明鏡の惑い

赤津龍之介

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第三章 祖父の顔

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 だから最近になって悠太郎は母の秀子に、バイカル湖がどこにあるのか尋ねたのである。秀子は下膨れの顔にまたしても驚きの色を浮かべながら、「ソヴィエトにある大きな湖よ。お祖父様は戦争で捕虜になっていたときに、その湖を見たんですって」と答えた。南塚支配人が「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いしながら提示した条件の通り、秀子は悠太郎が幼稚園から帰ってくる時刻になると明鏡閣を中抜けして、自動車で北軽井沢の駅まで迎えにきてくれることがほとんどだった。草軽バスを降りて園児たちと別れた悠太郎を車に乗せると、秀子は息子とふたりきりの車内で、かつて千代次から聞かされたシベリア抑留の体験談を、何日かに分けて悠太郎に話して聞かせた。フロントガラスに降りかかる雨の雫を、ワイパーが規則正しい動きで拭き取っていた。
 赤紙が来て兵隊になった千代次は、北の千島列島のひとつである択捉島の守備に就いていた。兵隊としての千代次はあまり優秀ではなかったらしい。そのあたりの消息については、「千島では鮭がよく獲れて、おやつ代わりにイクラを山ほど食ったもんだ」とか「〈夏は馬に乗れねえし、冬はスキーに乗れねえ。おめえのような駄目な兵隊は見たことがねえ〉と上官にいじめられたよ」とかいう千代次の言葉を、悠太郎も聞いたことがあった。日曜日に台所で昼食の支度をする千代次は、軍隊で炊事係に回された体験を自嘲的に語ってもいた。「男子厨房に入らずちゅう時代に、俺は料理をしていたよ。台所以外に使い道がねえちゅうわけさ。大して腕は上がらなかったが、おかげでこれくらいのことには困らねえ。人生何が役に立つか分からねえのう」と言いながら、千代次はスパゲッティやインスタントラーメンを茹でたり、肉や野菜を包丁で刻んだりしていた。
 ところが北方守備隊の一員としての千代次の運命は急転した。終戦直後のどさくさに紛れて攻め入ってきたソ連軍に捕まり、ラーゲリと呼ばれるシベリアの収容所に送られたのだという。「〈ヤポンスキー・サムライ! トーキョー・ダモイ! ハラショー! 東京へ帰れる! よかったな!〉そんなようなことをほざいてルスキーの連中め、俺たちを騙しおって。択捉島から船に乗りゃあ、とんだ見当違いの方向へ進みやがる。まず樺太へ運ばれて、それからソヴィエトの沿海州の港へ連れてゆかれて、そこの駅から貨物列車に詰め込まれて、シベリア行きの始まりよ」という話を、秀子はかつて千代次から聞かされたことがあった。大陸を何千キロも西へ西へと進むうちに、いつしか季節は冬になっていた。見渡す限りの広大な雪景色のなか、白樺の林の木隠れに見えたのが、まだ凍結せずに碧く妖しく波立ちきらめいていた、海のようなバイカル湖だったそうである。
 遠い昔の悪夢のような日々のことゆえ、何という場所のラーゲリだったか憶えていないし、思い出したくもないのだが……と千代次は言いながら、収容所での艱難辛苦を秀子に話したことがあった。高い木柵と有刺鉄線に囲まれた収容所の四隅には、さらに高い監視用の望楼が聳えていた。起居用のバラックに詰め込まれた捕虜たちは、ソ連兵に「ダワイ! ダワイ!」と急き立てられて、日の出前から日の入り後まで、タイガと呼ばれる針葉樹林帯の樹木の伐採や、丸太作りや燃料用の薪割りや、鉄道線路の敷設や、貨物列車の荷卸しや、凍土の穴掘りといった過酷な重労働を強いられたが、無理なノルマを必死にこなす捕虜たちに支給されたのは、わずかな黒パンや燕麦えんばくのスープという乏しい食料のみであった。もともと少量しか支給されないところへ、日本軍の上官であった捕虜によるピンハネが当然のように行われていたから、千代次のような一兵卒は、それこそ食うや食わずであった。