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第一章 六里ヶ原
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この故人との千代次の関わりは、終戦後に復員して身の振り方を考えあぐねていた千代次が、在りし日の故人に就職の相談をしたことから始まっていた。戦前には東京の大手機械製作会社で働いていた千代次は、当時から業界では評判が高かった工業新聞社を、終戦の年に社長として再建した増田ケンポウに、駄目でもともとの気持ちで頼ってみようと思い立ったのである。戦争から戻って以来、久し振りでネクタイを締めて背広を着込んだ千代次は、上京する電車のなかで極度に細い近視の目をしばたたきながら、機械製作会社での営業経験のことや、その会社で勤務中の雪の降る日に二・二六事件に遭遇したことや、赤紙が来て出征したことや、択捉島でソ連軍の捕虜になったことや、過酷な抑留生活のことや、復員してから身を寄せている生家の旅籠屋で手伝っている仕事のことや、シベリア暮らしのおかげで寒さに強くなって真冬でもシャツ一枚で過ごせることを話してみようと、考えをまとめていた。しかし九段北に建てられた工業新聞本社社屋の三階にある、鏡のような円テーブルを革張りのソファが囲んだ明るい社長室で千代次を引見したケンポウ社長は、千代次が考えていたことの半分も話し終えないうちに「承知した! 引き受けた!」と言って破顔一笑したのである。窓際に置かれていた椰子の樹の鉢植えも、そのとき生き生きと緑を輝かせて葉をかすかに揺らしていた。
「まあそう硬くなりなさんな、千代さん。あんたの苦労と真面目さと優秀さはよく分かった。生まれ故郷から六里ヶ原は近かろう。ゆくゆくは浅間観光の面倒なことを諸事万端あんたに任せるから、そのつもりで大いに働いてもらいたい」とケンポウ社長は、片えくぼを浮かべた豪快な恵比寿顔で即座に千代次の採用を決めてしまった。後になって知ったことだが、ケンポウ社長には千代という名の年の離れた姉がいたのだという。ケンポウ社長が小学生だったとき、その姉は同じ小学校の訓導であった。実の姉を先生と呼ぶのはまことに奇妙な感じだったと、ケンポウ社長はあるとき酒を飲んでしみじみと述懐したことがあった。千代次の名を目にしたとき、ケンポウ社長は不意に故郷の玄界灘の海鳴りを聞いたような気がして、その懐かしさも手伝って採用したのだという。ともあれ千代次が浅間観光に入社し、熊川河畔の浅間観光ホテル別館に起居して勤務するようになったのは、ケンポウ社長が霧の流れる軽井沢駅のホームで派手に倒れる前年のことであった。
あるいはその頃からケンポウ社長は、自分の前途について何事かを予感し、後事を託せる人物を探していたのかもしれない。その年の秋の終わりのある日、千代次は湖畔の観光ホテル明鏡閣に呼ばれた。柔らかな黄金色の絨毯のように降り積もる唐松の針葉を踏みながら、落葉の散りやまぬ林間の道を谷から登り湖畔を目指すと、側面から見れば浅間山の形を模したかのような、地面まで届く赤いなだらかな三角屋根の明鏡閣の中央部が、白樺林の木隠れに見えた。柱に支えられてせり出したキャノピーをくぐって正面玄関を入ると、天然木材仕上げの柱時計がある、ワインレッドの絨毯を敷いたロビーには石油ストーブが燃え、黒い革張りのソファにケンポウ社長がゆったりと座っていた。工業新聞社の工場に据えつけたばかりのゴス高速度輪転機のように働く合間を縫って、社長は事業の監督と社員の慰労のために、六里ヶ原を訪れていたのである。社長は千代次を認めると恵比寿顔で歓迎し、まあ座りたまえとガラスのテーブルを挟んだ向かいのソファを勧めた。すでに夏休みや紅葉の季節は過ぎて、浅間山が三度の冠雪で山裾近くまで白く染まり、いよいよ里にも雪が降ろうかという時期だったから、客足の絶え間もあったのである。ケンポウ社長は繁忙期の労をねぎらうと、夕日を浴びて波立ちきらめく湖を大面積のガラス窓から眺めやりながら、「照月湖という名前をどう思うか」といくらか唐突に切り出した。「千代さんは中国の文学にも造詣が深かったな。何か漢詩の一節も思い浮かぶか?」と問うたのである。
「いやあ、造詣が深いなどと仰言られては畏れ入ります。私の学などたいしたことはありません。しかし、そうですね」と千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、いつか書道の稽古に使ったことがある宋の詩人真山民の「山中の月」を思い出していた。「どうでしょう、こんな詩など相応しくはありませんか」と言って、千代次は清らかな月の光を歌った詩を暗唱した。
緊張しながら詩を暗唱する千代次の声を、ケンポウ社長は神妙な面持ちで聞いていた。詩の響きが消えた沈黙のなかには、柱時計の振り子が時を刻む音と、石油ストーブの燃える音だけが聞こえていた。その余韻をしばし味わうと、ケンポウ社長は「素晴らしいな」と穏やかに微笑んだ。「心は月のごとく、月も心のごとし、か。心というのが、ここではつまり湖なのだな。心と月と相照らし、か。湖のような心を持ちたいものだな。照月湖の明鏡閣に、さも相応しい」と社長は満足げであり、いくらか安心したようでもあった。ふと千代次はそのとき、折から気になっていたことを口にしてみた。照月湖という風雅な名前を、ケンポウ社長はいったいどこから取ったのかということである。もともとこの湖が楢沢の池と呼ばれていたことは千代次も知っていた。そのままでは地味すぎて観光には適しないということも理解できた。ケンポウ社長が新聞記者になる前に炭鉱の職員養成所で学んでいた時代、仲間と『極光』とか『デルタ』とかいった同人誌を発刊して、短歌や文章を載せるような文学青年であったことも聞いていた。自分がこれから深く関わることになる照月湖の名前について、この際その由来を知っておきたいと思ったのである。ところがケンポウ社長の答えは意外なものであった。
