明鏡の惑い

赤津龍之介

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第一章 六里ヶ原

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 なら木沢きざわに注ぐ渓流をき止めて、小さな人造湖は造営されつつあった。やがて岸辺となるべきつつみに立って、齢七十八歳の枢密顧問官すうみつこもんかんは、その造営を見守っていた。浅間山あさまやまの北麓では、万緑輝く草原に野の花が咲き競っていた。老いたる枢密顧問官にとって、それがこの高原で過ごした最後の夏となった。(そうだったんべえ?) 白い口ひげと山羊ひげを蓄えた和服姿の枢密顧問官は、フランス法学の流れを汲む法学校を前身とする私立大学の学長で、枢密院での職務の傍ら大学経営にも尽力し、財政困難だった大学のために私財を投ずることも惜しまず、また国から与えられた鉄道パスを活用して、全国各地を資金調達に奔走する労苦も厭わなかった。寄る年波も手伝って、枢密顧問官は疲れていた。しかし浅間山から北に広がる六里四方の焼け原と言われた、標高およそ千メートルのこの六里ヶ原ろくりがはらの一角で、満天の星の下に樹々の葉叢はむらがさやぐ森々しんしんとした夜の静けさや、夜明けとともに歌い始める夏鳥たちのさえずりや、日盛りに今を限りと鳴きしきる蝉の声に聞き入ったり、鷹繋山たかつなぎやま浅間隠あさまかくしの連山を東に、白根山しらねさんから四阿山あずまやさんへの連なりを遥か北西に、そして雄大な浅間山を南西に見渡したり、シトロエンの幌を畳んだオープンカーを親族の者に運転させ、木洩れ日のきらめく林間のダート道をゆっくりと走行させて、涼やかな風を顔に感じたりしていると、老いたる枢密顧問官の心身は浄められ、その疲労感もいくらかは和らぐように思われた。今わずかに水が溜まり始めた人造湖のほとりからも、浅間隠の連山を背に近々と迫る鷹繋山や、煙を噴き上げる寝観音のような浅間山が望まれた。(そうだったんべえ?)
 老いたる枢密顧問官の疲労が頂点に達したのは、この夏から二年前の六月の枢密院でのことであった。その年には三・一五事件で共産党の関係者が大量に検挙され、国内の社会主義運動に対する大弾圧が始まりつつあった。国外では中国山東省への第三次の干渉出兵が行なわれ、また中国東北部に覇を唱えた軍閥の指導者が、奉天近郊で列車ごと爆殺された事件について、満洲地方の占領を画策する関東軍の関与が疑われていた。そうした不穏な情勢のなかにあって、内閣から治安維持法改正の緊急勅令案が上奏され、枢密院に諮問されたのである。老いたる枢密顧問官はリベラルなフランス法の権威として、この改正案に全面反対の論陣を張り、普段はあまり通りのよくない小さな声をこのときばかりは大にして、「しかしですな」とか「だがそれでは」とか言いながら、改正案には刑法との重複関係が生ずることや、現行法によっても充分に取り締まりが可能であることや、適用範囲をほとんど無際限に拡大する目的遂行罪の導入は不可であることや、何より思想犯に極刑を科するのは非であることを熱弁した。中国に対する強硬政策を主張していた元司法大臣は、そうした反対論を「甚だしく誤った意見」とか「言語道断、もってのほか」とか言って非難し、老いたる枢密顧問官その人についても、「まだ頭脳が健在であるかどうかを疑わざるを得ない」とまで酷評した。もっとも枢密顧問官は、もとより自分の反対論が通るとは考えていなかった。「反対者は少数でしょうから、本案は結局通過するでしょう。私は勝敗を眼中に置きません。ただ本案の非なることを天皇陛下の御前で論じて叡聞えいぶんに達し置けば、それでよしとします」と、彼は最終討論の席上で述べたのである。(まあず豪儀だのう)
