを浮かべて揺らめく水面は、事態の真相ともども一段また一段と悠太郎に迫ってきた。やがてギョロ目の桜井謙助さんが取り仕切る埃っぽいボート番小屋に、薄黒いサングラスをかけたサカエさんこと黒岩栄作さんが姿を現した。「参ったねライサクさん。おお、ノリにいづみにユウくんも来ていたか。いや、まあず参った」とサカエさんは、七三に分けたふさふさの黒髪を片手で搔き乱した。「モビレージでキャンプしていたお客がおめえ、ハシリドコロを食っただよ」とサカエさんが告げるのを聞いた桜井さんは、まなじりも裂けよとばかりにギョロ目を見開くと、「何だと!」としゃがれ声を裏返らせて驚愕した。それだけ聞いて早くも事態を飲み込んだ紀之が「ハシリドコロ! それじゃ春の妖精にやられたんですね?」と問うと、サカエさんはがっくりと紀之に頷いた。不安のあまり胸が苦しくなった悠太郎が、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開くと、紀之は深刻な声で「ハシリドコロという草があってな、春に花を咲かせたきり地上では枯れて、夏から後は地下で生き延びるから、スプリング・エフェメラルと呼ばれる植物の一種なんだ。若芽がフキノトウによく似ているが、花も茎も根も猛毒なんだ。間違っても食べてはならないと、父さんがいつも言っている」と説明した。猛毒という言葉を聞いた悠太郎はかっと目を見開いて「それじゃ、食べたお客さんは……」とふるえる声を絞り出すと、サカエさんがふさふさの黒髪の生えた頭を掻き掻き「ああ、残念だが、助からなかった。その場で死亡が確認された」と言った。悠太郎の背筋を冷たいものが走った。幼稚園の頃に甘楽集落の戸井田一輝と遊んだ《スーパーマリオブラザーズ2》のことを悠太郎は思い出した。変な色のキノコを取ったマリオがたちどころに絶命するのを見て、一輝は「引っ掛かった!」と言って抱腹絶倒したものである。テレビゲームのようなことが、まさかこれほど身近な現実で起ころうとは、悠太郎は考えたことがなかった。
 三人して大きな石段を登るあいだも、悠太郎は睫毛の長い目を悄然と伏せてうつむいたままであった。一段また一段を力なく踏みながら悠太郎は、なぜ人間の命は石のように頑丈ではなく、花のように脆いのだろうと考えた。石段を登りきったところにあるベンチ代わりの大きな岩のところで、紀之は午後の湖を背にして悠太郎の肩に手を置くと「ユウ、力を落とすな。亡くなったお客さんは気の毒だったが、仕方がなかったんだ。いっときでも直に自然と触れ合って生きようと思えば、当然こういう危険もある。毒草を見分けられない人には死が訪れる。それは自然の掟なんだ。仕方がなかったんだ。力を落とすな」と優しく労わるような声をかけた。いづみも弓なりの眉を水平に持ち上げながら悠太郎を見上げると、「ユウくん、元気出して」と励ました。紀之は力づけるように悠太郎の目を見つめると、「夕方まではまだ間がある。ヘリコプターの工作の続きでもやろう」と提案した。プレハブ小屋に帰ってのその作業が、悠太郎にはどれほど慰めになったか知れなかった。セロハンテープを使うときには、どっしりとしたテープカッターの銀色のぎざぎざが心にくすぐったかった。だが結局のところ組み立て終わってみれば、段ボールのヘリコプターは不格好に歪んでいた。「参ったな、これは三人の施工ミスというよりも、俺の設計ミスだな」と言って紀之は夕映えの湖のように笑った。帰宅した秀子が疲れたような表情を浮かべて語ったところによれば、客が起こしたこの事故のことで、浅間観光が何らかの責任を問われることはないということであった。しかし悠太郎の心がそれで安らぐはずもなかった。おいしそうな野草を食べただけで、わけも分からずに死ななければならなかったお客さんが痛ましかったばかりではない。熊川のほとりにあった旧ホテルの消えた銀食器や、熱海の芸者であったおイネ社長の自殺や、中止に追い込まれた照月湖の樹氷まつりや、明鏡閣の大食堂の雨漏りと猫漏りや、老朽化のために崩れたコンクリートといった歴史のなかに、またひとつ浅間観光にとって不吉なものが増し加わったように思われてならなかったからである。
