明鏡の惑い

赤津龍之介

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第四章 白詰草の冠

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 太田胃散の空き缶と紙粘土で、祖父の顔のペン立てが作られたあの一件は、それを作った悠太郎のみならず、それを作らせた幼稚園に対する千代次の評価をも、決定的に下落させた。あんな愚にもつかないものを作らせる教育機関に、悠太郎を通わせることは許さないと千代次は言い出したのである。「幼稚園ちゅうところは何を教えているだやあ? 読み書きだって、いっこう進歩しねえじゃねえか。俺がいくら教えても漢字は読めねえし、仮名文字だって書かせてみりゃあ、まるっきり下手じゃねえか」と千代次は事あるごとに苛立ちと怒りにふるえながら言い募った。千代次はしばしば自室に悠太郎を招じ入れて習字を教えていたばかりでなく、行書や草書の名跡を鑑賞することまで強いていたのである。ところがいくら千代次が一生懸命になって極度に細い目をしばたたきながら、「ほれ見ろユウ、これはいい字だんべえ」とか「これは変体仮名だぞ。歯を磨く、顔を洗うちゅうときの〈を〉の字をほれ、越後の越で書くのは珍しいことじゃねえぞ」などと教えても、悠太郎はさっぱり興味が持てない様子であったから、的外れに熱心な祖父の失望は募る一方であった。教員免許だけは持っている秀子が、下膨れの顔に不安の色を浮かべ、眉間に皺を寄せて目許を曇らせながら、平仮名や片仮名だって正式に習うのは小学校一年生になってからであって、今のうちからいくらか読み書きできるだけでも立派なことだし、それに悠太郎の言語能力は、同年代の子供たちと比較して優れていることは間違いないと、唾を飛ばすように言い聞かせても効果がなかった。無能な幼稚園の先生は言うに及ばず、その同年代の子供たちとやらもまた、千代次には極めて疑わしいのであった。「朱に交われば赤くなるちゅうぞ。馬鹿奴等のなかにこいつを置いておけば、こいつまで必ず馬鹿になる」と千代次が言えば、梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、わったしは開拓の連中がいけ好かないよ。屯匪の孫どもと一緒にいれば、悠太郎はきっと悪い影響を受けるよ」と同調した。悠太郎はそうしたことが話される朝食のあいだじゅう、トーストの耳や野菜炒めのキャベツの芯を食べるのが苦しかったから、睫毛の長い伏せた目の焦点をずらして、視界に映る食器やテーブルクロスの模様がふたつに見えるようにすることで、あたかも自分がその場に居合わせていないかのように思い込もうとした。
 千代次はなおも苦々しげな声で、悠太郎も今年で五歳だ、文武に秀で芸術にも優れた英邁えいまいな人格を涵養かんようするには、今すぐ手を打ったって遅すぎるくらいだ、愚にもつかない幼稚園などやめさせて特別な教育係をつけるか、さもなくば正子に預けて東京の教育機関に通わせろ、そういうことのために俺は金を貯めてきたんだと、くどくど言って聞かなかった。秀子は家長然とした老父の圧力を受けとめてこれに抵抗すべく、多大な苦労を強いられた。この町のこの地域の子供が、あの幼稚園に通うのは決まりである、うちの子ひとりが決まりを守らなければ、目立ってしまって世間体が悪いと秀子は繰り返した。秀子にしてみれば、離婚して出戻ってきただけでも充分に敗北者と見なされ得るのに、このうえわが子が幼稚園に適応できなかったとなれば、それこそ開拓集落の親たちから、何と言ってこき下ろされるか知れたものではなかった。そしてまた不幸な母には積極的な目算もあった。この子のまわりにいる同年代の子供たちが、千代次の言う通り馬鹿奴等であってくれれば、その分この子が抜きん出る可能性も高くなるではないか。なまじ都会の選りすぐられた子供たちに交じって一番になれなくなれば、それこそ母親として大損である。浅間山が爆発的な噴火でもたらしたお告げの通り、英雄はこの六里ヶ原から現れなければならない。凡庸な子供たちのなかからこそ、華々しく出で立たなければならない――。秀子のそうした胸中を何となく察してしまう悠太郎は、単純に母が自分を庇ってくれているのだとは信じなかった。しかし黒電話の受話器の向こうの正子伯母様には、母がうまい具合に話をつけてくれるかもしれないと期待してはいた。正子伯母様の言う「例の件」とは、悠太郎がどこでどのように夏休み明けを迎えるかということであった。ともあれ夏休みが始まるまで、かくも悪し様に言われる幼稚園に通っていたのだから、悠太郎は家のなかで身の置き所がないような気分であった。
