明鏡の惑い

赤津龍之介

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第七章 薄い夢

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 それからの一年間は、あまりにも多くの変転と恐怖と挫折感を悠太郎にもたらしながら、悪夢が記された教科書のページがめくられるように過ぎていった。春まだ遠い六里ヶ原の、しかし真冬に比べればよほど寒さも緩んだ午後、雪白の寝観音のような浅間山に背を向けて、小学校からの通学路をひとり淋しくうつむきがちに下校しながら、悠太郎はこの一年でわが身に降りかかった出来事を思い出していた。白い二本の側線の入ったネイビーブルーの体操着の上に、防寒用のウインドブレーカーを身に着けた悠太郎の背中には、田無の正子伯母様が買ってくれた黒い大きなランドセルが、一年生にのみ義務づけられた黄色い交通安全カバーを被せられて背負われていたが、そのカバーも頭に被った黄色い帽子と同じく、もうすぐ二年生になれば使わなくなるものであった。「何だろう、この淋しさと虚しさは何だろう」と悠太郎は睫毛の長い目を悄然と伏せて、路肩に雪の融け残る道路に落ちる樹々の影や、自分の影を見つめながら考えた。側溝を雪融け水が森閑とした静けさのなかに輝かしい音を立てながら、悠太郎の遅い歩みを追い越して勢いよく流れ下っていった。「ついこの前までぼくは幼稚園児だったはずではないか。それがある日突然小学校一年生にされて、何もかもが変わってしまった。そしてもうすぐ二年生になるというのか。そしてついこの前まで幼稚園児だった子たちが、突然また小学校一年生にされて、黄色い交通安全カバーを被せられたランドセルを背負わされ、黄色い帽子を被せられて行き帰りの通学路を歩くようになるのだ。薄灰色の園児服のスモックはどこへ行ったのか。黒いリボンをぐるりと巻いた麦わら帽子はどこへ行ったのか。それらを身に着けていたぼくはどこへ行ったのか。何もかもを取り換えられ、与えられたものにようやく慣れ親しみ始めた頃には、またそれを奪われてすっかり別なものを与えられるのだ。人生とは最後の最後まで、こうも残酷なものなのだろうか……」
 この町の高原地帯にはふたつの小学校があって、浅間山に近いほうから町立六里ヶ原第一小学校、町立六里ヶ原第二小学校と数えるのが正式名称ではあるが、土地の人々は煩瑣はんさを避けて、それぞれ北軽井沢小学校、応桑小学校と簡略に通称していた。応桑の幼稚園に通っていた子供たちはふたつの小学校に分かれ、またひとつの中学校で合するのである。幼い悠太郎を「弱いくしぇに! 弱いくしぇに!」と嘲った御所平の大柴映二くんも、ピアノの上手な黒岩梨里子ちゃんも、生まれたばかりの怪獣のような岡崎冬美ちゃんも応桑小学校へ入ったから、悠太郎の最晩年たる中学校時代まで、しばしのお別れということになる。一級上の子たちではルカちゃんと仲良しだった、のんびりと間延びした声で話す垂れ目の岩瀬麻衣ちゃんも応桑小学校へ入っていた。とはいえ「弱いくしぇに!」と嘲る者がいなくなったところで、悠太郎の弱さが消えてなくなるはずもなかった。弱い悠太郎にとっては、ランドセルに詰まった教科書やノートやドリルは重かった。だがそれらよりもなお重い試練の数々に圧しひしがれて、悠太郎はますます弱っていったのである。