 小学校二年生になった悠太郎が、漢字ドリルを開くたびに恐れなければならなかったのは、二年生で学習する「死」の字であった。できることなら悠太郎は、その字を忘れてしまいたかった。だが忘れようとすればするほど、「死」の一字は悠太郎の物問いたげな目を引きつけて離さなかった。死とは何だろう? 死ぬときはどれほど苦しいだろう? 死んだ後はどれほど虚しいだろう?――幼稚園時代から悠太郎を捕えて離さなかった疑問は、ハシリドコロを食べて死んだ客の一件以来ますます膨れ上がって、この多感な児童を脅かした。それより前に悠太郎は、「死」の字がどこか「花」の字に似ていると思っていたことがあった。実際漢字がまったく読めなかった頃には、「死」を見て「花」だと思い込んだことがあった。それは一輝が好んで遊んでいた《月風魔伝》というファミコンソフトで――もっとも一輝の父の戸井田幹夫さんは、そのタイトルを「げつふうまでん」ではなく、ぶっきら棒に「げっぷうまでん」と発音しては、口まわりに黒々と濃いひげを生やした顔に満面の笑みを湛えていたから、一輝も悠太郎も「げっぷうまでん」だと思い込んでいたのだが――、太刀を振るって地獄界を進む赤毛の月風魔が奈落に落ちてしまうと、奈落の底から「死」の一字が浮かび上がってきた。悠太郎はそれを「花」と読んでいたのである。「死」の一字があれほど悠太郎を悩ませてきた死の観念と結びついてからも、悠太郎は敢えて「死」を「花」と読むことで慰めを見出していた。しかし春の妖精たるハシリドコロの一件は、そんな美しいごまかしを不可能にした。花はもはや優しく死を覆い隠してくれるものではなくなってしまった。それで悠太郎は、秀子が若かりし日に愛読したという『人間の死にかた』という本の背表紙が見えなくなるように、『世界文学全集』や『国民百科事典』が詰め込まれた本棚にあるそれを裏返さねばならなかった。学習机の透明シートの下には、小学校一年生から六年生までに学ぶ漢字の一覧表が広がっていたが、悠太郎はゼラニウムの花びらのような濃いピンク色の折り紙を小さく切ると、それで「死」の字を隠した。漢字ドリルの「死」の字も、鉛筆で真っ黒に塗り潰した。だがそんなふうにして隠せば隠すほど、隠された「死」の字は閉じられた死者の瞼もさながらに、その瞑目で悠太郎を執拗に凝視した。いま掛け算九九を教わっている算数の時間が終わって家に帰ったら、宿題で「死」の字を、漢字練習帳のページいっぱいに書き取りしなければならなかった。それはとても嫌なことだと悠太郎は思った。花・花・花・花……と書くわけにはゆかないな。そんなことをしたって、ハシリドコロで亡くなったお客さんのことが思い出されるばかりだし、担任の丸橋清一先生は、東南アジア的な濃い目鼻立ちの童顔だけど、若い男の人だけあって怒ると怖い。「死」の字の書き取りなんか嫌なことだ。できることならやりたくはない――。悠太郎がそんなことを考えるあいだにも、遠くで燃えるように群れ咲くレンゲツツジを濡らしている雨の音が聞こえ続けていた。
 ところで設計ミスといえば、ノリくんはその表現が好きだったのかなと、悠太郎は再び回想のなかへと沈み込んでいった。それはちょうど一年前のこんな季節の雨の日に、真壁の家の居間にあるテレビの前で起こったことであった。その日ふたりがファミコンで遊んだソフトは、悠太郎が一輝から借りていた《ロックマン2》の赤いカセットであった。悠太郎は早くも幼稚園時代に、一輝の家でこの作品に出会って大いに気に入っていた。小学生になった悠太郎と《ロックマン2》を遊ぶ紀之が、ステージ選択画面で左上の枠を選ぶと、ブラウン管にステージの背景をなしている大瀑布が映し出された。白と水色と青のドットが細かく戯れながら流れ落ちる様を見て、紀之は「うわっ!」と軽く悲鳴を上げた。「これはまたなんという見づらい画面だ。目がちかちかするじゃないか。この滝の画面は明らかに設計ミスだな」と苦情を言う紀之を、悠太郎はいかにも大人っぽいと思った。だがステージを進むうちに紀之は、「たしかに見づらい画面ではあるが、それでもこんなふうに描かなければならなかったのは、それなりの理由があるのだろう。どんなものにも、そうでなければならないという存在理由があるものだからな」と言った。
