明鏡の惑い

赤津龍之介

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第六章 細波

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 だがそんな混沌のなかにあっても、頭の切れる黒岩サカエさんが、冷静さを失わずに企画を続けていたことを悠太郎は知っていた。あるときサカエさんは、白いペンキの剥げかけた小さな扉を出て、コンクリートの段の上で煙草を吸いながら、「あの企画はあらかた煮詰まった」と悠太郎に話したことがあった。煮詰まったという表現は、いかにも料理人でもあるサカエさんらしくておいしそうだと悠太郎は思った。どんな企画がおいしく煮詰まったのかといえば、それは地域の人々を集めて開催するクリスマスパーティーであった。浅間山が三度の冠雪で山裾近くまで白く染まり、とうとう里にも雪が降った後のある土曜日の夜に、明鏡閣の大食堂で初めて開かれたそのクリスマスパーティーは、悠太郎にとっては夢のような時間であった。それはあたかもゲームコーナーに据えつけられたアーケードゲームの画面のなかで、太平洋の大海原の上空を飛ぶ戦闘機や、泡を吐き出す緑色の可愛い恐竜や、きらめきつつ落下する一群の豪奢な宝石が繰り広げる夢幻劇に似ていた。オルゴールの音でクリスマスソングが流れるあいだ、暗闇のなかに蝋燭ろうそくが灯って、日常生活の疲れを忘れにきた大人たちの顔や、星柄の三角帽子を被った子供たちの顔を温かく照らし出していた。やがて音楽が鳴りやんで蛍光灯の光が大食堂を満たすと、トナカイの角と赤い鼻をつけて「トナ・トナ・カイ・カイ」と笑いを取る橋爪さんに先導されて、サンタクロースの赤い服と白いひげを身に着けた黒岩サカエさんが、プレゼントでいっぱいの大きな袋を担いで調理場から現れ、薄黒いサングラスの奥の目を微笑ませながらマイクを通して「皆さん、この度は寒いなかをお集まりいただき、まことにありがとうございます。今年も一年お疲れ様でした。六里ヶ原の大地と四季折々の花と、そして何より地域の皆さんあっての浅間観光です。ささやかながら開催の運びとなりましたこのクリスマスパーティーで、どうぞ楽しんでいってください。それでは改めまして、観光ホテル明鏡閣の支配人である南塚よりご挨拶申し上げます」と言って、マイクを後から現れた南塚さんに渡した。髪を四角く刈り込んだ支配人は、白いシャツに黒いチョッキと蝶ネクタイで常にも増して紳士的な出で立ちであったが、「うおっほ、うおっほ、うおっほ」という咳払いは、マイクで増幅されていることを除けばいつもの通りであった。南塚支配人の慇懃でくどくどしい挨拶を上の空で聞きながら、悠太郎は大きな目を黒々と見開いて大食堂のなかを見回した。ガラス戸には白い雪の結晶が精緻に描かれ、壁はひいらぎの葉やベルやトナカイやサンタクロースや天使を象った飾りで賑わっていた。暗い緑色のクリスマスツリーは、明滅する色とりどりの電飾に取り巻かれ、雪を模した綿ときらきらしい金モールをまとわされていた。
 南塚支配人の挨拶が終わり、再びマイクを取ったサカエさんが「それでは皆さん、メリークリスマス!」と声高らかに言うと、一斉にクラッカーが弾けて縮れたカラフルな紙テープが夢のように緩やかに舞い落ちた。小気味よい音とともに瓶の栓が抜かれ、大人たちのグラスにはアルコール入りの、子供たちのグラスにはアルコールなしのシャンパンが注がれて金色に泡立った。ハムとチーズのサンドイッチや、マッシュポテトを付け合わせたローストビーフや、パプリカが色鮮やかな貝とエビのパエリアや、イチゴのショートケーキが次々とテーブルに運ばれて取り分けられた。やがて縦と横に五升ずつの数字が印刷されたカードが配られ、何事かと思えばそれはビンゴゲームというものであった。球形の鳥籠のようなビンゴマシーンの取っ手が回され、数字の記されたボールがひとつ落ちるたびその数字が読み上げられ、対応する数字が記されたカードの升目には穴が空けられた。縦・横・斜めのいずれか一列に穴を空けた人からは「ビンゴ!」