 疲れ果てた枢密顧問官は、その疲労感を振り切ろうとでもするかのように、かねて取得していた六里ヶ原の一角の広大な原野に、学者や芸術家たちの別荘村を作るという懸案を推し進めた。第一区に四十戸の山荘が建てられ、新たに村民となった人々が入山して、学芸村が開村に漕ぎ着けたのは、まさにその年の夏であった。土地の分譲は原則として、ひとりひと区画五百坪が単位とされ、ふた区画までの所有しか認められていなかったから、個人が広い土地を買い占めることは防がれていた。ゼツェシオン様式を採り入れて設計された、屋根に垂直面のある素朴かつモダンな山荘のそれぞれは、いずれも小さな建坪に留められていたから、坪一円という破格で分譲された土地に建つこれらの山荘を「一円村の鳥籠」などと笑い物にする人もあった。しかし初代村長となった枢密顧問官とその同志たちは、この自然豊かな六里ヶ原を、都会の汚塵と喧騒から守りたいと望んでいた。村民ひとりひとりが侵さず侵されず、健全で質素で愉快なひと夏の生活を送り得る知識人たちの共同体が、村作りの理想として目指されていたのである。それは枢密顧問官の言葉を借りれば「われよりいにしえをなす」といった類の雄図であった。(豪儀なことだのう)
 近々と迫る鷹繋山からその名を取った鷹山荘ようざんそうを、熊川くまがわの清流のほとりに構えて、読書自適の村作りに邁進してきた枢密顧問官が、その後の二年をかけて実施してきた開発も、そうした理想によって貫かれていた。四十戸の新築を見込んで新たに第二区が開かれた。水道木管が敷設されたので、村民たちはもはや人を頼んで栗平くりだいらから馬力で水を運んでもらう必要も、熊川で洗濯するために谷へ降りる必要もなくなった。鷹山荘からほど近いところには学芸村倶楽部が新築されたが、これはスポーツや社交の設備を包括した、建坪三百五十坪余りの大規模な施設であった。屋外には硬式・軟式のテニスコート五面が設けられた。屋内には円形の大浴槽を男女別の半円に仕切った浴場が作られた。卓球台やビリヤード台が置かれ、日用品の売店や床屋が完備して、宿泊設備も調った。和洋の定食をはじめ、サンドイッチやローストビーフやチキンソテーやロールキャベツを提供する食堂を、枢密顧問官が学長を務めていた大学から倶楽部に出張させたのも、村民たちを文化的な生活に与らしめるためであって、都市の華美を追うためではなかった。数種の新聞や碁盤や将棋盤が備えつけられたのも、岩波文庫を満載した書架が据えつけられたのも、六里ヶ原に舞う色とりどりの蝶の標本が陳列されたのも、同じ理由からであった。(豪儀なものを作ったもんだのう)
 さらに四十戸の新築を見込んで第三区が開かれた年には、その新区域によって三方を囲まれた窪地に、渓流を堰き止めて人造湖を造営する計画もまた実行に移されたのである。この計画は学芸村が属する町の助役から出たもので、養魚と採氷を兼ねた大規模な湖を造ってはどうかというのがその提案であったが、自然破壊と観光地化による学芸村の環境悪化を憂慮した枢密顧問官は、池と呼ぶにはやや大きな、しかし湖と呼ぶにはやや小さな規模での造成に留めた。いま彼が立っている堤によって区切られなかったとしたら、浅間山とは反対側の背後の窪地一帯もまた、ことごとく水没するはずであった。枢密顧問官はこの楢沢ならさわの池の造営を、自身の主導した学芸村の開発の、ひとまずの仕上げであると考えていた。わずかに水が溜まり始めた人造湖の、やがて岸辺となるべき堤の上に立ちながら、白い口ひげと山羊ひげを蓄えた和服姿の老いたる枢密顧問官は、学芸村の来し方と行く先に思いを致していた。
