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第一章 六里ヶ原
三
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悠太郎は庭に面した縁側にある姿見の鏡の前で、右手を上げたり左手を上げたりしながら、母の帰宅を待っていた。しかしその日に待っていたのは、母の帰宅ばかりではなかった。来月から幼稚園で同級生になる開拓農家の男の子が、その日真壁の家を訪れることになっていたのである。悠太郎は姿見の鏡に向かいながら、右側とか左側とかいうことについて考えていた。自分にとっての右側は、向かい合った相手にとっては左側だということが、悠太郎にはいまひとつ納得できなかった。あるとき夜に秀子は悠太郎と向かい合うと右手を上げさせ、自分も同じ側の手を上げてみせた。ところがその姿勢のまま秀子が悠太郎の横に並ぶと、なんとその手は悠太郎が上げているのとは反対側の左手だったのである。悠太郎は母が手品でも使ったのだと思った。その謎を解明しようとひとり鏡に向かっては、右手を上げたり左手を上げたりしてみるのだが、やはり分からないものは分からなかった。それで悠太郎の考えは、今日訪ねてくるという同い年の男の子のことへと移っていった。兄弟のいない悠太郎にとっては、自分のほかにも同年輩の子供がこの世に存在しているという事実もまた、実感の伴わない奇妙なことに思われてならなかった。ましてや開拓農家の子供など想像もつかなかった。学芸村のダート道が舗装された町道と交わる、家族が三本辻と呼ぶ地点から右手へ進めば、開拓農家の集落に入ると話には聞いていたが、明らかに日本語の地名とは思われないハイロン集落にも、そのまた向こうの大屋原集落にも、悠太郎はまだ踏み入った記憶がなかった。神川直矢くんは大屋原の第三集落から来るのだと聞かされていた。
開拓集落や神川さんの農園や直矢くんの家族について、その日の朝食のテーブルで家族が話していたことを、悠太郎は鏡の前で思い出していた。かつて中国大陸の旧満洲に渡った農業移民たちで、敗戦後に大変な苦労をして日本に生還した人々の一部が、この六里ヶ原の原野に入植してそこを切り拓き、野菜や果物の畑を作り乳牛を飼ってきたのだという。その牛たちは浅間山に近いほうにある広い県営牧場に預けられ、草をいっぱい食べて丈夫に育ち、たくさんの牛乳を出すようになるのだという。神川さんの農園でも野菜を作り牛を飼っている。直矢くんは開拓民の三世つまり孫世代のひとりである。そんな話のなかで祖父の千代次が、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、急に浅間牧場からの眺望のことを言い始めた。「あすこからの眺めはまあず豪儀なもんだぞ。この六里ヶ原を取り巻く山々が、丘の上からぐるっと一望できるんだからな」と珍しく声を弾ませる千代次であったが、牧場といえばそんな千代次でさえ詳しくは知らないことがあった。学芸村も浅間観光の諸施設も開拓集落も、悠太郎がこれから通うことになる幼稚園も小学校も中学校も、明治時代にさる悲運の皇族がこの地に直営した軍馬育成の大牧場の範囲内に、すっぽりと収まっているのである。しかし多くの住民たちがそんなことは忘れていたし、真壁の家の屋根の下に暮らす家族四人の誰もそんなことは知らなかった。東西におよそ二十キロ、南北におよそ十八キロもの広がりを有した大牧場などというものは、ひと握りの人々だけが興味を持って読む町誌の一ページに記されたデータであって、多くの住民たちの生活感情には、まったくといってよいほどその痕跡を留めてはいなかった。これから中学校時代までの期間、つまり短命に終わる悠太郎の生涯のほとんどは、その悲運の皇族が明治日本の高原に見た夢のなかで動いてゆくことになるのだが、悠太郎がそのことを知るのはもう少し先の話である。そうしたわけで千代次が言う浅間牧場はそれなりに広いが、往年の大牧場の一部分にすぎないのである。
