明鏡の惑い

赤津龍之介

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第三章 祖父の顔

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 悠太郎はそうしたことを思い出しながら、空き缶を紙粘土で包んでいた。わいわいと騒がしい桃組の部屋のなかにあって、ひとり悠太郎ばかりを静かな雨音が取り巻いているかのようであった。鼻になる部分を盛り上げてあらかたの形を作れば、後は乾かして色を塗るだけであった。眼鏡を紙粘土で細工することも考えたが、壊れやすくなることを懸念して、絵の具で描くことにした。悠太郎はなおも祖父の顔を思い浮かべていた。気難しげな顔をしていることの多い千代次だが、あのときの顔はとりわけ苦々しげだった。そしてその後の顔はとても悲しそうだった。水道屋の爺さんが家を訪れたあの日の顔は――。
 「それだけえどたまげたね真壁さん。オラッチは雨のやみ間に草刈りをしていただよ。そうしたら草叢のなかに、こんな太いマムシ!」とドラ猫のような声でがなり立てながら、むちむちとした手の指で蛇の太さを大袈裟に示したのは、森山もりやまサダム爺さんであった。「オラッチはすぐに鎌で首をちょん切ったよ。そうしたら、たまげたね真壁さん。切り落とされたその生首の口がだよ、ぱくぱくぱくぱく、いつまででもいたよ!」とサダム爺さんはがなり立てたが、そんな気持ちの悪い話を千代次はいくらか困ったように聞いていた。悠太郎にしてみれば「オラッチ」という一人称代名詞は、身のまわりでもテレビのなかでも聞いたことがなかったし、動くことを「いごく」と言うのも奇妙であった。むちむちとしていたのは手ばかりではなく、サダム爺さんの全身はいかにも痛風病みらしい体型であった。サダム爺さんは千代次よりも十歳ほど若いらしく、まだ髪の毛にも黒さがかなり残っていたが、湿布薬の薬品臭を発散するその体は、千代次よりもよほど不健康そうな印象を与えた。だが話が本題に入ると、千代次はさらなる不快感を忍ばねばならなかった。サダム爺さんはてらてらした赤ら顔に笑いを浮かべながら、学芸村と浅間観光のあいだに最近持ち上がった問題のことで、面白おかしく千代次を煽り始めたのである。
 サダム爺さんは古くから学芸村に定住し、まだ若者だった戦時中には、疎開者たちの荷物を一括管理して盗難を防いだこともあれば、戦後には新たな水源を山勘で掘り当てて、村の水問題を解決したこともある功労者であった。表向きの仕事は別荘の水道管理であるが、それ以外にも蜂の巣の除去や蛇退治など、都会人が苦手とすることを何でも引き受けたので、教養ある村民たちからは重宝がられていた。しかし六里ヶ原に定住している人々のあいだでは、事情がいくらか違っていた。サダム爺さんはなかなか自分の欲望に忠実であり、その身も口も定住民たちを圧倒するほど活動的であった。マムシを退治したうえで、さらにマムシ酒を漬けた。ミツバチやスズメバチの巣を駆除すれば、手に入れた蜂の巣を観光ホテル明鏡閣に売り(その蜂の巣はアイデアおじさんの黒岩栄作さんが、売店のあたりに見栄えがするように展示した)、予め抜き取っておいた蜂蜜や蜂の子は、また別の使い方をした。そんなサダム爺さんは、定住民たちには何かと避けられがちであったから、話を聞くだけでも聞いてくれる千代次のもとにしばしば来た。今度の土地問題は、その千代次をからかう絶好の材料であった。浅間観光が買ったどこそこの土地は、登記上ではまだ誰それのものであるとか、浅間観光の立ち退きを求める一派に、村民の誰それが与したとかいった真偽不明の話を並べ立てては、浅間観光の永久名誉顧問であると同時に学芸村の理事でもある千代次が、板挟みで苦悩するのを面白がろうというのである。