の声が上がり、進み出たその人には黒岩サンタの袋のなかから取り出された景品が渡されたが、それらのプレゼントはいずれも綺麗な包み紙とリボンで包装されていた。喉自慢の大人たちはテレビのような機械の前に立ち、マイクを取って歌をうたったが、それはカラオケというものであった。愉快な曲や哀愁の曲に合わせて人々が手拍子を打つあいだも、クリスマスツリーを飾る電飾は色とりどりに明滅し、金モールはきらきらと輝いた。賑やかな談笑の声とおいしい料理と輝かしい飾りに満たされたその大食堂での時間が、悠太郎にはいつまでも続くような気がした。ガラス戸に描かれた融けない雪の結晶のように、時間がこのまま止まってしまえばいいのにと悠太郎は思った。しかしまことに残念ながら、そのようにはならなかった。やがて黒岩サンタはマイクを取って閉会を告げると、プレゼントを与え尽くして空っぽになった大きな袋とともに、「トナ・トナ・カイ・カイ」と笑いを取る剽軽者の橋爪さんに先導されて、調理場へと退場していった。六里ヶ原の燦然たる冬の星空も顔負けの輝かしい時間そのものが、きらびやかに飾りつけられた明鏡閣の大食堂を立ち去っていった。
 祝祭のひとときが終わってゆく切ないような悲しみに、幼い悠太郎の心は張り裂けんばかりであった。翌朝になって、クリスマスパーティーの後片づけを手伝うべく再び明鏡閣を訪れた悠太郎は、一夜明けた大食堂の空虚さに愕然とした。床に散乱したカラフルな紙テープは、もはやただのゴミでしかなかった。真冬の雪野原に鈴蘭の花を求める人のように、悠太郎は昨夜の夢の名残をなおも探し求め、クラッカーが弾けたときに飛び出した小さな円形のボール紙を拾い集めながら、昨夜のひとときも死んでしまってお墓の下なのだと思った。どんなに時間が流れても、ぼくはきっと忘れずにいよう。あんな素晴らしいひとときがたしかにあったことを、誰が忘れてしまってもこのぼくだけは、いつまでもいつまでも憶えていよう――。物問いたげな大きな目から涙が溢れそうになるのを堪えながら、雪の結晶や柊の葉や、ベルやトナカイやクリスマスツリーや天使に別れを告げつつ、悠太郎は心に固く誓っていた。
 そんなことがあってから年が暮れて年が明け、幼稚園の卒園式と謝恩会まではあっという間だったなと、悠太郎は緩んだ氷の上をフィギュアスケートの靴で滑りながら考えた。同年輩の子供たちを掻き集めてひとつの施設にぶち込んで、自分のような弱い子を潰してしまうためにあるかと思われた幼稚園も、ルカちゃんと遊んだことをはじめ楽しい思い出がないわけではなかったし、いざ終わるとなればやはり切ないものがあった。「では本当にあれが見納めだったのだろうか」と悠太郎は訝った。薄灰色の園児服のスモックも、黒いリボンをぐるりと巻いた麦わら帽子も、眩しい湖の乱反射のようなバスの車内の大騒ぎも、それに浴びせられた強面運転手のダイちゃんの一喝も、神川直矢くんに機関銃のような高笑いでからかわれたお絵描きも、鼻を突く臭気を発した緑色の油粘土を捏ねるのも、乱暴な男の子たちが長いパイプを奪い合った砂場遊びも、大理石のように光っていた白い滑り台も、クマザサの葉がさらさらと鳴るお山での語らいも、給食室から細い腕で重たい給食缶を運ぶ給食当番も、餌の殻を吹き飛ばそうとして自分の目に入れてしまったチャボ小屋当番も、畑での骨の折れる草むしりや芋掘りも、みんなが勢いよくボールを投げ合っていたお遊戯室の喧騒も、そのお遊戯室で劇を演じ楽器を鳴らしたお遊戯会も、あの幼稚園でのすべては終わってしまって二度と帰らないのだろうか。六里ヶ原の四季折々の移ろいとともに二年の月日は確かに流れ、あのお遊戯室で挙行された卒園式をもって、幼稚園でのすべてに終止符が打たれたのだ。始まったものはいつもこうして終わってゆく。それは何と不思議で淋しいことだろう――。