「湖といえば明鏡だ。鏡といえば月だ。このあたりまでは誰でも考える」とケンポウ社長は言った。「だがその先が問題でな。俺の頭に浮かんだのは、まあ今となってはあまり大きな声では言えないが……駆逐艦のことなのだ。千代さんは太平洋戦争で使われた照月という駆逐艦を知っているか? あの船が進水したのは真珠湾攻撃の直前だ。竣工から一年と経たないうちに沈没した短命な船だった。第三次ソロモン海戦の火蓋を切って落とす挺身攻撃隊に加わって、ガダルカナル島へ出撃した照月は、敵艦をいくつも撃沈し撃破した。だがその海戦で日本が負けて輸送船団が潰滅したので、今度は駆逐艦にドラム缶を積み込んで強行輸送作戦ときたもんだ。そこでも照月はずいぶん活躍したんだが、とうとうサボ島沖でアメリカの魚雷にやられて沈んでしまった。働きに働いて短い命を散らした駆逐艦照月だ。潔い生き様じゃないか。美しい名前じゃないか。そんな駆逐艦があったんだ。今は昔の話だな」
あまりの意外さに驚いた千代次は極度に細い目を見開いて、とっさに言葉を探した。「さすがは社長。戦時中は軍事工業の……」と言いかけて千代次は、まずいことに触れたかなと冷や汗をかいた。あの戦争が終わってから、すでに十年以上が経過していた。関係者の断罪が済まされ、戦争をめぐる一応の歴史的評価が定まってしまった後だからこそ、かえって戦時中の記憶は古傷となって疼いていても不思議はなかった。千代次のように一兵卒として塗炭の苦しみを味わった者ばかりでなく、ケンポウ社長のように産業の分野で戦争の遂行に協力した者にとっても――。しかしケンポウ社長はいくらか誇らしげに胸を張った。
「その通り、俺はそういう新聞社の主幹だったからな。あの戦争で使われたわが国の兵器のことで、俺の知らないことはあるまい。旧満洲の首都でやった兵器の博覧会が大好評でな。皇紀二千六百年を記念して、上野公園の不忍池のほとりで戦時工業総力博覧会を開催したんだ。同じことを西宮球場でもやった。奉祝国民歌がラジオから流れていた。懐かしいな。こんな季節の秋晴れの青空の下で神輿が繰り出した。日の丸の旗行列や鼓笛隊が街を練り歩いた。きらきらしい花電車が走りまわった。あの頃は俺も若かった。いや日本じゅうが若かった。戦争に勝つ気満々だった。もっともマッカーサー元帥に言わせれば、日本人の精神年齢は十二歳かそこらだったそうだからな。それは若いわけだ」そう言ってケンポウ社長は呵々大笑すると、また神妙な面持ちになって続けた。「何も駆逐艦照月の名前を、そのままこの湖に取ってつけたつもりはない。しかしあの船のことが俺の念頭を去らなかったとは、言っていいと思うよ。あるいは鎮魂のような気持ちが働いていたのかもしれない。俺はただの新聞屋だったが、それでも軍部の連中とはだいぶ仲良くやっていた。だから多くの人々を死なせる手伝いくらいはしたことになるだろう。当時わが国には飛行機が足りなかった。飛行機の増産こそ、戦争遂行においては至上命題だったのだ。そこで俺は何かと対立しがちだった陸海軍を説いて、能率的な量産体制を敷くために論陣を張った。そればかりではない、飛行機増産の軍歌まで作らせて工業界を鼓舞したのだ。だがそうして増産された飛行機が、思いも寄らない使われ方をしたものだよ。まさか飛行機ごと敵艦に突っ込むような作戦が、実行に移されるとは信じられなかった。神風特攻隊の隊員の遺族は、俺を憎んでも憎み切れまい。このことをどう考えたらいいのか……。だが戦争が始まってしまった以上、是が非でも勝ちたいと思うのが、日本国民としての人情ではないか? そのこと自体は、どうしても間違っていたと思えなくてな。あるいはこの湖が、俺の終わらない戦いなのかもしれない。まあそれは俺の事情だ。千代さんが背負うことではない。しかし俺ほどの軍国主義者を、よくGHQが見逃したものだな。消されることだって覚悟したよ。生きている者のうちでは、もう俺のほかには何人も知らないような軍事機密がいくらもあるぞ。俺はそれらを墓まで持ってゆくだろうよ。それにしても人生何があるか分からんものだな。もしも戦犯にされていたら、今頃は浅間観光どころではなかっただろう。巣鴨プリズンで観光というわけにもゆかないしな」そう言ってケンポウ社長は呵々大笑すると、また神妙な面持ちで、揺れ惑う夕映えの照月湖を眺め続けていた。「今宵の月はどうかな。千代さん、照月湖を頼むぞ。熊川のほうのホテルの建物が古くなってしまったら、いずれこの湖畔を任せることになるからな。静けさを求める六里ヶ原学芸村の村民とは、今後もいざこざが絶えないだろう。苦労をかけるが、ひとつよろしく頼む」
そうした千代次の難しい話を幼い悠太郎は、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて注意深く聞きながら、奇妙な違和感のようなものを感じ続けていた。たしかに増田ケンポウがいなければ、今の祖父はなかったかもしれない。樹々のざわめきに包まれたこの家も広い庭もなかったかもしれない。しかし幼心に悠太郎は、自分にはとてもケンポウ社長のように力強く多くの人々を引っ張ってゆくことも、千代次のようにそんな偉い人の後について大働きをすることもできないと思っていた。千代次が先祖のように敬うケンポウ社長よりも、悠太郎はどちらかといえば枢密顧問官のお爺さんのほうに惹かれていた。静かにお勉強ができるような別荘村を作ろうとした枢密顧問官のお爺さんは偉い。たくさんの人々を敵に回してまで、危ない法律に一生懸命反対した枢密顧問官のお爺さんは勇気がある。ぼくなんか自分のお祖父様にさえ、思ったことが言えないのに――。神洲不滅だの皇紀二千六百年だのといった勇ましげな言葉はなぜか悠太郎を威圧して、その生きる力をじわじわと奪ってゆくかのようであった。しかし父親のいない自分が、食うに困らず暮らしていられるのは千代次のおかげである以上、悠太郎はこの祖父の言うことを、黙って聞いているほかなかった。千代次の不興を買うことは、とりもなおさず死を意味した。悠太郎にとってばかりでなく、悠太郎の母の秀子にとっても同様であった。「お祖父様のご機嫌を損ねては駄目よ」と秀子から常々言われていたことを、その日悠太郎は家の南の庭に面した縁側にある姿見の鏡の前で、改めて思い出していた。