蚤や虱や南京虫が湧く不衛生極まりない住環境のなか、栄養失調で動けなくなりコレラやチフスや赤痢といった病気に罹る者や、零下四十度にも五十度にも及ぶ酷寒には不充分な防寒装備のために、凍傷を負う者や凍死する者が続出した。千代次にとってとりわけ衝撃的だったのは、森林伐採中の事故であったという。鋸や斧を持たされた捕虜たちが、雪深いタイガのなかで樹木を伐り倒すのだが、あるとき高さ四十メートルもあろうかという赤松が思いも寄らぬ方向に倒れ、雪に足を取られて逃げ遅れた捕虜が、その巨木の直撃を受けて死んだ。その光景を千代次は見たというのである。「はあ俺は樹を伐るのは嫌だ」と、学芸村に土地と家を持ってからも千代次は言い続け、どうしても敷地内の樹を伐ったり枝を払ったりする必要が生じたときには、高冷地農業研究場の指導員を務めてくれたハイロン集落の開拓民に、また彼が年を取ってからはその息子に依頼することにしていた。ちなみに熊川のほとりの高台にあった高冷地農業研究場は、収益に乏しかったのみならず、六里ヶ原に入植していた元満蒙開拓団員たちの大多数から不興を買っていたこともあって、あまり長続きせずに閉鎖された。命懸けで農業をやっている自分たちの目と鼻の先で、観光ホテルの農業遊びとは何事かというわけであった。それでも秀子には幼い頃、その研究場のサイロで牧草を踏んだ記憶があるという。
 さて捕虜として迎えた四度目の冬であったか、千代次の身にひとつの重大な事件が起こった。その朝もソ連兵たちは「ダワイ! ダワイ!」と怒鳴り散らしながら捕虜たちをバラックから作業に駆り出し、飢えや寒さや怪我や病気のため動き出せない者たちを、銃床で小突き殴りつけていた。それを見かねた千代次は日々聞き憶えたロシア語で、「怪我人と病人は休ませてくれ」と言ったのである。押しなべて従順に見えた日本人捕虜の口から突然飛び出した要求に、粗暴なソ連兵たちは激昂した。「何だと! ヤポンスキーのサムライめ! 捕虜の分際で生意気な! 殺してやる! 表へ出ろ!」と叫んだそのソ連兵たちは千代次に銃口を突きつけると、捕虜たちの点呼が行なわれるバラック前の広場へ千代次を連行した。その他大勢の捕虜たちへの見せしめのため、千代次はそこで銃殺されるわけであった。兵隊に取られて戦争へ赴く以上は死ぬこともあるだろうと、千代次も一応は覚悟していた。しかしあまり納得のゆかない死に方だな。中立条約を勝手に破って、しかも終戦後に火事場泥棒よろしく攻め込んできたソ連軍に捕らわれ、こんなシベリアの奥地で何年もこき使われた挙句が、このざまとは。だが俺はこうなることを望んでいたのかもしれない。生きて虜囚の辱めを受けた罪を帳消しにするために、この果てしない地獄のような抑留生活を終わらせるために、俺は自殺を選んだのだろう。最期はずいぶん呆気なかったが、死ぬときは誰しもこんなものか――。柱に鎖で縛りつけられた千代次はそんなことを考えながら、眼鏡の奥の極度に細い目で、今にも自分の命を奪うであろう銃口を見つめていた。
 するとそのとき「待て! やめろ! 何事だ?」という凛々たる声が響き渡り、粗暴なソ連兵たちは声の主に敬礼した。ラーゲリ管理のソ連将校が、バイカル湖のような碧い目に鋭い光を湛えながら、折しも千代次のいる収容所に巡回してきていたのである。千代次を銃殺しようとしていたソ連兵のひとりが「この捕虜が反抗しましたので」と言うと、将校は碧い目で千代次を見据えながら、金茶色のひげに囲まれた口で「おまえは何をしたのだ?」と問うた。「怪我人と病人は休ませてくれと私は言ったのです」と千代次が答えるのを聞いた将校は、そのロシア語の発音と構文の正確さに驚いた。「正当な要求だ。ラーゲリは捕虜たちを労働に従事させる施設であって、死者を量産する工場ではない。捕虜とはいえこのソヴィエトの労働者である。労働者ひとり無駄に死なせれば、作業能率がどれほど落ち、連邦の国力がどれほど低下するか、おまえたちには計算できないのか? 