 入学したばかりの頃には、虚弱な悠太郎にとって通学路を歩くことだけでも相当な負担であったが、通学班での登下校は、その厭わしさをいやが上にも増し加えた。毎朝家の前の砂利が敷かれた道を、町道と交わる三本辻まで歩けば、そこが悠太郎の待機地点であった。やがて三本辻の右手の開拓集落の側から、悪夢のような群像が現れた。悠太郎が編入されたのは、明らかに日本語の地名とは思われないハイロン集落の通学班で、六年生の大柄な女子が「交通安全」と書かれた黄色い旗を手にして先頭を歩いていた。新一年生の悠太郎は、そのすぐ後について歩かなければならなかった。ハイロン班の人数はさして多くはなかった。そのなかには、林檎の収穫体験を売りにする石井いしい観光農園の娘がいた。一級上の石井尚美なおみは、エルフのような尖り耳をそばだてて、悠太郎を嘲るべく隙をうかがっているようなところがあった。しかし同じく一級上のスケちゃと呼ばれる早川大輔はやかわだいすけは、学芸村とは異なる別荘地の管理人の息子であったせいか、カモメのように繋がった太い眉毛を持ち上げて、愉快そうに笑いながら悠太郎を見守っていた。それは大輔が悠太郎と同じく、ひとりっ子であったがゆえの共感のためかもしれなかった。
 どの児童も同じような時刻に小学校へ到着することを目指す以上、ハイロン班が単独で悠太郎の待機地点を通過することは滅多になく、悠太郎が初めて出会った同級生たる神川直矢のいる大屋原第三集落や、同級生きっての俊足を示した佐原康雄のいる大屋原第一集落の通学班とも、一緒になることがほとんどであった。そして大屋原第二集落の通学班は、悠太郎に極めつけの恐怖をもたらした。そこにはバブルスくんの名で呼ばれる二級上の中島猛夫なかじまたけおがいて、何かにつけては鼻の穴を膨らませて粗野な声で喚き散らし、眉間に皺を寄せて産毛だらけの猿めいた顔を歪め、殺意を示して中指を突き上げては、同じ通学班に属する悠太郎のある同級生を、暴言と暴力でしばしば泣かせていた。しかし同じ大屋原第二集落の通学班に属するある男の子は、悠太郎や直矢や康雄より一級上であったが、瞼の厚い眠たげな目の丸顔に静かな闘志を湛え、物言わず痛ましげにそんな悲惨を見つめていた。
 見上げるばかりに大きな上級生たちに威圧されて、悠太郎は息も詰まる心地であった。悠太郎がいつもうつむいて歩いているのを見て取った大屋原のある上級生が、ハイロン班の班長である六年生の大柄な女子に、止まるよう合図した。それで班長が立ち止まったことに気づかず歩き続けようとした悠太郎の顔は、見事に班長の尻のなかに埋もれたのである。周囲の児童たちからは野卑な叫びと哄笑が起こり、悠太郎は恥ずかしさのあまり、ますます深くうつむかねばならなかった。エルフのような尖り耳の尚美はそんな悠太郎を見て、「分裂病だ。精神病院へ行け。おまえは分裂病だから精神病院へ行け」と嘲った。それというのも真壁悠太郎の存命当時には、まだ統合失調症は精神分裂病と呼ばれていたし、精神病院はわざわざ精神科病院と言い換えられてはいなかったのである。悠太郎の集団への不適応を鋭く見抜いた尚美の診断は、当たらずといえども遠からずで、小学校二年生にしてはまことに卓見というべきであろう。もしも悠太郎が夭折しなかったら、あるいはその通りになっていたかもしれない。そんなときスケちゃこと大輔は、カモメのように繋がった太い眉毛をひそめながら「ひどいことを言うなよ。人を呪わば穴ふたつだぞ」と、そうした場合に相応しいのかどうかよく分からない諺を持ち出して、尚美をたしなめるのであった。疎外感から来る淋しさに包まれながらうつむいて登校する悠太郎に、雑木林を隔てた右手にあるゴルフ場の遥けさが、しんとして迫った。ともあれそんな通学班の騒ぎが日曜日以外の毎朝と、毎週土曜日の集団下校で繰り返されるのだと思うと、それだけで悠太郎は気を滅入らせずにはいられなかった。