「これはえらいことだよ、どうするだい真壁さん? 増田ケンポウが生きていたら、どうしたかのう真壁さん? ケンポウの二号さんが生きていたら、どうしたかのう真壁さん?」とサダム爺さんが大声でがなり立てたとき、千代次の顔は苦渋に歪んだ。それを見た悠太郎は、祖父の顔から宇宙全体が腐り始めるような気がした。湿布薬の薬品臭を残してサダム爺さんが帰った後で千代次は、「二号さんなんかじゃねえ。後妻ではあったが、おイネさんは増田ケンポウのれっきとした夫人だったんだ」と言った。それから悠太郎は、浅間観光の二代目社長をめぐる悲しい物語を聞かなければならなかった。
 初めて千代次の顔を見たとき、丸眼鏡をかけたおイネ社長のふくよかな顔には、瞬時に華やいだ笑みが広がった。「見いつけた! 目の細い真壁千代次さんて、あなたね!」とおイネ社長は艶やかな声で嬉しそうに言った。増田ケンポウの病状がいよいよ重くなり、その死後は浅間観光の社長職を引き継ぐことに決まったとき、「六里ヶ原で心細いことがあれば、目の細い男を頼れ」とケンポウに遺言されていたのだという。増田ケンポウは、工業新聞社の社屋が全焼する少し前に先妻を亡くしていた。後妻になったおイネさんは、もとはといえば熱海の芸者だったのである。増田ケンポウは仕事の合間の潤いとすべく、唄や三味線といった邦楽を愛好し、晩年には工業新聞社の主宰で、政財官と産業界の大物たちが名を連ねる邦楽名門会を発足させたほどであったから、おイネさんとの接点もまた芸の道にあったのであろう。増田ケンポウは脳卒中で倒れた後も、相変わらず工業新聞社と傍系四社の社長職に留まり続け、さすがに観光事業拡大の雄図は断念せざるを得なかったものの、病に倒れてようやく普通の人間並みと評されるほどの活動力を見せていた。豪快な恵比寿顔に片えくぼを浮かべながら、新社屋でのパーティーで大蔵大臣と歓談したり、世界に伸びる大工業展覧会のテープを切ったり、外国の要人と握手を交わしたりするケンポウ社長の車椅子を押していたのは、着物姿にひっつめ髪が慎ましいおイネ夫人であった。年齢はよく分からなかったが、ケンポウより十歳ほど年下だとすると、千代次よりは二歳ほど年上ということになるわけであった。
 おイネ社長が六里ヶ原の社員たちから「ねえさん」と呼び慕われていたのは、ちゃきちゃきとした明るい性格のためばかりではなかった。若い頃から芸事の道に打ち込んできたおイネさんは、自分が会社経営に不慣れであることを自覚するだけの謙虚さを備えていたから、それだけいっそう現場の社員たちを大切に労わり、任せるべきことは進んで現場に任せたのである。真面目な働き者として生前の増田ケンポウに高く評価されていた千代次を、おイネ社長もまた重く用いたことは自然の成りゆきであった。千代次ばかりではなく六里ヶ原の社員たちは、繁忙期が明けるとしばしば熱海に招かれ、同じく浅間観光が経営する伊豆山のなぎ山荘で骨休めをした。熱海で温泉に浸かった千代次は、シベリア抑留このかた体の奥に凍りついていた寒気が、ようやく融けてなくなるように感じた。またおイネ社長は六里ヶ原を訪れるたび、社員たちに手土産を欠かさなかったが、その土産は資生堂パーラーのゼリーやヨックモックのクッキーに留まらず、流行の先端をゆく紳士服や婦人服や、動きやすい割烹着といった衣類のこともあった。東京から遠く離れた六里ヶ原の社員たちの体つきと好みをおイネ社長は熟知しており、そうして贈られた服が身の丈に合わないことや似合わないことは一度もなかった。