 だから北軽井沢の駅で、草軽バスに乗り込む園児たちと朝の挨拶を交わすとき、悠太郎は家を離れることから来る解放感を覚えるようになっていた。甘楽集落の戸井田一輝くんはいくらか鳥の嘴めいた上唇を笑わせながら、むっちりと発育のよい体を悠太郎の虚弱な体にぶつけて親しみを示してくれるようになったし、諸星電機の真花名ちゃんは茶色の目をきらきらと輝かせながら、わずかに顎のしゃくれた顔にぎこちない笑みを浮かべて悠太郎に頷きかけてくれた。悠太郎にとってとりわけありがたかったのは、草軽バスの整備士を父に持つ栗平の芹沢カイくんがくれた助言であった。カイは目許に静かな知性を光らせ、雀斑の散った顔をニヤリと笑わせながら、バス酔いしやすい悠太郎に、「タイヤの上の席には座らないほうがいいよ。車輪の上も車輪の下もよくないって親父が言ってた」と教えてくれたのである。四つの厳めしい石碑がある甘楽のバス停からは、林檎のように赤い頬をした豪胆な金谷涼子ちゃんが乗車してきて、黒目がちな目を黒曜石のように光らせながら悠太郎の肩を叩いてゆくことがあったが、本人は軽く叩いているつもりでも、悠太郎にはすごい力だと感じられた。幼稚園が借りている畑のお芋の葉にたかるアブラムシは、その手に掛かって片端から潰される運命であった。佐藤留夏子ちゃんとひとつ年下の弟の隼平じゅんぺいくんも、もちろん同じバス停から乗車してきた。ルカちゃんは眩しいものでも見るように切れ長の目を細め、口許だけに微笑みを浮かべて悠太郎に一瞥いちべつを投げたし、ジュンくんはいくらか険があるとはいえ姉によく似た顔つきで、それなりの共感を同級生の悠太郎に示してくれた。応桑地域へと国道を北上するバスの車内は、相変わらずがやがやと騒々しくて、やはり時々は強面の運転手のダイちゃんが「おいおまえら、静かにしねえと中央幼稚園へ連れてっちまうぞ!」と一喝する必要があったとはいえ、湖の乱反射のような園児たちの騒がしさに、悠太郎は以前よりいくらか慣れていた。
 赤組のジュンくんは留夏子によく似た切れ長の目をした、手足のひょろ長い男の子であったが、凛然たる姉に比べていくらか内向的なところがあったため、コップを口のまわりに吸い着けるのが好きな大柴映二くんが言う「弱いくしぇに」の被害者であった。もっとも隼平は映二だって言うほど強くはないことを、切れ長でいくらか斜視気味の目でよく見抜いていたから、悠太郎のように言われっ放しで終わることはなかった。隼平は内向的な自分の弱点を補うかのように、やや早口のぶっきら棒な言葉と、吹き出すような嘲笑と、そのうえ腕力の実力行使を身に着けていたから、時々は間欠的に激情を外に表すことで、映二とは喧嘩しながらも同じ組でそこそこ仲良くやっていた。だが両親と家庭環境を姉の留夏子と同じくするだけあって、隼平は少なからぬ園児たちに心の奥底では馴染めなさを感じていたから、栗の白い花の穂が長雨に打たれて後から後から散る頃には、姉が目をかける悠太郎に自然と波長を合わせるようになっていた。
 その年の梅雨は例年になく長引いたが、そんななかでも雨のやみ間や晴れ間を見つけては、三人はよく園庭やお山で一緒に遊んだ。留夏子は相変わらずの〈アルプス一万尺〉で弟と悠太郎に素早さを競わせたが、それとは別にごっこ遊びも新たに始まった。隼平は悠太郎と仮面ライダーBLACKごっこに興じたが、どこかしら険のある顔をした隼平には、暗黒結社の剣士がはまり役であった。隼平がお山の笹叢のなかから折れた木の枝を拾ってきては、それを魔剣に見立ててひょろ長い腕で禍々しく旋回させると、主人公を演じる悠太郎は「うわっ!」と言って後ろへと吹っ飛ばされた。しかし三人で楽しめるように、遊びはより高度な武田信玄ごっこへと移行していった。