 上級生たちに苦しめられるのは、登下校時に限ったことではなかった。学校で受けた理不尽な暴虐で、とりわけ悠太郎の記憶に刻み込まれたのは、バブルスくんこと中島猛夫によって行なわれた野球部式の挨拶の強要であった。黒い軽石を積み重ねて作られた校門のある北軽井沢小学校の校舎の東翼には、一年生と二年生と三年生の教室が一階に、四年生と五年生と六年生の教室が二階にあるが、ある日の休み時間に猛夫は、近くにいた新一年生の男子たちを一階のトイレの前に呼び集めると、これが野球部式だと称して「しやーす!」とか「したー!」とかいう挨拶を教えては真似させようとしたのである。「いいかてめえら、野球部に入ったらこの俺がしごいてやるぞ! 俺の言うように挨拶をしてみろ! しやーす! したー! オラオラ、さっさとやってみろ、この野郎!」と猛夫は鼻の穴を膨らませながら喚き散らした。直矢は白目の冴えた目を笑わせながら元気よく「しやーす!」と言い、康雄は浅黒い顔を輝かせながら溌溂と「したー!」と言った。ひょろ長い手足を持て余したような佐藤隼平は、いくらか斜視気味の目に嫌悪の表情を浮かべながらもこれに従った。ところが悠太郎は物問いたげな大きな目を見開いて猛夫をひたと見据えながら、「畏れ入りますが、〈しやーす〉とは何をするのですか? 〈したー〉とは何をしたのですか?」と静かな声で問うたのである。猛夫は眉間に皺を寄せ、産毛だらけの猿めいた顔を歪めながら中指を立てて「何だコラァ!」と凄んだが、悠太郎にはその言葉が「これは何だ」という意味に聞こえたので、「重ね重ね恐縮ですが、これとは何を指すのでしょうか? 仰言る意味がよく分かりません」とまた問うた。すると次の瞬間、猛夫の拳が悠太郎の横っ面を殴りつけたのである。それからどうやって一年生の教室に戻り自分の席に座ったのか、悠太郎はほとんど思い出すことができなかった。「あの猛夫くんもあの野球部の挨拶も、なんという粗暴さだろう。こんな目に遭うためにぼくは学校に通っているのだろうか。あの忌々しい校歌にある通り元気いっぱい遊んでいれば、ああして野卑に堕するのだ。ぼくは野卑に堕するための教育など受けたくはない。絶対に絶対に受けたくはない……」という物思いに、改めて平仮名を学ぶ国語の時間のあいだじゅう、悠太郎はひたすら沈んでいたのである。ちなみに「しやーす!」が「よろしくお願いします」を、「したー!」が「ありがとうございました」を略したものであるとは、このときの悠太郎にはいくら考えても思い及ばないことであった。
 悠太郎を苦しめるのは、粗暴な上級生に限ったことではなかった。悠太郎にとってそれ以上に赦し難く思われたのは、牧歌的なヘ長調で作曲された北軽井沢小学校こと六里ヶ原第一小学校の校歌であった。その歌詞は白樺がどうの唐松がどうの、浅間がどうの白根がどうの、カッコウの声がどうの北風がどうのという自然の風物のなかに、学ぼう・遊ぼう・働こうという教訓を歌い込んだものであったが、その二番にある「心のふるさと六里ヶ原」という歌詞が悠太郎を激怒させたのである。「心のふるさと六里ヶ原? この歌詞を書いた奴はいったい何をほざいているのだ?」と悠太郎は考えながら、赤と灰色の市松模様の絨毯を敷いた二階の多目的スペースで集会が開かれるたびに、壁に掲示された校歌の歌詞を穴が空くほど睨みつけつつ、初めはその箇所だけを、ついには校歌全体をうたうことを拒んで口を閉ざし、憤怒のあまり華奢な体をわなわなとふるわせた。三本辻の右手から現れる悪夢のような群像に影響されて、悠太郎は内省の言葉までも荒々しいものに侵されていた。「心のふるさと六里ヶ原だと? ぼくたちにとってこの六里ヶ原は、体のふるさとであり心のふるさとであり、その体や心を育てるお金のふるさとでもあるのだ。それがどんなに苦しくて淋しいことか、それがどんなにぼくのような弱い子供を縛りつけることか、この歌詞を書いた奴は全然知らないに違いない。きっとこの六里ヶ原を心だけで優雅に楽しんでいる奴に違いない。心のふるさと六里ヶ原? 心のふるさと六里ヶ原? なんというふざけた歌詞を全校児童に歌わせるのか。先生方も先生方だが、こんな校歌を採用した教育委員会のお偉方だってどうかしている。この歌詞を書いた奴の名前を、ぼくはけっして忘れまい……」と念じた悠太郎は、ある日通学路をうつむきがちに下校して学芸村の真壁の家に帰ると、その名前について祖父の千代次に尋ねてみた。