「ウッフフ、満蒙開拓団なんてねえ、何者だか分かったもんじゃないよ」と祖母の梅子が、突然パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら目を吊り上げて言い始めたとき、いつものように不穏なことが起こるような予感がして、悠太郎は噛んでいた食パンのトーストを喉に詰まらせそうになった。膜の張った温かい牛乳を、マグカップから口に含んで飲み下しながら、この牛乳も開拓の人たちが搾っているのだと思ったとき、悠太郎は穏やかならざる言葉を聞いた。「ウッフフ、大陸にいたあの連中はねえ、屯匪だったんだよ」と梅子が吐き捨てるように言った瞬間、千代次が表情を険しくして「滅多なことを言うもんじゃねえ」とたしなめた。「トンピって何ですか? 輪を描いてお空を飛ぶ、あの鳥のこと?」と悠太郎が努めて明るい調子で梅子に尋ねると、千代次は声を険しくして「幼い子に教えるようなことじゃねえ」と答えを遮ろうとした。「ウッフフ、どうして? 大事なことでしょうが」と梅子は、千代次の制止にも取り合わずに言い募った。「ウッフフ、満洲の大地をさも苦労して開拓したようなことを言ってるけどねえ、実際はどうだったんだか。現地の人たちが切り拓いていた土地を買い取ったり、奪い取ったりしただけなんじゃないのかい? 現地の人たちを散々にこき使って、いじめ抜いてたんじゃないのかい? もともとが内地に居場所のなかったあぶれ者の連中さ。ウッフフ、屯匪ってのはねえ、開拓民は盗賊ってことだよ。現地の人たちからねえ、そう呼ばれてたんだよ」と梅子は教えた。その言葉に込められた強い敵意を感じ取った悠太郎は、いつもの水っぽい野菜炒めに入っているキャベツの芯やシイタケの石突きが、急に口のなかで咀嚼できないものに変わってしまったように感じた。千代次は声を大きくして、「開拓の誰も彼もがそうだったわけじゃねえ。あの人たちは国策に翻弄されて、はるばる遠い大陸へ渡って、ひでえ苦労をしたんだ。敗戦後の引き揚げのときには、死ぬほどの目に遭ったんだ。ここらを開拓するったって、電気も水道もねえし冷害や台風は来るし、並大抵のことじゃなかったんだ。馬鹿なことを言うもんじゃねえ」ときつく叱りつけ、増田ケンポウが熊川河畔の高台に開いた高冷地農業研究場の指導員を引き受けてくれたのは、ハイロン集落の開拓民だったではないかと指摘した。しかし梅子は、ハイロンのあの人が協力してくれたのはあんたの遠い親戚になっていたからで、開拓民のなかでは例外中の例外なのだ、それが証拠に開拓の連中は、押しなべてあんたを敬して遠ざけているではないか、陰ではどんな悪口が叩かれているか知れたものではないと言い返した。苦い顔をする千代次をよそに、梅子は悠太郎に言い含めた。「ウッフフ、まあ開拓にもいろんな人がいるさ。直矢くんのお祖母様なんか師範学校を出た先生だったしねえ、立派なもんだよ。でもそれを言ったら、わったしだって女学校でうんと勉強して、成人式ではこの町の新成人代表としてスピーチしたんだからね。あの時代にそんな女はいなかったよ。とにかくねえ、いかにあの人たちが苦労したといったって、シベリア帰りのうちのお祖父様を、悪く言えた道理はないんだよ。幼稚園へ行ったらねえ、気をつけるんだよ、開拓民の孫どもには」と言いながら梅子は、パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしていた。