 「来年の夏に六里ヶ原を訪れる頃には、この楢沢の池が満々たる水を湛えていよう。しかし私にはそれを見ることができようか? 気候清涼にして景観壮大なるこの高原が、いかにこの老骨を元気づけてくれるとはいえ、もはや私はあまりに疲れすぎたのではないか? この夏が過ぎてしまえば、果たして再びの夏を迎えられようか? 私はこの冬を越えられようか? それができないとすれば、やはり心残りではある。あの雄大な浅間山がこの池の水面に映る光景を、やはり私は見たかったと思う。しかし人には天寿というものがあるのだ。人事を尽くして天命を待つのみなのだ。天の定めるところに従って、各々が最善を尽くすほかないではないか。この度も勝敗は眼中に置くまい。私は幕末・維新の転変を切り抜けて長く生きてきたし、よく働いてもきたのだから、それでよしとしよう。どのみち老い先短いわが身のことなど、この際どうでもよい。ああ、まだ池が完成しないうちから、早くも私は明鏡止水の心境だ。願わくはこの池が、夏には舟遊びの、冬には氷滑りのそのとして、村民たちに末長く愛されんことを。わが鷹山荘にほど近い学芸村倶楽部と同様、村民たちの文化的な共同生活のために、末長く活かされんことを……」
 翌年の二月十六日に枢密顧問官はこの世を去った。枢密院で開かれた選挙法改正案に関する精査委員会において、あまり通りのよくない小さな声で「しかしですな」とか「だがそれでは」とか発言中に、突如として脳溢血で倒れたのである。隣席にいた同僚の顧問官が直ちに脈を取ったが、すでに絶えていた。明治以前の嘉永に生まれた七十九歳の枢密顧問官は、かくのごとく天寿を全うして即死したのである。その年学芸村では最後に第四区が開かれ、楢沢の池の工事も竣成したが、夏も終わりに近い八月二十日に浅間山が小噴火を起こした。火山礫によって村の多くの山荘がガラス窓を割られたばかりでなく、地震のために楢沢の池の堤が七割も湖内に崩落したのである。湖は揺らめき波立ちきらめいていた。そして九月には大陸で満洲事変の兵火が起こり、ついに関東軍は中国東北部を五ヶ月ほどで占領したのである。(えれえことになったのう)
 東アジアと太平洋地域を戦場とした十五年戦争の末期には、学芸村もまた疎開者で溢れ返った。そして戦争が日本の無条件降伏で終結した後には、枢密顧問官の家に財産処分の問題が起こり、学芸村の不動産の一部は新たな買い手を求めていた。大学の経営と同様に、村の開発にも惜しみなく私財を投じていた枢密顧問官であったが、彼の死後二十年になんなんとする歳月を経る頃には、その家は経済的に立ちゆかなくなりつつあったのである。今後の学芸村の運営をどうするのか、部外者の資本を頼って村を支えることは是か非か、初めからいた村民たちも後から来た村民たちも、侃々諤々かんかんがくがくの議論を戦わせた。かくして終戦から六年後の夏に、鷹山荘や学芸村倶楽部や楢沢の池を含む六十万坪余りの土地や建物は、工業新聞社の増田ますだケンポウ社長が設立した株式会社浅間観光が、大々的に取得する運びとなった。(どうだ、豪儀だんべえ? 俺の大恩人だぞ)
 戦後日本の焼け野原のなかにあって、敢然として工業立国を主唱してきた仕事の鬼たるケンポウ社長は、しばしば新聞記者たちに雷を落とすことで知られていたが、しかし社員たちの生活と福利の充実を思うこと篤く、働き詰めの工業人たちを保養する必要から、観光事業にもかねてより目をつけていたのである。この六里ヶ原に事業を展開しようと思い立ったのは、気候清涼にして景観壮大なる浅間北麓の高原に、敗戦国の復興を担う人々のための一大ユートピアを建設するという夢を抱いたからであった。浅間観光を設立して自ら社長に就任したとき、ケンポウ社長は四十七歳になっていたが、働き盛りの壮年の意欲は衰えを見せるどころか、いよいよ旺盛に溢れ出していた。