彼の言うことは理に適っている。鎖を解け。捕虜の不当な虐待は重ねて禁じる」と凛々たる声で言った将校は、「ロシア語が達者なのだな。日本で学んでいたのか?」と千代次に問うた。「ロシア語は捕虜になってから学びました。ラーゲリに来て三日で習得しました」と千代次が答えたので、将校はまた驚いた。三日というのはさすがに信じ難いにしても、大した語学力であることは間違いなかった。「名は何という? そうか、マカベというのか。捕虜マカベは本日の作業終了後、直ちにわが官舎に出頭せよ!」と凛々たる声で命じた将校は、水を打ったように静まり返ったバラック前の広場を立ち去っていった。
 かくて命拾いした千代次は、その日の森林伐採や丸太作りや薪割りを終えると、夜には命令通りウラジーミロヴィチ将校の官舎に出頭した。天頂に近く高々と光る北極星を北斗七星がめぐり、満天の星々が凄絶に輝いていた。遠い昔の悪夢のような日々のことゆえ、その将校の姓名は忘れ果てて、バイカル湖のような碧い目と、口を囲んでいた金茶色のひげのほかには、ただその父称を記憶しているだけであるが、それさえも正確ではないかもしれない……と千代次は秀子に言っていた。ともあれウラジーミロヴィチ将校の部屋には、煉瓦造りの大きなペチカが赤々と燃えていた。そのなかで爆ぜている薪は、捕虜たちが割ったものに違いなかった。暖かな部屋で椅子に座って千代次を迎えたウラジーミロヴィチ将校は「待っていたぞ、ガスパジーン・マカベ」と、千代次を外国人男性に用いる敬称で呼び、向かいの椅子に掛けさせてウォッカの小瓶をひとつ渡した。「酷寒のシベリアでは、凍らないウォッカがまさしく命の水だ。それを飲んで温まるがいい。私も飲もう。そう硬くなることはない。何も貴殿を改めて処刑しようとか、懲罰を加えようとかいうのではない。実は折り入って相談があるのだ。今夜の受け答えによって貴殿が不利に扱われることはないから、安心して思うところを述べてもらいたい」と言ったウラジーミロヴィチ将校は、手にした小瓶から金茶色のひげに囲まれた口にウォッカを含んだ。千代次も後はどうにでもなれとばかり、景気づけにウォッカをぐいとあおった。その様子を見たウラジーミロヴィチ将校は、碧い目を少し笑わせて「なかなか酒に強いのだな」と言った。
 だがその相談というのは、千代次にとって思いも寄らないことであった。「ガスパジーン・マカベ、このソヴィエトで生きるつもりはないか?」とウラジーミロヴィチ将校に問われたとき、千代次はその真意を測りかね、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、「捕虜のまま生きてゆくことは望みません」と答えた。「そうではないのだガスパジーン・マカベ」とウラジーミロヴィチ将校は言った。「ソヴィエト連邦の国民になるのだ。貴殿の祖国は戦争に敗れた。捕虜たちは帰郷ダモイを望んでいるが、日本の荒廃と窮乏は長く続くだろう。もはや二度と立ち直ることはできないかもしれない。そのような国にダモイするのは、若い貴殿の残りの人生を、無益な苦労で終わらせに帰るようなものだ。見ての通り、ソヴィエトの国土は広大で資源は無尽蔵だ。貴殿には語学力もあれば、過酷な労働に耐えてきたほどの体力もある。何より強い者の専横に屈しない勇気がある。わが国の民となるに相応しい。もし貴殿がソヴィエトで生きてゆくつもりならば、必要な世話は私がしよう。ところで貴殿は独身だな?」そう尋ねたウラジーミロヴィチ将校に千代次がその通りだと答えると、将校はさらに驚くべき提案を持ち出してきた。「私には年頃の娘がいる。貴殿を婿に迎えてもよいと私は考えている。ソヴィエトの女は美しいが、私の娘はとりわけ美しい。どうだガスパジーン・マカベ、悪い話ではあるまい?」