 一年前に卒園するルカちゃんを見送ったとき、悠太郎は心の支えが失われるような悲しみと空虚感を味わったが、今度は自分が見送られて出てゆく番であった。一年前のあのとき、のんびりと間延びした声で喋る岩瀬麻衣ちゃんは、垂れ目から涙をぽろぽろ流してしゃくり上げていたが、ルカちゃんは切れ長の目を虚空の一点に据えたような思い詰めた表情で、悲しみを抑えているかに見えた。しかし今度は悠太郎の同級生たちが見送られて盛大に泣く番であった。髪の短い諸星真花名ちゃんは、きらきら光る茶色の目からとめどなく涙を流してしゃくり上げ、さしも豪胆な金谷涼子ちゃんも唇を噛んで、黒曜石のように光る目から溢れそうになるものを堪えていた。応桑地域にあるアテロ集落の岡崎冬美おかざきふゆみちゃんは、常日頃から生まれたばかりの怪獣のような据わった目をしていた。そんな冬美ちゃんだって卒園式では据わった目から散々涙を流したくせに、黄色組の部屋に戻る頃にはもうけろりとして「温子先生、あんまり泣くとお肌が荒れますよ」と小生意気なことを言った。尖った顎を傲然と上げて冷たく澄ました温子先生も泣くことがあるのだと、悠太郎は物問いたげな目を見開いて不思議そうに見ていた。応桑地域に住んでいるピアノの上手な黒岩梨里子くろいわりりこちゃんは、骨格のしっかりした彫りの深い愁いがちな顔をしていたが、その濃い眉を笑いに開きながら、「温子先生が泣いてる。こういうのを鬼の目にも涙っていうのよ」とこれまた小生意気なことを言って、三つ編みの黒々と濃い髪を弾むように躍らせた。
 女の子たちに比べて男の子たちは、概して卒園という厳粛な事実に無頓着な、せいせいした顔をしていた。彼らのほとんどは、大きくなることに勇ましい喜びしか感じていないようであった。神川直矢くんは白目の冴えた小さな目を面白そうに笑わせていたし、御所平の大柴映二くんは細長い目を笑わせていたし、戸井田一輝くんはいくらか神妙であったが、それでも唇には笑いが浮かんでいたし、芹沢カイくんは目許に静かな知性を光らせながら、雀斑の散った小さな顔をニヤリと笑わせていた。大屋原第一集落の佐原康雄さはらやすおくんは、幼稚園での運動会で同級生きっての俊足を示していたが、小学校に入ったらもっともっと速く走るのだと、浅黒い顔を輝かせながら厚ぼったい荒れた唇で抱負を述べた。ただルカちゃんの弟の佐藤隼平くんだけは、切れ長で斜視気味の目に涙を溜めて、いくらか険のある顔をうつむけていた。
 さて悠太郎はといえば、園児と先生方と来賓と卒園児の親たちでいっぱいになったお遊戯室にあって、心ここにあらずといった風情でうつむいていた。祝辞が述べられ歌がうたわれたが、悠太郎にとってはようやく慣れ親しんだお遊戯室が異世界に変わってしまったようで、言葉の意味は悠太郎を置き去りにしてよそよそしく通り過ぎていった。この二年とはいったい何だったのか、これから入学しなければならない小学校ではどんな試練が待っているのか、お勉強にはついてゆけるだろうか、運動はどんなにつらいだろうか、ルカちゃんにはまた会えるだろうかと悠太郎は、いつか見た白蝶が漂うように考えをさまよわせていたが、そんな状態は祝辞と歌と時が流れ去り、卒園式が果てた後までも続いていた。
 だが引き続いて開かれる謝恩会のために、秀子の自動車で観光ホテル明鏡閣まで運ばれると、悠太郎は慣れ親しんだ世界に戻ってきたような気がして、いくらか人心地がついた。それでも穏やかな空の下で放心する悠太郎の耳には、照月湖温泉の入口の脇にある泉の水が、斜めに切られた竹筒の先から流れ落ちる音や、正面玄関の脇の小さな池に流れ込む人工滝の音が聞こえていた。やがて秀子と同じように晴れ着に身を包んだ母親たちが、駐車場に集まってきた。崩れて補修されたコンクリートの段の角や、白いペンキの剥げかけた売店前の扉をしげしげと見つめた戸井田アオイさんは、「明鏡閣さんもだいぶ年季が入ったわねえ。年増の姐さんって感じだわ」と浅い呼吸で評してころころと笑い、ピンクのツイードスーツもはち切れんばかりの体を波打たせた。戦士のように引き締まった体をパンツスーツに包んだ神川協子さんは直矢を連れて、爛々と光る目で建物のそこかしこを見回すと、「なから古くなっちゃあいるけどさあ、大々的な修理だって建て替えだっていくらもできるんべえ。これほど景気がいいんだからさあ。ねえシデコちゃん!」とよく通る声で言った。真花名ちゃんを連れた諸星美雪さんは、小さな池に泳ぐ錦鯉を茶色がかった淡い目で見つめながら、「照月湖温泉もできたし、明鏡閣さんはますます繁盛するわね。