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 現場はバーやクラブ、いかがわしいホテルが並ぶ歓楽街にあった。

 現在時刻は18時半を回ったあたりで、夜の街はすでに活気を帯びている。

 件のクラブからほど遠い路地の警備を任された俺と灯は、正直言って退屈だ。こんなところまで密売組織の連中が逃げてくるなんて考えられない。

 とは言え特殊な能力を持った人外もいるため、灯はいつも以上に真面目な顔をして作戦決行の時を待っていた。俺はその隣で、ガードレールを背もたれにして立ったまま、必死で眠気と闘っていた。

 まだ10月なのに、陽の落ちた夜は肌寒くなってきた。俺には北欧の血が流れているからか、日本の冬はそれほど寒いとは思わない。しかし夏の暑さには弱い。

 なんてどうでもいい事を考えていると、遠くから怒鳴り声や悲鳴、何か物が壊れるような音が聞こえだした。

「始まったみたいだな」

 俺がそう言うと灯が腕時計を確認する。作戦開始のきっかり19時だ。灯にはこのうるさいのが聞こえていないらしい。

「19時ピッタリだな。何もないといいが」
「そうだね…ふぁあ」

 欠伸をこぼすと睨まれてしまった。

 しばし騒音が続き、突然ガシャーンとガラスが割れるような音が響いた。

 「逃すな!」「追え!」とか言う捜査官たちの声が徐々に近付いてくる。それらは真っ直ぐ、俺たちの待機する路地へと向かってきている。

「騒がしいな」
「多分だけど、密売組織の誰かが逃げてるみたい。みんなこっちに向かってる」
「相変わらず耳がいいな」

 それだけが取り柄のようなものだ。そんな俺の耳に、またも聞き慣れない音が聞こえてきた。

 バサ、バサと空を切る翼の音。大きな鳥か?と一瞬考える。その鳥の羽ばたきのような音が灯の耳にも聞こえてきたようで、「なんだ?」と小さく呟く声。

 それは大きな翼を持った人型の人外だった。大きく羽ばたきながら、必死で俺たちの頭上を飛んでいく。

「天使だ」

 俺が結論を言うと、灯は舌打ちをこぼした。あんなの、普通の捜査官が追えるわけがない。A班B班の機動班員にだって無理だろう。

 相手は空を自由に飛べるのだ。機動班に多い人狼たちの運動能力を持ってしても、飛ぶ相手には敵わない。過去には天使や悪魔なんていう、飛べる奴も機動班にいたが、生憎今はいない。

 残念だけど、今あの天使を追えるのは俺だけなのだった。

「ルナ、あいつを追え!逃すなよ!」
「はいはい」

 俺は踵を返して走り出した。天使が飛んでいるのを目で追いながら、その辺の飲食店の看板や電柱を踏み台にして空へと跳ぶ。

 そしてバサリと広げたのは、天使とは違う皮膜の羽だ。

 俺は吸血鬼の中でも特殊な方で、コウモリのような羽を持っている。したがってあの天使を追えるのは、面倒な事に俺だけなのである。

 これがまた厄介な事に、この羽を使うと体力の消耗が激しく持久力がないし、ワイシャツが破れてしまうのだ。

 あまり時間をかけると不利になってしまうため、精一杯の速度を出して天使を追う。そうして近付いてみると、その天使は何やら焦茶色のカバンを大事そうに抱え持っていた。

 中身は麻薬か現金だろうか。まあ、俺には中身なんてどうでもいいけれど。

 しかしさすが天使だ。立派な羽根を持つこいつらは、実に優雅に飛ぶことができる。

 この街の天使たちは、皆天界にいられなくなったものばかりだ。所謂堕天使。天界で何かよからぬ事をしてしまった連中。そんな経緯のためか、こうして犯罪に手を染める天使は非常に多い。