 悠太郎は《仮面ライダーBLACK》と違って、祖父の千代次をはじめ一家全員が好きなNHK大河ドラマ《武田信玄》を、日曜日の夜八時から何の気兼ねもなく視聴することができたし、祖父母が服用しているアリナミンのラベルに記されたタケダのロゴマークを指さして「たけだしんげん」と言えば千代次の機嫌がよくなるものだから、なおのことこの番組が好きであった。大学で日本史を専攻した母の秀子もまた、このドラマに興味を持たないはずはなかった。家族が一体となって観る緊迫感に満ちた戦国絵巻に悠太郎は没入したが、幼稚園で登場人物たちの台詞を再現してみせる悠太郎に、多くの園児たちも先生方も「テレビの観すぎ!」というひと言を浴びせるのみで、記憶力のよさや表現力の豊かさを評価してはくれなかった。しかし両親や祖父母とドラマを観ていた留夏子と隼平は、悠太郎の演技に感心して大いに興がり、いつしか三人は代わる代わるに様々な役を演じては、あの場面やこの場面を再現して遊ぶようになった。手足のひょろ長い隼平は開拓農家の男の子だけあって、弓矢で鳥を射ち落とす賢い農民兵に憧れているようであった。隼平が殿様の真似をする農民兵の真似をすると、留夏子と悠太郎は畏まって片膝をついた。
 一方で明らかに悠太郎は死んでゆく役を好んでいた。死を覚悟した板垣駿河守信方を演じる悠太郎は、兜に見立てた麦わら帽子を脱ぐと園庭の地面にそっと置き、精一杯に声を低く渋くして眉間に皺を寄せ、これまでの生涯を総括する台詞を言った。突き進めと叫んで最後の力を振り絞り、獅子奮迅の勢いで戦う板垣に、留夏子と隼平はぐさぐさと槍を刺しまくった。悠太郎は力尽きてがっくりと膝をつき、うなだれて瞑目した。そのとき園庭に風が起こって、地面に置かれた麦わら帽子を飛ばしたので、死んだはずの悠太郎は二重瞼の大きな目をかっと見開くと、飛んでゆく帽子を大慌てで追いかけなければならなかった。またあるときは諏訪の刺客となった隼平が悠太郎を斬り捨てて致命傷を負わせると、若い武田晴信となった留夏子は斬られた近習を抱き起して、緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声で励ました。悠太郎は楽しかったと言い残して絶命した。留夏子は憎き敵を呪おうとするのだが、その敵の名前がどうしても思い出せなかったから、死んだはずの悠太郎が「諏訪頼重だよ」と教えてやったこともあった。
 また同じく晴信の留夏子が、諏訪の衆の動向を探れと悠太郎に命ずると、虚無的な無表情を顔に貼りつけた山本勘助を演じる悠太郎は、柄にもなくお山の急斜面を素早いフットワークで駆け降りようとした。ところが雨に濡れた斜面の泥に足を滑らせた悠太郎は、盛大にすっ転んで園児服を真っ黒に汚してしまい、隼平の吹き出すような嘲笑を浴びる羽目になった。留夏子が急いで駆け寄って抱き起こし、「いかがした勘助、大事ないか」と声をかけ、悠太郎が大きな目に涙を溜めながらも努めて笑顔を作り、「申し訳ござりませぬ。大事ござりませぬ」と答えるあいだにも、お山では笹叢が風にさらさらと鳴っていた。冬を越したクマザサの葉は縁を白く隈取られ、若い葉はしかし鮮やかな緑に輝いて、すがしい風に逆らうかのようであった。
 そうしたごっこ遊びのなかで、諏訪にはとても大きな湖があって、照月湖などとは比べ物にならないらしいという話になった。その諏訪の衆を真似した三人のあいだには、いつしか「六里ヶ原に栄えあれ」という合言葉が生まれていた。悠太郎は観光ホテル明鏡閣に勤めている、ふさふさの髪を七三に分けたサカエさんこと黒岩栄作さんを思い出さずにはいられなかった。諏訪湖に比べれば水溜まりのような照月湖の湖畔で、薄黒いサングラスをかけたサカエさんは秀子の同僚として、大工作業や電気工事や板前仕事をこなしたり、変わった企画を立案したりする合間に、社員食堂という名の従業員詰所で煙草を吸っては、煙を輪っかの形にして連続で吐き出しているはずであった。そのサカエさんの奥さんは、町の給食センターで働いているのだと、悠太郎は家族から聞かされていた。園児たちは昼食のご飯だけは弁当箱に詰めて家から持参するが、おかずや汁物はセンターからの給食を受けていたのである。サカエさんの奥さんが作ってくれるのだから、苦手な酢豚が出てきたって是が非でも食べなくちゃと悠太郎は言ったが、意志薄弱な悠太郎が「是が非でも」と言うのがおかしくて、隼平は吹き出すように笑ったし、留夏子は眩しいものでも見るように切れ長の目を細めた。