浅間観光さんはこの六里ヶ原の経済の支えなんだから、これからも頑張って、じゃんじゃんよそから人を呼んでほしいわ。それにこういうところがあってくれると、今日みたいに地元の人も助かるし。多少年季は入っても、この気取らなさが愛されるのよね」と言って幸薄そうにふんわりと微笑んだが、その着物姿は錦鯉よりも美しかったので、悠太郎は物問いたげな目を瞠った。同じく着物姿の秀子は下膨れの顔にうっすらと愛想笑いを浮かべながら、「明鏡閣は大衆向けだからね」と答えたが、悠太郎の鋭い聴覚にはその母の声が、心なしか自嘲的に聞こえた。
 観光ホテル明鏡閣の屋号がひと文字ずつ記された、暗くなると電気で光る箱型看板を搭載したキャノピーは、クリーム色の四本の柱で支えられていた。その柱は中空で、叩くとお寺の鐘のような音が響くことを悠太郎は知っていたが、同じことを大柴映二くんがたまたま発見した。映二は細長い目を笑わせながら「いらっしゃいましぇ! いらっしゃいましぇ!」と叫んでは、四本ある中空の柱を荘厳に鳴らしてまわった。柱に支えられてせり出したキャノピーをくぐり、正面玄関を入って靴をスリッパに履き替え、ワインレッドの絨毯を敷いたロビーにある黒い革張りのソファを横目に廊下を進み、階段を昇って二階の大広間へ向かう順路は、悠太郎にとっては勝手知ったる道であった。ロビーから大面積のガラス窓を通して眺めた照月湖は、なおも一面氷に覆われていた。階段を昇り、いつか三池光子さんがスリッパを「とっちん、とっちん」とか「ちっとん、ちっとん」とか鳴らして歩いた廊下を通り、スリッパを脱いで大広間に入った卒園児たちは畳の上を走りまわり、座布団から座布団へと跳びまわっては、母親たちや先生方にたしなめられた。やがて一同が席に着いて挨拶がなされ、乾杯の音頭が取られて会食が始まったが、子供たちもこの日ばかりはコーラやサイダーやジンジャーエールを飲んだところで、先生方から「骨が融けちゃうよ!」と脅される心配はないのであった。巻き寿司や、くし切りのレモンがついた鶏肉の唐揚げや、フライドポテトやサラダやフルーツポンチがふんだんに供せられるなか、子供たちも大人たちも談笑しつつ飲み食いしながら宴に興じる様は、あたかも結氷しているはずの照月湖が、細波さざなみ立って光り輝いているかのようであった。みんなが使っているグラスや皿やフォークやスプーンや、紙袋に「おてもと」と印刷された割り箸が、調理場や大食堂や配膳室のどの引き出しにしまってあったか、悠太郎はすべて熟知していた。
 そのうちに芹沢カイくんが、割り箸の紙袋を端から巻いては口にくわえて息を吹き込み、ピロピロ笛のように伸ばすという芸当をしてまわりの子供たちを湧かせ、雀斑の散った顔をニヤリと笑わせた。ドレープのかかったえんじ色のブラウスを着た芹沢美智子みちこさんは、そんなカイくんをたしなめて富山訛りのイントネーションで、「こらカイちゃん! お行儀の悪いことするんじゃないの! まったくうちの子はこれだもの。ちょっとはユウくんを見習ってもらいたいもんだよ」と言った。美智子さんはわが子と同じ産婦人科医院で二日だけ遅く生まれた悠太郎に、好意的すぎるほどの好意を寄せていた。カイが未熟児として誕生し、保育器のなかで生死の境をさまよったことや、美智子さんが「私が悪かったんだよ。私が悪かったんだよ」と同じ病室で泣いていたことを、悠太郎は秀子から聞いていた。美智子さんは無事に育ったわが子を愛しているのだと悠太郎は信じられたし、その愛情が自分にまで向けられることを嬉しく思った。