若き日々より座右の銘としてきた、王陽明おうようめいの教えとも伝えられる「水五訓みずごくん」を、ケンポウ社長はその年の春に改めて墨書して額に入れたばかりだったから、谷間を走る熊川の清流や、満々たる湖水を湛えた楢沢の池は、彼を大いに喜ばせた。ケンポウ社長は木洩れ日に白く光るワイシャツの袖をまくり上げ、筋肉隆々たる逞しい腕を剥き出して、きらめき流れる熊川のほとりの道を足早に闊歩したり、細波立つ楢沢の池でボートに乗り込み、手ずからオールを力強く漕いだりしながら、「自ら活動して他を動かすは水なり。障害に遭いて激し、その勢力を百倍するは水なり。常におのれの進路を求めてやまざるは水なり。自ら潔うして他の汚濁を洗い、しかも清濁併せ容るるは水なり。洋々として大海を満たし、発しては雲となり、雨と変じ、凍っては玲瓏れいろうたる氷雪と化す、しかもその性を失わざるは水なり」と声高らかに独吟しては、浅間隠の連山を背に近々と迫る鷹繋山や、雄大な浅間山の眺望を楽しみつつ、恵比寿顔に片えくぼを浮かべて豪快に笑っていた。(この豪儀さはどうだやあ)
 その年の晩秋の、東京に木枯らしが吹き募る乾燥したある夜、飯田町にあった工業新聞社の本社社屋と、ドイツ製アルバート輪転機二機を備えた工場が、紅蓮の炎に包まれて全焼した。ラジオのニュースで急を聞いた社員が現場に駆けつけたときには、火勢猛然としてすでに手の施しようがなかった。終戦の年の秋にケンポウ社長が復刊してから六年を経ていた工業新聞は、逆境の振り出しから着実に業績を積み重ね、前年に勃発した朝鮮動乱に伴う特需景気も手伝って、復興する戦後日本の工業界に重きをなし始めた矢先であった。その労苦に満ちた歳月の営々たる働きの場が、一夜にして灰燼かいじんに帰したのである。社員たちのあいだには衝撃が走り、動揺が広がった。夜明けを迎えた職場跡地には悲報に接した社員たちが参集し、嘆く者や悲しむ者や絶望する者が口々に発する声のざわめきが、煙のくすぶる焼け跡を取り巻いていた。そこへ堂々たる大股の歩みで颯爽とケンポウ社長が姿を現した。社長は作業用のジャンパーを身に着け、頭には登山帽のような帽子を被り、脚にはゲートルを巻いていた。一瞬にして静まり返った社員たちに向かって、ケンポウ社長は握り固めた拳を突き上げ、太く逞しい腕を振り回しながら獅子吼した。
 「社員諸君! うろたえてはならない。絶望してはならない。思い出してもみろ、あの酸鼻を極めた敗戦の地獄を。あれからまだ何年も経ってはいないではないか。しかるに日本は着々と復興を遂げているではないか。思い出してもみろ、東京は大空襲で焦土と化したのだ。広島や長崎は原爆まで落とされたのだ。それでも日本国民は立ち上がる。それでも日本は甦る。たとえ戦争に敗れても、神洲はなお不滅なのだ。社屋ひとつ焼け落ちたくらいで絶望してはならない。臨時の編集局と工場は私がすでに手配した。工業新聞は一日たりとも休刊しない。工業立国こそが日本復活への道だからだ。社員諸君の生活は、社長である私が一命に代えて保証する。どうかこの難局を乗り切るべく、一丸となって働いてもらいたい。自ら活動して他を動かすは水なり。障害に遭いて激し、その勢力を百倍するは水なり。常におのれの進路を求めてやまざるは水なり。社員諸君の奮闘を期待する!」そう演説して自ら焼け跡整理の陣頭指揮に当たるケンポウ社長の勇姿に、社員一同は深く感動した。会社を見限って退職しようと考えていた社員たちの大部分は、踏み留まる決心を固めた。ケンポウ社長は罹災現場の片づけを次々と指示しながら、社屋と工場の再建や、火を被ったドイツ製アルバート輪転機二機の修理や、そのための資金繰りのことを考えていた。社長が作業着にゲートル巻きで、社員たちと一緒に焼け跡を片付けているのだから、あの新聞社は必ず立ち直るという評判がすぐさま広まり、これらの差し迫った重要事項については、瞬く間に数千万円の融資が集まって解決することになる。だがそのときすでにケンポウ社長は、もっと先のことにまで思いを馳せていた。この騒動が収束した暁には、献身的に働いてくれた社員たちを、浅間北麓の高原で慰労するということがそれである。(豪儀なもんじゃねえか)