秀子をめぐってはこの一九八八年の春まだ遠い三月に、ひとつの重大事が起こった。秀子はひとり息子の悠太郎を千代次に託しては、北軽井沢の駅からほど近い、薬局と書店と日用品店を兼ねた山のデパートで短時間の勤務に就いていたが、数日前のある午後、その帰りを見計らったかのように、髪を四角く刈り込んだ初老の紳士が真壁の家を訪ねてきた。悠太郎は子供用のふかふかしたジャンパーを着込んで毛糸の手袋を嵌め、帰宅する秀子の白い自動車を出迎えて、そのままふたりで庭にいたところであった。雪の融け残る冬枯れの芝生の片隅では、真冬のあいだに作った雪だるまが薄汚れて小さくなってきていた。雪だるまは融けてしまったらどこへゆくのかと、悠太郎が秀子に訊こうとしたそのとき、丈の長い黒いコートを着て毛皮のマフラーを巻いたその紳士が、影のように静かに門をくぐって近づいてきたのである。彼は秀子と悠太郎に慇懃な態度で一礼すると、「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いして話し始めた。
「改めましてご挨拶申し上げます。観光ホテル明鏡閣の支配人、南塚亮平です。千代次さんの後任を長らく務めさせていただいております。まだまだ寒い日が続きますな。しかしもうすぐ新たな年度が始まります。来月にはご令息も晴れて幼稚園にご入園とのこと、おめでとうございます。そこでです、秀子さん。いかがでしょう、明鏡閣で働かれては? 浅間観光も創業者から数えてはや三代目、ここらが大切な時期なのです。晩年の増田ケンポウの意向を体現し、その理想を六里ヶ原において営々と守り抜いてこられた、浅間観光の永久名誉顧問たる真壁千代次さんのご息女を、明鏡閣にお迎えできれば心強いことこの上ないと、現社長の鈴木も申しておるわけでして、これには従業員一同に異存はないわけでして、いかがでしょう?」
豊かな黒髪を頭の後ろでお団子にまとめ、もこもこしたダウンジャケットに身を包み、下膨れの顔にうっすらと愛想笑いを浮かべて南塚支配人の話を聞いている秀子を、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目で不思議そうに見上げていた。普段の秀子の振る舞いは、けっしてお淑やかではなかった。戸の開け閉めは荒っぽく、時々は開けたまま閉め忘れた。家のなかを歩きまわる足音は大きく、思いついたことを思いついたままに言いっ放しては、隙間の空いた大きな前歯を剥き出して笑っていた。そんな母でも悠太郎にとっては唯一の母である以上、そばにいてくれることが嬉しかったのは当然であった。秀子が激しく叩きつけるように自動車のドアを閉め、玄関のドアをがばと開けバタンと閉め、廊下をドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らして、居間への引き戸をガラガラと開ける一連の音響とリズムを、悠太郎は母の帰宅を告げる喜ばしい音楽のようなものとして、正確に記憶していた。しかし祖母の梅子の不興げな評価もまた無視することはできなかった。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら目を吊り上げて、「もっとお上品にできねえのか、この与太娘が!」とか「戸は開けたら閉めろ、この尻のねえ娘が!」とか、しばしば秀子に小言を言っていたのである。千代次より十三歳も若い、まだ明鏡閣で働いている梅子が家に帰ってきて秀子を攻撃し始めるのを、悠太郎は内心いつも恐れていた。その秀子がうっすらと愛想笑いを浮かべた下膨れの顔を少しうつむけながら、いかにも物分かりよさそうに南塚支配人の話を聞いていた。悠太郎はこの家と庭の外の世界で生きている母を初めて見たような気がした。それにしてもこの南塚さんは、明鏡閣の支配人とはいっても、前任者であった千代次とはずいぶんと違っていた。祖父の一徹ながむしゃらさとはまったく異質の、ある種の洗練された優雅さのようなものを、悠太郎は目の前の初老の紳士から感じ取っていた。小柄な千代次よりもよほど長身の南塚支配人は「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いしてなおも続けた。
「このような辺境の地で働くわれわれにも、東京並みの給与を支給するという増田ケンポウの方針は、現在に至るまで受け継がれております。この六里ヶ原で職を求めるなら、浅間観光ほどの好条件はなかなかありません。ご令息の将来を考えても、悪い話ではないでしょう。もちろん幼稚園や、その先の学校の用事については、可能な限り秀子さんのご都合を尊重します。夏の繁忙期でもなければ、いくらも時間の融通はきく職場なのです。いかがです、悪くないでしょう? どうか前向きにご検討くださるようお願いします。まだまだ寒い日が続きますな。ご令息ともども、お体にはくれぐれも気をつけてください。では失礼します。おっと、これはいけません。私としたことが、大事なことを忘れるところでした。千代次さんにどうかよろしく」そう話し終えると南塚支配人は、また秀子と悠太郎に慇懃な態度で一礼して「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いしながら、影のように立ち去っていった。庭で悠太郎がよく登って遊んでいたイロハモミジの裸木の枝に、風切り羽を響かせて飛来した真っ黒なカラスが一羽とまって、ひと声鳴くとまた羽音も高く道の向こうへ飛び立ち、寒空を突き刺すように聳える赤松の林を越えて消えていった。