 あるときおイネ社長は千代次にこんな話をしたことがあった。「千代さん、秀子ちゃんが大学に受かったんですってね。おめでとう。この際わざわざ高い家賃を払ってアパートなんか借りることはないじゃないの。うちに住めばいいわ。大山町の邸宅に部屋がいくらも空いているんだから」と言ったおイネ社長は、千代次が恐縮するのを見て茶目っ気たっぷりに微笑むと、どこか淋しげに言い足した。「いくらも空いているっていうのは、いくらなんでも言いすぎね。でも本当にそんな気がするのよ。ケンポウはあの通りがっしりした大男ではあったけど、それでも人間ひとりが占めている体積なんて、たかが知れているでしょう? それなのにケンポウひとり亡くなっただけで、なぜか無限の空虚が邸宅のなかに広がってしまった気がするの。秀子ちゃんが来てくれたら、うちも賑やかになって私も張り合いが出るんだけど」とおイネ社長は言うのであった。ありがたいお申し出ではあるが、私事でお世話をかけては申し訳ないと千代次は、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながらこれを固辞した。「まあ千代さんならそう言うと思ったわ。残念だけど仕方ないわね。時々はうちにも遊びに来るように、秀子ちゃんに言っておいて」とおイネ社長は、艶やかな声に諦めを湛えて言った。
 そしてある年の始めの小雪が舞う暗い日に、おイネ社長は観光ホテル明鏡閣の事務所で、三幅の掛け軸の巻物を千代次に贈った。「これは論功行賞よ。部屋割りに伝票作成にフロントでのお金のやり取り、お客様へのお茶出しに施設の掃除、土地の分譲に旅行会社への営業、何から何まで本当にご苦労様。千代さんがいなければ六里ヶ原は立ちゆかないと、ケンポウが言っていた通りだったわ。学芸村に建てた新しいお家に、それを飾って楽しんで」とおイネ社長は言った。慎ましくひっつめたその髪には、白いものが目立つようになっていた。千代次は恐縮して極度に細い近視の目をしばたたきながら、「ありがとうございます。しかしよろしいんですか? 高価なものでしょう?」と尋ねた。おイネさんは茶目っ気たっぷりに笑って、「どうかしらね。芸者っていうのは、本来なら書画骨董の目利きもできなけりゃならないんでしょうけど、私にはあまり自信がないわ。安物ではないつもりだけど、鑑定してもらったわけじゃないから確かなことは言えない。でも素晴らしいと思って見れば素晴らしいし、つまらないと思って見ればつまらない。物の値打ちも人の値打ちも、案外そんなものじゃないかしら。私が死んだら売り払ってもいいわよ。いくらの値がついたか教えてちょうだい。あっ、それは無理ね。私は死んでいるんだものね」と言った。「滅相もありません。家宝にします」と千代次は答えながら、人の値打ちがどうのというのは、増田ケンポウに愛されたこの人自身のことを言っているのかもしれないと思った。するとおイネ社長は「千代さん、これからも浅間観光をお願いね」と言った。そこで千代次は、「私は定年までもう長くありませんが、それまで全力を尽くします」と答えた。しかしなおもおイネ社長は「私が死んでもお願いね」と言った。これには千代次も驚いた。「何だっちゅうんです! 失礼ですが、先程から黙って聞いておれば縁起でもない! いつまでも、いつまでもお元気でいてもらわねば困ります!」と力む千代次を見て、おイネ社長は茶目っ気たっぷりに笑った。「冗談よ。千代さんはすぐむきになる。真面目なのね。そういうところがケンポウの気に入ったんだわ。千代さんを怒らせると私がケンポウに怒られますから、冗談はこれくらいにします。今夜の新年会では飲んで食べて、大いに楽しんでね。私も余興をやりますから」