そうした剣呑なやり取りを黙って聞いていた母の秀子の気持ちまでは、悠太郎の知る由もなかった。秀子にしてみれば梅子の言葉は過ぎるように聞こえたが、しかし開拓集落の人々への敵意は理解できないでもなかった。秀子がまだ中学生だった頃、開拓民の二世に当たる同級生の男の子から、「おめえはいいよなあ。家が金持ちで母ちゃんが綺麗だから、先生にえこひいきされてよお」などという言葉を投げつけられたことは、秀子の心に浅からぬ傷を残していたからである。たしかに東京並みの給料で観光ホテルの別館に暮らしていた家の娘や、念入りに化粧して水色のワンピース姿で授業参観に出てくるその母親など、なお生活が厳しかった開拓農家の子供たちから見れば、けっして面白くはなかっただろう。浅間観光が取得した学芸村の土地を、宅地建物取引士として多くの人々に売ってきた父親のことだって、樹を伐り笹を焼いてひと鍬ずつ荒れ地を開墾してきた開拓民たちは、きっと憎らしく思っていただろう。それでも秀子の成績が優秀だったのは、自分なりに積み重ねた努力が公正に評価された結果であって、何も家のことで教師にひいきされたからではなかったはずであった。だが勉強する時間と余力があることさえ、開拓集落の人々の生活の前には、なんだかひどく恥ずかしいことのように思えてならなかった。これから悠太郎を待ち構えているのも、同じような運命なのだ。しかしこの六里ヶ原で生きると決めたからには、今では親となったあの開拓の二世たちと、再び対峙し戦わなければならなかった。今日の神川さん親子の訪問は、自分たち親子と開拓との最初の対決を意味していた。「びっくりしては駄目よ。直矢くんのお母様はスパルタ式だから、ちょっと強烈かもしれないけど」とだけ秀子は悠太郎に言い置くと、いくらか憂わしげな表情を残して山のデパートへ出勤していった。
悠太郎がそこまで思い出したとき、秀子の自動車が玄関前まで走ってきて停まる音が聞こえた。激しく叩きつけるように自動車のドアが閉められ、玄関のドアががばと開けられバタンと閉められ、廊下がドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らされ、居間への引き戸がガラガラと開けられた。そうやって帰宅した母に悠太郎は、姿見の鏡の前で考えていた右側と左側の謎について、もう一度説明を求めようとした。そのとき見慣れない自動車がまっしぐらに庭の向こうのダート道を走ってくるのが、土手の上に一列に植えられた唐檜の緑の合間から見えた。自動車は急に曲がって門に滑り込みガクンと停止した。助手席から男の子が転がり出ると、同じく運転席から降りた母親に連れられて近づいてきた。ではこの人たちが神川さんの親子なのか。この子が直矢くんなのか――。そんなことを考える悠太郎の鼻に、牧草を発酵させた飼料の匂いが漂ってきた。
「シデコちゃん! しばらくだねえ。話は聞いたよ。明鏡閣で働くことになったんだって? すげえなあ、さすがは真壁さんの娘だね。シデコちゃんは昔から優秀だったし学もあるし、きっとうまくいくよ。ユウくんもでかくなったねえ。きっとシデコちゃんに似て優秀なんだろうね。でもうちの直矢だって負けないからね。負けないようにビシビシ厳しく鍛えるよ。おっと、申し遅れたねユウくん。あたしは協子。大屋原の二世には、ありふれた名前さ。男なら開拓の拓、女なら協和の協ってわけだ。まあユウくんにはまだ難しいだろうけどね。うちの直矢と仲良くしてやっておくれよ。切磋琢磨してさ、お互い立派な者になって、この六里ヶ原を変えていっておくれ。そして六里ヶ原から、この日本もね。五族協和の王道楽土なんていう暗い過去は昔の話さ。これからは子供たちの時代だからね。いろいろあるだろうけど、よろしく頼むよ!」
