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 そこは人外専用の病院兼研究所の、隔離部屋とでも言うのだろうか。

 とにかく、必要最低限の設備しかない白くて狭い部屋の中で、ルナは隅に縮こまったまま動かなかった。

「今までの反動だろうね。人工血液を受け付けなくなってしまって、少量でも吐いてしまうから与えてないんだ。普通に食事を出してみても手を付けなくてね、すごく少量の輸血用の血液を与えてるところだよ。そのせいでああして、自分の腕を噛んでしまうんだけど、近付けなくて手当もできない状況なんだよ」

 研究室の職員で、ルナの主治医でもある内川さんが、ぼやくように言った。ルナのいる部屋は、一面だけ強化ガラスになっていて、そこから中の様子がわかるのだが。

 ルナは今も、吸血衝動を抑えようと、必死で自身の腕に噛みついている。まるで獣のような唸り声を発しながら、赤い目でギラギラと辺りを油断なく見つめていた。

「秋原くんは知ってるかい?吸血鬼が機動班に少ない、本当の理由を」
「いえ……ルナは最初から吸血鬼らしくなかったので、気にした事もないんです」

 そう答えると、内川さんは「そうだよね」と言う風にため息を吐いた。

「あのね、吸血鬼っていうのは、産まれた時からずっと、少量でも定期的に人間の血を飲んで生きているんだよ。でも機動班に入るなら、そんな違法なことはできないだろ?だから、こちらの条件をクリアするまで隔離する。それが、本物の血を飲まずに、人工血液だけで過ごせるようにするためのプログラムなんだよ」
「プログラム、ですか」

 ふむ、と内川さんが難しい顔をして頷いた。

「こうして隔離して、人工血液だけ与え続けるんだよ。ルナ君は80年前、それに耐え切った。その頃から残っているカルテに詳細が記されている。でもそれ以降、同じプログラムに耐えて機動班に入った吸血鬼は、たった3人だ。それも、2年も持たずに機動班を辞めている」

 知らなかったとはいえ、ルナの自制心の強さに改めて尊敬の念を抱く。

「それくらい、当時機動班に誘った深山総司が大切だったんだろうね。実際、あの頃の2人はすごかったらしい。A班として最前線で捜査に関わり、そのほとんどを解決に導いたと、私も聞いているから」

 なんとも言えない感情が湧き上がって来る。すでに死んだ人間と、おれを比べられているような、そんな気持ちになるのだ。

「あの、少しだけルナと話すことはできますか?」

 そう問うと、内川さんは微妙な顔をして唸った。

「おすすめはしないなぁ。今のルナ君に近付いたら、秋原くんでも殺されるかもしれないしねぇ」

 あれから1週間過ぎただろうか。事後処理が多くて、なかなかこうしてゆっくりここへ来ることができなかった。毎日顔を見には来ていたが、それも仕事の合間のほんの数分だった。

 保護した時を思えば、少し落ち着いているように思う。しかし内川さんはうーんと考え込んでしまって、諦めようかと思った時、内川さんはやれやれと頷いた。

「まあ、自己責任でなら話しに行ってもいいよ。でも必ず制御装置を使えるように準備しておいてね。あと、あまり近付き過ぎないように……彼らの危険さは君も十分理解しているだろうけど」
「ありがとうございます」

 内川さんが隔離部屋のロックを解除し、おれは速やかに中へ入る。すると後ろで、ガチャ、と再び扉が施錠される音がした。

 その音に敏感に反応したルナが、サッと顔を上げてこちらを見た。

「なに…?誰?……ああ、人間か」

 ふっと、次の瞬間には興味を無くして俯いてしまった。

「ルナ……おれ、」
「うるせぇな。人間が俺に気安く話しかけるな……俺の事知りもしないくせに……俺…?何だったかな…?ああ、俺の役割を果たさないと……」

 見ているのが辛かった。そして、なかなか思い出してもらえない事も。

「ルナ、おれだよ。お前のバディの灯だ……」
「んなのどうでもいい。そんなことより、俺、ものすごくお腹が空いてるんだ。ちょっとだけでいいから、血をわけてくれない?」

