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 冷たい空気。

 ニッコリ笑ったままの灯。

 俺は苦笑いをして、とりあえず口を開いた。

「あ、あのさ、俺だってお腹減っててね?それで、あの、噂を聞いたんだ。えーっと、あっ!!」

 俺は叫んで、靴を放り出して灯を追い越し、リビングダイニングへと走った。

 灯は後ろで、「待て!逃げるな!」とか叫んでいた。

 しかし俺はそれを無視して、で、ベランダの窓を全開にした。

 本当に逃げようと思ったわけでは、全然ない。

「ウェイ!!盗み聞きか!?」

 開け放った窓の向こう、そこにはベランダに縮こまるウェイが、いつものようにヘラヘラと笑っていた。俺はとっさに胸ぐらを掴み上げて睨み付ける。

「あ、ああ、あの、あはは……」
「ヘラヘラするな!本当に殺すよ?」
「それは勘弁被りたい。いや、長生きしてきたし頃合いではあるけれどさ、ルナリアの手にかかって死ぬのはごめんだよ。ほら、僕が罪人みたいじゃないか」
「俺をおちょくってるのか?」
「いやいや、そんなことは全然ない。ごめん」

 へへへ、と笑うウェイを、本気でベランダの外へ放り投げようかと思った。

 でもそこに灯がやってきて、何がなんだかわからない、と首を傾げた。

「ルナ、そいつは誰だ?」
「バカでウザい同類だよ」
「バカでウザいのはさ、自覚しているよ、多分に。そうだ、ルナリア、あの集会はどうだった?聞いた話によるともう2回ほど顔を出しているそうじゃないか。半分吸血鬼の奴って、どんな味がするのかな?まあ、僕は手を出そうとは思ってないけどさ、後学の為にさ」

 その瞬間、勘のいい灯が口を挟んだ。

「あの集会って何だ?」

 俺は咄嗟にウェイの鳩尾に拳を叩き込んで、必死に取り繕った。

「あのね、灯、別に灯のことが嫌いになったとかではないんだよ?でも俺もちょっと、お腹が空いちゃってね?それで、あの、アレだ!コンビニ感覚でハーフの奴に噛みついちゃって、いたぁい!!」

 もはや懐かしいゲンコツの痛みが頭頂部を襲った。

「お前は……はぁ」

 灯が呆れてため息を吐いく。

「プライドの高いルナリアだから、ハマることはないだろうと僕も思っていたんだ。ああ、ルナリア、余程腹が減っていたんだな。僕もわかるよ、ところ構わず噛み付きたい時もある」
「うっせぇなお前は!!いいからもう黙れ!!」

 再度拳を振り上げると、ウェイは両手をあげて防御の姿勢をとった。

「その集会とやらで、お前も他の奴に噛ませたのか?」
「そうだよ……灯、いつもあんな気持ちなんだね。ぶわあって気持ち良いのが広がって、わけわかんなくなっちゃうんだ」
「もういい。それ以上は聞きたくない。ただ、もう行かないと約束してくれ」

 怖い顔で灯が言う。俺はコクコクと頷いて、指切りでもしようか?と言ったけど無視された。

 そりゃ怒るよね。実質浮気したんだから。

「で、そいつは何でおれの部屋にやって来たんだ?」

 改めて灯はウェイに視線を向けた。ウェイは、ヘラヘラと笑って灯を見た。

「ルナリアに頼まれごとをしていたんだ。ジークについての」

 余計な誤解を招く前にと、俺はウェイを放り出して灯に向き合った。で、これまでの経緯を説明した。

「本町とエリスを殺したのは吸血鬼だった。で、不自然なところがあったから、俺はひとりで探りに行った。結果ジークに捕まったわけだけど、ウェイが言うには、そもそもジークはそうせざるを得ない状況にあったらしくて。俺を売って逃れようとしていたみたいなんだ」
「そうそう!僕はまあ、ちょっとだけ顔が広いから。ルナリアに殺されるのも嫌だし、ジークの情報と、ジークからルナリアを買った奴の情報を集めていたんだよ」
「何かわかったから来たんだろ?さっさと言え。それでさっさと消えろ」

 俺が手を振り上げると、ウェイがまた防御の姿勢をとりつつ、慌てて答えた。

「ジークは人身売買に手を出していたんだよ。ほら、昔からあるでしょう?人間も人外も、娼婦みたいな事をさせたり、奴隷みたいに扱ったり。この前までのルナリアがそうだったみたいにさ」
「お前、ホントは俺をバカにしてるだろ?」
「いやいやいや、そんなことは微塵もないよ!」