 しかし隼平は空元気でほかの男の子たちに交じって、砂場で山を築いたり崩したり、溝を掘って水を流したり、一本しかない長いパイプを奪い合ったり、白い滑り台のドームによじ登ったりする遊びに加わることもないではなかったから、そんなとき悠太郎は留夏子とふたりで話をした。留夏子が目聡く見抜いて気に懸けていたのは、園庭にビニールプールが用意された日に、悠太郎のことで先生方のあいだに持ち上がった騒ぎのことであった。水遊びのとき悠太郎は、体の具合が悪いようなことを言って裸になろうとしなかった。ややずんぐりした体つきの弦巻恵子先生が、どこがどのように具合が悪いのかと少しきつい目をして問い詰めると、悠太郎の供述は二転三転した。まさかと悪い予感を覚えた弦巻先生が、人目のないところで有無を言わせず服を脱がせてみれば、果たしてそのまさかであった。悠太郎の壊れやすそうな上半身のそこかしこには、見紛いようもなく青痣あおあざが生じていたのである。事情を聞こうにも悠太郎は話そうとしなかったが、さりとて黙り通すこともできなかった。「先生はユウちゃんを守らなければならないの。お願いだから誰に痛いことをされたか教えて」と迫る弦巻先生を悠太郎が、「ぼくだってお母様を守らなければなりません。それにこの幼稚園だって守りたいのです。先生があくまでこの件を追究なされば、先生方やこの園の無事は保証いたしかねます」と言って脅すに至ったとき、先生には一切が読み取れたのである。幼児の主体は自分を虐げる人間によって、こうまで乗っ取られるものかと弦巻先生は驚愕した。いくら悠太郎の祖父が浅間観光の永久名誉顧問であるとはいえ、まさか幼稚園を潰したり職員の首を飛ばしたりできるとまでは、弦巻先生は考えなかった。しかし下手に祖父を刺激すれば、悠太郎の母親は仕事も住む家も失って、悠太郎ともども路頭に迷うことになりかねない。それで桃組の部屋から廊下ひとつ隔てた職員室では、先生方が重苦しい協議を重ねていたのである。そんな事情にうすうす感づいていた留夏子は、笹叢がさらさらと鳴るお山の木陰に悠太郎と並んで立ちながら、「うちでもあるよ。私がお母さんのピアノや神様のお話を聞きたがると、お父さんはひどいことをするの」と言った。悠太郎が眩しく光る白い滑り台を見やりながら、ひどいことをされるのはルカちゃんだろうか、それともルカちゃんのお母さんだろうかと考えていると、「私ね、夜中にお母さんがお祈りしているのを聞いちゃった。〈てんにましますかみさま、かいたくのたみをおゆるしください。ろくりがはらのたみをおゆるしください。かれらはなにをしているのか、じぶんでわからないのです〉――。ねえユウちゃん、これってどういう意味?」と留夏子が問うた。悠太郎が「ぼくにも分からないよ。ごめんね、ぼくにも分からない」と答えながら、こんなときにも白い滑り台はあんなに白く眩しいのだなと考えているあいだにも、笹叢は風にさらさらと鳴っていた。
 そんなふうにして一緒に遊んだり話したりした後で、みんなが園庭に整列してから帰りのバスを待つ乗り場へ向かうあいだ、悠太郎はやはりいつも留夏子と手を繋いでいたし、草軽バスに乗り込んでも隣り合った席に座った。いくらか内向的な隼平のほうは、豪胆な涼子と手を繋いでいた。疲れを知らない園児たちは、帰りの車内でも乱反射する湖のように騒がしかったが、留夏子とならば悠太郎もまた多くのことを話した。それだけにバスが浅間山に近いほうへと国道を南下して北軽井沢地域に入り、やがて四つの厳めしい石碑がある甘楽のバス停に着いてしまうことは、悠太郎にとって淋しい別れを意味するわけであった。そこまでにいくつものバス停で、何人もの園児たちが順々に降車しているはずなのに、留夏子が隣の席からいなくなると、悠太郎は急に虚しい気持ちになるのであった。バスを降りた留夏子は軽やかにスキップしながら、緑色の髪ゴムで留めた長いポニーテールを弾ませ、石碑の前を通り過ぎて浅間隠の連山の方角へと家路をたどった。石碑の傍らには廃車になった一台の草軽バスが、錆びつくままに放置されていた。隼平は同じバス停で降りた涼子たちとの別れ際に、切れ長でいくらか斜視気味の目をはにかんだように笑わせると、ひょろ長い手足を持て余したような歩き方で姉の後についていった。そんな光景を車窓から眺める悠太郎の物問いたげな目には、石碑に記された文字もまた映らずにはいなかった。四つの厳めしい石碑には国道に近いほうから、それぞれ「満洲報国隊記念碑」「満洲開拓記念碑」「開拓者供養塔」「甘楽入植三十年記念碑」という文字が刻まれていた。それらの漢字を悠太郎はもちろんまだ読めなかったが、しかし満洲開拓ということがいつか自分の隣から、永遠に留夏子を奪い去ってしまうのではないかと恐れた。