悠太郎と一緒に家のなかに入ってからも、秀子は南塚支配人の話について考え続けていた。「千代次さんにどうかよろしく」と言いながら、南塚支配人は千代次に会ってゆこうとはしなかった。南塚支配人の入社は千代次より早かったというから、あるいは千代次に何か含むところでもあるのかもしれないと注意していたが、南塚支配人の慇懃で紳士的な態度からは、それらしいことを読み取ることはできなかった。千代次もまた自室で書道の稽古でもしていたか、漢詩でも読んでいたのであろう、話し合いに出てこようとはしなかった。すべては裏で千代次が手回しを済ませているのかもしれなかった。そう考えるとあまり愉快ではなかった。だがこの六里ヶ原に帰ってきた以上、自分は再び真壁千代次の娘として生きなければならないのだ。子供の頃から食うに困らせず、大学まで出してくれた親に感謝はしながらも、しかしどこかで自分は千代次の娘であることから逃れたかったのではないか。社会科の教員免許まで取得しながら、結局は学校教諭にならなかったことも、小さな眼鏡会社に就職したことも、その会社に一年遅れて入ってきた男性と、両家の猛反対を押し切って結婚したことも、六里ヶ原で重きをなしてしまった親の呪縛から自由になりたかったからではないか――。東京で暮らしていた頃、世田谷界隈の喫茶店でコーヒーを飲みがてら、テーブルのインベーダーゲームに興じながら、増田ケンポウとは侵略者ではなかったかと、ふと考えたことがあった。自分の親は静かな学芸村を侵略したインベーダーの手先だったのかもしれないと思いながら、秀子はレバーとボタンを操作して画面のなかのUFOを撃ち落としていた。しかし結婚があえなく破れ、こうして子連れで故郷に出戻ってきたからには、その浅間観光に身を売ることもやむを得ないような気がした。「ご令息の将来を考えても、悪い話ではないでしょう」という南塚支配人の言葉が、いつまでも耳の底に残っていた。
秀子はもこもこしたダウンジャケットを再び身に着けると、悠太郎にも子供用のふかふかしたジャンパーを着せた。悠太郎を家から連れ出した秀子はわが子と手袋越しに手を繋いで、道端に雪が融け残る起伏に富んだ林間のダート道を、ふたりして湖へと歩んだ。道には落葉したままの樹々が影を落とし、雪の重みで折れた枯れ枝が散らばっていた。急な坂道を降りるあたりで湖の向こうの正面に近々と迫る山を、悠太郎が鷹繋山と言い当てたことが秀子には嬉しかった。鎌倉幕府ができたばかりの頃、源頼朝がこの六里ヶ原で盛大な巻狩を催したという伝承があって、鷹繋山も頼朝伝説にまつわる地名のひとつだったからである。秀子は大学で日本史を専攻していた学生時代、親のことはさて置くとしても故郷がやはり恋しかった。それで六里ヶ原での頼朝について調べてみようと思ったのである。卒業論文の題目は「前九年合戦における安倍貞任」であったが、源氏の関わる東国の歴史と考えれば、まるきり無関係というわけでもなかった。ところが公式の歴史書である『吾妻鏡』のどこを読んでも、これといった浅間北麓の記述はなかった。そこで教授に質問してみると、それは『曾我物語』に書いてあることだと教えられた。歴史書よりも信憑性の低いフィクションであるとはいえ、故郷と頼朝の関わりが文章として残っていることは秀子を喜ばせた。幼くして父親を殺された兄弟の仇討ちを描いた、どこまでも暗い『曾我物語』に読み耽り、浅間野や三原野の巻狩をめぐる箇所の抜き書きを作りながら、秀子は故郷の山野を数万の武者たちが、騎馬や徒歩で駆けめぐる壮観を幻視していた。そうして記憶していたその抜き書きを、秀子は今わが子に口伝えで教え込んでいたのである。悠太郎の言葉の発達は異様に早く、秀子が「忍びても夜こそこうと言ふべきに」と歌いかければ、悠太郎は即座に「浅間に鳴ける昼狐かな」と歌い返した。また秀子が「昨日こそ浅間は降らめ今日はまた」と歌いかければ、悠太郎はまた即座に「御晴らし給へゆふだちの神」と歌い返した。「浅間」が朝のあいだを意味する「朝間」と、「御晴らし給へ」が隣町の地名として残る「三原」と、それぞれ掛詞になっているのだという説明までは、さすがの悠太郎にもすぐには理解できなかったが、しかし後年の悠太郎が言語の音韻にとりわけ鋭い感受性を発達させたことには、秀子のこうした教育も与って力があったのである。これらの歌は母と子の、秘密の合言葉のようなものになっていた。ちなみに六里ヶ原というのは、浅間山から北に広がる六里四方の高原という広い範囲を指す呼称である。そのなかにはこの町の大字応桑があり、そこから大字北軽井沢が分区した。また三原を含むキャベツの栽培で有名な隣町も、六里ヶ原の一部をなす。ふたつの自治体の南部を包括する六里ヶ原という名が廃れ、その全体が次第に北軽井沢の名をもって呼ばれるようになるのは、もう少し後の世のことである。
秀子は悠太郎の手を引いたまま、キャンプ場のある窪地を背にして照月湖の堤に立つと、寝観音のような雄大な浅間山を眺めやった。夫と離婚して六里ヶ原に帰るとき、まだ一歳にもならない悠太郎もろとも、秀子は電車に飛び込んで死のうとした。そんな秀子を思いとどまらせたのは、この浅間山であった。悠太郎を身籠っていた一九八三年の四月八日に、浅間山の噴火をテレビで知ったことを、秀子はまさに死のうとしたとき思い出したのである。地震が起こり、火柱が噴き上がり、濛々たる噴煙のなかには稲妻が走っていた。六里ヶ原には火山礫や火山灰が降り注いだ。反対側の南斜面では山火事まで起こったという。あれは浅間山麓に英雄が生まれるというお告げだったのではないか? 故郷の町の産婦人科医院でこの子が生まれた九月七日も、凄まじい雷雨の日だったではないか? そうだ、私は六里ヶ原で英雄の母になるのだ――。そんな思いだけが、あのとき秀子を辛うじて支えていた。子連れの出戻り娘として、辺境の地で有形無形の抑圧を耐え忍び跳ね返す日々を送るうちにも、そうした思いは妄想めいて一段と強まっていたのである。湖畔に立って浅間山を眺めながら秀子は再び昔のように、六里ヶ原を巻狩に訪れる数万人の美々しい武者行列を幻視した。だがその夥しい武者たちを束ね率いているのは、今や紛れもなくわが子であった。幼児にしては髪と眉と目鼻立ちの濃い、睫毛の長い悠太郎の顔つきは、秋田藩の武家の末裔であった元夫から受け継いだものに違いない。その悠太郎の立派に成人した姿が、秀子のなかでは今や将軍頼朝とひとつに重なっていたのである。