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、それはこの学芸村に別荘を持つたいそう有名な詩人であると答えたが、ちょうど来合わせていた水道屋の森山サダム爺さんは、てらてらした赤ら顔に笑いを浮かべながら、「それだけえどあれだね真壁さん、そりゃああの哲学者の倅だのう。生まれたのはちょうどあの照月湖ができた年だから、つまりは満洲事変の年だね。もっともあの頃はまだ照月湖でなく楢沢の池だったが、それにしてもだよ真壁さん、哲学者の倅とはいえ大学も出ずに、よくもまああんな詩なんぞが書けるもんだのう。まあいずれにせよ、オラッチなんかとは比較にならない特殊な連中だよ真壁さん」とドラ猫のような声でがなり立てて、千代次より長い草創期からの学芸村住まいを、悠太郎にも誇示するかのようであった。それを聞いた千代次の顔が、悔しさのあまり苦渋に歪むのを見た悠太郎は、やはりそうかと得心した。「心のふるさと六里ヶ原」などと言えるのは、やはりこちらに生活の基盤を持たない別荘民の文化人なのだ。あの歌詞を書いた詩人はつまり、浅間観光とお祖父様の敵の一派に違いない。静かにお勉強ができる別荘村を作った枢密顧問官のお爺さんは立派な人だっただろう。だがぼくはお祖父様を通じて、浅間観光を興した増田ケンポウ社長の恩義を、あまりに多く受けているのだ。ケンポウ社長やお祖父様を貶め、浅間観光を否定するような奴が作った校歌など、ぼくはけっしてうたうまい。あんな校歌をうたわせる者には、先生だろうが誰だろうがけっして容赦すまい――。
 そんなことがあってから悠太郎は、担任の麻沼俊子あさぬまとしこ先生に対して、目に見えて反抗的な態度を取るようになった。それは家族と地域のしがらみのなかで主体性を奪われてきた小学校一年生が、やり場のない無力感と憤怒を爆発させたかのような荒々しさであった。麻沼先生が平仮名の練習を宿題に出せば、悠太郎は指定されたのとまるで違う字や、何年も先に教わるはずの難しい漢字で練習帳を埋め尽くし、先生がそれを注意すると、宿題そのものを放り出した。算数の時間に先生が、引き算の問題の答えを悠太郎に求めれば、悠太郎はわざわざマイナスの符号と垂直に交わる縦線を自分の教科書に書き加え、その問題を足し算に変えて答えたから、しばしば教室は混乱に陥った。麻沼先生はいくらか頬が弛み始めた温厚な顔に困ったような表情を浮かべながら、「悠太郎くんが勝手に問題を変えても、先生だって同じ教科書で教えているんですから、すぐに分かりますよ」とあくまで落ち着いた声で指摘した。すると悠太郎は怒り狂って、算数セットのカラフルな計算棒をへし折った。風変りではあるがおとなしく従順な悠太郎を見慣れていた同級生たちは、その荒れようを目の当たりにして驚き呆れた。甘楽集落から通学するむっちりと発育のよい戸井田一輝は、いくらか鳥の嘴めいた唇から、また栗平から通学する芹沢カイは、雀斑の散った小さな顔から、それぞれ笑いを消すほかなかった。悠太郎が荒れて教室が風に乱れる湖のようにざわめくたびに、北軽井沢市街地から登校してくる諸星電機の真花名は、きらきら光る茶色の目から涙を流さんばかりに心を痛めた。甘楽第二集落から来る豪胆な金谷涼子は、黒目がちな目を黒曜石のように光らせながら、お化けをも恐れぬ心に不安を感じて、そんな真花名の様子を見守っていた。
 そうこうするうちに六里ヶ原に遅い春が訪れると、梅子は頭をゆらゆらと揺らしながら軍手や手っ甲を身に着け、学芸村のどこかにあるという沢へ出掛けて、緑鮮やかなセリやクレソンを籠にいっぱい採ってくると、それらをおひたしや天ぷらにしては喜色満面で食卓に供し、「ほれユウ、食ってみろ。うっまーい!」と言いながら皿をぐいと押し出して勧めたので、悠太郎の自発性はますます内部へと押し戻された。