協子と名乗った直矢の母親のあまりの強烈さに、悠太郎は度肝を抜かれていた。なんという元気のよさだろう。なんという覇気だろう。大きな声はいくらかかすれているけれどよく通るし、目は爛々と光っているし、髪の毛は襟足を刈り上げたように短いし、ツナギを着たまっすぐな体つきは少しの無駄もなく引き締まっている。女の人には違いないけれどスポーツマンみたいだ。ぼくのお母様はもっと背が低くて、太ってはいないけれど丸みがあって曲線的だし、もっと柔らかな低い声でゆっくりと話す。この協子さんは姿も目つきも言葉もすべてが直線的で戦士みたいだ。お母様が言っていたスパルタ式って、こういうことだろうか――。大きな目を黒々と見開きながらそんなことを考える悠太郎を、直矢は面白がって機関銃のように高笑いした。直矢の身長は悠太郎とたいして違わなかったが、さして厚着もしないその体はずっと頑丈そうだったから、悠太郎はふかふかしたジャンパーを着込んだ自分の華奢な体が恥ずかしくなった。白目の冴えた直矢の小さな目が、そんな悠太郎を見つめて面白そうに笑っていた。
庭を駆けまわる直矢の活発さは、スーパーボールでも弾むような勢いであった。直矢は伸びたり縮んだりしながら、枝振りのよい三本の松の大木に体当たりしたり蹴りを入れたり、悠太郎がよく登って遊ぶイロハモミジの樹から芝生に飛び降りたり、そのまま西隣の広い空き地と庭を区切る生垣まで土手を駆け登ったり、また駆け降りがてら雪の融け残る小さな家庭菜園に足跡を残したりしては、機関銃のような高笑いを響かせていた。内気な悠太郎は、直矢の爆発的な勢いについてゆけなかった。やっぱり開拓の子は、ぼくなんかとは鍛えられ方が全然違う。神川さんの農園に比べたら、うちの庭なんて狭いんだろうな。広い畑が雪に覆われている季節には、そこをこんなふうに力いっぱい駆けまわっているんだろうな――。悠太郎がそんなことを考えていたとき、驚くべきことが起こった。直矢は冬枯れの芝生の片隅に、薄汚れて小さくなってきていた雪だるまを見つけると、まっしぐらに駆け寄って握り拳でこれを殴りつけ、破壊してしまったのである。あっという間もなく雪だるまは胴と頭が離れて、無残なふたつの汚い雪塊となり果てていた。悠太郎は二重瞼の目をかっと見開いたまま、唖然としてその光景を見つめていた。直矢はさっきまで雪だるまだった雪塊を見て機関銃のように高笑いし、それから悠太郎の表情を面白がって、また機関銃のように高笑いした。秀子は遠くからそんな様子を憂わしげに見守っていたが、協子はしかし子供たちにはあまり頓着することなく、六里ヶ原の最近の農業事情について、また開拓農家に受け継がれるべき拓魂について、いくらかかすれた大きな声で熱っぽく秀子に話し続けていた。
それから家のなかに客人を迎えて掘り炬燵に入っても、悠太郎は心ここにあらずの状態であった。葡萄味のカップアイスをふたつ秀子が運んできたが、ここでも直矢の食べっぷりは見事なものであった。ロングカップに長いスプーンを突っ込んでは口に運び、直矢はみるみるうちにアイスクリームを掘り進んでいった。悠太郎はしかし自分のアイスを食べる気になれず、睫毛の長い二重瞼の目を伏せて悄然としていた。そうしているうちに悠太郎のアイスが融け始めた。カップの縁から流れ出すアイスクリームを、直矢は「ん! ん! ん!」と言いながら指さした。何やってんだ! 融けてるぞ! 早く食え! きっとそういう意味だろうと悠太郎は解釈したが、それならなぜ正確な言葉に出してそう言えないのかと疑問でもあった。アイスクリームを口に含んでいたためばかりとは考えられなかった。来月から幼稚園で同級生になる子供たちは、みんなこうなのだろうか。だとしたら、ぼくはみんなと一緒に毎日やってゆけるだろうか。みんながみんなこんなふうに乱暴なまでに元気がよくて、おまけに言葉も通じないとしたら、いったいぼくはどうすればいいのだろう――。白目の冴えた面白がるような直矢の小さな目を感じながら、悠太郎はとめどなく絶望的な気持ちに陥っていった。
