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しおりを挟む地下室に閉じ込められている間に、季節は春になっていた。
相変わらず俺の寝床は犬の檻のままだけど、リビングダイニングに移動した。それだけで生きてる実感が湧くのだから、日光とか諸々の外の空気っていうのは人間にとって重要なんだと思う。
光貴が今住んでいる家は、閑静な住宅街の中に建つ一軒家で、地上一階はガレージや客間、二階はリビングダイニングと寝室、浴室などがある。
そしてこの一軒家は、もともとの所有者の趣味で、地下にお楽しみ部屋がある。まあ、そういう感じでSubを飼うのが趣味の奴が一定数いるので、俺たち第二性持ちからすれば珍しい話じゃない。
光貴はこの家を一年前に買ったらしい。あの薄汚い実家はどうなったのだろうか?
「兄ちゃん」
檻の中で膝を抱いて座ったまま、程近くのダイニングテーブルに座って、ノートパソコンと向かい合っている光貴に話しかける。
「あのさ、実家ってどうなってんの?」
アル中の父親は、俺が中3の頃に出て行った。あの夏休みの間、昼夜問わず聞こえる俺の悲鳴や喘ぎ声に嫌気がさしたんだと思う。とにかくあれ以来姿を見ていない。生きていたとしても会いたくはないが。
「さあね。お前が俺を刺して逃げてから一度も帰ってないな。どうせ名義は父親だし、あんなボロ屋どうなろうとどうでもいいし」
そうなんだ、と俺は会話を切った。確かに、朽ちて崩れようがどうでもいい。どうせ思い出なんてない。母親が生きていた頃、庭に花を植えたり、古い台所でお菓子を焼いてくれたりしたような気もするけど、どうしてかうまく思い出すことができなくなっている。
ま、俺も5歳だったからそんなもんか。
「そんなことより、侑李は甘いもの好きだよね?」
「ん」
「お花見を兼ねて、桜の見えるカフェでも行こうか。春限定のケーキが美味しいらしいよ」
「……ん」
どうでもいい、と思ったけど、断ると機嫌が悪くなるから頷いた。以前もそうだったが、光貴は時々突然何かを提案することがある。それに嫌な顔をすると途端に不機嫌になって、躾と言ってエゲツない報復をされるのだ。
せっかく誘ってやってるのにその態度はなんだよ!?とか言って勝手にブチギレて、真冬の庭に素っ裸で放り出されたり、トイレの便器に頭を突っ込まれて溺れさせられたり、色々頭のおかしいことをしだす。
だから俺は黙ってニッコリ笑って、光貴にされるがまま身支度を済ませ、久しぶりに外へと出たのだった。
狭い檻や地下室にいたので、久しぶりの外はなんだか落ち着かなかった。光貴の後ろに引っ付いて、隠れるようにして歩く。
しばらく歩くと賑やかな場所に出た。川沿いの桜並木が目に入る。所々に提灯がぶら下がっていて、そこに桜祭りなどと書いてある。
「お祭りがあるの?」
「そうだよ。次の土日は屋台が並ぶみたい」
「そうなんだ」
昔は輝利哉と朔にお祭りに連れて行ってもらったな、なんてことを思い出した。でもすぐにそれらを頭から追い払う。もう2人のことなんて思い出したくない。全部忘れてしまいたい。そうすれば楽になるのに、なんて考えていると、光貴が俺の手を握ってきた。
「こうするとデートみたいだね」
「そうだね……」
何気色悪いこと言ってんだろう。デートだって?俺たちは見た目が似てる。兄弟にしか見えないだろうと俺は思う。
しかもそんな兄弟で、片方はゴツくて目立ちすぎる皮の首輪をしてるんだから、どう考えても異常だ。さっきからチラチラ見てくる視線を感じているけれど、みんな一瞥して眉を顰め、顔を逸らす。
光貴は気付いてないのか、気付いてるけどどうでもいいのか、ニコニコと不気味なほど笑顔を浮かべている。