 本気でイライラしてきた俺だけど、こいつはこういう奴だったと思い直して黙った。

「そこで、少しのミスをしたらしい。それでこの都市のお偉いさんが重傷を負って。その責任を取らされるところだったようだよ」

 と言いながら、ウェイは親指で首を斬る動作をした。

「クソつまらねぇ理由だな……俺はそのせいで、死ぬほど屈辱を受けたのか」

 俺には何も関係がないところで、たかがジークのせいで、犠牲にしたものが沢山ある。

 ただ普通に、灯と幸せな時間を過ごしていけたかもしれないのに。

「結局その、ルナを買ったのは誰だ?」

 険しい顔の灯が言った。俺もウェイに視線を向けた。

「人狼の男だってさ。えっと、写真があるよ。待って、今出すから……ちょっと、探偵みたいで面白かったよ。こんなに真剣に人探しをした事はなかった。そりゃあ命がかかってるからね」

 はい、と言ってウェイは、スマホの画面を見せてきた。

 銀色の短髪に、切長の鋭い目。まるで他人を嘲笑うかのような表情。

「名前はヴラドレン・アドロフ。この魔界都市でいくつもの飲食店やホテルなんかを経営してるみたいだよ……あれ?ルナリア、大丈夫かい?」

 その写真を見た瞬間、俺はまた記憶がフラッシュバックしていた。

 たまに訪れる、意識がハッキリしている時。

 絶対にやって来るそいつの大きな手が、俺の髪や顎を掴んで。力では敵わないと思い知らされて。

 最初の頃、そいつのデカ過ぎるモノを突っ込まれた時、何とも言えない激痛が全身を駆け巡った。俺はたまらず迫り上がって来たゲロや血液を一緒くたに吐き、内臓を掻き回される感覚を知った。

 そんな経験は、俺を狂わせるには十分だった。

 だから俺もやったんだ。

 俺を貶めた奴らの腹を裂いて、それから、流れ出る血と共に内臓を引き摺り出してみた。

 特に何も感じなかった。

 ああ、俺も、こいつらからすればいっときの快楽のためだけの存在で、それが終われば何も感じなかったんだろうな、なんて思った。

 それでもあの人狼の男だけは、今でも怖い。何よりも怖い。

 こうして写真を見ただけで、俺は今無様にガタガタと震えている。涙が溢れてきて前がよく見えない。なにより、胃が痙攣して吐き気が止まらなかった。

「う、ぅ、オエッ、はぁ、はぁ」
「ルナ!どうした?大丈夫か?」

 無様に膝を付いて震える俺に、灯が慌てて駆け寄って来てギュッと強く抱き締めてくれた。

 心の隅っこの方では、そうやって灯の存在も、ここが何処なのかもわかってはいた。でも俺の目は別の物を見ていた。

「ヤダ、痛いの……痛いのはやめてっ!!お腹ん中ぐちゃぐちゃにしないでっ!!やだぁ……死んじゃう、触んなぁ!!」

 バシッと、俺の手が誰かに当たったのがわかった。でももうそんなのどうでもいい。逃げないと。はやく逃げないと、俺はまた何もわからないままにぐちゃぐちゃにされてしまう。

「ルナリア!おーい!さて、どうしたものか……」
「同じ吸血鬼だろう、なんとかしてくれ!おれの手には負えない!」

 そんな灯の声がしたが、俺はまた手を振り上げた。なんでもいいから、ここから逃げないと。そう思って無闇矢鱈に攻撃しようとした。

「わかった、わかった。後で誤解のないように言っておいてくれよ?僕は君に頼まれたから仕方なくこうしたんだと、絶対に説明してくれ。じゃないと僕が殺される。それに僕はルナリアに言われた仕事はちゃんとこなした。これも、後でしっかり言い聞かせておいてくれ」

 そんなウェイの声が聞こえた、直後。

 首に熱い痛みを感じた。それから血液が急速に流れていく喪失感と、それらが喉を流れる閉塞感に窒息しそうになった。

「ルナ、おれがついてるから」

 灯が悲しげな声をあげて、俺は息ができなくなって。

 そこからはもう、何もわからなくなった。
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