温かい雨上がりの日に唐松の林が魔法のように一斉に緑の芽を吹き、桜やコブシやタンポポやムスカリや水仙の花が、だんだん咲けばいいものを一斉に咲く五月ともなれば、真壁の家の庭ではユキヤナギの白い花の穂が、冬を追憶するかのように咲きこぼれ、またレンギョウは黄色い星雲のように群れ咲き、ゴールデンウィークには照月湖を訪れる客の自動車が、新たな季節の光を浴びて車体をきらめかせながら、道路に長蛇の列をなした。そしていつしか降り続く静かな雨が、いよいよ濃くなりゆく樹々や草の緑を濡らす梅雨時ともなれば、楢や栗や白樺の葉や放射状に茂る下生えの羊歯は、艶やかに濡れて輝いた。雨の日の通学路ではスケちゃこと大輔が、カモメのように繋がった太い眉毛を持ち上げながら、「気をつけろ悠太郎、ウルシの樹の下ではちゃんと傘を差すんだぞ。さもないと、かぶれて痒くなるぞ」とうつむきがちな悠太郎に忠告しては愉快そうに笑った。エルフのような尖り耳をそばだててその言葉を聞いていた尚美は、「おまえなんかかぶれてしまえ。そうして精神病院へ行け、分裂病め」と悠太郎を嘲った。悠太郎は睫毛の長い目を悄然と伏せながら、観光ホテル明鏡閣の駐車場のことを思い浮かべて心を慰めていた。自動車から漏れ出たオイルが、雨上がりの水溜まりに浮かぶときの虹色は本当に美しいと、かねて悠太郎は思っていたのである。
 そうこうするうちに、悠太郎が恐怖していた一大イベントの日曜日がやって来たが、そのイベントがあるおかげで明鏡閣にも宿泊客が集まるとあっては、悠太郎は喜ぶべきか悲しむべきか分からなかった。それは観光協会が「きみよ浅間の風になれ!」のスローガンのもと大々的に開催する六里ヶ原マラソンで、高原の清澄な空気を吸って走りたいランナーたちが、全国各地から参集するのである。地元のイベントを盛り上げるため、六里ヶ原第一小学校の児童たちは、有無を言わせず強制参加させられることになっており、いくら雨乞いをしようが空頼みに終わるほかない雨天決行であった。種目は五キロ・十キロ・ハーフマラソンと分かれていて、それぞれに異なったコースが設定されていたが、ついこの前まで幼稚園児だった小学校一年生が五キロの道のりを走らされるというのだから、悠太郎は物問いたげな大きな目を見開いて、愕然とするほかなかった。校庭にある二百メートルのトラックを、二十五周ぶっ続けで走るのと同じ距離で、なおかつ校庭とは違ってコースには激しい起伏があるだろう――。そう考えるだけで悠太郎は気が遠くなって、その鋭い聴覚は、聴覚自身を聴いているようにしいんと鳴った。処刑場に引かれてゆく死刑囚のように、あるいは屠殺場に引かれてゆく牛のように、悠太郎は当日の朝が来ると睫毛の長い目を悄然と伏せながら、ゼッケンを身に着けた人々でごった返す北軽井沢グラウンドへ赴いた。そのゼッケンには計測チップが埋め込まれていて、各々に後日タイムが知らされることになっていた。やがて残酷にも号砲が五キロの部のスタートを告げると、悠太郎は冥府にでも赴くような気持ちで、「歓迎 六里ヶ原マラソン」と書かれた黄色いエアブローアーチから吐き出されるように走り始めた。
 梅雨の晴れ間の爽やかな涼気は、混雑するスタート地点付近の人いきれと、坂道を登る疲労で、たちまち不快な熱気に変わった。梅雨に緑を濃くした樹々が両側に迫る県道を、悠太郎は多くの大人たちや子供たちに追い抜かれながらのろのろと走った。木隠れの浅間山を右手に望みながら、折り返し地点まで県道を南下するあいだにも、悠太郎の脇腹は激しく痛んで口のなかには血の味がしていたから、唐松林が枝を伸ばすなかに高崎まで五十六キロという青い標識が出ているのも見なかった。誤って咲いてしまったきり凍りついた大輪の花のようなカーブミラーが、途方に暮れたように佇むところで――それというのも体に負荷のかかった悠太郎の変容した意識には、ありきたりのカーブミラーがそんなふうに見えたからであるが――コースが浅間隠山のある東へ曲がり、芹沢カイが住む栗平へ向かう頃には、早くも悠太郎は走り続けることができなくなって、脇腹を押さえながらよろよろと歩いていた。