牧草を発酵させた飼料の匂いを残して、神川さんの親子が帰っていった後も、悠太郎は物思いから抜け出すことができなかった。千代次は騒がしい客を避けるように、自室で書道の稽古でもしていたか、漢詩でも読んでいたに違いなかった。その千代次がこれまでに話してくれた昔話は、おそらく幼稚園ではまったく通用しないのだろう。秀子が口伝えで教えてくれた浅間野や三原野の巻狩のことも、園児たちは誰も知らないのだろう。あれほど難しいと感じていた、頼朝や学芸村や浅間観光をめぐる話の数々が、いま悠太郎にとっては不意に限りなく懐かしいものとなっていた。六里ヶ原を訪れた数万人の美々しい武者行列のことや、湖の完成を見ないまま死んでしまった枢密顧問官のお爺さんのことや、その湖にボートを浮かべて豪快な恵比寿顔で笑っていた増田ケンポウ社長のことや、南の海で魚雷に当たって沈没した駆逐艦照月のことを、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目に涙を溜めながら、いつまでも考え続けていた。
開拓集落や神川さんの農園や直矢くんの家族について、その日の朝食のテーブルで家族が話していたことを、悠太郎は鏡の前で思い出していた。かつて中国大陸の旧満洲に渡った農業移民たちで、敗戦後に大変な苦労をして日本に生還した人々の一部が、この六里ヶ原の原野に入植してそこを切り拓き、野菜や果物の畑を作り乳牛を飼ってきたのだという。その牛たちは浅間山に近いほうにある広い県営牧場に預けられ、草をいっぱい食べて丈夫に育ち、たくさんの牛乳を出すようになるのだという。神川さんの農園でも野菜を作り牛を飼っている。直矢くんは開拓民の三世つまり孫世代のひとりである。そんな話のなかで祖父の千代次が、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、急に浅間牧場からの眺望のことを言い始めた。「あすこからの眺めはまあず豪儀なもんだぞ。この六里ヶ原を取り巻く山々が、丘の上からぐるっと一望できるんだからな」と珍しく声を弾ませる千代次であったが、牧場といえばそんな千代次でさえ詳しくは知らないことがあった。学芸村も浅間観光の諸施設も開拓集落も、悠太郎がこれから通うことになる幼稚園も小学校も中学校も、明治時代にさる悲運の皇族がこの地に直営した軍馬育成の大牧場の範囲内に、すっぽりと収まっているのである。しかし多くの住民たちがそんなことは忘れていたし、真壁の家の屋根の下に暮らす家族四人の誰もそんなことは知らなかった。東西におよそ二十キロ、南北におよそ十八キロもの広がりを有した大牧場などというものは、ひと握りの人々だけが興味を持って読む町誌の一ページに記されたデータであって、多くの住民たちの生活感情には、まったくといってよいほどその痕跡を留めてはいなかった。これから中学校時代までの期間、つまり短命に終わる悠太郎の生涯のほとんどは、その悲運の皇族が明治日本の高原に見た夢のなかで動いてゆくことになるのだが、悠太郎がそのことを知るのはもう少し先の話である。そうしたわけで千代次が言う浅間牧場はそれなりに広いが、往年の大牧場の一部分にすぎないのである。
「ウッフフ、満蒙開拓団なんてねえ、何者だか分かったもんじゃないよ」と祖母の梅子が、突然パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら目を吊り上げて言い始めたとき、いつものように不穏なことが起こるような予感がして、悠太郎は噛んでいた食パンのトーストを喉に詰まらせそうになった。膜の張った温かい牛乳を、マグカップから口に含んで飲み下しながら、この牛乳も開拓の人たちが搾っているのだと思ったとき、悠太郎は穏やかならざる言葉を聞いた。「ウッフフ、大陸にいたあの連中はねえ、屯匪だったんだよ」と梅子が吐き捨てるように言った瞬間、千代次が表情を険しくして「滅多なことを言うもんじゃねえ」とたしなめた。「トンピって何ですか? 輪を描いてお空を飛ぶ、あの鳥のこと?」と悠太郎が努めて明るい調子で梅子に尋ねると、千代次は声を険しくして「幼い子に教えるようなことじゃねえ」と答えを遮ろうとした。「ウッフフ、どうして? 