 乾いた音を立ててペチカの薪が爆ぜた。千代次は驚きのあまり極度に細い近視の目をしばたたいたが、ウォッカをひと口飲んで気を取り直すと、「親切なお申し出に感謝しますが、私の望みはあくまで日本へのダモイです。日本人は概して小柄ですが、なかでも私は身長一メートル五十と少々の小男です。それに服を着ていては分かりませんが、兵隊になってから障害を負いました。行軍中に気を失い倒れて鎖骨を折り、へぼ軍医の手術の実験台にされて、骨が突き出たままになりました。右足の小指も失いました。ですからご令嬢には相応しくないでしょう」と答えた。
 千代次の話を聞いていたウラジーミロヴィチ将校の碧い目は、赤々と燃えるペチカの炎に妖しくきらめいた。「そうであったか、ガスパジーン・マカベ。では尋ねるが」と将校は言った。「日本人が天皇のために進んで一命を差し出したというのは、支配階級に都合よく捏造された美談であろう? 多くの者が天皇の名のもとに駆り集められ、死地に赴かされたのであろう? 若い貴殿をそんな体にした天皇に、貴殿は恨みを抱かぬか? 天皇は戦犯として裁かれなかった。絞首刑になるかと思ったが、起訴もしなかった東京裁判は手ぬるかったな。だが日本にこのまま天皇制が存続すれば、これからも貴殿と同じような目に遭う者たちが、数知れず現れるのだ。貴殿はそれでよいのか? ロシア人が皇帝を処刑してロマノフ王家を滅亡させたように、貴殿が日本の天皇制を打倒するため働くならば、即時のダモイを約束しよう。ソヴィエトの同志となれガスパジーン・マカベ。労働者による平等な社会を、階級なき世界をともに作ろうではないか」
 千代次はペチカの炎に光る眼鏡の奥で細い目をしばたたきながら、いわゆる赤化教育の触手が思いがけない形で伸びてきたのを感じた。見込みありと目をつけられた捕虜たちに、共産主義教育が施されていることを千代次も知っていた。共産主義者となってソ連の意向を体現するアクチーブ、すなわち積極的活動分子と認定されれば、待遇は改善されダモイは早まるという話であったから、その巧妙な餌に飛びつく捕虜は少なくなかった。日本軍時代の階級に物を言わせ威張っていた捕虜が、赤化教育を受けたかつての部下たちによって吊し上げられるという事態も起こっていた。だが千代次は、ソヴィエトの赤い思想を信じる気にはなれなかった。いかにドイツとの激戦で消耗して労働力が足りないとはいえ、中立条約を破って掻き集めた日本人捕虜でその不足を補うような国家が、やれ労働者の国だのプロレタリア独裁だのと言ってみたところで、そんな国に自分の人生を託そうとは考えられない。だが日本軍は本当にそれよりましだったと言えるか? 日本人はソヴィエト人よりも高潔であると何を根拠に言えるか?――千代次がウォッカを飲みながらそう思ったとき、その心を見透かしたようにウラジーミロヴィチ将校は毒矢を射込んできた。
 「怪我人と病人は休ませてくれ――それを言えるのは高潔な勇気だ。だが貴殿が命懸けで守ろうとしたその怪我人と病人は、銃殺されようとする貴殿のために何をしてくれた? 見て見ぬふりを決め込んでいただけではないか? 日本人など所詮はその程度のものだ。揃いも揃って長いものには進んで巻かれ、強きを助け弱きを挫く。内輪での馴れ合いをもって第一義となし、より普遍的な原理・原則へと自己を開いてゆこうとはしない。帝政時代のロシアを破り大帝国を気取ってみても、その本質は相も変わらぬ島国根性ではないか。急拵えの近代化で西洋諸国と互角になったようなつもりが、実際には個人の権利も尊厳も、深いところで全然知ってはいないのだ。そんな国民がアメリカンスキーと戦って勝てると本気で信じたのだから、もはや救いようがない愚かさではないか。勝てもしない戦争へとまっしぐらに突き進み、果ては若い貴殿をこんなところまで追い詰めたのは、そうした日本人の下等さであると私は考えるが、貴殿はどう思うか? このシベリアでひどい目に遭わされたのは、何もソ連兵のせいばかりではあるまい? 戦争が終わっても軍隊が消滅しても、日本人の国民性は変わるまい。そんな下等な国民のために、貴殿ほどの男が無駄に力を尽くすことはないのだ。日本など見限れ、ガスパジーン・マカベ。それでこそ生き甲斐のある人生を送れるというものだぞ」