「負けては駄目よ、悠太郎」と言って秀子は、幼いわが子と手袋越しに繋いだ手にぶるぶると力を込めた。「いよいよ来月からは幼稚園が始まるわね。そうすればすぐに学校よ。これからは競争が始まるの。まわりの子たちと仲良くするのも大事だけど、いちばん大事なのは抜きん出ることよ。そうなのよ、差をつけるということ、飛び抜けているということが大事なのよ。今はまだ凍っているけれど、いっぱいの水で満たされたこの湖は美しいでしょう? この湖のような美しい百点満点を、お母様はおまえに期待しています。おまえを百点満点の子にするために、お母様は」と秀子は浅間山の方角の湖畔に建つ、東西に翼部を伸ばした二階建ての観光ホテル明鏡閣を指し示して、「あそこで働くことに決めました」と言った。悠太郎はそんな母の歓心を買おうとして、「音に聞こゆる浅間の腰の離山、三原の狩座どもを見ん」などと、秀子に教わった通りに『曾我物語』の頼朝の台詞を言ってはみたものの、その声が全然勇ましく響かないのが自分でも情けなかった。ぼくは抜きん出ることなんかできない。ぼくは将軍にも枢密顧問官にも増田ケンポウにもなれない。なんだかぼくは風に消えてゆく浅間山の煙みたいに頼りない。ぼくはこれからどうなるんだろう。ぼくはこれからどこへ消えてゆくのだろう――。悠太郎は氷の緩んだ湖の打ち捨てられたスケート場を見ながら、そんなことを思った。それが数日前のことであった。
「まあそう硬くなりなさんな、千代さん。あんたの苦労と真面目さと優秀さはよく分かった。生まれ故郷から六里ヶ原は近かろう。ゆくゆくは浅間観光の面倒なことを諸事万端あんたに任せるから、そのつもりで大いに働いてもらいたい」とケンポウ社長は、片えくぼを浮かべた豪快な恵比寿顔で即座に千代次の採用を決めてしまった。後になって知ったことだが、ケンポウ社長には千代という名の年の離れた姉がいたのだという。ケンポウ社長が小学生だったとき、その姉は同じ小学校の訓導であった。実の姉を先生と呼ぶのはまことに奇妙な感じだったと、ケンポウ社長はあるとき酒を飲んでしみじみと述懐したことがあった。千代次の名を目にしたとき、ケンポウ社長は不意に故郷の玄界灘の海鳴りを聞いたような気がして、その懐かしさも手伝って採用したのだという。ともあれ千代次が浅間観光に入社し、熊川河畔の浅間観光ホテル別館に起居して勤務するようになったのは、ケンポウ社長が霧の流れる軽井沢駅のホームで派手に倒れる前年のことであった。
あるいはその頃からケンポウ社長は、自分の前途について何事かを予感し、後事を託せる人物を探していたのかもしれない。その年の秋の終わりのある日、千代次は湖畔の観光ホテル明鏡閣に呼ばれた。柔らかな黄金色の絨毯のように降り積もる唐松の針葉を踏みながら、落葉の散りやまぬ林間の道を谷から登り湖畔を目指すと、側面から見れば浅間山の形を模したかのような、地面まで届く赤いなだらかな三角屋根の明鏡閣の中央部が、白樺林の木隠れに見えた。柱に支えられてせり出したキャノピーをくぐって正面玄関を入ると、天然木材仕上げの柱時計がある、ワインレッドの絨毯を敷いたロビーには石油ストーブが燃え、黒い革張りのソファにケンポウ社長がゆったりと座っていた。工業新聞社の工場に据えつけたばかりのゴス高速度輪転機のように働く合間を縫って、社長は事業の監督と社員の慰労のために、六里ヶ原を訪れていたのである。社長は千代次を認めると恵比寿顔で歓迎し、まあ座りたまえとガラスのテーブルを挟んだ向かいのソファを勧めた。すでに夏休みや紅葉の季節は過ぎて、浅間山が三度の冠雪で山裾近くまで白く染まり、いよいよ里にも雪が降ろうかという時期だったから、客足の絶え間もあったのである。ケンポウ社長は繁忙期の労をねぎらうと、夕日を浴びて波立ちきらめく湖を大面積のガラス窓から眺めやりながら、「照月湖という名前をどう思うか」といくらか唐突に切り出した。「千代さんは中国の文学にも造詣が深かったな。何か漢詩の一節も思い浮かぶか?」と問うたのである。
「いやあ、造詣が深いなどと仰言られては畏れ入ります。私の学などたいしたことはありません。しかし、そうですね」と千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、いつか書道の稽古に使ったことがある宋の詩人真山民の「山中の月」を思い出していた。「どうでしょう、こんな詩など相応しくはありませんか」と言って、千代次は清らかな月の光を歌った詩を暗唱した。
緊張しながら詩を暗唱する千代次の声を、ケンポウ社長は神妙な面持ちで聞いていた。詩の響きが消えた沈黙のなかには、柱時計の振り子が時を刻む音と、石油ストーブの燃える音だけが聞こえていた。その余韻をしばし味わうと、ケンポウ社長は「素晴らしいな」と穏やかに微笑んだ。「心は月のごとく、月も心のごとし、か。心というのが、ここではつまり湖なのだな。心と月と相照らし、か。湖のような心を持ちたいものだな。照月湖の明鏡閣に、さも相応しい」と社長は満足げであり、いくらか安心したようでもあった。ふと千代次はそのとき、折から気になっていたことを口にしてみた。照月湖という風雅な名前を、ケンポウ社長はいったいどこから取ったのかということである。もともとこの湖が楢沢の池と呼ばれていたことは千代次も知っていた。そのままでは地味すぎて観光には適しないということも理解できた。ケンポウ社長が新聞記者になる前に炭鉱の職員養成所で学んでいた時代、仲間と『極光』とか『デルタ』とかいった同人誌を発刊して、短歌や文章を載せるような文学青年であったことも聞いていた。自分がこれから深く関わることになる照月湖の名前について、この際その由来を知っておきたいと思ったのである。ところがケンポウ社長の答えは意外なものであった。
「湖といえば明鏡だ。鏡といえば月だ。このあたりまでは誰でも考える」とケンポウ社長は言った。「だがその先が問題でな。俺の頭に浮かんだのは、まあ今となってはあまり大きな声では言えないが……駆逐艦のことなのだ。千代さんは太平洋戦争で使われた照月という駆逐艦を知っているか? あの船が進水したのは真珠湾攻撃の直前だ。竣工から一年と経たないうちに沈没した短命な船だった。第三次ソロモン海戦の火蓋を切って落とす挺身攻撃隊に加わって、ガダルカナル島へ出撃した照月は、敵艦をいくつも撃沈し撃破した。だがその海戦で日本が負けて輸送船団が潰滅したので、今度は駆逐艦にドラム缶を積み込んで強行輸送作戦ときたもんだ。そこでも照月はずいぶん活躍したんだが、とうとうサボ島沖でアメリカの魚雷にやられて沈んでしまった。働きに働いて短い命を散らした駆逐艦照月だ。潔い生き様じゃないか。美しい名前じゃないか。そんな駆逐艦があったんだ。今は昔の話だな」
