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  マンションにつくとエレベーターで8階にあがりはつねの部屋の前まで来た。

 その間もずっと彼に捕獲されたままで…

 やっとその手が離されると陽介さん向かい合わせになった。

 「はつねさん今日は疲れただろう。早く休んだ方がいい。俺、着替えてくる」

 「いえ陽介さんもお疲れでしょう?ありがとうございました。わたしも明日仕事だし‥‥もう休んだ方がいいですよね…じゃ…‥」

 はつねは玄関のドアを開ける。真っ暗い部屋に急に震えが来た。

 恐い‥‥誰もいるはずはないのに湧き上がってくる不安にたまらなくなる。

 でも‥‥‥陽介さんにいて欲しいなんて言えるわけない。

 はつねはドアを開けると陽介さんはやっと向きを変えた。わたしは中に入ってドアを閉めた。



 陽介さんの足音が遠ざかっていくのも。

 いつもは平気な部屋の静けさも。

 玄関の小さなライトだけでその先に暗い闇が広がっているのも。

 いつもと何も変わらないのに。

 どうしようもなく恐怖が迫ってきて、はつねは玄関先にしゃがみ込むと動けなくなった。

 どうしよう‥‥あの男がまた襲ってきたら…そんな事ありはずないのに、どうしても恐くて仕方がない。



 どのくらいそうやっていたのかわからない。

 いきなりピンポンが鳴ってはつねは飛び上がった。

 ドアの覗き窓から恐る恐る外を見る。

 「はつねさん?どうだ。大丈夫か?」

 陽介さん!

 はつねはすぐにドアを開ける。

 「どうした?まだ着替えもしてないのか」

 陽介さんは手早くシャワーをすませたらしく髪が少し濡れていた。そしていつか見たスウェットの上下を着ていて…

 はつねは衝動的に彼に抱きついた。

 「わたし‥‥わたし…恐くて、またあの男が来るかもって…どうかしているってわかってるんです。でもどうしていいかわからないんです」

 わたしったら、何を言ってるのだろう?

 陽介さんは警官だからわたしに付き添っただけの事なのに、きっとこんな事して迷惑なんだろう。

 でも今のはつねには彼しかいないから。



 「悪かった。恐がらせたか?さあ、とにかく中に入ろう。今夜はずっと君のそばにいるから心配ない。絶対にどこにも行かないって約束する。これからは俺が君を守る」

 陽介さんもしゃがみ込んでわたしと同じ目線になる。

 陽介さんとびっきり優しいまなざしが心臓に大砲でも打ち込まれたみたいな衝撃を走らせた。

 うぐっ!その視線、卑怯です…

 陽介さん、わたしのそばにいるって言いました?わたしを守るとも…‥

 あの…わたしのあなたへの気持ちはどうすればいいんでしょう。

 あなたにきゅんと疼くようななこの胸の痺れをどうすれば止めることが出来るのでしょう。

 どうすればこの気持ちをあなたに知られずに守ることが出来るんでしょうか……

 わたし、ちっとも大丈夫じゃあありません。

 「……」はつねは何も言えなくなる。



 「そうか。やっぱり恐くてこんな所にいたんだな‥‥すまん約束したのに、そんなにつらいなら病院に行くか?」

 はつねは首を横に振った。

 むろん病院になど行く必要はない。もう、すぐにでも横になりたい気分だ。

 でもきっと眠ることは出来ないだろうな。



 「とにかく着替えたほうがいい」

 陽介さんの声がふわりと心に染みる。

 彼はわたしの腕の下に手を差し入れてくる。

 その感触に身体はビクッとしてしまう。

 「すまん、君を抱いて運ぼうかと」

 陽介さんの手は空を舞った。

 「わ、私ったら…ごめんなさい」

 はつねは慌てて服に視線を向けて驚く。

 そう言われれば服は尻もちをついて引きずられ汚れたままだ。もうこんな格好を見られてたなんて…

 「あっ、いいえ。ひとりで出来ます。いいんです。陽介さんもう帰ってもらっていいですよ」

 「はつねさん照れてるのか?いいんだ。俺、さくらの時もろくに世話もしてやれなかった。だからせめてこれくらいやらせてくれないか?」

 「えっ?」

 さくら?あっ、妹さんだ。

 はつねの顔がこわばる。



 彼が何か勘違いさせたと気づいて出しかけていた手をさっと引っ込めた。

 「いや、違う。君の服を脱がせようなんて思ってもいない。俺はこの部屋にいるから心配しないで着替えて来ればいい…約束しただろう」



 彼ははつねを支えるようにしてリビングまで入って来た。

 どうも彼の様子がおかしくない?

 いくらあんな目に遭ったからって。

 陽介さんさっきから約束、約束って?何か約束したわたし?