 「ではこのぼくにも存在理由があるのだろうか」と悠太郎は、帰りの会で丸橋先生の話を雨の音とともに聞きながら考えに耽った。若くて背の高い丸橋先生は、濃い目鼻立ちの童顔に子供っぽい喜色を湛えながら「それじゃみんな、宿題の漢字練習をしっかりやってくるようにね。日記もちゃんと書いてくるように。やってこなかったら、お仕置きだぞ!」と冗談めかして軽薄に告げた。毎日の日記は二年生になってから宿題として課せられたが、一年生のときに日記がなかったのは残念なことだと悠太郎は思った。もし去年から日記の宿題があったなら、ノリくんのことをたくさん書き残せたのにな――。いま思い出そうとしている日曜日のことが、あの苦しかった六里ヶ原マラソンの前であったか後であったか、悠太郎にはもはやしかとは分からなかった。「このぼくにも存在理由があるのだろうか。足が遅くて体の弱いこんなぼくにも、野球部に入ることを拒んで家族をますますがっかりさせたこんなぼくにも、生きていてよい道理があるのだろうか」と悠太郎は、記憶のなかの紀之に答えを求めるかのように、みんなと声を合わせて「さようなら」の挨拶をしながら、ひたすら内省に沈んでいった。そうだった。二年生になってからは、神川直矢くんだって野球部に入って元気よく「しやーす!」と言っているし、佐原康雄くんだって野球部に入って溌溂と「したー!」と言っている。佐藤隼平くんだって嫌悪の表情を浮かべながらも野球部に入ったではないか――。だが悠太郎は野球好きの千代次から、ほとんど脅迫めいた仕方で入部を促されても、頑としてこれを拒んだ。放課後に野球部を見学したときに悠太郎が見たものは、脇腹に激痛がしそうな走り込みや、薄汚れた白球が次から次へと襲ってくる拷問のような千本ノックや、ケツバットと称する暴力的な制裁に満ち溢れた地獄的な光景であった。「しやーす!」とか「したー!」とかいった挨拶ばかりではなく、「ナイバッチ!」とか「バッチコイ!」とかいった意味不明な掛け声も野蛮に響いた。あの中島猛夫にこんな環境のなかで痛めつけられるのかと思うと、悠太郎は屈辱と恐怖のあまり体をこわばらせずにはいられなかった。現に猛夫は鼻の穴を膨らませて粗野な声で喚き散らし、眉間に皺を寄せて産毛だらけの猿めいた顔を歪めながら、泣き叫ぶ下級生の尻をバットで殴りつけていた。バックネットの裏に立ち尽くす悠太郎にさり気なく近づいてきた真霜譲治ましもじょうじが――それは大屋原第二集落の通学班で起こる凄惨ないじめを、眠たげな目の丸顔に静かな闘志を湛えて見守っていた一級上の男の子の名前であった――、「おい悠太郎、悪いこたあ言わねえ。おめえはこの野球部に入らねえほうがいい。ここはおめえのいるところじゃねえよ」と忠告してまた走り去ったので、悠太郎はおのれの感じたところに従う決心をしたのである。
 だがその決心は、この町で最初にグローブを着けた人々のひとりだと自負する千代次を激怒させた。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら「何だと! おめえは俺の言うことが聞けねえちゅうのか! 勉強も運動も一等になるぐれえの気概がなくてどうするちゅうんだ! そんなことじゃ駄目だろう! 駄目だろう! 駄目だろう!」と真っ赤になってわなわなふるえながら怒鳴りつけ、熱いお茶の入った茶碗を投げつけ、古い胡桃材の座卓を拳で叩き続けた。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら目を吊り上げて、「まあずこの孫は言うことを聞かねえ! ほれ見ろ、お祖父様をこんなに怒らせて! やっぱり悪魔の種の悪い性質が出てきたよ! 開拓の屯匪の孫どもに、また遅れを取ろうってのかい? ほれ秀子、おめえの与太息子の性根を叩き直せ! 叩き直せ! 叩き直せ!」と喚き散らした。秀子は下膨れの顔を歪めてぶるぶるとふるえながら、「お願いだからお祖父様の言うことを聞いて悠太郎! これ以上お母様を悲しませないで! お願いだから野球部に入ると言って! 野球部に入ると言って! 野球部に入ると言って!」と悠太郎に平手打ちを食らわせ続けた。夜も眠らせずに責め続ける家族三人の剣幕に、悠太郎は涙を堪え切れなかったが、激しく泣きながらも遅くまで抵抗し続けると、そのうちに母も祖父母も疲れて眠ってしまった。ひとり悠太郎ばかりが、大火災の後に燃え残る熾火のような意識を持て余して目醒めていた。そうだった。少しも眠れずに一夜を明かしたのは、あのときが初めてだった。ぼくは息も絶え絶えにしゃくり上げながら、どんなにかノリくんに会いたかったことだろう――。