 観光ホテル明鏡閣の二階の大広間ではその夜、すき鍋や刺身の盛り合わせや、アンコウの肝や銀杏ぎんなん入りの茶碗蒸しを豪勢に並べて酒宴が催された。おイネ社長が一同を労う言葉を語り、真壁支配人は今年も大いに働きましょうと乾杯の音頭を取った。グラスが打ち合わされ、ビール瓶は後から後から栓抜きで王冠を外されて次々と空けられた。社員たちがよく食べよく飲みよく喋り、剽軽者の橋爪進吉さんがゲジゲジ眉毛の顔をひしゃげたように笑わせながら、小皿を頭に乗せて両手を離し、「熊川から河童が出てきて、カッパッパー!」と皆を笑わせては、撫で肩の三池光子さんから、月光に照らされた黒天鵞絨のような声で「危ない、危ない。落とすわよ」とたしなめられる頃には、はや宴もたけなわとなっていた。そこへ別室に引き下がっていたおイネ社長が、衣装を改めて現れた。日本髪こそ結ってはいなかったが、黒留紬くろとめつむぎに柳結びの帯を巻いた熱海芸者の出で立ちであった。三味線を手にしたおイネ社長は、畳に座ると社員たちに一礼したが、その正座姿は畳からまっすぐな樹が生えたかのようであった。静粛になった一座に向かっておイネ社長は語りかけた。「皆さんもご存知の通り、もともと私は芸の道に生きる者でした。こんなことになったのは、思えば数奇な運命でした。増田ケンポウが他界して十年、私も年を取りましたが、ケンポウが愛でてくれた芸の魂だけは忘れまいと、不慣れな会社経営の傍ら、今日まで励んで参りました。お役に立てない社長でしたが、せめて今宵は拙い芸で皆さんにお楽しみいただければと思います。六里ヶ原は雪に覆われ照月湖も凍っていますが、季節外れの〈夕月船頭ゆうづきせんどう〉を語ります。ケンポウがこよなく愛したのは、賑やかな夏の月でしたから。もう時間がありません。始めさせていただきますね」
 静寂をつんざいて冴え渡る三味線の音に乗せて、おイネ社長は歌い始めた。その声は聴いていた社員一同が息を呑むほど、芯が強くて響きが豊かであった。岸に繋いだ通い船を歌うくだりで高調子の声を出したところは、普段のちゃきちゃきとした茶目っ気たっぷりのおイネ社長そのものであった。篠突く雨を歌うくだりでは、三味線の乱打が激しさを増した。その音を聴きながら千代次は極度に細い目を閉じて、ついさっきおイネ社長が語った言葉の意味を、酔いが回った頭でしきりと考えていた。なぜ過去形でばかり喋ったのだろう? もう時間がありませんとはどういう意味だろう?――そうするうちにも常磐津ときわずは進んでいった。川とか水とか流れとかは、先ほどの雨と並んで、いかにも「水五訓」を座右の銘とした増田ケンポウ好みの言葉らしかった。おイネ社長は歌いながら、かつて耳を傾けてくれた増田ケンポウを偲んでいるに違いないと千代次は思った。「自ら活動して他を動かすは水なり。障害に遭いて激し、その勢力を百倍するは水なり。常におのれの進路を求めてやまざるは水なり。自ら潔うして他の汚濁を洗い、しかも清濁併せ容るるは水なり。洋々として大海を満たし、発しては雲となり、雨と変じ、凍っては玲瓏たる氷雪と化す、しかもその性を失わざるは水なり」という増田ケンポウの力強い声が、常磐津に重なって聞こえるような気がした。増田ケンポウへの逢いたさが、声となって響いていた。
 三味線の音の余韻とともに、ひとつの途方もなく賑やかなものが、大広間を駆け抜けて消えていった。しばしの静寂の後で拍手喝采が沸き起こった。髪を四角く刈り込んだ南塚亮平さんは「うおっほ、うおっほ、うおっほ、実にお見事ですなあ」と感に堪えない様子であった。彫刻家と結婚した三池光子さんは、アイシャドウの濃い目をぱちくりさせながら、「何でも芸術の道は奥が深いのねえ」と嘆息した。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、日本の伝統音楽も捨てたもんじゃないねえ」と言った。剽軽者の橋爪さんは「いよっ! おイネ姐さん、日本一!」と声を張り上げた。薄黒いサングラスをかけた黒岩サカエさんは、含んだような笑い声を立てながら一座の様子を見守っていた。千代次はしかし相変わらず、さっきと同じことを考えていた。なぜ過去形でばかり喋ったのだろう? もう時間がありませんとはどういう意味だろう?
