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しおりを挟む仕事を終えて帰宅し、マンションのエントランスが見えてきたところで、外観の植え込みのそばでうずくまる人影に気付いた。
膝を抱えて俯き、時折嗚咽を上げるその人が誰なのか、僕にはすぐにわかった。
薄い茶色の髪も、小さな頭も、見間違えるはずはない。
「恵介くん?」
声をかけると、ビクッと肩を揺らして、ゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした目が真っ赤で痛々しく、四月とはいえ夜は気温が低いので、寒さにブルブルと震えている。
「どうしたの?」
そう、声をかけると、彼の目からまたブワリと涙が溢れてきた。
「まさと、さん……」
「ん?」
しゃがみこんで視線を合わせる。努めて笑顔を浮かべて、あまり深刻にならないようにした。
恵介くんは、流れ落ちる涙を拭うことなく、唇を震わせて言葉を紡ぐ。
「お、俺ね、いない方がいいんじゃないかって、思って……この先も、いろんな人に迷惑かけて、普通に生きることもできなくて……それなら、死んじゃった方が、いいんだって、思って……」
ブルーグレーの瞳が揺れて、整った顔が歪む。ずっと人に甘えられなかった彼は、弱みを見せる時、とても子どもっぽい顔をする。
「でもね、どうしても、理人さんの顔が見たかったんだ……これが、最後でも、会いたかった」
「最後じゃないよ。僕は君の傍にいる。だから死ぬなんて言わないで欲しいな」
「でも、生きてる価値なんてないよ……Subで産まれた時点で、俺には何もない」
「そんなことないよ。僕は君がnormalでも、Domだとしても愛せる。けど、Subでいてくれたから、誰よりも君の魅力に気付けたんだよ。僕たちは人より強烈な個性に振り回されて生きているけど、だからこそ、僕たちにとっては価値のある出会いなんだと思うんだ。君の価値は、僕が一番にわかっているつもりだよ」
ボロボロと涙をこぼす彼が愛おしかった。こうして最後に縋ってくれることが嬉しい。僕は彼の心の中心にいるんだと実感する。
「理人さん……耐えられなくなったら、どうしたらいい?」
「僕に寄りかかってくれればいい。それから、ゆっくり考えよう。一緒に。どうにもならないことなんてないよ。僕に出来ないことなんてない」
「どっからそんな自信が湧いてくるんだよ?」
ふふ、と恵介くんが泣き腫らした顔で笑う。僕も笑顔を浮かべる。
「あれ、君は僕がただの営業部部長だと思ってる?」
「違うの?」
「違うよ」
「ああ、わかった。親の休暇に地方の別荘に行ったり、高価な時計をプレゼントしたり、金銭感覚のおかしな営業部部長だ」
金銭感覚に疎いのは認める。昔から実業家である親の選ぶものに囲まれてきた自覚はある。
でも、そういうことじゃないんだ。
「僕は君のパートナーで、恋人だよ?それに勝るものはないと、僕は思っているんだけど」
恵介くんの整った顔が、また涙に歪んだ。でも、さっきまでの悲嘆に暮れた涙じゃない。
「ありがと。理人さんがいてくれてよかった」
「僕の方こそ嬉しい。君が僕を頼ってくれて。おいで?何があったのか知りたいな」
「うん」
恵介くんがなんの迷いもなく僕の腕に飛び込んでくる。首の後ろに両腕を回して、ぎゅっときつく抱きついてくれる。
腰とお尻を支えて立ち上がる。成人男性を抱えるのは決して軽くはないが、でも、愛の重さを感じることができるから、僕はこうして彼を抱いて歩くのが好きだ。
マンションの自室へ帰り、恵介くんをソファに座らせてコーヒーを淹れる。もう何年も同じ豆しか使っていないが、彼もこれを気に入っているようで嬉しい。
「何があったか教えてくれる?」
隣に座って、コーヒーを手渡して尋ねると、恵介くんはまた涙を浮かべながら口を開いた。
「今日、真梨の学校から連絡があっただろ」
ちょうど一緒にいた時だったので、僕もなんとなく経緯は把握していた。
「クラスメイトと言い合いになったって……その原因が、真梨のクラスメイトが前日の帰り道に、知らない男から俺の風俗の写真を見せられたことだったみたいなんだ」
「……どうして風俗店の時の写真だってわかる?」
そう問うと、恵介くんは複雑な顔をした。
「Safe wordなしでplayしたい客は、みんなそれなりの地位のある人たちだった。大金を払って好みのplayをする代わりに、身バレだけは絶対に避ける。ハメ撮りなんてもちろんだけど、隠し撮りも絶対にしない。ある種の信頼関係があったんだ」
あまり考えたくはないが、そこに確かに彼ら独自の信頼関係があったのは認めざるを得ない。じゃないと彼が長く非合法の商売を続けていられるはずがない。