大事なことでしょうが」と梅子は、千代次の制止にも取り合わずに言い募った。「ウッフフ、満洲の大地をさも苦労して開拓したようなことを言ってるけどねえ、実際はどうだったんだか。現地の人たちが切り拓いていた土地を買い取ったり、奪い取ったりしただけなんじゃないのかい? 現地の人たちを散々にこき使って、いじめ抜いてたんじゃないのかい? もともとが内地に居場所のなかったあぶれ者の連中さ。ウッフフ、屯匪ってのはねえ、開拓民は盗賊ってことだよ。現地の人たちからねえ、そう呼ばれてたんだよ」と梅子は教えた。その言葉に込められた強い敵意を感じ取った悠太郎は、いつもの水っぽい野菜炒めに入っているキャベツの芯やシイタケの石突きが、急に口のなかで咀嚼できないものに変わってしまったように感じた。千代次は声を大きくして、「開拓の誰も彼もがそうだったわけじゃねえ。あの人たちは国策に翻弄されて、はるばる遠い大陸へ渡って、ひでえ苦労をしたんだ。敗戦後の引き揚げのときには、死ぬほどの目に遭ったんだ。ここらを開拓するったって、電気も水道もねえし冷害や台風は来るし、並大抵のことじゃなかったんだ。馬鹿なことを言うもんじゃねえ」ときつく叱りつけ、増田ケンポウが熊川河畔の高台に開いた高冷地農業研究場の指導員を引き受けてくれたのは、ハイロン集落の開拓民だったではないかと指摘した。しかし梅子は、ハイロンのあの人が協力してくれたのはあんたの遠い親戚になっていたからで、開拓民のなかでは例外中の例外なのだ、それが証拠に開拓の連中は、押しなべてあんたを敬して遠ざけているではないか、陰ではどんな悪口が叩かれているか知れたものではないと言い返した。苦い顔をする千代次をよそに、梅子は悠太郎に言い含めた。「ウッフフ、まあ開拓にもいろんな人がいるさ。直矢くんのお祖母様なんか師範学校を出た先生だったしねえ、立派なもんだよ。でもそれを言ったら、わったしだって女学校でうんと勉強して、成人式ではこの町の新成人代表としてスピーチしたんだからね。あの時代にそんな女はいなかったよ。とにかくねえ、いかにあの人たちが苦労したといったって、シベリア帰りのうちのお祖父様を、悪く言えた道理はないんだよ。幼稚園へ行ったらねえ、気をつけるんだよ、開拓民の孫どもには」と言いながら梅子は、パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしていた。
そうした剣呑なやり取りを黙って聞いていた母の秀子の気持ちまでは、悠太郎の知る由もなかった。秀子にしてみれば梅子の言葉は過ぎるように聞こえたが、しかし開拓集落の人々への敵意は理解できないでもなかった。秀子がまだ中学生だった頃、開拓民の二世に当たる同級生の男の子から、「おめえはいいよなあ。家が金持ちで母ちゃんが綺麗だから、先生にえこひいきされてよお」などという言葉を投げつけられたことは、秀子の心に浅からぬ傷を残していたからである。たしかに東京並みの給料で観光ホテルの別館に暮らしていた家の娘や、念入りに化粧して水色のワンピース姿で授業参観に出てくるその母親など、なお生活が厳しかった開拓農家の子供たちから見れば、けっして面白くはなかっただろう。浅間観光が取得した学芸村の土地を、宅地建物取引士として多くの人々に売ってきた父親のことだって、樹を伐り笹を焼いてひと鍬ずつ荒れ地を開墾してきた開拓民たちは、きっと憎らしく思っていただろう。それでも秀子の成績が優秀だったのは、自分なりに積み重ねた努力が公正に評価された結果であって、何も家のことで教師にひいきされたからではなかったはずであった。だが勉強する時間と余力があることさえ、開拓集落の人々の生活の前には、なんだかひどく恥ずかしいことのように思えてならなかった。これから悠太郎を待ち構えているのも、同じような運命なのだ。しかしこの六里ヶ原で生きると決めたからには、今では親となったあの開拓の二世たちと、再び対峙し戦わなければならなかった。今日の神川さん親子の訪問は、自分たち親子と開拓との最初の対決を意味していた。「びっくりしては駄目よ。直矢くんのお母様はスパルタ式だから、ちょっと強烈かもしれないけど」とだけ秀子は悠太郎に言い置くと、いくらか憂わしげな表情を残して山のデパートへ出勤していった。