 果たして千代次の不吉な予感は的中した。おイネ社長が三途の川の渡し舟を賑やかにするために〈夕月船頭〉を歌ったことを、社員一同は思い知らねばならなかった。東京に帰ってまもなくおイネ社長は、大山町の邸宅で首を吊って自殺したのである。増田ケンポウ亡き後の孤独や、緑内障を患って将来を悲観したことが表向きの動機とされたが、学芸村の一部勢力からの執拗な攻撃もまたおイネ社長を苦しめていたことを、千代次は後になって知ったのだという。それは浅間観光を立ち退かせ、照月湖を楢沢の池に戻したがっている古株村民たちのしたことであったらしい。あの日贈られた三幅の掛け軸は、おイネさんの形見となった。その一幅には飄逸ひょういつたる仙人の姿が、今にも清浄な大気に溶け込もうとしているかのように薄墨で描かれていた。また一幅には青い朝顔の花が清楚に描かれていた。また別の一幅にはつがいのキジが描かれていて、雄のキジは岩の上に立って堂々と胸を反らし、雌のキジは岩の下で慎ましく控えていた。梅雨が明ければ真壁の家の居間の掛け軸は、番いのキジから青い朝顔に変わるはずであった。千代次はこれらの掛け軸を眺めるたび、「秀子をそばに置いてやればよかった。古株村民たちを黙らせておけばよかった。そうすればあんなひでえ最期にはならなかった。俺は守れなかった。増田ケンポウの大切な人を、俺は守れなかった……」と今なお悔恨に苛まれるのだという。
 悠太郎はそうしたことを思い出しながら、乾燥した紙粘土に絵の具で色を塗っていた。祖父の極度に細い目と眼鏡を、悠太郎は細心の注意を払って描いた。父親の顔を作るほかの園児たちは、髪の毛を表すのにただ黒く塗ればよかったが、悠太郎の場合はそれでは済まず、灰色の作り方を弦巻先生に教えてもらわなければならなかった。このとき黒と白を混ぜたことが、悠太郎にとって絵の具の混色を学ぶ初めての機会となった。そうだ、人は誰でも死んでゆく。諸葛孔明だって五丈原で死んでいった。枢密顧問官のお爺さんだって、湖の完成を見ずに死んでいった。増田ケンポウだって、藍綬らんじゅ紺綬こんじゅの褒章や、勲三等瑞宝章くんさんとうずいほうしょうに飾られて死んでいった。美しかったおイネさんだって、年を取って死んでいった。戦争を生き延びて立派に働いたお祖父様だって、やっぱり死んでゆくのだろう――。悠太郎はそんなことを考えながら、いつかの夕食のとき千代次が誰にともなく語った言葉を思い出した。「俺は死ぬちゅうことが、いっこう怖かねえんだ。人間はもともと物質だったんだ。死ぬちゅうことは、ただ物質に還るだけのことだ」と千代次は言ったが、悠太郎には千代次が自分で自分に言い聞かせているように聞こえた。ブッシツというのは、例えば太田胃散の空き缶や紙粘土のようなものだろうか。苦労に苦労を重ねて生きてきたお祖父様が、遠くない将来にはただの物質に還ってしまうのだろうか――。悠太郎にはそのことが、限りなく淋しくて悲しいことのように思われた。顔と髪の毛以外の余白を、燃えるようなオレンジ色で塗ろうと考えたのは、祖父の生命力の炎がいつまでも燃えていてほしいと願ったからである。かくして困難な課題は達成され、祖父の顔のペン立ては完成した。
