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しおりを挟む徹さんが言うには、徹さんの自称ちっさな組では、主に店舗経営で収入を得ているのだそうだ。
それは所謂Sub風俗で、行き場のないSubを拾って世話してやり、安全に稼がせてやってる、という。
「数年前にオレのシマの風俗店のオーナーが変わってな。Subが不当な扱いを受けないようにルールが見直されたんだ。それでも最近も結構悲惨な事件があったりしたんだが」
勤務しているSubがストーカー被害に遭うことは時々ある。嫌がらせを受ける、程度ならまだ仕方ないと俺も思うけれど、傷害事件に発展することもある、というのは俺も知っている。
「そのオーナーがさ、稼がせて貰ってんだから守ってやるのは当然だって言っててさ。身の安全をできるだけ守ってやろうって方針の中で、最近問題になってんのがドラッグの類なんだ」
「ドラッグ?でも、あんたたちはそれを売ってんだろ?」
勝手なイメージだけど、違うのかな?
「そう思われんのも仕方ないが、あれは稼ぎはデカいが捕まった時の損害もデカい。一昔前は当たり前だったが、オレの組は一切関わってない……が、オレのシマの風俗店でキャストが持ってんのが見つかってさ」
問いただすと、とある客がくれたと言う。で、その客はまた別の人間から買ったと。
「ドラッグやるのは個人の自由だが、そんなもんやってるとロクなことになんねぇ。キャストには手を出すなと言い聞かせてるが、そもそも持ってきた奴も、オレのシマで売ってる奴も悪い。組としては見過ごせないわけだ」
「そうなんだ。まあ、俺たちSubってただでさえ底辺なのに、薬なんてやったらもう終わりだよね」
「それもそうなんだが、オーナーはとにかくSubを救いたいんだよ。変なおっさんなんだ」
すげぇ自己満足だな、なんて卑屈な俺は思うわけだけど、でも確かに、どうせ俺たちSubは一般社会で生きるのは難しい。体を売って稼ぐしかない奴は多い。ならできるだけ安全に、というのは間違ってはいない。
そういう安全圏から出て商売をすると、普通の風俗よりも稼げるだろうけれど、下手したら簡単に命を落とす。多分恵介さんもそんなSubだったんだろうな、なんて思った。
その点俺は今、光貴という安全圏で楽しんでるんだから、ありがたい環境ではある。とは言え一番危険なのが光貴なんだけど。
「その話と俺と、何の関係があるの?そのドラッグの危険性を身を持って教えてやれとか言う話?別にいいけど、責任はとってくれよな」
「バカかお前。ったく、どんな生き方してたらそんな発想になるんだよ……」
俺は徹さんにニッコリ笑みを向けた。徹さんは呆れた顔で目を逸らした。
「とにかくお前に頼みたいのは、ドラッグを売ってる奴が出入りしてるクラブで、それっぽいのがいないか探ってくれってことだ」
「ああ、なるほどね」
如何にもなSubの首輪をしていて、そんなところに出入りするとよくあることだ。クスリキメてプレイすると最高だぜ、とか言って誘ってくるなんて話は。
「その売人の顔もなにもわかってないってことだよね?」
「そうだ。この話を光貴にしたら、お前を貸してくれたんだ。どういうことだ?」
「どうって……まあ、ちゃんと仕事はするよ」
再びニッコリ笑いかける。徹さんは見向きもしなかった。
そうして話をしている間に、車は目的地に着いたようだった。徹さんはクラブから少し離れた路肩に車を停めてエンジンを切った。
目と鼻の先に独特のネオンが輝く看板が見える。
「あそこでドラッグを買ったそうだ」
もしかして、と車の進行方向から考えていたが、俺が通っていた大学と程近い地域だった。俺はそのクラブに来たことはないけれど、間違いなく輝利哉の経営する店舗のひとつだった。
思わず心の中で大きなため息を吐く。どうか鉢合わせしませんように。
「ここで待ってて。すぐにすませるよ。あ、スマホのカメラでも起動しておいたら?顔写真が撮れるようにしてみる」
「……は?」
じゃ、と何か言いたげな徹さんを置き去りにして、車から降りると真っ直ぐクラブへと向かった。
クラブの入り口は1箇所、正面にしかなかった。どこかに防災用のドアがあるかもしれないが、下準備をする暇はないので無視する。従業員は裏口を使うだろうけど、それも出入りのタイミングや場所がわからないからとりあえず無視だ。
光貴と過ごしていて身についた習慣は色々ある。マルチツールを持ち歩くのも、パラシュートブレスレットみたいな便利な小道具を持ち歩くことも、車のナンバーを覚えることも。
それと、どんな建物に入っても、とりあえず間取りを予測する。外観や内装の幅で、とりあえずの部屋数とか、出入りできそうなドアや窓がないか、なんてことを。
じゃないと警察や、もっと恐ろしい誰かに捕まって、最悪殺されるからだ。
クラブの中は薄暗く、よくある雰囲気の中で音楽が鳴り響き、有象無象の人間が男女入り乱れて踊ったり飲んだり騒いでいた。
あれ…?クラブって、こんな音が静かだったっけ?