 目の前に迫ったこの天使も、天界でもこの街でも犯罪を犯す。実にどうしようもない奴なのだ。

「待てコラァ!」
「ヒッ!?」

 どうやら追われはしないと鷹を括っていた天使は、間近に迫った俺の声に驚いてよろけた。その隙に、空中で体当たりをかます。

 俺たちは揉み合いながら近くのビルの窓ガラスに衝突した。

 ガシャーン!と盛大にガラスを割って転げる。室内のソファやデスクが見事にガラスの破片まみれになった。

「なんじゃあワレ!!カチコミか!?」

 と、ドスのきいた怒鳴り声。ふと顔を上げて周りを見回すと、頬に傷のあるガタイのいいおっさんと、その周りの強面集団が、俺と天使に向かって銃口を向けていた。

 どうやらヤクザ屋さんの事務所に突入してしまったようだった。

「すんませーん、悪気はないんです、ホント!!」

 と謝りながら、すでに立ち上がって窓から飛び出る天使を追う。

 再び空へと舞い上がった俺たち。ただ、天使の方も疲れが出てきたのか、若干スピードが落ちてきた。

 しかし俺も体力的に限界が近い。こんなことならあと2品くらい中華を食べておくんだった。珍しく食事についてきた灯の手前、遠慮してしまったのが仇となる。

 とまあ、言い訳はさておき。

 俺は渾身の力を込めて羽を動かし、頑張って天使に接近。天使の服の裾を引っ張った。

「観念しやがれ!」
「放せ、このコウモリ野郎!」
「うるせぇ!この鳩が!」

 振り返った天使が、顔面を狙ってパンチを繰り出す。俺はそれを余裕で交わし、俺も天使にパンチを繰り出す。踏ん張りの効かない空中戦闘は、なんだか間抜けで滑稽だ。

 そのまままたも揉み合いの掴み合いになり、空中をくるくる回って落下。

 いつの間にやら歓楽街からかなり離れた高層ビルが並ぶオフィス街まで来ていたことに気付く。

 その高層ビルの壁にお互いの体をぶつけ合いながら急速落下。天使が体勢を立て直そうと羽根を広げ、俺は必死に天使にしがみつく。

 ここで逃すわけにはいかない。なんとしてもこいつを捕まえて、灯の手柄にしてあげないと。

 そう思い、俺は天使にまた体当たりを喰らわす。するとまたもガシャーンとガラスが割れる音がして、高層ビルの真ん中あたりのオフィスへ転がり込んだ。

 きゃー!とかうわぁ!とか、人間たちの叫ぶ声がする。それからバタバタと避難していく足音がした。こんな街なので避難も迅速だった。

 高層ビルの強化ガラスを割ったために、俺も天使もあまりの衝撃にしばらく動けなかった。

「うぅ……」

 呻き声を漏らしながら顔を上げると、ほど近いところに天使が転がっている。俺たちが突っ込んだせいで、オフィス内はぐちゃぐちゃだ。

 ほとんど同時に立ち上がった俺たちは、荒い呼吸を落ち着けながら向かい合う。天使がその辺にあったイスを放り投げ、逃げようと窓へ向かう。

 俺はそのイスを軽々と避け、天使の羽根を掴んで引き戻す。

 しばし肉弾戦を繰り広げる。天使は物を投げ、俺はそれを避けながら的確に天使へと拳を叩き込む。どうやら接近戦は苦手なようだった。

 と、そこで天使が、思い出したかのようにポケットから小型のナイフを取り出した。折りたたみ式のナイフは、正直言ってあまり脅威ではない。

 天使が近付いてきて、徐にナイフを突き出す。俺はまたそれを交わし、かわりに腹に一撃喰らわしてやる。

「ぐっ、」
「ほら、敵わないんだからさっさと投降しろよ」

 それでも諦めない天使は、今度は振りかぶって切り付けてくる。が、ナイフを持つ天使の腕を掴んで捻り、足を掛けて床に転がすと背中を押さえつけて動きを封じた。天使が落としたナイフを軽く蹴って遠ざける。

 天使が俺の下で呻いた。

 困った。俺は手錠を持っていない。そしていつものようにインカムをつけるのを忘れている。

 このまた灯を待つしかないのか、としばし途方に暮れる。

 何分か経って、意外と早く灯の足音が近付いてきた。

「ルナ!」
「灯、早く手錠!俺もう限界!」

 慌てて走って来たであろう灯は、ゼェゼェと肩で息をしていた。

「早かったね」
「ああ、全力で追って来たからな」

 鍛えているのは知っているけれど、俺たちの羽に追いつけるんだから、灯も大概化け物かもしれない。

 灯が手錠を出して天使に近付く。その手錠は人外用の頑丈な物だ。

 俺が離れ、灯に手錠をかけさせようとした時だった。

 抵抗をやめていたはずの天使が、渾身の力を込めて動いた。その手にはナイフが握られている。どうも2本所持していたらしい。

「捕まってたまるか!」

 そう叫んだ天使が狙ったのは人間である灯だ。

「灯!!」

 俺は叫んで、咄嗟に灯の前に飛び込む。

 グサっとナイフが左の手のひらを貫通したが、俺はそのまま天使の手を握り込んだ。

 が、天使の方が動きが早かった。咄嗟に攻めるのをやめた天使は、踵を返すと、窓際に落ちていた焦茶色のカバンを持って窓枠に片足をかける。

 そのまま飛び立とうと羽根を広げる。俺は追おうにももはや飛べる体力はない。

 クソ、と苦々しく呟いた、その時。

 灯が俺の横を素早く掛けて行った。今にも飛び立とうとする天使の服の裾を握り、グイッと引っ張る。しかし天使の力の方が強い。

 灯がバランスを崩した。窓枠を超えて落ちそうだ。

「クソッ」

 俺は今度は口に出して罵った。そして、疲れ果てた体を叱咤して走る。

 灯の体をオフィス内へと引っ張る。それから、逃げようとしている天使に飛び付いた。

 俺と同じく天使も消耗していて、俺たちはクルクル回って落下した。

 頭上で「ルナ!」と俺を呼ぶ灯の、悲痛な声が聞こえてきた。

 無惨にも近付く地面。というか、ちょうど真下にタクシーが停まっている。

 俺と天使は、ガシャーン!と音を立ててタクシーを破壊。ビー、ビー、みたいな、防犯用のブザーがタクシーから響き、オフィス街に反響している。

「うぐ、痛い……」

 何階から落ちたのか、見当もつかなかったが、俺の下で天使は気絶しているだけで死んではいなかった。

 俺は必死で立ち上がると、潰れてしまったタクシーから降りた。が、ふらついて地面に突っ伏してしまった。

 そのままフワフワと意識が遠く。

 最後に灯が、「ルナ!」と俺の名を呼んだ気がした。
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