 工業新聞社が難局を迎えたなかにあって、ケンポウ社長が傍系である浅間観光の経営にも力を注ぎ、六里ヶ原に施設の開発を急がせたのも、そうした事情があったからである。学芸村倶楽部はほとんどそのまま転用されて浅間観光ホテルとなった。鷹山荘も宿泊客の用に供されるべく修繕された。熊川を見下ろす高台には高冷地農業研究場が開かれ、畑や牛舎やサイロが設けられた。楢沢の池は照月湖しょうげつこと名を変えた。その湖のほとりには、観光ホテル明鏡閣めいきょうかくやレストラン照月湖ガーデンが建設された。堤によって水没を免れた窪地にはバンガロー群が建てられ、自動車を乗り入れてキャンプができる照月湖モビレージとして整備された。復旧され発展した工業新聞社にハタラキ党を結成し、日本復活のため二十四時間働くという理想を掲げたケンポウ社長だけあって、浅間観光の方面においても鬼神のごとき働きぶりであったが、そんなふうにして何年も働くうちに社長の元来の高血圧は、工業新聞社やその傍系四社の業績と比例するかのように、ますます上昇していった。(俺も高血圧だぞ。増田ケンポウと同じで、誇らしいのう)
 浅間観光設立から八年後の夏にも、ケンポウ社長は避暑と事業の監督を兼ねて、側近たちと六里ヶ原へ向かっていた。国鉄の一等車でひとまず浅間南麓側の軽井沢を目指しながら、ケンポウ社長は側近たちといつものように歓談しつつ、恵比寿顔に片えくぼを浮かべて豪快に笑っていた。上野から高崎あたりまでは普段と変わらなかった。しかし電車が安中や松井田を通り過ぎ、ヤマトタケルが八咫烏やたがらすに導かれて登ったと伝えられる碓氷峠うすいとうげに差し掛かったあたりから、ケンポウ社長の心には、日頃感じたことのないような奇妙な疲労感が漂い始めた。電車がいくつもの橋梁を渡りトンネルを抜けるうちに、いつしかあたりには霧が立ち込めていた。車窓からその光景を見たケンポウ社長が突然思い出したのは、旅の寂しさを詠んだ若山牧水の歌であった。若き日々より酒を飲んでは愛誦してきたその歌の意味が、そのときほど骨身に沁みて感じられたことはなかった。ケンポウ社長は豪快に笑う自分のまわりから、旅に同行している側近たちが次々と消えてゆくような気がした。工業新聞社や傍系四社の社長という肩書も、それまでに収めてきた目覚ましい成功も、電車の走行音も車内の話し声もすべて消え果てて、彼は自分がしんとした淋しさのなかに、たったひとりの生身の人間として取り残されているように感じた。
 「いったい俺はどうしたのだ。万緑輝く浅間北麓の高原が俺を待っているというのに。賑やかな照月湖にまたボートを浮かべることができるというのに。つまらぬ感傷に浸っている場合ではない。俺はまだ五十路いそじも半ばだ。まだまだこれからの男なのだ。こんな感傷に襲われるのは、つまり働き方が足りないからだ。そうだ、浅間観光だけでは物足りない。これからはもっと観光事業を拡大しよう。熱海あたみにはすでに手が打ってある。湧水豊かな八ヶ岳やつがたけの南麓を買うのもいいな。北のほうでは猪苗代湖いなわしろこを望む会津磐梯山あいづばんだいさんが宝の山だろう。南の海に浮かぶ島にまで手を広げてみるか。あれもやろう、これもやろう。どこまで行っても淋しさに果てがないなら、どこへ行っても淋しくないようにしてしまうしかない。こんな淋しさが吹っ飛ぶほど、日本じゅうを賑やかにしてしまえばいいのだ。ああ、ようやく軽井沢に到着だ。わが事業意欲の熱烈たること、まさしく浅間山のマグマのごとし。だが俺は南麓側から見るよりも、北麓側から見る寝観音のような浅間山のほうが断然好きだな。軽井沢に霧が出ようが構うものか。いざ北麓へ。六里ヶ原へ、六里ヶ原へ……」