目的地であるカフェは、前面がガラス張りで開放感があるおしゃれな内装だった。川沿いに面した一角がテラスになっていて、ハラハラと舞う花びらの中でお茶ができるとあって、スマホを手にした若い女性客が多かった。
みんな一様に、似たり寄ったりな格好とポーズで、キャッキャと騒いでいる。どのテーブルにも同じ色合いのケーキが置いてあって、それが春限定のものなんだろう。
俺と光貴もテラス席の一角に案内され、丸テーブルに並んで腰を落ち着ける。光貴はメニュー表を一瞥してからすぐに店員を呼び、アイスコーヒーと春限定のケーキとホットのカフェラテを頼んだ。
しばらくしてテーブルに、やっぱりあのケーキが置かれた。薄ピンクのシフォンケーキで、生クリームが沢山乗っていて、その上に食用の桜の花びらがちょこんと置かれている。
カフェラテにはなんだかよくわからないアートがされていて、女子はきっとこういうのの写真を撮ってるんだろうな、とか思った。
「食べなよ」
「兄ちゃんは?」
「俺はコーヒーだけでいいよ。ほら、侑李は久しぶりだろ、こういうオシャレなやつ」
確かにその通りだ。光貴から与えられる食事はもっぱらドッグフードと水のみで、たまに客の誰かが憐れんでコンビニのおにぎりなんかを置いて行ってくれた。それでよく生きていられるな、と我ながら自分の生命力に驚く。
いただきます、と小声で呟いて、フォークを手にしてシフォンケーキを一口分突き刺す。甘い匂いがする。でも、なぜか全然食べたいとは思わなかった。
それでも口に入れた。食べないと光貴がキレると思ったから。
「侑李、美味しい?」
ニコニコと聞いてくる兄だけど、俺は一瞬言葉に詰まった。昔から甘いものは好きだった。家では食べさせては貰えなかったけど、輝利哉や朔の家に遊びに行くと、おばさんが必ず何かおやつを用意しておいてくれた。それが嬉しくて、雨の日に2人の家に行くのが楽しみだった。
だけど、味がしない。確かに甘い匂いはするのに、どうしてなんの甘さも感じないんだろうか。
「うん、美味しいよ。兄ちゃんにも一口あげる。一口だけね!」
「優しいな侑李。ありがとう」
と、兄の口にケーキを突っ込んでみた。光貴はニッコリ笑ったまま、俺には甘すぎるよ、と言った。
ってことは、おかしいのは俺の口か。
まあでも仕方ないか。変なものばかり食べていたせいだ。体が人間の食べ物にビックリしたんだ、きっと。
ちなみに、一緒に頼んだカフェラテにアホほど砂糖を入れてみたけれど、これもまた何の味も感じなかった。が、俺はそのうち治るだろう、なんて気楽に考えて、帰宅する頃には気にならなくなっていた。
その翌日は、兄の仕事仲間という男がやって来た。
短い黒髪を無造作に後ろへ撫で付けて、全体的にタイトな黒い格好をしていた。さりげないシルバーアクセサリーが良く似合う、兄と同年代の男性だ。
「光貴、良い加減その趣味の悪いのやめろよ。見ているこっちが気分が悪くなる」
リビングダイニングに入って来たその男性は、俺を見るなり顔を歪めて言った。もちろん俺はいつも通り、素っ裸で檻に入れられている。失礼な奴だな、と思った。
「可愛いだろ」
「そう思うならまともに扱ってやれよ。お前の弟だろ」
「だからだよ。俺の弟だから、誰よりも可愛がってるんだ」
話が噛み合ってない。とは言え、機嫌を損ねないように兄と話を合わせるのも大変だ。しかしその男性は、まるでそんなこと気にせず、ズケズケと光貴へと言い返している。
俺が同じように話したら、すぐさま地下室へ閉じ込められて、宙吊りにされた挙句鞭打ちの刑となるだろう。
「はあ。そんなことより、本当に侑李くん借りて良いのか?」