 ところで悠太郎の意志の薄弱さと身体性の希薄さと協調性の欠如は、弦巻先生の少しきつい目にばかりでなく、多くの園児たちの目にも隠れてはいなかった。たしかにひょろりと背の高い三池光子さんからナルキッソスの神話を聞かされて以来、悠太郎は鳩ぽっぽ体操を向かい合った先生方と鏡合わせのようにではなく、ほかの園児たちと同じように左右正しくできるようになってはいた。しかし身体感覚の広がりと躍動性には、なお明らかに欠けていた。鳩の翼のように両腕を広げてさえ、悠太郎の全身は小さく縮こまっているように見えた。右腕を上げて体を左に曲げれば、右の脇腹の筋肉が伸びるということは、ほかの園児たち全員にとっては何の説明も要らない自明のことであったが、悠太郎にとってはそうではなかった。悠太郎は上げた右腕を左側に傾けはするが、右の脇腹が伸びているのを自分で少しも実感していないことは、前から見ている先生方にも後ろから見ている園児たちにも明らかであった。もっとも誰よりこのことを奇異に感じていたのは悠太郎自身であって、どんなに努力してうわべを真似してみても、自分はまわりの子たちとは完全に違っているという違和感に、いつもつきまとわれていたのである。ごっこ遊びをしているときも鳩ぽっぽ体操をしているときも、常にもうひとりの自分が自分を見つめているような気がした。
 何も違和感は、園庭での遊びや鳩ぽっぽ体操に限ったことではなかった。屋内や屋外で園児たちが順番待ちの列を作って並ぶとき、悠太郎は必ずと言ってよいほど問題を起こした。列に並んでいるつもりが、実際の列とは全然関係のないところに立っていたり、ほかの園児の横入りを、当然のように許してしまったりしたのである。悠太郎の気の弱さをよく知っている映二は細長い目を笑わせながら、狙い澄ましたように「入れて!」と言って悠太郎の前に割り込むのであった。クレヨンで落書き帳にお絵描きをする時間にも、悠太郎の描く絵は奇妙に思われた。そこにはほかの園児たちが描くような樹木や家族の顔や、犬や猫や牛や怪獣といった具体的な対象がまったく現れなくなっていた。幾重にも描かれた四角い枠のなかを、悠太郎は抽象的な幾何学模様か、トランプのダイヤやハートやスペードやクローバーで、しかものろのろと埋めていった。家では夜にしばしば梅子がパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、トランプ占い」と言ってはソリティアを遊んでいたから、悠太郎はそれらのマークに親しみを感じていたのである。折に触れて弦巻先生は、どうしてこういうものを描くのか、なぜみんなが描くようなものを描かないのかと悠太郎に問うてみた。悠太郎は睫毛の長い目を伏せて、もじもじと要領を得ない答えをしたが、それによれば現実に存在する具体物は生々しすぎて、図案化された模様でないと安心できず、また枠がなければ自分のなかに恐ろしいものが侵入するか、反対に自分がばらばらになって外へ流れ出してしまうということらしかった。そんなことを答えがてら、悠太郎が物問いたげな目で弦巻先生を見据えながら、「どうしてとかなぜとかは、是が非でもなければならないものでしょうか?」と問い返すものだから、先生はこの受け持ちの園児の難しさに言葉を失うのであった。そうした場面を白目の冴えた目で見て面白がった神川直矢くんは「円い枠にしろよ。マルがきれいに描ける奴は絵がうめえんだぜ。ばあちゃんが言ってた」と、師範学校を出た立派なお祖母様の教えをまた受け売りした。悠太郎はその勧めに従って、相変わらずいくらか歪んだ円を幾重にも描いてみた。すると円い茶盆からの連想で「お墓の下」という言葉が思い出されたが、それでもなぜか気持ちが落ち着いてきたので、悠太郎はそのなかに数字を配して時計の文字盤のようにしたり、花模様を描き込んだりするようになった。直矢はまたそれを面白がって機関銃のように高笑いした。
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