あまりの意外さに驚いた千代次は極度に細い目を見開いて、とっさに言葉を探した。「さすがは社長。戦時中は軍事工業の……」と言いかけて千代次は、まずいことに触れたかなと冷や汗をかいた。あの戦争が終わってから、すでに十年以上が経過していた。関係者の断罪が済まされ、戦争をめぐる一応の歴史的評価が定まってしまった後だからこそ、かえって戦時中の記憶は古傷となって疼いていても不思議はなかった。千代次のように一兵卒として塗炭の苦しみを味わった者ばかりでなく、ケンポウ社長のように産業の分野で戦争の遂行に協力した者にとっても――。しかしケンポウ社長はいくらか誇らしげに胸を張った。
「その通り、俺はそういう新聞社の主幹だったからな。あの戦争で使われたわが国の兵器のことで、俺の知らないことはあるまい。旧満洲の首都でやった兵器の博覧会が大好評でな。皇紀二千六百年を記念して、上野公園の不忍池のほとりで戦時工業総力博覧会を開催したんだ。同じことを西宮球場でもやった。奉祝国民歌がラジオから流れていた。懐かしいな。こんな季節の秋晴れの青空の下で神輿が繰り出した。日の丸の旗行列や鼓笛隊が街を練り歩いた。きらきらしい花電車が走りまわった。あの頃は俺も若かった。いや日本じゅうが若かった。戦争に勝つ気満々だった。もっともマッカーサー元帥に言わせれば、日本人の精神年齢は十二歳かそこらだったそうだからな。それは若いわけだ」そう言ってケンポウ社長は呵々大笑すると、また神妙な面持ちになって続けた。「何も駆逐艦照月の名前を、そのままこの湖に取ってつけたつもりはない。しかしあの船のことが俺の念頭を去らなかったとは、言っていいと思うよ。あるいは鎮魂のような気持ちが働いていたのかもしれない。俺はただの新聞屋だったが、それでも軍部の連中とはだいぶ仲良くやっていた。だから多くの人々を死なせる手伝いくらいはしたことになるだろう。当時わが国には飛行機が足りなかった。飛行機の増産こそ、戦争遂行においては至上命題だったのだ。そこで俺は何かと対立しがちだった陸海軍を説いて、能率的な量産体制を敷くために論陣を張った。そればかりではない、飛行機増産の軍歌まで作らせて工業界を鼓舞したのだ。だがそうして増産された飛行機が、思いも寄らない使われ方をしたものだよ。まさか飛行機ごと敵艦に突っ込むような作戦が、実行に移されるとは信じられなかった。神風特攻隊の隊員の遺族は、俺を憎んでも憎み切れまい。このことをどう考えたらいいのか……。だが戦争が始まってしまった以上、是が非でも勝ちたいと思うのが、日本国民としての人情ではないか? そのこと自体は、どうしても間違っていたと思えなくてな。あるいはこの湖が、俺の終わらない戦いなのかもしれない。まあそれは俺の事情だ。千代さんが背負うことではない。しかし俺ほどの軍国主義者を、よくGHQが見逃したものだな。消されることだって覚悟したよ。生きている者のうちでは、もう俺のほかには何人も知らないような軍事機密がいくらもあるぞ。俺はそれらを墓まで持ってゆくだろうよ。それにしても人生何があるか分からんものだな。もしも戦犯にされていたら、今頃は浅間観光どころではなかっただろう。巣鴨プリズンで観光というわけにもゆかないしな」そう言ってケンポウ社長は呵々大笑すると、また神妙な面持ちで、揺れ惑う夕映えの照月湖を眺め続けていた。「今宵の月はどうかな。千代さん、照月湖を頼むぞ。熊川のほうのホテルの建物が古くなってしまったら、いずれこの湖畔を任せることになるからな。静けさを求める六里ヶ原学芸村の村民とは、今後もいざこざが絶えないだろう。苦労をかけるが、ひとつよろしく頼む」
そうした千代次の難しい話を幼い悠太郎は、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて注意深く聞きながら、奇妙な違和感のようなものを感じ続けていた。たしかに増田ケンポウがいなければ、今の祖父はなかったかもしれない。樹々のざわめきに包まれたこの家も広い庭もなかったかもしれない。しかし幼心に悠太郎は、自分にはとてもケンポウ社長のように力強く多くの人々を引っ張ってゆくことも、千代次のようにそんな偉い人の後について大働きをすることもできないと思っていた。千代次が先祖のように敬うケンポウ社長よりも、悠太郎はどちらかといえば枢密顧問官のお爺さんのほうに惹かれていた。静かにお勉強ができるような別荘村を作ろうとした枢密顧問官のお爺さんは偉い。たくさんの人々を敵に回してまで、危ない法律に一生懸命反対した枢密顧問官のお爺さんは勇気がある。ぼくなんか自分のお祖父様にさえ、思ったことが言えないのに――。神洲不滅だの皇紀二千六百年だのといった勇ましげな言葉はなぜか悠太郎を威圧して、その生きる力をじわじわと奪ってゆくかのようであった。しかし父親のいない自分が、食うに困らず暮らしていられるのは千代次のおかげである以上、悠太郎はこの祖父の言うことを、黙って聞いているほかなかった。千代次の不興を買うことは、とりもなおさず死を意味した。悠太郎にとってばかりでなく、悠太郎の母の秀子にとっても同様であった。「お祖父様のご機嫌を損ねては駄目よ」と秀子から常々言われていたことを、その日悠太郎は家の南の庭に面した縁側にある姿見の鏡の前で、改めて思い出していた。
秀子をめぐってはこの一九八八年の春まだ遠い三月に、ひとつの重大事が起こった。秀子はひとり息子の悠太郎を千代次に託しては、北軽井沢の駅からほど近い、薬局と書店と日用品店を兼ねた山のデパートで短時間の勤務に就いていたが、数日前のある午後、その帰りを見計らったかのように、髪を四角く刈り込んだ初老の紳士が真壁の家を訪ねてきた。悠太郎は子供用のふかふかしたジャンパーを着込んで毛糸の手袋を嵌め、帰宅する秀子の白い自動車を出迎えて、そのままふたりで庭にいたところであった。雪の融け残る冬枯れの芝生の片隅では、真冬のあいだに作った雪だるまが薄汚れて小さくなってきていた。雪だるまは融けてしまったらどこへゆくのかと、悠太郎が秀子に訊こうとしたそのとき、丈の長い黒いコートを着て毛皮のマフラーを巻いたその紳士が、影のように静かに門をくぐって近づいてきたのである。彼は秀子と悠太郎に慇懃な態度で一礼すると、「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いして話し始めた。