 「ユウ、よく来たな。今日もひとりなのか?」と紀之は円かな目に光を湛えながら、よく晴れたその日曜日にもレストラン照月湖ガーデン前の駐車場で、きらめく明澄な湖を背景にして清々しい声で悠太郎を歓迎してくれた。その指の長い美しい手のなかには、一冊の分厚い漫画雑誌があった。「この漫画本をユウにやろう。お客さんが捨てていったものだ。お祖父様のいる家へ持って帰りづらければ、下のボート番小屋で読ませてもらうといい。俺はもう少し父さんを手伝ってから行くからな」と紀之は、表紙に様々な登場人物たちが賑やかにひしめき合う漫画雑誌を悠太郎に渡してくれた。紀之のそんな優しい心遣いだけでも、悠太郎の胸は感謝にはち切れそうなくらいいっぱいになって、黒々と見開かれた二重瞼の大きな目には涙さえ浮かぶのであった。そして埃っぽいボート番小屋に置かれた茶色い粗布張りのソファに沈んで、悠太郎はその漫画本を読んだ。そこからはなんという甘美な世界が立ち現れたことであろう! 連載が始まったばかりのある作品では、黒い詰襟の制服を着た中学校一年生の少年が異世界に迷い込み、剣を振るって魔物と戦わなければならなくなっていた。少年は覚悟を決めて剣を構え、骸骨の魔物と対峙していた。観光ホテル明鏡閣の光子さんと同じ姓を持つその少年を、悠太郎は心底かっこいいと思いながら、夢中で戦いの行方を追いかけた。また別の作品では、二頭身にデフォルメされたガンダムが西洋の騎士の鎧兜に身を固め、砂塵の舞う道を踏んで遥かな旅路を歩んでいた。これもまた剣と魔法の世界であったが、兜の目庇まびさしの陰からのぞく騎士ガンダムの両の目は、なんと凛々しく明澄に輝いていたことだろう! 悠太郎は騎士ガンダムの輝く目を、明澄にきらめく照月湖の湖水や、紀之の目と重ねて考えずにはいられなかった。カウンターの奥からはスケート靴の皮革の匂いが漂ってきて、現実を超えた遥かな世界に悠太郎を誘うかのようであった。
 紀之が下りてきてからまもなく起こった事件によって、悠太郎のそんな実感はますます強められることになった。小屋の外から桜井謙助さんの「おおいノリ! ちょっと来お!」と呼ぶ声が聞こえたので紀之と悠太郎が出てゆくと、桜井さんは両側に手漕ぎボートが係留してある桟橋の突端で、額に三筋の皺を寄せながら双眼鏡を目に当てて、鷹繋山の方角の対岸近くに浮かべられたオレンジ色の浮標ブイのあたりを見ていた。「あすこでスワンボートが動けなくなってるんべえ。ノリ、おめえちょっと行って助けて来お」と桜井さんが命じると、紀之は即座に「はい、分かりました!」と返事をして、「ユウ、おまえも一緒に来い」と悠太郎に言った。悠太郎が以前よりは慣れた足取りでボートに乗り込み船尾の席に着くと、紀之はすらりと長い脚で大股に乗り込んでオールを取った。「事は急を要する。全速力で漕ぐぞ」と宣言した紀之は、以前にも増して上半身を大きく動かしながら、長い腕で力強くオールを漕ぎ始めた。照月湖の明澄な湖水はオールのブレードでふたつに割られてはまた融合し、オールの先から雫となって滴り水面に波紋を描いては、不可思議な呪文を唱えかつ綴った。矢のようにまっしぐらに風を切って進んだボートは、問題の水域にすぐさま到達した。そこでは一艘のスワンボートが、スクリューに浮標を巻き込んだために動けなくなっているのであった。曇りない目の一瞥で事情を察知した紀之は、「こんにちは。災難でしたね。大丈夫です、いま助けますからね」とスワンボートに乗り組んだ若い男女のふたり連れに声をかけると――そうした男女のことをライサクさんは「アベック」と呼んでいたが――、オール受けからオールを素早く外して一本を悠太郎に渡した。「いいかユウ、スクリューに巻き込まれた浮標を、俺たちはこのオールで押さえつけて水の底に沈めるんだ。ユウも手伝ってくれ。水に落ちないように気をつけてな」という紀之の言葉に従って、悠太郎はスワンボートに横づけされた手漕ぎボートから身を乗り出すようにして、か細い腕に持ったオールで浮標を押し下げた。紀之の持つオールの強い力がそこへ加わり、オレンジ色の浮標が深々と水中に没した刹那、「今です! さあ漕いでください!」という紀之の凛々しい声が響いた。言われるがままに若いアベックはペダルを踏み、ようやくスワンボートは窮地を脱した。紀之のほうへ眼差しを向け、しきりにお辞儀をしては感謝の言葉を口にするアベックに答えて、「どういたしまして。あまり浮標に近寄りすぎないよう気をつけてくださいね」と洗練された物腰で答えると、紀之はまた全速力でオールを漕いで、桟橋へ向けて矢のようにボートを飛ばした。風を切って空色の水と水色の空のあわいを進むのを感じながら、悠太郎は向かい合ってボートを漕ぐ紀之のことを心底かっこいいと思った。本当に、本当にノリくんは湖の騎士なんだ――。
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