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しおりを挟むその日、俺は魔界都市の中心部から少し離れた、閑静な住宅街にいた。
二階建ての、デザインに拘った内装の、洒落た一軒家だった。
「すまない、息子の行いのせいで、君には本当に辛い思いをさせてしまったと思う。だが、私たち家族は関係ない!息子のことはどうしたって構わない!でもどうか、どうか私たちは見逃してくれないだろうか!?」
一面ガラス張りの窓の向こうには、台風の余波か、荒れた海が見渡せた。
俺はその荒れた海を見て、それから足元に跪く、怯えた息子の姿を見て、こう言った。
「お前らはさ、自分の産み落とした子が、どんな運命を歩くか、想像したことはあるか?」
俺はそこで、ニッと笑みを浮かべた。
「俺はさ、産まれたその時から運命は決まってたんだ。それ以外にはなかった。でもお前の息子はどうだ?こんな洒落た家に住んで何不自由なく生きてきたのにさ、バカなせいでバカな連中と付き合って、それで大金を叩いて俺を物みたいに扱った。その責任が、親であるお前に無いと言えるか?」
その、俺の足元に蹲る青年は、父親が医者でその後を継ぐために大学に入り、そして悪い連中と付き合うようになった。
そこで、俺の存在を知ったらしい。
「俺はさ、確かに体の作りはお前ら人間と変わらないよ?でも感情はあるんだ、残念なことにさ。だから俺が味わった苦痛を、お前らも味わうべきだと思うんだよね」
皮膚を裂かれる痛み。その下の脂肪や、筋膜を捲られる違和感。そして、生きたまま、それらの下の内臓を、引き摺り出される感覚。
医学生であるこの青年にとって、それはいい標本だっただろう。
「あんたらは知ってる?自分の内臓がどれだけ長いかを。俺は知ってるよ。それらが引き摺り出されて、ぽっかり空いてしまった自分の腹の感覚をね。それで、血を吹き出して踠く俺に、お前らの息子は何をしたか知ってるか?想像もできないだろ?空っぽになった俺の中に、デカくなった自分のアレをぶち込んだんだよ!」
アハハ、と俺は笑った。
「正気じゃないだろ?俺も正気じゃないよ。そんなことされて、正気でいられる奴がいるか?なあ、俺、今からあんたに同じことしてやろうか?お前の息子がしたようにさ!アハハッ!!そんな顔するなよ!?大丈夫、俺はさ、あんたの息子みたいに狂ってないからさ!!」
ケラケラと笑って、そして、俺はそこにいた人間全てに手をかけた。
当事者である息子。その両親。そして、まだ幼かった妹。
でもなんの罪悪感も湧いてこなかった。
俺はその、くたりと脱力してしまった死体の側に跪いて、流れ出る血を見ていた。
美味しそう。何で俺は、こんな美味しそうなものをずっと我慢してるんだろう。灯のは、それは美味しいのだけれど、でも……
俺を弄んだ奴らもほとんどは人間だ。ただ俺が復讐の為に殺すだけの存在。
だったら、俺が余す事なく戴いてもいいんじゃないか。
この時の俺は、そんな思いに徐々に囚われていったのだ。
……眠い目を擦って、俺はぼんやりと視界に映った灯の顔を見た。
「とも、り…?どうしたの…?」
俺の寝ぼけた問いに、灯は険しい顔で言った。
「ルナ、お前最近寝不足なんじゃないか?また隈ができてる」
「そう?わかんないけど……今何時?今日はお休みじゃなかったっけ?」
それで、室内の壁掛け時計を見ると、午後2時を少し過ぎたあたりだった。それで、俺は慌てて飛び起きた。
「っ、ごめん!!今日は灯の親のお墓参りに行く日だよね?」
少し前から予定していたことをすっかり忘れていた。今日は灯の両親の命日で、だから一緒にお墓参りに行って、それから昼食を食べに行こうって約束をしていたんだった。
「……いいんだ。墓参りはおれひとりで済ませてきたから。それよりルナが腹減ったんじゃないかって、」
「ごめん……本当にすまない。でも、忘れていたわけじゃないんだ。あの、俺……」
言葉を探す俺に、灯はただ悲しげな目をしていた。俺の忘れていたわけではないという嘘をわかっていて、それでも受け入れようとしている。それは俺も知っている感情だった。失望という、あまり良い意味ではないことを。
「もういい、お前は寝てろ。何か作ってくるから食べられそうなら起きてこい」
そう言って、灯は寝室を出て行った。
俺は両手で顔を覆って、溢れてくる自責の念を抑えようと頑張った。
悪い事をしてしまった。それは俺もよくわかってる。
じゃあ、悪い事をしてしまった時、俺はどうすればいい?