こんなにエコーがかかったような音だったっけ?
しばらく来ないと、なんだか変な気分になる。よく遊んでいたのは、そういや何ヶ月も前なのだ。
俺は一度目を瞑って心を鎮め、余計な思考を消した。
それで、しばしクラブ内をうろうろとした。カウンターに近付いて言って、周りを確認しつつ、正面に立ったバーテンに控えめに笑いかける。
「何か飲む?」
「あ、えっと、オススメで……」
そう言うと、バーテンの男は軽く微笑んで、俺が目を離している間にショットグラスを出してきた。すでに強烈なアルコール臭のする液体が入っている。
「これはサービス。2杯目からはお金を取るよ」
「なんのお酒?」
「飲んで感想を聞かせてくれたら教えてあげる」
俺は引き攣った笑みを浮かべて、その酒を飲んだ。カッと喉が焼ける。すぐに胃が燃えるような感覚がした。どうせ定番のテキーラだろうとは思うが、味はやっぱりよくわからない。
「うっ、キツ……」
「ああごめん。ちょっと度数高いから」
申し訳なさそうに男が笑みを浮かべる。
「これ、テキーラとか言うやつでしょ?俺だってそれくらいはわかるよ」
「当たり。初めて飲んだ?」
「うん。こういうとこって、俺みたいなSubは来ないでしょ?」
「あー、まあ、そうだね。パートナーがいる子はお相手と来ることが多いしね」
「俺のご主人様がね、お前はプレイが下手すぎるから、ちょっとは経験積んで来いって言うんだ。俺、ムカついてさ……だから今日は遊んでやろうって思って来たけど、いざとなるとどう遊んだらいいかわからないね」
そう言って微笑む。バーテンの男は笑みを浮かべたままだ。
「とりあえず飲んで気分を上げたら?そのうち楽しみ方がわかると思うよ」
と、そこで、少し離れたところで談笑していた男性二人組が手を挙げた。バーテンの男はニッコリ笑みを浮かべたままそちらへ向かう。
「よお、お前のバーテン姿見に来てやったぞ」
「似合わねぇな!」
アハハッと笑う二人組の声。
「来るなら来るって言えよ。恥ずかしいだろ」
「おどかそうと思ったんだよ」
「何飲むんだよ?ここ厳しくてさ、割引とか出来ねぇからな」
「一杯くらい出せよ!」
「無理だって」
そんな会話が聞こえた。
「な、今1人だよな?」
声がして振り返ると、茶髪で痩身の、俺と同年代の男がいた。
「そうだけど…?」
「ちょっと話そうぜ。お前、Subだよな?」
不躾な質問だけど、こういう場ではありきたりな挨拶みたいなものだ。
「そうだよ?この首輪が見える?俺のご主人様はさ、こんな派手な首輪しておいて、社会経験を積んでこいなんて言うんだよ」
「酷いな。良かったら話聞くけど」
そうやって微笑みかけて、最初に良い印象を与える。優しい言葉と、同情を見せて取り入って、自分はお前の味方だ、と印象付ける。
俺もやってた。昔、光貴に言われて、ドラッグを売ってた時に。
如何にもなSubを品定めして、自然に距離を詰める。話を合わせておけば何とでも言いくるめられる。Subは抱える問題が多くて、精神的に脆弱な傾向がある。これは大学の専攻でもテーマとして挙げられている。
「お前のご主人様ってどんな奴?」
「傲慢で自己顕示欲が強いだ。わかるだろ?こんな首輪つける奴だよ?」
そうやって哀れな自分を演じる。光貴の趣味が幸いした。今の自分は、如何にもなブランドものの衣服を着せられていて、これがDomの所有欲を如実に現している。相手にはきっと、独占欲の強い相手のDomに参ってしまった哀れなSubに見えただろう。
「そうだな。たまにはお前もハメ外したいよな?おれとためしてみねぇ?最高のプレイさせてやるからさ、その経験でお前のご主人様を見返してみるってのはどう?」
チョロいな、と内心で思った。バカな奴。相手はもう少し選んだ方がいい。
まあ、そんな判断ができるには、それなりに修羅場を潜らないとならないが。
「相手してくれるの?」
「もちろん。どっかホテルでも入ろうか」
「うん。でも、下手だったらごめんね…?」
「それは大丈夫、とっておきがあるから」
そう言って男が俺の手を引いて歩き出した。俺はただ、手を引かれるままそいつの後を追う。
正面の出入り口を出る。こういう場で出会いがあるのは当たり前の話で、だから誰も気に留めることはない。
