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 こんなことってある?

 久しぶりに長い雨が上がり空が晴れ渡った休日、溜まりにたまった洗濯物が部屋中にあった。

 はつねは張り切ってベランダに洗濯物を干した。シーツにシャツや部屋着そして下着まで…

 部屋中を掃除して買い物を済ませて遅い昼食をカフェで済ませると、さっそうと部屋に帰って来た。

 買ってきた食材を冷蔵庫に入れるとベランダの洗濯物が目に入った。

 さあ洗濯ものを取り込まなくっちゃ!

 気持ちよく乾いたシーツや部屋着などを片っ端から取り込んでいく。そしてそれらをたたみ始めた。

 あれ?確かブラジャーは3枚あったはず‥‥ショーツはちゃんと3枚あるのに、なぜかブラジャーだけが一枚足りない。

 えっ?下着泥棒?

 一瞬血の気が引く。

 まさか、だってここはマンションの最上階。おまけに8階だから外から盗むのは無理に決まってるじゃない。

 もう、3枚ともセットで買ったお気に入りだったのに…

 なくなったのは白いレース地にピンクの花柄の刺しゅうが入った一番お気に入りの…もう、ショーツだけじゃ…



 なくなった理由を考えているうちに、体が強張って来た。あのブラジャーが男の人に盗まれたなんて思ったら怖くなった。

 だってはつねは極端な男性恐怖症で…それと言うのもわたしは女子高1年生の時男の人に乱暴されたから…16歳で男も知らないバージンだった。

 そんなことがあってから、しばらくは対人恐怖症になったが、カウンセリングなどのおかげか半年が過ぎるころには、何とか人と接することが出来るようになった。

 でも、今でも満員電車や男の人に触れられるのは無理だ。

 よく知った男性と握手くらいなら何とかできるけど‥‥

 特にいきなり後ろから腕をつかまれたりしたら、もうパニックになる。

 だから大学は幼児教育学科を選んだ。将来的に仕事をする時、普通の会社勤務は無理だと思ったから、そして無事に大学を卒業して今年無事に保育園の保育士として就職した。

 それをきっかけにやっと白金台の実家から出て一人暮らしを始めた。もちろんマンションは家の近くにしなさいと母からきつく言われて、実家から1キロほど離れたセキュリティシステムがばっちりのところになった。

 おまけに職場までは5分ほどの距離も良かった。

 ずっとあこがれていた一人暮らし。はつねに取ったら夢のような話だ。

 やっとこれでわたしも大人の仲間入りだわ。

 もしかしたらわたしにも、ロマンチックな出会いが待っているかもしれない。




 その時チャイムが鳴った。

 わたしは体が飛び跳ねた。

 恐る恐るモニターを覗く。

 モニターには目つきが鋭く、唇を引き結んだ男の人が映っている。

 体が震えてハムスター並みにぴくりとなった。

 わたしは慌てて返事をする。

 「…‥はい、何でしょうか?」

 「あの‥‥隣の桐生と言いますが‥‥」

 「はあ…」

 お隣さん?桐生?最近はポストにもドアにも名前が書いていない家が主流だし…

 わたしもあまり近所付き合いをしていないし。

 たまにエレベーターで誰かと一緒になることもあるが、極力男性とは一緒に乗らないようにしているため、この人が本当に隣の人かさえもわからない。

 モニターに映ったその人は無愛想に黙ったままで…

 「あの…それでご用件はなんでしょうか?」

 わたしは思い切って尋ねた。



 「あの‥‥いきなりですが、これはあなたの部屋からのものではないかと‥‥ブ…あっ、いえ下着がうちのベランダにありましたので」

 桐生さんは無表情でわたしに見えるようにカメラに向かって今日なくした白いレースのブラジャーを広げた。

 「あっ!それ…すみません。すぐ取りにおります」

 そう言ってわたしはハッとする。

 ちょっと待って!お隣さんならドアをノックすればいいじゃない。どうして一階のエントランスからわざわざチャイムを鳴らしてるのよ。

 「あの…桐生さん」

 わたしはモニターに向かって叫んだ。



 しばらく間があって返事が返って来た。

 「はい、何でしょう?」

 「すみませんがそれポストに入れておいてもらえれば、わたしちょっと忙しいので…あの、本当にありが」

 「あの…失礼ですけど、ついでだから持って行きましょうか。わたしも部屋に戻りますし、同じ階ですから」

 桐生さんは部屋に来るつもり?



 突然の行動を起こそうとするこの不審人物に額から冷や汗が伝う。

 「ま、待って下さい。困ります。わたし…いいですからポストに」

 「あっ?すみません。わたしこう言うものですので」

 桐生さんはポケットから手帳を出してカメラに向かって広げた。

 警察手帳…そこには桐生さんの顔写真と肩書と名前が書かれていた。 

 警視庁 警部そして桐生陽介と‥‥

 道理で生真面目に見えたはずだ。



 わたしはほっと胸をなでおろして床に座り込んだ。

 もうどれだけおかしな心配してるのよ。あんな事もう二度と起きたりしない。しっかりしなさいよ。

 胡桃沢はつね。22歳。もう立派な社会人のくせに‥‥

 我ながら何でもないことに変にびくつく自分がいやになる。



 しばらくすると本当にドアのチャイムが鳴った。

 やっぱりと思う自分にまたため息をつく。

 「あっ、はい」

 そしてさらにわたしはドアのモニターで顔をチェックして恐る恐るドアを開ける。

 桐生さんは、表情筋をぴくりともさせず感情のない顔で話す。

 「いきなり悪いとは思ったが、わたしはこの階の角部屋なのでそちらからの物ではないかと思ったもので…」

 「すみません。ありがとうございました」

 わたしは話の途中で手を出した。

 急いで彼が手の中で丸めていた温かいブラジャーを手のひらに受け取る。

 彼の指先が親指の付け根辺りをこすって離れた。

 いつもなら体がびくっと震えるのに、なぜかちっとも怖くない。

 彼が警察官だと分かったから?