「改めましてご挨拶申し上げます。観光ホテル明鏡閣の支配人、南塚亮平です。千代次さんの後任を長らく務めさせていただいております。まだまだ寒い日が続きますな。しかしもうすぐ新たな年度が始まります。来月にはご令息も晴れて幼稚園にご入園とのこと、おめでとうございます。そこでです、秀子さん。いかがでしょう、明鏡閣で働かれては? 浅間観光も創業者から数えてはや三代目、ここらが大切な時期なのです。晩年の増田ケンポウの意向を体現し、その理想を六里ヶ原において営々と守り抜いてこられた、浅間観光の永久名誉顧問たる真壁千代次さんのご息女を、明鏡閣にお迎えできれば心強いことこの上ないと、現社長の鈴木も申しておるわけでして、これには従業員一同に異存はないわけでして、いかがでしょう?」
豊かな黒髪を頭の後ろでお団子にまとめ、もこもこしたダウンジャケットに身を包み、下膨れの顔にうっすらと愛想笑いを浮かべて南塚支配人の話を聞いている秀子を、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目で不思議そうに見上げていた。普段の秀子の振る舞いは、けっしてお淑やかではなかった。戸の開け閉めは荒っぽく、時々は開けたまま閉め忘れた。家のなかを歩きまわる足音は大きく、思いついたことを思いついたままに言いっ放しては、隙間の空いた大きな前歯を剥き出して笑っていた。そんな母でも悠太郎にとっては唯一の母である以上、そばにいてくれることが嬉しかったのは当然であった。秀子が激しく叩きつけるように自動車のドアを閉め、玄関のドアをがばと開けバタンと閉め、廊下をドスン・ドスン・ドスン・ドスン・ドスンと五歩踏み鳴らして、居間への引き戸をガラガラと開ける一連の音響とリズムを、悠太郎は母の帰宅を告げる喜ばしい音楽のようなものとして、正確に記憶していた。しかし祖母の梅子の不興げな評価もまた無視することはできなかった。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら目を吊り上げて、「もっとお上品にできねえのか、この与太娘が!」とか「戸は開けたら閉めろ、この尻のねえ娘が!」とか、しばしば秀子に小言を言っていたのである。千代次より十三歳も若い、まだ明鏡閣で働いている梅子が家に帰ってきて秀子を攻撃し始めるのを、悠太郎は内心いつも恐れていた。その秀子がうっすらと愛想笑いを浮かべた下膨れの顔を少しうつむけながら、いかにも物分かりよさそうに南塚支配人の話を聞いていた。悠太郎はこの家と庭の外の世界で生きている母を初めて見たような気がした。それにしてもこの南塚さんは、明鏡閣の支配人とはいっても、前任者であった千代次とはずいぶんと違っていた。祖父の一徹ながむしゃらさとはまったく異質の、ある種の洗練された優雅さのようなものを、悠太郎は目の前の初老の紳士から感じ取っていた。小柄な千代次よりもよほど長身の南塚支配人は「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いしてなおも続けた。
「このような辺境の地で働くわれわれにも、東京並みの給与を支給するという増田ケンポウの方針は、現在に至るまで受け継がれております。この六里ヶ原で職を求めるなら、浅間観光ほどの好条件はなかなかありません。ご令息の将来を考えても、悪い話ではないでしょう。もちろん幼稚園や、その先の学校の用事については、可能な限り秀子さんのご都合を尊重します。夏の繁忙期でもなければ、いくらも時間の融通はきく職場なのです。いかがです、悪くないでしょう? どうか前向きにご検討くださるようお願いします。まだまだ寒い日が続きますな。ご令息ともども、お体にはくれぐれも気をつけてください。では失礼します。おっと、これはいけません。私としたことが、大事なことを忘れるところでした。千代次さんにどうかよろしく」そう話し終えると南塚支配人は、また秀子と悠太郎に慇懃な態度で一礼して「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いしながら、影のように立ち去っていった。庭で悠太郎がよく登って遊んでいたイロハモミジの裸木の枝に、風切り羽を響かせて飛来した真っ黒なカラスが一羽とまって、ひと声鳴くとまた羽音も高く道の向こうへ飛び立ち、寒空を突き刺すように聳える赤松の林を越えて消えていった。
悠太郎と一緒に家のなかに入ってからも、秀子は南塚支配人の話について考え続けていた。「千代次さんにどうかよろしく」と言いながら、南塚支配人は千代次に会ってゆこうとはしなかった。南塚支配人の入社は千代次より早かったというから、あるいは千代次に何か含むところでもあるのかもしれないと注意していたが、南塚支配人の慇懃で紳士的な態度からは、それらしいことを読み取ることはできなかった。千代次もまた自室で書道の稽古でもしていたか、漢詩でも読んでいたのであろう、話し合いに出てこようとはしなかった。すべては裏で千代次が手回しを済ませているのかもしれなかった。そう考えるとあまり愉快ではなかった。だがこの六里ヶ原に帰ってきた以上、自分は再び真壁千代次の娘として生きなければならないのだ。子供の頃から食うに困らせず、大学まで出してくれた親に感謝はしながらも、しかしどこかで自分は千代次の娘であることから逃れたかったのではないか。社会科の教員免許まで取得しながら、結局は学校教諭にならなかったことも、小さな眼鏡会社に就職したことも、その会社に一年遅れて入ってきた男性と、両家の猛反対を押し切って結婚したことも、六里ヶ原で重きをなしてしまった親の呪縛から自由になりたかったからではないか――。東京で暮らしていた頃、世田谷界隈の喫茶店でコーヒーを飲みがてら、テーブルのインベーダーゲームに興じながら、増田ケンポウとは侵略者ではなかったかと、ふと考えたことがあった。自分の親は静かな学芸村を侵略したインベーダーの手先だったのかもしれないと思いながら、秀子はレバーとボタンを操作して画面のなかのUFOを撃ち落としていた。しかし結婚があえなく破れ、こうして子連れで故郷に出戻ってきたからには、その浅間観光に身を売ることもやむを得ないような気がした。「ご令息の将来を考えても、悪い話ではないでしょう」という南塚支配人の言葉が、いつまでも耳の底に残っていた。