「いいよ。俺の弟だから便利なのは保証する」
「便利って……」
呆れた、という顔をして、その人が俺の方へ近付いてきた。正面にしゃがんでニッと笑いかけてくる。
「オレは山路 徹だ。光貴とはちょっと色々あって連んでるだけで、仲良くはないから安心してくれ」
俺はとりあえず兄の方を見た。話しても良いか?と視線で問う。
光貴はとくに何の反応もしなかったので、俺はとりあえず挨拶を返した。
「……こんにちは、侑李です」
か細い声と上目遣いでそれだけ言う。
「徹、侑李の準備をするからお前は外で待ってて」
「はいはい、了解です」
光貴に促されて、その男性は部屋を出て行った。俺は檻から出され、また勝手に身嗜みを整えられる。まるで着せ替え人形みたいだ。
外に出ると家の前にデカい黒塗りのセダンが停まっていて、運転席からさっきの男が顔を出した。
「侑李くん、嫌じゃなければ助手席に乗ってくれ」
と、わざわざ助手席のドアを少し開けてくれる。俺は光貴に手を振って車に乗り込む。走り出してすぐ、隣の男が言った。
「オレのことは徹でいい。改めてよろしくな」
「……あのさ、光貴ってなんの仕事してんの?」
窓の外に流れる住宅街の景色を見ながら聞いた。不定期に地下室に出入りしていたから、工務店の仕事はもう辞めたとは思う。でも家を買ったりする金はあるのだ。
「あー、えっと、主には在宅でできるデスクワークだが」
「ヤクザの金稼ぎに手を出してる、とかそういう感じだよな?」
「ああ、簡単に言えばそうなる。あいつは昔から頭がいいからな。金を増やすのが上手い……気になるか?」
徹さんが心配気にこちらに視線をやったのが、窓に映って見えた。
「いや全然。どうでもいい。ただ、俺もちゃんと弁えとかなきゃ命が危ないと思っただけ」
「どういう意味だ?」
「俺の相手した奴ら、明らかにそっちの人が多かった。セックスもプレイも気持ち良ければそれでいいんだけど、もし失礼なことしたら消されそうだなって」
オシャレとは言い切れない刺青のある奴らが来ることも多かった。そいつらが光貴にいくら払っているのかは知らないが、Sub風俗はセーフワードを決めたりと自由度が低い。気性の荒い連中に俺は需要があるのだろう。
「悪い。多分そいつらはオレの組の奴らだ」
「組?」
「ああ、ホントにちっせぇけど一応組任されてんだよ。あ、別に身構える必要はないぜ」
「身構えてないしどうでもいい」
ふう、と徹さんがため息を吐く。
「なあお前さ、光貴がいないとそんな感じなんだな。アイツの前では従順なふりして嫌々従ってるのか?」
俺は左右に首を振って答えた。
「嫌々従ってるわけじゃないよ?ただ、光貴には諦めがついてる。あとは俺自身の身の振り方の問題だけだ」
「身の振り方ね……」
「うん。だって今更普通に働くなんて面倒だよ。Sub風俗も考えたけど、もうお上品なプレイで客を満足させるだけなんて、俺が退屈しちゃう。別に今となっては、金が稼ぎたいわけじゃないし」
以前は生きるためにウリもパパ活もやったけど、今は光貴の側にいれば衣食住に困ることはない。毎日気持ち良いことだけ考えていればいい。それで、こうしてたまに光貴のお使いに出る。
高校の時もそんな生活だったし慣れたものだ。
「大学は?お前、大学生だったよな?」
「そうだけど、多分自主退学ってことになってるんじゃない?何にせよ、光貴に見つかってから、俺は全部捨ててきたんだ。もうどうでもいいよ」
徹さんは何とも言えない顔をして口を閉じた。俺は改めて彼を見て、冷めた声で言った。
「んで、俺は何をすればいいのさ?」
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