 彼が優しい人だと思ったから?

 真面目な人に見えたから?

 

 そろそろと顔を上げると真っ直ぐにこちらに向けられた彼の顔とぶつかる。

 モニターから見た彼もかなり整った顔立ちと思ったけど、実物はもっとイケメンだった。

 切れ長の鋭い瞳、高く通った鼻筋、さっきも真一文字に結ばれていた唇。

 ただ、そこには柔らかさというか、表情がほとんどない。それに強面で身長も高く体もでかい。

 ふと、こういう人の事を仏頂面と言うのだろうかと思う。

 わたしはせっかく届けてもらったのに、なんだか怒られているような気分になる。急いでドアノブに手を伸ばす。

 「じゃあ、本当にありがとうございました」

 「あの、余計なことかもしれないが、気を付けたほうがいい。若い女性がそんなものは外に干さない方が…」 

 はっ?言われなくてもわかってますけど…と言いたい言葉をぐっと飲みこみ。

 「はい、わかってます。でも、ここは8階だし、ずっと雨で…いえ、いいんです。失礼します」

 わたしは頭を下げてドアを閉めた。

 

 すでに冷たくなったブラジャーを握りしめ、まったくなんであなたにそんなことまで言われなきゃいけないのよ。警察官だったらあんな偉そうな態度を取っていいと思ってるの?

 せっかく届けてもらったのに、気持ちはとげとげしていた。



 そしたらまたドアがノックされた。

 「何ですか?」

 わたしは無愛想にドアを開ける。きっと眉は30度くらいに上がっているのでは…

 「君の名は?」

 はっ?

 いきなり頭に映画のワンシーンが浮かんでおかしくなる。

 「名前なんてどうして聞くんですか?」

 「いや、隣だし、名前くらいは聞いておこうかと。悪いか?」

 今度は取り調べなの?と思いつつも…

 「はあ…胡桃沢はつねです。よろしくお願いします」

 「ああ、桐生陽介だ。よろしく。君、学生?」

 「いえ、近くの保育園で働いていますけど…」

 何か文句でも?

 いや、落ち着けわたし。



 「あの、駅に行く途中にある?」

 「はい、そうです。やわらぎ保育園ですけど…」

 もう、ばか!何でそこまで話すのよ。

 「そうか、胡桃沢さんて保育士なのか」

 桐生さんの顔に驚きが‥‥



 はっ!悪かったですね。わたしってそんなに子供っぽいですか?

 ついそんな事を言ってしまいそうになる大人げない思考回路をつなぎ直すと、はつねは困った時の神頼み的な顔を作る。

 唇を引き結んではいるが口角を上げて笑みを作るやつ。人と関わるのが苦手になって嫌な時をやり過ごしたいとき、ついこんな顔をする癖がついてしまった。

 「君はもっと若いのかと思ったが‥‥」

 えっ?余計なお世話ですけど。一体彼は何を考えてるのだろう?

 なのに途端に言葉が滑り落ちる。

 「あの…‥わたし今年大学を卒業したんです。まだ新米で失敗ばかりなんですけど…」

 「そうか。いや、そうだろうな」

 彼がうなずいて言う。

 「だけど小さな子供相手は大変だろうな。じゃあ、頑張って!」

 「はい、ありがとうございます。桐生さんもお仕事頑張って下さい」

 もう、何言ってんのよ!



 「ああ、ありがとう。それからドアにはちゃんと鍵をかけて」

 「あっ、はい。失礼します」

 ドアを閉めるころには、ほんの少し桐生さんと打ち解けていた気がするのは気のせいだろうか…おまけに彼を励まして…

 ドアを閉めて絶句する。





 他人事のような口調なのに、なぜか心配されて励まされてはつねは何となくうれしくなった。

 それから、わたしは何だか気分がよくて、アーモンドパウンドケーキを焼いた。

 数切れを切り分けると、きれいにラッピングして隣のドアのチャイムを鳴らした。

 「はい」

 切れのいい声がしてドアが開いた。

 彼の怪訝そうな顔を見て一瞬で気分がしょげた。

 「さっきはありがとうございました。あの、これ焼いたんですけど良かったらどうぞ」

 話し声はどこまでも小さくなって行く。



 「君が?焼いたのか。すごいな」

 桐生さんはさっきと同じシャツとジーンズをはいていた。

 切れ長の目が見開かれる。

 あっ!彼のまつ毛って意外と長いんだ…変なところに感心する自分。なぜだ?

 頭に沸いたおかしな考えに顔をふるふると振る。

 「すごいなんてとんでもありません。簡単なんです。嫌いじゃなかったら」

 真面目そうな彼はまだ受け取ろうとはしない。顔は少し困った顔で…

 「あの…わたし…ごめんなさい。余計なことをして…」

 今度こそ撃沈。やっぱり迷惑だったんだ。

 わたしは唇をかみしめた。



 「違う。驚いたんだ。女性からこんな事されるのはほんとに久しぶりというか‥‥」

 彼がわたしの手からふわりと包みを取り上げた。

 ほんの100グラムほどの包み。それをすごく重く感じていたわたしは思わず彼と目が合う。

 彼もわたしと同じように固まったままで‥‥

 あっ、わたしと同じ、もしかして桐生さんも緊張してるの?

 そう思った途端なんだかうれしくなった。

 「あっ‥‥じゃあ。失礼します」

 わたしは慌ててドアを閉めると廊下を走り去っていた。



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