秀子はもこもこしたダウンジャケットを再び身に着けると、悠太郎にも子供用のふかふかしたジャンパーを着せた。悠太郎を家から連れ出した秀子はわが子と手袋越しに手を繋いで、道端に雪が融け残る起伏に富んだ林間のダート道を、ふたりして湖へと歩んだ。道には落葉したままの樹々が影を落とし、雪の重みで折れた枯れ枝が散らばっていた。急な坂道を降りるあたりで湖の向こうの正面に近々と迫る山を、悠太郎が鷹繋山と言い当てたことが秀子には嬉しかった。鎌倉幕府ができたばかりの頃、源頼朝がこの六里ヶ原で盛大な巻狩を催したという伝承があって、鷹繋山も頼朝伝説にまつわる地名のひとつだったからである。秀子は大学で日本史を専攻していた学生時代、親のことはさて置くとしても故郷がやはり恋しかった。それで六里ヶ原での頼朝について調べてみようと思ったのである。卒業論文の題目は「前九年合戦における安倍貞任」であったが、源氏の関わる東国の歴史と考えれば、まるきり無関係というわけでもなかった。ところが公式の歴史書である『吾妻鏡』のどこを読んでも、これといった浅間北麓の記述はなかった。そこで教授に質問してみると、それは『曾我物語』に書いてあることだと教えられた。歴史書よりも信憑性の低いフィクションであるとはいえ、故郷と頼朝の関わりが文章として残っていることは秀子を喜ばせた。幼くして父親を殺された兄弟の仇討ちを描いた、どこまでも暗い『曾我物語』に読み耽り、浅間野や三原野の巻狩をめぐる箇所の抜き書きを作りながら、秀子は故郷の山野を数万の武者たちが、騎馬や徒歩で駆けめぐる壮観を幻視していた。そうして記憶していたその抜き書きを、秀子は今わが子に口伝えで教え込んでいたのである。悠太郎の言葉の発達は異様に早く、秀子が「忍びても夜こそこうと言ふべきに」と歌いかければ、悠太郎は即座に「浅間に鳴ける昼狐かな」と歌い返した。また秀子が「昨日こそ浅間は降らめ今日はまた」と歌いかければ、悠太郎はまた即座に「御晴らし給へゆふだちの神」と歌い返した。「浅間」が朝のあいだを意味する「朝間」と、「御晴らし給へ」が隣町の地名として残る「三原」と、それぞれ掛詞になっているのだという説明までは、さすがの悠太郎にもすぐには理解できなかったが、しかし後年の悠太郎が言語の音韻にとりわけ鋭い感受性を発達させたことには、秀子のこうした教育も与って力があったのである。これらの歌は母と子の、秘密の合言葉のようなものになっていた。ちなみに六里ヶ原というのは、浅間山から北に広がる六里四方の高原という広い範囲を指す呼称である。そのなかにはこの町の大字応桑があり、そこから大字北軽井沢が分区した。また三原を含むキャベツの栽培で有名な隣町も、六里ヶ原の一部をなす。ふたつの自治体の南部を包括する六里ヶ原という名が廃れ、その全体が次第に北軽井沢の名をもって呼ばれるようになるのは、もう少し後の世のことである。
秀子は悠太郎の手を引いたまま、キャンプ場のある窪地を背にして照月湖の堤に立つと、寝観音のような雄大な浅間山を眺めやった。夫と離婚して六里ヶ原に帰るとき、まだ一歳にもならない悠太郎もろとも、秀子は電車に飛び込んで死のうとした。そんな秀子を思いとどまらせたのは、この浅間山であった。悠太郎を身籠っていた一九八三年の四月八日に、浅間山の噴火をテレビで知ったことを、秀子はまさに死のうとしたとき思い出したのである。地震が起こり、火柱が噴き上がり、濛々たる噴煙のなかには稲妻が走っていた。六里ヶ原には火山礫や火山灰が降り注いだ。反対側の南斜面では山火事まで起こったという。あれは浅間山麓に英雄が生まれるというお告げだったのではないか? 故郷の町の産婦人科医院でこの子が生まれた九月七日も、凄まじい雷雨の日だったではないか? そうだ、私は六里ヶ原で英雄の母になるのだ――。そんな思いだけが、あのとき秀子を辛うじて支えていた。子連れの出戻り娘として、辺境の地で有形無形の抑圧を耐え忍び跳ね返す日々を送るうちにも、そうした思いは妄想めいて一段と強まっていたのである。湖畔に立って浅間山を眺めながら秀子は再び昔のように、六里ヶ原を巻狩に訪れる数万人の美々しい武者行列を幻視した。だがその夥しい武者たちを束ね率いているのは、今や紛れもなくわが子であった。幼児にしては髪と眉と目鼻立ちの濃い、睫毛の長い悠太郎の顔つきは、秋田藩の武家の末裔であった元夫から受け継いだものに違いない。その悠太郎の立派に成人した姿が、秀子のなかでは今や将軍頼朝とひとつに重なっていたのである。
「負けては駄目よ、悠太郎」と言って秀子は、幼いわが子と手袋越しに繋いだ手にぶるぶると力を込めた。「いよいよ来月からは幼稚園が始まるわね。そうすればすぐに学校よ。これからは競争が始まるの。まわりの子たちと仲良くするのも大事だけど、いちばん大事なのは抜きん出ることよ。そうなのよ、差をつけるということ、飛び抜けているということが大事なのよ。今はまだ凍っているけれど、いっぱいの水で満たされたこの湖は美しいでしょう? この湖のような美しい百点満点を、お母様はおまえに期待しています。おまえを百点満点の子にするために、お母様は」と秀子は浅間山の方角の湖畔に建つ、東西に翼部を伸ばした二階建ての観光ホテル明鏡閣を指し示して、「あそこで働くことに決めました」と言った。悠太郎はそんな母の歓心を買おうとして、「音に聞こゆる浅間の腰の離山、三原の狩座どもを見ん」などと、秀子に教わった通りに『曾我物語』の頼朝の台詞を言ってはみたものの、その声が全然勇ましく響かないのが自分でも情けなかった。ぼくは抜きん出ることなんかできない。ぼくは将軍にも枢密顧問官にも増田ケンポウにもなれない。なんだかぼくは風に消えてゆく浅間山の煙みたいに頼りない。ぼくはこれからどうなるんだろう。ぼくはこれからどこへ消えてゆくのだろう――。悠太郎は氷の緩んだ湖の打ち捨てられたスケート場を見ながら、そんなことを思った。それが数日前のことであった。
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