悠太郎がそこまで思い出したとき、秀子の自動車が玄関前まで走ってきて停まる音が聞こえた。激しく叩きつけるように自動車のドアが閉められ、玄関のドアががばと開けられバタンと閉められ、廊下がドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らされ、居間への引き戸がガラガラと開けられた。そうやって帰宅した母に悠太郎は、姿見の鏡の前で考えていた右側と左側の謎について、もう一度説明を求めようとした。そのとき見慣れない自動車がまっしぐらに庭の向こうのダート道を走ってくるのが、土手の上に一列に植えられた唐檜の緑の合間から見えた。自動車は急に曲がって門に滑り込みガクンと停止した。助手席から男の子が転がり出ると、同じく運転席から降りた母親に連れられて近づいてきた。ではこの人たちが神川さんの親子なのか。この子が直矢くんなのか――。そんなことを考える悠太郎の鼻に、牧草を発酵させた飼料の匂いが漂ってきた。
「シデコちゃん! しばらくだねえ。話は聞いたよ。明鏡閣で働くことになったんだって? すげえなあ、さすがは真壁さんの娘だね。シデコちゃんは昔から優秀だったし学もあるし、きっとうまくいくよ。ユウくんもでかくなったねえ。きっとシデコちゃんに似て優秀なんだろうね。でもうちの直矢だって負けないからね。負けないようにビシビシ厳しく鍛えるよ。おっと、申し遅れたねユウくん。あたしは協子。大屋原の二世には、ありふれた名前さ。男なら開拓の拓、女なら協和の協ってわけだ。まあユウくんにはまだ難しいだろうけどね。うちの直矢と仲良くしてやっておくれよ。切磋琢磨してさ、お互い立派な者になって、この六里ヶ原を変えていっておくれ。そして六里ヶ原から、この日本もね。五族協和の王道楽土なんていう暗い過去は昔の話さ。これからは子供たちの時代だからね。いろいろあるだろうけど、よろしく頼むよ!」
協子と名乗った直矢の母親のあまりの強烈さに、悠太郎は度肝を抜かれていた。なんという元気のよさだろう。なんという覇気だろう。大きな声はいくらかかすれているけれどよく通るし、目は爛々と光っているし、髪の毛は襟足を刈り上げたように短いし、ツナギを着たまっすぐな体つきは少しの無駄もなく引き締まっている。女の人には違いないけれどスポーツマンみたいだ。ぼくのお母様はもっと背が低くて、太ってはいないけれど丸みがあって曲線的だし、もっと柔らかな低い声でゆっくりと話す。この協子さんは姿も目つきも言葉もすべてが直線的で戦士みたいだ。お母様が言っていたスパルタ式って、こういうことだろうか――。大きな目を黒々と見開きながらそんなことを考える悠太郎を、直矢は面白がって機関銃のように高笑いした。直矢の身長は悠太郎とたいして違わなかったが、さして厚着もしないその体はずっと頑丈そうだったから、悠太郎はふかふかしたジャンパーを着込んだ自分の華奢な体が恥ずかしくなった。白目の冴えた直矢の小さな目が、そんな悠太郎を見つめて面白そうに笑っていた。