都合のいいSubが欲しいと思うのは誰だって同じだ。顧客の質の高さが、恵介くんを守ってきたなんてとんだ皮肉だが、彼の美しさは人を魅了する。それこそ大金をかけてひと時でも守りたいと思わせるほどに。
「俺の写真があるとしたら、風俗店の時のものしかない。あの時はスナップとか結構売れたから」
「具体的にどんな写真を売っていたの?」
「どんな…?全部把握してるわけじゃないけど、ユウとの絡みがあるものが人気だった。過激なものじゃないよ?二人でちょっと、ほっぺにキスくらいはしたけど」
答えながら顔を赤くして、僕の表情を伺ってくる。とても可愛い。
「こういうことは、君たちの間ではよくあることなのかな?」
「残念だけどよくあるよ。それが原因で店を辞めたり、系列の別店舗へ移動したりするキャストもいた……そういえば、ユウもストーカー被害が原因で苦労したって言ってた」
Subのグループホームに住んでいる恵介くんの元同僚だというユウくんとは、この前のイベントの時に少し話をした。
恵介くん程ではないが、とても可愛らしい顔をした人懐こい青年で、確かに庇護欲の強いDomにウケそうな雰囲気があった。
「こういうことは全部内田さんが処理してたんだ。自分はただのスカウトだって言ってたけど、多分、内田さんのバックには結構怖い人たちがいて、俺たちは内田さんに守られてた」
内田という人物もまた、昔の恵介くんを知っている人物で、彼を風俗へ誘った張本人だ。だが、その人となりを恵介くんから聞く限り、悪い人という訳ではなさそうだった。
悔しいが、僕と出会う前の恵介くんが間違いなく信頼していた相手だ。
「内田さんに話が聞けるといいかもしれないね」
「どうして?」
「君の写真を持っているとしたら、店にいた頃の客かもしれない」
そう言うと、恵介くんは難しい顔をした。
「でも四年も前だ。今更嫌がらせなんてしてどうしたいんだ?」
「それは僕にもわからないけど、そういう厄介な客のことに詳しいのは内田さんだろう?」
「それはそうだけど……」
はぁ、と溜息を吐き出す。言い難いことがあるようだ。
「何か問題が?」
「……店を辞める時、内田さんは一度引き止めてくれたんだけど」
「あの人、意外と良心的なんだね」
「うん……俺のことをとても心配してくれた。あの人は俺が店を辞めてしようしてたことに気付いてた。本当はいけないことなんだよ。勝手に商売をすると、怖い人たちが出てきて辞めさせられるのが普通だけど、内田さんは俺の事情を知ってて放っといてくれた。そのかわり、店から離れたら手を貸してもらえない。当たり前だけど、もしストーカーとかそういう問題が起きても自分で対処しなきゃならない」
不器用な大人の優しさは、僕にもよくわかる。恵介くんが体調を崩しても辞められないと言っていた時に、僕も何がなんでも辞めなさいと言ってあげられなかった。
まだ気持ちの通っていない頃だ。あれからまだ半年も経っていないが、こうして今は無条件に頼ってくれるようになった。改めて奇跡のようだと思う。
「そうなんだね。じゃあ内田さんは頼れないな」
「うん。だから、自分でなんとかするしかない。そもそも内田さんの今の連絡先も知らないし」
「そうなの?」
「当たり前だろ!俺はもう関係ないんだから」
じゃあこの前のは本当に偶然だったんだな。なんて、ホッとする自分が情けない。恵介くんのことは信じているけど、なにせ僕の恋人は綺麗すぎる。恵介くんにその気がなくても、向こうはどうかわからない。
「ともかく、しばらくは身の回りに気を付けて。葉一くんたちは僕が見ているよ」
「うん、ありがと……俺もう、みんなと一緒にいない方がいいよね」
だから僕のところにずっといればいい。そう、どこかで望んでいる僕が確かにいる。やっぱり僕はズルい大人だ。
「そんなことない。葉一くんとも話をしてわかりあうことができたんだ。真梨ちゃんだって強い子だよ?確かにこれからも嫌なことが起こるかもしれない。でも、僕は乗り越えていけると思うよ」
これも僕の本心だ。愛しい人には、ずっと幸せでいて欲しい。
「ほら、コーヒーが冷めてしまった。そして僕はお腹が空いた」
「あっ、ごめん。何か作るね!」
そう言って、冷めたコーヒーを半分ほど勢いよく飲んでから、恵介くんが立ち上がった。まだ潤んだ瞳が痛々しく、煮え切らない思いを抱いていることはわかる。
彼は考え過ぎてしまうから、何か仕事を与えて気を紛らわせてあげる方がいい。一緒に過ごす時間が増えてわかったことだ。
パタパタとキッチンへ駆けていく後ろ姿に、自然と笑みが浮かぶ。
恵介くんが迷わずここへ来てくれてよかった。もう目が覚めないんじゃないかという、あの恐怖感は忘れていない。
あんな思いは二度としたくない。
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