 そんなきっかけから美智子さんは、悠太郎がいかに聡明で大人びているかを富山訛りのイントネーションで力説し始め、まわりの母親たちや先生方の多くがこれに同調した。まずもって取り上げられたのは、年少組時代のお遊戯会における悠太郎の活躍であった。あのときの桃組の劇の演目は《かちかち山》で、初め悠太郎は一輝や直矢と一緒にたぬきの役を希望して認められ、そのまま練習を進めていた。ところが肝心のお爺さんの役がどうしても決まらず、やむなく弦巻恵子先生が演じることになったが、いざ本番も近づいた頃になってお婆さん役の黒岩梨里子ちゃんが、骨格のしっかりした愁いがちな顔の濃い眉をひそめながら、やはりそれではおかしいと言い始めた。梨里子ちゃんに言わせれば、弦巻先生は女の人であり大人であるから、女の子である自分と並んではとても夫婦に見えない、ここは今からでも誰か男の子にお爺さんを演じてもらったほうが、ほかの組に見劣りがしない立派な劇になるということであった。ややずんぐりした体つきの弦巻先生が何を言うまでもなく、桃組の部屋の世論は悠太郎を推し始めた。ユウちゃんはテレビの観すぎで時代劇の台詞をよく憶えるし、家ではいつもお祖父ちゃんの近くにいるからお爺さん役にぴったりだという声が口々に上がった。それで悠太郎は仕方なしにお爺さん役への配置転換を承諾し、短い期間で苦もなく台詞を憶えると、梨里子婆さんとの夫婦の役を舞台で立派に演じてのけたのである。娘と同じく彫りの深い愁いがちな顔の黒岩芙美子ふみこさんをはじめ、事情を知っていた親たちは、おおむね悠太郎の臨機応変の機転を称讃したが、開拓農家のお母さん方のなかには、あれは柴刈りのお爺さんにしては品がよすぎると否定的に評する人も少なくなかった。現に今こうして謝恩会でその話題が蒸し返されているときにも、スパルタ式の神川協子さんは目を爛々と光らせながら、いくらかかすれた大声でそんな評価を口にした。
 悠太郎はあのお遊戯会の後に、称讃の声のなかで味わった淋しさを思い出した。「ではこれがぼくの運命なのだろうか」とあのとき悠太郎は暗い思いに沈んだものであった。幼稚園に入ったときから、ぼくはまわりのみんなと違っていた。言葉遣いも体の動かし方も興味のあることも、まわりのみんなと同じものはほとんどなかった。それでぼくは同じになろうと努力した。乱暴な仕草もしてみたし、汚い言葉も使ってみた。でもやはり同じにはなれなかった。ああ、ぼくはみんなのなかにすっぽり埋まってしまいたいとどれほど願ったか知れない。何人かで狸の群れになりたいとどれほど願ったか知れない。でも結局はここぞというとき特別に選び出され、みんなより余計に目立って褒められただけだった。そんなことがこれからも続くとしたら、小学校ではどれほどつらいことだろう。せめてあのときのようにルカちゃんが、眩しいものでも見るようにぼくを見てくれて、緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声で褒めてくれるのでなかったら、ぼくはもうそんなことには耐えられない気がする。ルカちゃんはもう小学生だ。来月からは二年生のお姉さんだ。まだルカちゃんはぼくのことを憶えていて、またお話してくれるだろうか――。そんなことを考えながら悠太郎は、無意識に留夏子の面影を求めて弟の隼平のほうを見ようとした。すると簡素な草色のドレスを着て隣に座ったその母の佐藤陽奈子ひなこさんに、悠太郎の目は吸い寄せられた。同級生の母親でもある陽奈子さんに始めて会ったわけではなかったが、眩しいものでも見るように細められた切れ長の目は、ルカちゃんがそのまま大人になったみたいだと悠太郎は改めて思った。
 すると彫りの深い顔の黒岩芙美子さんは愁いがちな眉を開いて、「そういえばユウくんは英語も読めるんですってねえ」と思い出したように話題を投じると、餌に群がる鯉のように母親たちの関心はそこへ吸い寄せられた。ああ、やっぱりその話を梨里子ちゃんから聞いていたのかと悠太郎は思いながら、暗澹たる気持ちになって悄然と睫毛の長い目を伏せた。あれはいつのことだったか、梨里子ちゃんには余計なことを言ったものだと悠太郎は悔やんだ。ある日の給食の時間に梨里子ちゃんが、弓なりに濃い眉を愁いにひそめながら、「牛乳飲みたくない。ご飯には合わないもん」と言い出したことがあった。気色ばんだ温子先生は尖った顎を傲然と上げながら、絶対に飲まなければならないし、飲んでしまうまで居残りだと威圧的に迫ったので、黄色組の部屋の空気は張り詰めたピアノ線のように緊張したのである。見かねた悠太郎が努めて穏やかな笑顔を作りながら、「梨里子ちゃん、牛乳だっていいものだよ。