 「はい‥‥」取りあえず返事はしたものの…



 はぁ…それにしてもわたしって彼に取ったら妹みたいな存在なんだ。

 亡くなった妹さんへの罪滅ぼしかぁ。

 はつねはのろのろと洗面所に行った。鏡を見て驚く。

 頬は赤くはれて首にも絞められた跡がくっきり残っていた。

 男に締め付けられた時の感触が思い出される。

 そして覆いかぶさって来た時の恐怖が脳裏に焼き付いていて。

 そして口をふさがれた事を思い出して。

 わたしは顔を無我夢中でじゃぶじゃぶ洗い始めた。

 汚い手がわたしの顔を触ったと思うと、何度洗っても汚れている気がする。

 皮膚がカサカサになるまで洗い続けると、力を使い果たしたみたいに体から力が抜けてへなへなとその場に座り込んだまま動けなくなった。



 「そうだ。ご飯まだだろう?何か頼もう。はつねさん何がいい?」

 陽介さんの声が聞こえる。

 そんなに優しくしないで!わたしやっぱり同情なんかいらない。

 「もう、帰って陽介さん!わたしの事なんか放っておいて…どうせわたしは汚されてて……ヒック、ズズッ、それにわたしはあなたの妹でもないんだし」

 それははつねがずっと心の奥に秘めていた悲鳴だった。

 

 ばたばたと足音がして陽介さんが洗面所にやって来た。

 「はつねさん、なんてことを。俺は…君をそんな風に思ってなんかいない」

 はつねは、はっと顔を上げる。

 その顔は恐い。

 目は吊り上がり、鼻息は荒く、口元はきつく結ばれ、握られた拳はわなわなと震えていた。

 陽介さんはその場にくずおれたはつねを容赦なく抱き寄せた。

 そのしぐさは途方もないほど優しかった。

 「放っておけるもんか!君は汚されてなんかいない。それにはつねさんを妹だと思ったことはない。こんな日は…誰かを必要としているこんな時こそ君のそばにいたい。頼む。帰れなんて言わないで欲しい。はつねさん言ったじゃないか、どこにも行かないでと…‥俺は約束は守る」

 いつにない陽介さんの必死な声が…‥はつねの心にじんわり沁み込んで来る。



 「よーしゅけ、さ‥‥ん、」

 はつねは彼にすがって泣く。

 わたしはずっとこんなふうに力強く自分を受け止めてくれる人を求めていたのかもしれない。

 陽介はただ黙ってはつねを抱きしめてくれた。



 しばらくそうやって抱きついているとだんだん落ち着いてきた。

 ふと、おぼろげな記憶が脳裏に浮かぶ。

 そう言えば路地でわたしは陽介さんに何か言ったような。いや、ひどくしつこく言った気がする。

 しがみついてどこにも行かないでとか‥‥言いましたね。はい、確かに。

 まさか‥‥彼はそのことを?

 

 道理で…だから彼は着替えてうちに来たんだ。

 彼は今日あんな事があったから今日はそばにいてやろうって言ってるんだ…‥



 耳元で陽介さんがささやく。

 「もう絶対に離さない。約束する。ずっと君のそばにいる」

 「えっ?」

 はつねは陽介から体を離す。陽介がはつねを見つめる。

 ふたりは見つめ合って…‥

 「俺、口下手だからうまく言えないけど、はつねさん君を…君を守るって約束する。だから…‥」

 「へっ?よーしゅけ、さん?ま‥‥じ?」

 あまりにドキリとして脳とろれつが回らない。



 「当たり前だ。冗談でこんな事言えるか!俺がどれだけ感激したか。あんなにそばにいてって言われて男が引き下がれると思うのか?」

 「あの、いえ、いいんです…‥引き下がれないからってそんなことは…陽介さん無理しなくていいですから」

 「おい、こら!それは言葉の綾で…俺もはつねさんと一緒にいたいからに決まってるだろう」

 陽介さんの唇が落ちてきた、またしても唇を押し付けられるキスで‥‥

 不器用なキスとごつごつした手ではつねは抱き寄せられる。

 もう、何も言うなって言ってるみたい。

 はつねの心はふんわりと温かくなっていく。



 やっと陽介さんが唇を離したと思ったらあたふたと体を離された。

 「すまん。君は、その…あんなことがあった後で、今夜はもう何もする気はなかったのに。そうだ先にシャワーを浴びろ。何か食べ物を頼んでおくから」

 陽介さんはそう言うと立ち上がり洗面所を後にした。

 はつねはまだポカンとしていた。

 確か、一緒にいたいって言ったよね。

 今のは何の告白でしょうか?



 それに彼の話しぶりでは、今夜わたしたち一緒に過ごすって事らしいが‥‥

 そんなの…‥無理、無理、無理なんですけど。

 わたしたちもしかして、やっぱりそんなはずはない。これ以上の事はしないってさっきも言ったし、

 でも、パパやママが知ったら何て言うか。

 結婚前の娘がふしだらな!

 親の顔に恥を塗る気か!パパの恐ろしい顔が浮かぶ。

 もしも、結婚とかすることになったりして?

 ううん、まさか。

 陽介さんって確かノンキャリアだったし…我が家には輝かしい超スーパーエリート人間しか入る余地はないと言われそうな気も‥‥

 もう、わたしったら何を考えてるのか…気が早すぎるってば。

 はつねは、急いでシャワーを浴びた。





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