 おれはグッと拳を握りしめた。何もしてやれない事が悔しい。

「くれるの?くれないの?……くれないならさ、お願い、もう殺してくれ……」

 それは悲痛な声だった。明るい室内で、よく見るとルナは静かに涙を流していた。

 今すぐに側へ行って抱き締めてやりたかった。でも触れるのも怖かった。おれは臆病だ。拒絶されたらと思うと扉の前から一歩も動けなかった。

 その日は、おれはただ、ルナから離れた扉の前でその姿を見ているだけで終わってしまった。

 次に会いに行った時、内川さんとルーカスが話をしていて、ルナの隔離部屋にはルイスがいた。

「秋原さん、今ならルナリアのところへ行っても問題ないですよ。何かあってもルイスが止めるので」

 ニッコリと微笑んでルーカスが言った。おれは会釈をして、ルナの元へ向かう。

「だからだな、うちへ帰って来いって親父が言ってるんだって。今のままここに居ても仕方なかろう。ほら、妹らにも一昨年のクリスマス以来会ってないだろ。母も心配している」
「嫌だ。どうせ家に俺の居場所はないから。あんたたちはもう帰れよ……俺なんか居なくてもどうでもいいだろ。心配しなくてもお役目はやる。だから必要以上に関わって来るな」

 そうして、ハッとこちらを見たルナは、ルイスの後ろへと隠れてしまう。

「おい、いつからそんなに恥ずかしがり屋になったんだ?僕の弟はもっとこう、太々しくて冷たい目をした奴の筈だったが」
「うるさいよ、ルイス。それより俺また、あの、恥ずかしいことしなきゃダメなの…?俺もう嫌だよ。あんな牢屋に入れられるくらいならルイスが俺を殺してくれよ……」
「ふぅ。やれやれ。ルナリア、ここはもうあの牢屋じゃない。それにあの人間はお前の恋人だろ?そろそろ思い出してやれ。秋原灯くんだよ、秋原!灯!」

 ルイスに耳元で叫ばれて、ルナは目をまん丸にして飛び上がった。

「そんなことしなくても聞こえてる!!大体俺は吸血鬼で、耳は良いんだから、わざわざ耳元で……叫ばなくていいんだ……って、そう言えば、前にもそんな話をしたな…?」

 そう言いながら、ルナはおれをまじまじと見た。

「あ……灯……」

 やっとおれの名を呼んでくれたと、なんとなくホッとした。完全に忘れ去られた訳じゃなかった。

「ルナ、体は平気か?」
「うん……それより、ごめんね、灯。俺多分、正気じゃなくて、近付いて来るのが誰なのか、よくわかってなかった。それに酷い事言ったよね?ごめん、本当に、あんまり覚えてないんだけど」

 おずおずと笑顔を見せてくれるルナに、おれは泣きそうなくらい嬉しかった。

 また以前のように接してもいいんだと、恋人として触れてもいいのかと期待した。

 おれは一歩ずつルナに近付いて行った。ルイスが少し離れて場所を譲ってくれる。

 床に座り込んだままのルナへと、そっと手を伸ばすと、白い頬に触れた。冷たい、いつものルナの感触。ルナがそのおれの手をそっと触ろうとした。

 それはあまりにも一瞬の出来事で、人間であるおれには何が起こったのかすぐにはわからなかった。

「離せよルイス!!痛いから!!」
「全く、我が弟ながら油断も隙もないな。秋原灯、僕が居なかったらお前は今、ルナリアに殺されているところだ。気を引き締めろ。ルナリアも、僕も、吸血鬼だと言うことを忘れるな」

 ジタバタと踠くルナの手首を押さえ付けながら、ルイスはため息混じりに言ったのだ。

 そしておれはやっと、今起こった出来事を理解した。

 ルナはおれの手に噛み付こうとしたのだ。いや、あの距離なら首に噛み付かれていてもおかしくなかった。

「灯、お願い、ルイスをどっかやって!それで俺に血をちょうだい?いいよね?灯は俺のこと好きだろ?」

 好きだと答えたい。でもルナは違うのだろうか?おれのことは、ルナにとっては血をくれそうな人間というだけの存在なのだろうか。

 ……それでもいい。

 それでルナが帰って来てくれるのなら、おれはもう何でもよかった。
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