カイくんは雀斑の散った顔をニヤリと笑わせながら先に行ってしまっただろう。カズくんはむっちりと発育のよい体を弾ませながら、ジュンくんはひょろ長い手足を持て余しながら走っていっただろう。白目の冴えた直矢くんもなんて速いのだろう。女の子たちだって、真花名ちゃんも涼子ちゃんもぼくなんかよりずっと速い。二年生のルカちゃんだってきっと出場していて、緑の唐松林を吹き渡る朝風のように、五キロのコースを軽やかに走り抜けているに違いない。それに引き替えぼくのこのざまはどうだ。ぼくはなんて弱いのだろう。まだ半分も走らないうちに脇腹がこんなに痛いし、口のなかには血の味がする。心臓が暴れるみたいに鼓動して、こめかみが奇妙な叫び声を立てている。ぼくは壊れてしまうのではないだろうか。いや、いっそのこと壊れてしまえばいいんだ。いっこうはしはししなくて体も心も腕っぷしも弱くて、お祖父様やお祖母様やお母様を不機嫌にするだけのぼくなんて、ここで壊れて死んでしまえばいいんだ――。自分がどうやって折り返し地点を回り、後半のコースを歩いたり走ったりしながら、ゴール地点の北軽井沢グラウンドまで戻ってきたのか、悠太郎はほとんど憶えていなかった。ただ印象に残っていたのは、給水所で紙コップから水を飲んだときの、九死に一生を得たような心地だけであった。
 同級生のなかで誰よりも早くゴールしたのは、やはり康雄であった。聞けば大屋原第一集落にある佐原の家から小学校まで、毎日歩く道のりが片道五キロだというから、もともと俊足の康雄にとっては、どうということもない距離なのであった。学芸村にある真壁の家から小学校まで悠太郎が歩くのは、わずか一・五キロにすぎなかった。そして出走した小学校の関係者のなかで誰より喜んだのは、その年度に赴任してきたばかりの丸橋清一まるばしせいいち先生であった。若くて背の高い丸橋先生は、東南アジア的な濃い目鼻立ちの童顔に子供っぽい喜色を湛えながら、水を得た魚のようにハーフマラソンを完走してもなお走り足りず、フルマラソンの部がないことをたいそう残念がっていた。「六里ヶ原の子供たちは幸せですね。高原の空気は酸素が薄いから、毎日の運動がそのまま高地トレーニングになるんです。もっとも涼しい環境でいくら練習したって、古森の坂の下の世界へ行って勝負したら、暑さに負けちゃうでしょうけどね。まあ何はともあれ、こんなきれいな空気のなかで走れて、ぼくは幸せでしたよ。まったく六里ヶ原はランナーの天国だなあ!」と丸橋先生は、六里ヶ原マラソンが終わったばかりのあるとき秀子に語ったというが、その話を秀子から伝え聞いた悠太郎は、天国などという言葉を安易に使う体育会系の若い男性教諭に、どこか軽薄で信用の置けないものを感じた。「幸せだって? 六里ヶ原の子供たちが幸せだって? 誰も彼もが走ることを好きなわけではないのだ。あの先生はきっと弱い子の身になって考えることができない人だ。だがそれができる先生がどこにいるだろう? ああ、先生たちは号令をかけて、耳をつんざくような恐ろしいホイッスルを吹く。するとぼくたちは業前に、業間に、体育の時間に校庭を走る。息を切らして薄い空気を吸いながらトラックを回る。五十メートルの直線を全力疾走する。鉄棒で前回りや逆上がりをする。半分地面に埋め込まれたタイヤを馬跳びする。登り棒を登る。雲梯にぶら下がる。何をやらせても、ぼくは同級生の誰より劣っている。ぼくの脚はなんと遅いのだろう。ぼくの腕はなんと弱いのだろう。ぼくの体力のなさときたらどうだ。少し走ればすぐに脇腹が痛くなって、口のなかには血の味がする。こんな苦しい毎日が六年間も続くというのか。そして六年もするうちには、あの見上げるばかりに大きな上級生たちのように、粗暴になっているというのか……」と悠太郎は日々絶望を深めていった。
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