それで、クラブから出て少し歩いてから、俺ははっと立ち止まった。徹さんの車が車道の反対側にあるのをチラッと確認する。
「あの、ごめん!クラブに忘れ物したかも。ちょっと取ってくるね?」
「ああ、ここで待ってる」
俺はニッコリ微笑みかけて、クルッと踵を返してクラブへと戻った。
それからバーカンから離れた壁際を歩き、クラブ奥のトイレを目指す。
トイレは男女別で、男子は小便器が三つ、個室が二つのありふれたものだった。俺はそのトイレの奥を見てホッとした。
小さな窓がある。磨りガラスで内側に上部が倒れて隙間ができるタイプの窓だ。
俺はポケットからマルチツールを出して、その窓のネジを外しにかかった。
光貴は当然のように、衣服にいつもの道具を入れた。これはもはや習慣として俺たちに染み付いている。多分光貴も同じようなものを持ち歩いてる。
易々と窓を外し、そっとタイル張りの床に置く。少し高い位置の窓から身を乗り出して、外へと這い出る。
それからは、ただクラブから離れ、暗い路地を小走りで進み、大回りして徹さんの車へと近付いた。
ガチャっと助手席のドアを開けて乗り込むと、徹さんはスマホを手にしたまま飛び上がった。
「おまっ、え?」
運転席側の窓から外を見て、またこちらへと視線を移す。
「クラブに戻ったんじゃないのかよ!?」
「戻ったよ?」
「は?じゃあ、なんで…?」
「忘れ物したって言って戻って、トイレの窓を外して外に出た」
唖然とした表情の徹さんへ、俺はポケットから取り出したものを投げて渡す。
「それが欲しかったんでしょ?」
「……おい、どういうことだ?」
俺が投げて渡したものを拾って、徹さんは冷たい目で俺を睨んだ。俺だって進んで犯罪を犯したいわけじゃないのに、本職の人に睨まれるなんてとんだ災難だ。頼んできたのはそっちなのに。
「スッたんだよ。あんな人が多いとこにさ、身分がわかるものを持ち込む方が悪いと思うよ?大学の学生証が入ってたし」
徹さんが手にしているのは、あの男からスった財布だった。二つ折りのそこそこ値段のはるブランドものだ。大学生には高いけど、見栄を張るにはちょうど良い、そんな価格帯の。
「これだけじゃ売人だとはわからない」
「だからこれもお土産。違法ドラッグってやつでしょ?」
と、俺はまた手にしたものを徹さんに投げ渡す。透明の小さな袋に2粒、白い錠剤が入っている。
「それもあの男が持ってた。多分、バーカンの男とグルだ。ソイツが合図を出して、ツケ入れそうなSubを知らせる」
多分最初のショットグラスがそうだ。サービスはしてないクラブで、あれは不自然だった。
「それで、バーカンの合図を見て、別の奴が如何にもなそのSubに声をかける。風俗にいそう、とか、金持ちのDomに飼われてるのに遊んでそう、とか……クラブなんて初めてです、みたいな、ね」
そうやって、目的を持って見れば、大多数の中のSubはすごく目立つ。抱えた劣等感か、憤りか、悲壮感か、そんなのはわからないが、normalとも、Domとも違う雰囲気がSubにはある。
そういうのが無意識的に差別を生んでいるんだろうけど、でもこういう感覚というのは、当事者にならなければわかるはずもないものだ。
「それで連れ出して、ドラッグに手を出させて顧客にする。金持ちの飼い犬ってのは、主人の見栄で良いものを身につけさせられるんだ。金持ちのDomがパートナーのSubはお小遣いをねだって、薬を買い続ける」
今の俺も、あいつらからすればいいカモに見えただろう。光貴が着せ替え人形みたく揃えるものは、いつもお高くて上品なものばかりだ。
若者が出入りするあのクラブで、俺は世間知らずのか弱いSubに見えたに違いない。
「お前……なあ、今まで何があった?オレは光貴から聞いた侑李くんしか知らない。でもどこかで違和感があった。光貴から聞くお前の印象は、すごく兄思いのいい弟だった。我儘を言わない、控えめで頭の良い、可愛い弟だと聞いてた。でも組の奴らがお前のところへ出入りするようになって聞いた話では、快楽に従順でどんなプレイも受け入れる、頭のおかしいSubだってことだった……それにお前は、こういう犯罪に関わることにも慣れてるんだろ?本当はどうなんだ?どれがお前の真実なんだ…?お前は、本当はどんな人間なんだ?」
その瞬間、俺の頭は真っ白だった。
俺はどんな人間か?