Health & Beauty MILKだよ」と言うと、梨里子は不思議そうな顔つきで「ユウちゃん、何その英語」と訝ったし、温子先生は悠太郎の発音の正確さに驚いた様子であった。「何って……ああそうか、梨里子ちゃんは反対方向から来てるから見たことないのかな。北軽きたかるからバスに乗ってくると、中学校のちょっと手前に看板が見えるんだ。牛の絵のまわりにHealth & Beauty MILKって書いてある」と悠太郎は説明し、日本語では「美容と健康のために牛乳を」と書いてあるが、正しくはHealthが健康でBeautyが美容だから順番は逆になっていると指摘して、「とにかくそういうわけだから、牛乳は飲んだほうがいいよ」と説得した。
 呆気に取られてきょとんとする梨里子に代わって、岡崎冬美ちゃんが生まれたばかりの怪獣のような据わった目で、「ユウちゃんはなんでそんな英語が読めるのさ?」と尋問に及んだ。「なんでって……読めるから読めるんだよ」と答えたきり、悠太郎は言葉に詰まった。祖父の千代次の命令で英会話のテレビ番組を視聴し始めて以来、悠太郎にとっては英語のアルファベットと音韻があらかた結びついていたばかりか、基本的な単語のいくつかを読み取ったり発音したりもできるようになっていた。ハワイ育ちの女優の明朗快活な教えぶりを悠太郎は好ましく思っていたし、またその生徒である宇宙人のような兄妹のとぼけ具合に毎回大笑いさせられたから、その番組を観ることは楽しかった。ピンク色の妹の甲高い声もさることながら、兄の細長い蒼白な顔といったら、見ているだけで笑えてしまう。だがそんなことを話したら、また「テレビの観すぎ!」と嘲笑されるのが関の山である。いつしか冬美も梨里子もまわりの園児たちも、ユウちゃんは変態だと口々に言い始めていた。悠太郎は睫毛の長い目を伏せながら必死で頭を働かせ、Health & Beauty MILKがなぜ読めるのかの説明を考え出さなければならなかった。顔を上げた悠太郎は大きな目を見開いて、「こう考えたらどうだろう」と思い切って話し始めた。「SUPER MARIOは誰でも読めるよね? MARIOにはMとIが入っているから、それでこの文字の発音が分かる。仮面ライダーBLACKも読めるよね? BLACKにはLとKが入っているから、同じようにこの文字の発音が分かる。それでMILKが読めるようになる。読める単語をもとにして、読めない単語の読み方を推測するんだ。そうすればだんだん読めるようになるんだよ……」
 するとそのとき「すげえやユウちゃん! 変態どころか天才だね!」と大屋原第一集落の佐原康雄くんが、浅黒い顔を輝かせながら荒れた唇で快哉を叫んだ。「どうしてそんなに言葉を知ってるのかと思ってたけど、なるほどそうやって勉強するのか! もらったよ! いただきだね! 俺もそうやろう!」と宣言したヤッサンは、足の速さで誰にも負けないばかりでなく、お勉強もユウちゃんの次にできるようになるのだと抱負を語った。みんなから一目置かれていたヤッサンが共感を示したことで、黄色組の部屋の世論は覆り、悠太郎に対して一挙に好意的なものとなった。据わった目をした冬美は半ば呆れたように笑っていたし、梨里子も濃い眉を笑いに開いて牛乳を飲み終えていた。観光ホテル明鏡閣の二階の大広間でも改めてそんなことが振り返られ、温子先生も一年の務めを無事果たし終えた満足感からその日は機嫌よく、悠太郎の家庭学習の状況について秀子に尋ねていた。秀子は悠太郎が祖父から習っている習字や漢籍のことや、幼稚園が始まったときから毎月受講させている通信教育のことを、低く抑えた声で話していた。悠太郎はそんな話を聞きながら、しんとした森の淋しさのなかにひとり取り残されたような感じを味わっていた。鳥籠に閉じ込められた鸚鵡を歌った、あの漢詩の一節が脳裏をよぎった。ぼくはやっぱりまわりのみんなと違うんだ。言葉ばかりは無駄にたくさん知っている。だがたくさんの言葉を知れば知るほど、みんなとはどんどん違ったものになってゆく。ぼくはみんなのようには生きてゆけないだろう。ぼくは生きてゆけないだろう――。
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