 千代次の顔は苦渋に歪んだ。その五臓六腑と頭脳には、急にウォッカの酔いが回ったようであった。日本人の捕虜たちの前で銃殺されそうになったときの恐怖と屈辱と失望が、今更ながら全身に噴き上げてくるような気がした。そうだ、この将校の言う通りかもしれない。今ここで俺がソヴィエト人になると言いさえすれば、共産主義を崇拝すると言いさえすれば、天皇制を打倒すると言いさえすれば、この果てしない地獄のような抑留生活が終わるのだ。俺はカリンカだかナターシャだかアナスタシアだか知らないが、真っ白な肌をした美しい妻を娶り、無尽蔵に資源の豊かなこの広大な国で働いて、幸せに暮らすのだ。もう天皇陛下のために死ねと送り出されることもない。悪い話ではないではないか――。
 だが極度に細い目を閉じた千代次の脳裏には、不意に生まれ故郷の思い出が浮かんできた。賑やかだった生家の旅籠屋や、羽振りのよかった一族の者たちや、精神を病んで早くに死んだ養父のことが思い出された。懐かしい故郷は今どうなっているだろう。一族の者は皆よく酒を飲んでいた。それにあの線が細かった養父は、小さかった俺を養子を迎えてまで真壁の家名を残そうとしたのだ。その望みをソヴィエトに埋めてしまってよいのか。真壁の子孫は、日本で重きをなす日本人でなければならない。この将校の言う下等な日本人を、救い高めるような人物でなければならない。俺の子や孫には、俺が断念した大学の教育を受けさせよう。子や孫が学資に一切困らないように、俺は猛烈に働いて財を成そう――。そう思い定めた千代次は極度に細い目を開くと、「天皇陛下を恨むことなど考えられません。たとえどのような形であれ、敗戦した祖国の復興のために働くことが、私のアンビツィイなのです」と言った。
 ウォッカを飲んでいたウラジーミロヴィチ将校は、その言葉を聞いて激しく噎せた。そして信じられないことを聞いたとでも言いたげに、「アンビツィイ? アンビツィイを語るのか、ガスパジーン・マカベ?」と繰り返し、ついには愉快そうに笑い出した。「首都への大空襲と地方都市への二発の特殊爆弾、そして南北からの敵軍上陸によって、貴殿の祖国は灰燼に帰した。この酷寒のシベリアに捕らわれて、食事や睡眠にも事欠きながら、いつ果てるとも知れない重労働に喘ぎ続ける敗残兵が、事もあろうに大望を語るのか? 恐るべきヤポンスキーもいたものだ。いまだに抵抗や脱走を繰り返すゲルマンスキーの捕虜たちもなかなかのものだが、貴殿はその上を行ったぞ。そうまで言うなら仕方がない。生き延びて無事にダモイせよ。わが娘には残念なことだ。貴殿のような男をこそ、わが息子と呼びたかったぞ、ガスパジーン・マカベ」
 それからまもなく千代次はハラショー・ラボータ、すなわち優秀労働者と認定され、しばしの休養を許された。千代次にダモイの命令が下ったのは、五月一日のことであった。それは春の暖かな日射しが降る残雪の丘にカッコウが鳴き、ソヴィエト全土が晴れやかに労働者の祭典を祝っていた日であった。何千キロも東へ東へとひた走るダモイ列車の車窓から、往路とは反対側に再び海のようなバイカル湖が見えた。緑に芽吹く白樺の林の木隠れに、碧く妖しく波立ちきらめくその水面は、まかり間違えば義父になっていたかもしれないあのソ連将校の目を、千代次に思い出させたのであった。船脚の遅い日本船で海を渡って舞鶴の港に上陸したとき、街のあちこちに記されていた平仮名や片仮名や漢字が、千代次には外国語のように感じられたそうである。これらの難しい話を幼い悠太郎はもちろんすべて理解したわけではなかった。しかし秀子が自動車のなかで、「もしお祖父様がソヴィエトの女の人と結婚していたら、私もおまえも生まれてこなくて済んだのにね」と言ったとき、フロントガラスに降りかかる雨の雫を拭き取るワイパーが、悠太郎には後から後から涙を拭っているように見えた。
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