そうやって考えて、俺はベッドから出た。
リビングダイニングへ続くドアを開けて、キッチンに立つ灯へと近付いて行った。
灯は俺を見て、少し怪訝な顔をした。
「どうかしたか?」
パスタだろうか。灯は大きな鍋に水を汲んでいて、キッチン台にはパスタの袋が出してあった。あと、俺がお気に入りのメーカーの明太子ソースのレトルトも置いてある。
お腹が空いてる。昨日は結局、死体を四つ作っただけで血を飲むのは我慢したんだった。
俺はキッチンに視線をやりつつ、灯の足元にペタリと座って上目遣いで顔を見た。それから無意識に出てきた言葉がこれだった。
「あの、あのね……何でもするよ?ごめんなさい。俺、約束破って……だからね、好きなようにしていいよ?悪い子はお仕置きだよね。ごめんなさい……」
ガシャーンと、灯が持っていた鍋を落とす。ほとんど満タンに汲んであった水が、俺やその周りの床を濡らした。
そして、俺はまた、久しぶりに、というか隔離部屋を出て以来かもしれないが、過去のどこかへと記憶が飛んでいった。
「ひゃっ…!ご、ごめんなさっ、も、許して!!いやだぁ!!水……苦しいの、やだぁ!!!!」
あれは誰に、なんでそんなことをされたのかも思い出せないが、俺は時々、桶に満タンに入った水のなかに、意識が飛ぶまで頭を押し込まれたことがあった。
苦しくて踠く俺を、周りの奴らがゲラゲラ笑いながら見ていた。
何がそんなに面白いのか。
俺が何か、悪いことでもしたのか?
そんなのはもう、知りようがないのだけど、だからこそ恐怖は植え付けられて、理由がわからないから簡単に蘇ってくるのだ。
「はっ、はっ……ぁ、ゲホッ…!」
何もされていないのに呼吸が苦しくなって、言う事を聞かなくなった自分の体にパニクって。
俺はそれでも、まだどこかで意識を保っていた。
「ルナ!大丈夫、ここはおれの家で、お前はもう何も心配することなんてないんだ!なあ、大丈夫だから、ルナ!こっちを見てくれ!」
ぐるぐる回る視界の隅に灯の顔を見つけた。
だけど、そこでまた悪い想像が俺の頭の中を駆け巡った。
また、失望の表情を向けられたらどうしよう?
俺が頑張って耐えなかったら失望させてしまう。そして、またあの苦しい事をされるんだ。そんなのはわかってるから。
必死で呼吸を落ち着けようとした。灯が呆れて、俺を見捨ててしまうんじゃないかと不安だった。
それで、ほとんど無意識だったけど、俺は自分の腕を噛んだ。思いっきり力を込めて、興奮で尖った牙を突き立てた。
その痛みが俺を現実に引き戻してくれると信じて。
「ルナ!やめろ、っ、おい!!」
しばらく腕に喰らい付いて、やっと呼吸が落ち着いてきた。暗くなっていた視界が徐々に明るくなっていく。
そこで見たのは、自分の、肉が抉れた腕と、血だらけになったフローリング。そして、手のひらから血を流す灯。
「っ、なんで…?」
「お前がパニックになったら、血を飲ませてやれと内川さんに聞いていた。それで落ち着くんだと。よかった、ルナ。お前がまたおれを忘れてしまったらと思うと……怖かった」
俺は自分がどういう状況だったのか、もう思い出せなかった。
今日は前から予定していた、灯の親の墓参りに行って、ランチをして帰ってくる予定だった。でも俺は自分の不注意で約束を破ってしまった。
それから、一体何があったのか、覚えているような、思い出せないような、自分の頭の中がぐちゃぐちゃしている。
「俺……何があった?ああ、俺は久しぶりにやらかしたんだな。悪い……大丈夫か、灯?他に怪我させてないかな?ダメだなぁ……俺は弱いな。人間風情が……俺に手を出した事後悔させてやる……全員ぶっ殺したらさ、俺も元に戻れると思う」
ごめんね、と灯の顔を見た。ああ、また間違えたんだな、と俺は気付いたんだ。
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