 そんなことを考えながら軽井沢駅に降り立ったケンポウ社長を、制服に身を固めた駅員たちは霧が流れるプラットホームに総出で歓迎した。増田ケンポウほどの人物の来訪はそれだけの一大事であったし、駅員たちにとってはチップにありつける好機でもあったからである。片えくぼを浮かべた豪快な恵比寿顔で、総出の駅員たちに気前よくチップを渡していたそのとき、ケンポウ社長に異変が起こった。彼は突然激しい目眩と頭痛に襲われ、意識を失ってどうと倒れたのである。側近たちや総出の駅員たちは大混乱に陥ったから、霧の微粒子が触れ合いながら流れる音を聞く者は誰もいなかった。浅間山の噴火のような脳卒中を起こした増田ケンポウ社長は、幸い一命こそ取り留めたものの、言語と身体に障害を残し、車椅子に乗って不自由な晩年を送らなければならなかった。(難儀なことだったのう)

       *

 これらの難しい話を幼い悠太郎ゆうたろうは、祖父の千代次ちよじから繰り返し語り聞かされるうちに、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開きながら、いくらかは理解するようになっていた。言葉がある程度分かるようになってから、まだ五歳にもならない一九八八年の三月に至るまで、同じようなことを何度聞かされたか知れなかった。六里ヶ原の春はまだ遠く、山々を白く染めている雪は里にもなお融け残り、照月湖の氷はスケート場の営業が終わりになるほど緩んだとはいえ、依然として湖面を覆い尽くしていた。もっとも千代次がレンズの上部だけに黒い縁のある眼鏡の奥で、極度に細い近視の目をしばたたきながら、ただひとりの孫である悠太郎にそんな難しい話をして聞かせたのは、何も自分たち真壁まかべの家族が住んでいるこの六里ヶ原学芸村がいかなる時代に開かれたのかとか、自分が支配人を勤めてきた河畔の浅間観光ホテルや、湖畔の観光ホテル明鏡閣がいかなる歴史を経てきたのかとか、その湖の西側に当たる学芸村の第四区に、自分が六百五十坪の土地を手に入れ家を建てたのはいかなる事情によるのかとか、そういったことを是非とも教えておきたかったからというわけではなかった。ただ生真面目で不器用な千代次は、幼い孫をどうやってあやしたらよいのか分からなかっただけである。千代次は時折機嫌がよいときに、〈東京節〉を替え歌にした意味不明な歌をうたって聞かせても、孫があまり喜んでくれないものだから、ほとんどいつも難しい顔をして難しい話を語るしかなかったのである。
 家の仏壇には位牌がひとつしかなかったが、それは千代次の養父のものであった。千代次はこの町における六里ヶ原の北の果てから、古森ふるもりの坂を下った先の長野原ながのはらにある旅籠屋に生まれ、少年の頃に跡継ぎのなかった真壁の家の養子に出されたが、その養父は数年後に他界してしまった。晩年には精神を病んでいたというその養父の遺影は、言われてみればどこか繊細そうな面影を伝えていた。ところがその遺影を圧倒するような迫力の写真が、仏壇にはもうひとつ飾られていた。映っているのは、片えくぼを浮かべた恵比寿顔で豪快に笑う恰幅のよい男だった。悠太郎が言葉を解し始めてまもなくの頃、千代次が「ユウ、おめえは増田ケンポウちゅう名前を知っているか? ケンポウはまあず豪儀な偉物えらぶつだった。この人がいなけりゃあ、今の俺はねえんだ」と言いながら示したのが、その迫力のある写真だったのである。
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