本当の俺って、なんだった?
例えばあの中学三年の夏休みより前は、何を考えて生きていたっけ?
あれから俺の人生は変わった。Subであることを受け入れて、どうにもならないことがあると知って諦めることを覚えた。
でもそれ以前は違ったはずだ。まだ、自分がSubだとわかる前、どうせnormalだと思っていた時は。
……思い出せない。
「……徹さんはさ、中学生の時何してた?」
「は?」
俺の唐突な問いに、徹さんは首を傾げながらも言った。
「ヤクザって家系が嫌すぎて、毎日適当なとこで連れと駄弁ってた。ほら、不良もののドラマとかであるだろ?寂れた廃墟とか、橋の下とか、そんなとこでタバコ吸ったりしてたよ」
俺は?
中学生の俺は、輝利哉と朔が大学に入ったから、忙しくなってあまり構ってもらえなくなった。
必然的に1人の時間が増えて、でも家には帰りたくなくて。
それで、何してた?
「俺、何してたっけ?何も思い出せない……」
沈黙が重かった。徹さんを見ると、険しい顔で俺を凝視してた。
「あのさ……お前の母親って、なんで死んだんだ?」
母親?何でって、そんなの……
「母さんは……そういや俺、母さんがいつ死んだのか知らない。何も覚えてないから、俺が産まれてすぐ死んだのかな?全然思い出せないから、そもそも顔も知らないのかも」
徹さんはジッと俺を見つめている。なんだか居心地が悪くなってきた。
「お前さ、実家のことわかる?お前の部屋はあったか?」
「俺の部屋…?そんなのないよ。兄ちゃんと共有だった」
「じゃあリビング、居間は?どんなだった?」
いつもアル中の父親がいた。そのしょぼくれた背中が一番に浮かんだ。
「親父が座ってた。いつも、同じように」
「ほかは?ほら、台所とか、洗面所がどこにあったとかさ、どんな家具が置いてたとか、なんでもいい。なにか覚えてるだろ?」
頭の中で、兄と共有していたあの忌まわしい部屋から出る。居間には父親が情けなく酒を飲む背中がある。
そこから視線を外してみた。
真っ白だ。何もない。台所も、洗面所も風呂場も、玄関すら、どんな間取りだったのか思い出せない。
「あれ…?どんなんだったっけ…?」
約十数年住んでた家だ。兄と二人きりになってもそこに住んでいた。
それなのに、何も思い出せない。
唐突に、キン、と耳鳴りがした。徹さんが真剣な顔で何か言っている。
俺にはその顔は見えていて、多分聞いた方がいいんだってわかるけど、耳鳴りが酷くて何を言っているのかがわからない。
「一度病院に行った方がいい」
「……え?」
しばらくしてやっと耳鳴りが治って、それだけ聞こえた俺は首を傾げた。どういう意味だ?
「だからさ、」
と、呆れた顔の徹さんが再度口を開く。でも、それを聞く前に、今度は違う不快感が俺を襲った。
「っ、はぁ…!や、とおる、さ…!」
腹の奥や背筋がムズムズした。呼吸が乱れて、頭がぼうっとしてくる。
「おい!どうした!?」
「さ、さっき飲んだの、多分、薬が入ってた」
「はぁ!?」
あの最初のショットグラスに何か入ってたんだろう。それをわかってて飲んだのだが、徹さんにそれを伝えてなかった。
「はぁ、あ、ンッ!ダメ、帰りたいっ!兄ちゃんっ、にいちゃ、あっ!!」
ダメだ。もう我慢できない。でも、徹さんに迷惑はかけたくない。
「クソッ、もうちょい待てよ。すぐ連れて帰るからな!」
必死で耐えた。徹さんがDomだってことは、会った時からわかってたけど、でも、縋っちゃダメだって思った。
多分徹さんは俺を抱かない。
少しの間だけど、その表情を見て思った。
この人はちゃんと意思を持ってる。下卑た笑みを浮かべて欲をぶつけてくる奴らとは違う。
俺とは違う人種なんだって、わかった。
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