庭を駆けまわる直矢の活発さは、スーパーボールでも弾むような勢いであった。直矢は伸びたり縮んだりしながら、枝振りのよい三本の松の大木に体当たりしたり蹴りを入れたり、悠太郎がよく登って遊ぶイロハモミジの樹から芝生に飛び降りたり、そのまま西隣の広い空き地と庭を区切る生垣まで土手を駆け登ったり、また駆け降りがてら雪の融け残る小さな家庭菜園に足跡を残したりしては、機関銃のような高笑いを響かせていた。内気な悠太郎は、直矢の爆発的な勢いについてゆけなかった。やっぱり開拓の子は、ぼくなんかとは鍛えられ方が全然違う。神川さんの農園に比べたら、うちの庭なんて狭いんだろうな。広い畑が雪に覆われている季節には、そこをこんなふうに力いっぱい駆けまわっているんだろうな――。悠太郎がそんなことを考えていたとき、驚くべきことが起こった。直矢は冬枯れの芝生の片隅に、薄汚れて小さくなってきていた雪だるまを見つけると、まっしぐらに駆け寄って握り拳でこれを殴りつけ、破壊してしまったのである。あっという間もなく雪だるまは胴と頭が離れて、無残なふたつの汚い雪塊となり果てていた。悠太郎は二重瞼の目をかっと見開いたまま、唖然としてその光景を見つめていた。直矢はさっきまで雪だるまだった雪塊を見て機関銃のように高笑いし、それから悠太郎の表情を面白がって、また機関銃のように高笑いした。秀子は遠くからそんな様子を憂わしげに見守っていたが、協子はしかし子供たちにはあまり頓着することなく、六里ヶ原の最近の農業事情について、また開拓農家に受け継がれるべき拓魂について、いくらかかすれた大きな声で熱っぽく秀子に話し続けていた。
それから家のなかに客人を迎えて掘り炬燵に入っても、悠太郎は心ここにあらずの状態であった。葡萄味のカップアイスをふたつ秀子が運んできたが、ここでも直矢の食べっぷりは見事なものであった。ロングカップに長いスプーンを突っ込んでは口に運び、直矢はみるみるうちにアイスクリームを掘り進んでいった。悠太郎はしかし自分のアイスを食べる気になれず、睫毛の長い二重瞼の目を伏せて悄然としていた。そうしているうちに悠太郎のアイスが融け始めた。カップの縁から流れ出すアイスクリームを、直矢は「ん! ん! ん!」と言いながら指さした。何やってんだ! 融けてるぞ! 早く食え! きっとそういう意味だろうと悠太郎は解釈したが、それならなぜ正確な言葉に出してそう言えないのかと疑問でもあった。アイスクリームを口に含んでいたためばかりとは考えられなかった。来月から幼稚園で同級生になる子供たちは、みんなこうなのだろうか。だとしたら、ぼくはみんなと一緒に毎日やってゆけるだろうか。みんながみんなこんなふうに乱暴なまでに元気がよくて、おまけに言葉も通じないとしたら、いったいぼくはどうすればいいのだろう――。白目の冴えた面白がるような直矢の小さな目を感じながら、悠太郎はとめどなく絶望的な気持ちに陥っていった。
牧草を発酵させた飼料の匂いを残して、神川さんの親子が帰っていった後も、悠太郎は物思いから抜け出すことができなかった。千代次は騒がしい客を避けるように、自室で書道の稽古でもしていたか、漢詩でも読んでいたに違いなかった。その千代次がこれまでに話してくれた昔話は、おそらく幼稚園ではまったく通用しないのだろう。秀子が口伝えで教えてくれた浅間野や三原野の巻狩のことも、園児たちは誰も知らないのだろう。あれほど難しいと感じていた、頼朝や学芸村や浅間観光をめぐる話の数々が、いま悠太郎にとっては不意に限りなく懐かしいものとなっていた。六里ヶ原を訪れた数万人の美々しい武者行列のことや、湖の完成を見ないまま死んでしまった枢密顧問官のお爺さんのことや、その湖にボートを浮かべて豪快な恵比寿顔で笑っていた増田ケンポウ社長のことや、南の海で魚雷に当たって沈没した駆逐艦照月のことを、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目に涙を溜めながら、いつまでも考え続けていた。
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「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。


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