 幼稚園の廊下に展示された作品群を、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開きながら眺めていた。どれもこれも髪の毛やひげが真っ黒な、若々しい父親の顔であった。そんななかで灰色の髪をした祖父の顔は、やはりひとつだけ目立っていた。果たしてこれを作ったことはよいことだったのかと悠太郎は自問したが、そのとき髪の短い女の子が隣に立って、きらきら光る茶色の目で自分を見つめていることにふと気がついた。それは赤組の諸星真花名ちゃんで、どういうわけか髪を短くしてしまってから、特段のこだわりもなく悠太郎に声をかけることができるようになったのである。突然髪を切ったことにみんなもびっくりしたのか、もうあまり結婚のことでからかう園児もいなくなっていた。真花名は悠太郎の作品を見ると「本物そっくり」と言って、わずかに顎がしゃくれた顔にぎこちない笑みを浮かべた。
 そのとき園児服のスモックの裾をひらりとなびかせながら、長いポニーテールの女の子がふたりに近づいてきて、緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声で、「真花名ちゃんはユウちゃんのお祖父ちゃんを見たことあるの?」と問うた。「あるよ」と真花名はふるえがちな声を励まして答えた。「よく歩いて山のデパートまで本を買いに来るよ。ご挨拶したら帽子を取って、〈ハロー〉って言ってくれた。細いお目々がにこにこしてた。優しそうなお祖父ちゃんだよ」と言う真花名に、「ふうん、そうなの。私は見たことない」と留夏子は答えて、切れ長の目で悠太郎が作った祖父の顔を見つめた。たしかに千代次が市街地を抜けて甘楽集落まで足を延ばすことなど、まず考えられなかった。真花名は千代次について知っていることを悠太郎に聞いてほしくて、「車を運転しないでよく歩くから、足腰が丈夫なんだよね。うんと寒い国で鍛えられたんだよね。農家のお祖父ちゃんたちよりも強いよね」と言った。これを聞いた留夏子は「何よ! トラクターも運転できないくせに!」と激昂して片手を振り上げた。真花名は素早く悠太郎の背に隠れた。留夏子はもはや誰に何を怒っているのか分からなくなり、真花名を庇う格好になった悠太郎に手を上げたまま、それを振り下ろすことができなかった。「どうしたのルカちゃん。手を下ろしなよ」と言って悠太郎は、二重瞼の物問いたげな大きな目で留夏子を見つめた。その瞬間、留夏子は奇妙な違和感に襲われた。こんなの違う――。留夏子はすっかり元気をなくして、振り上げた手を力なく下ろした。留夏子が自分を取り巻くしんとした淋しさを、いよいよ痛切に感じるようになったのはこのときからであった。
 常に似気なくしょげてしまった留夏子を見て、悠太郎は常よりもなお悄然となってしまった。「ふたりとも、ごめんね。ぼくにお父様がいないばかりに、おかしなことになっちゃった」と悠太郎が弱々しい声で言うと、「ユウちゃんのせいじゃないよ!」とふたつの声がぴったり重なり合ったので、ふたりの女の子は顔を見合わせて苦笑いを交わした。留夏子が気を取り直してお姉さん風を吹かせるように、「どうにも仕方ないことってあるの。どうにも仕方ないことのなかで、ユウちゃんはよくやったよ」と励ますと、真花名も「ユウちゃんはよくやったよ」と賛同したので、悠太郎はいくらか元気を取り戻し、伏せていた睫毛の長い目を上げて弱々しく微笑んだ。
 ところが悠太郎は真壁の家で、これとは正反対の評価を受けなければならなかった。作品を幼稚園から持ち帰った悠太郎が、秀子に促されて夕食後にそれを披露したとき、祖父の顔の実物は苦渋に歪んだ。千代次は怒りにふるえる手でゆっくりとその作品を掴み、眼鏡の奥の極度に細い近視の目を、おのが顔の拙い模像に据えた。「するとおめえはこのしゃいなしなものを作って、俺に恥をかかせたちゅうわけか」と呻くような声で言った千代次は、突然「馬鹿者め!」と怒号して、それを秀子めがけて投げつけた。秀子はとっさに防御の姿勢を取ったから、顔面への直撃は免れたものの、千代次の意外な反応に狼狽を禁じ得なかった。体勢を崩した秀子に駆け寄った悠太郎は、「なぜお母様を狙うんですか! それを作ったのはぼくです!」と千代次に呼ばわった。「なぜだと? なぜかとおめえは訊くのか? それなら教えてやろう」と千代次は、絨毯の上に落ちたそれを拾い上げて言った。「この愚にもつかねえものを作ったのはおめえだ。だが愚にもつかねえおめえを作ったのは誰と誰だ? 愚にもつかねえ母親と愚にもつかねえ父親だ! 俺や梅子の反対を押し切って、おめえの母親はろくでもねえ男と結婚した。案の定出戻ってきたのを引き取ってやりゃあ、今度はその馬鹿親どもの子が、祖父の老醜を晒してコケにしおる。大した報いちゅうもんだ。知る気構えができてもいねえことを、なぜだなどと訊く。それこそ愚物ちゅうもんだ! その性根を叩き直してやる!」と満面朱を注いで叫んだ千代次は、「叩き直してやる! 叩き直してやる! 叩き直してやる!」と繰り返しながら、それを拾っては投げつけ、また拾っては投げつけた。あるときは悠太郎に、あるときは秀子に、あるときは古い胡桃材の座卓にそれは当たり、紙粘土はひび割れて砕け始めた。
 だが攻撃はそればかりではなかった。パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら目を吊り上げた梅子が、「そうだよ! あの男は悪魔だったんだよ! この子は悪魔の種だよ! 今のうちに徹底的に叩き直さなけりゃあ! こんなもなあ! こんなもなあ! こんなもなあ!」と喚きながら、悠太郎と秀子を足蹴にし始めたのである。「悠太郎の立場も分かってあげて! 悠太郎の気持ちも分かってあげて!」という秀子の哀願も、老人たちの怒りに油を注ぐばかりであった。どうにも仕方ないことのなかで、最善を尽くしたのにな。でもこんなことは、わが家ではよくあることだ。お母様が教えてくれた言い方で、こういうのを何て言うんだっけ? そうだ、日常茶飯事だ――。そんなことを考えながら悠太郎は母と身を寄せ合って、心身両面を痛めつける打撃の嵐に耐えていた。
 宵闇のなかで雨脚が強まったようであった。家の屋根や裏手にある物置のトタン屋根や、庭の芝生や濃紫のアヤメの花を直に打つ雨粒があり、また楢や栗や白樺の高い枝の葉に受けとめられ、それからより低い枝の葉へ、そして放射状に茂る下生えの羊歯へと、だんだんに受け渡されてゆく雨粒があった。唐松林や赤松林や樅の樹の針葉の先から滴り落ちる雫も、そのなかに聞こえた。交響する無数の雨滴の強弱と高低のなかに、悠太郎はふと留夏子が歌う〈アルプス一万尺〉を聞いたような気がした。そのとき初めて悠太郎は、家ではなく幼稚園に身を置いていたいと思った。またルカちゃんと遊びたいと思った。緑の唐松林を吹き渡る朝風のような歌声を心に呼び起こしながら、悠太郎は家のなかの嵐が過ぎ去るのをひたすら待ち望んでいた。
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