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しおりを挟む仕事が手につかない。頭の中がまとまらない。次にするべきことはわかっているのに、行動するまでにタイムロスがある。
「はぁ……」
無意識に出た溜息に、周囲からのジトっとした視線を感じて顔を上げた。
「部長……悩み事ですか?」
近くのデスクから同年代の女性社員が声をかけてきた。彼女は美崎さんというが、よく気遣いのできる部下だ。
「ああ、うん……ちょっとね」
「あー!その感じは恋煩いですね!?」
と、騒がしいのは入社二年目の若手社員で、岡山という。スマホを届けてくれたりと気の利くところもあるのだが、落ち着きのなさが玉に瑕だ。
「ウソぉ!部長、好きな人がいるんですか!?」
こちらもまだ二十代半ばの女性社員で園田という。ショックだ、という顔で目を見開いているが、僕だって人並みに誰かを好きになることだってある。
「まあね……」
と、曖昧に笑っておくが、仕事中も頭の中を可憐な天使が飛び回っている。そのせいでこのところ仕事効率が悪く、なんとか切り替えてもまたすぐに、意地悪な天使が顔を出すのだ。
「部長がそんな顔をするくらいだから、余程相手が手強いんですね!」
「私ならこんな優良物件から言い寄られたら、即オッケーしちゃうのに」
優良物件、と自分が女性社員の間で噂されているのは知っている。客観的に評価して、この歳で部長になり、それなりの収入もあり、実家の家柄も申し分ない自分は、その通りなのだろうと思う。
が、恵介くんは、そんなものでは手に入らない。
一昨日の恵介くんは可愛かった。いや、彼はいつでも美しく可愛らしいのだが、わざわざ口実を作って会いに来てくれたその行動が尊い。
玄関を開けて顔を合わせた瞬間、彼が本当は何をしに来たのかを理解して嬉しくなった。
まだ知り合って間もないが、彼の中で自分は信頼に値する、と判断を下したようだった。本人に自覚は全くないようだが、Domである僕にはわかる。
自覚さえしてくれれば、彼が僕をパートナーに選んでくれるだろう。
そう思っているのだけど、なかなかに手強い。
少し自覚してもらおうと、パートナーのことを持ち出してみたが逆効果だ。今まで倫理観や貞操観念など皆無な世界で生きてきた彼は、自身の気持ちと向き合うことが下手すぎる。
僕が本当に善意だけで付き合ってあげてるって?
そんなわけないだろう。触りたくて仕方ないし、本当は最後までしたい。自分の手でドロドロに溶かして、ずっと手の届くところに置いておきたい。閉じ込めてしまいたい。
そういう感情を、恵介くんは抱いたことがないのだろう。だからわからなくなってしまう。結果、目の前の快楽だけに集中してしまう。
そのほうが楽だったのだ。きっと、僕のような平和な世界で生きている人間にはわからないことが、沢山あったのだ。
そんな彼に、僕の気持ちに気付いて欲しいなんて、難しいことなのかもしれない。
あと一歩が、ものすごく遠い。
「その相手、部長をここまで悩ませるなんてなかなかやりますね」
「どんな方なんです?」
どんな、と言われて思い浮かぶのは、一昨日の快楽に溺れ切った蕩けた顔だ。
「ものすごく可愛いよ。僕の友人はその子をアンドロイドって呼んでる。本当に同じ人間か疑いたくなるような整った容姿をしているんだ」
「部長って外見が重要な人なんですか」
呆れた、とか残念だ、みたいな顔をされる。
「もちろんそれだけじゃないよ!とても家族思いで料理上手なんだ。素直じゃないけど正直で、頼り方がわからないからひとりでなんでも抱え込んでしまう、健気で愛らしい人だよ」
そして強かで残酷な人でもある。彼の身の内には、沢山の黒い感情がある。そんな人間らしいところも魅力的だ。
そういうところは、僕ととてもよく似ている。
「そんなに大好きなら、そう伝えたらいいんじゃないですか?」
呑気な岡山が言う。
それもそうだが、僕は彼に、自分で気付いてもらいたい。
頼っていい、甘えていい、そんな感情に気付いて、僕を特別だと思って欲しい。
それを簡単に、仮にでもパートナーになってあげれば、なんて言う敏雄は絶対に許さない。チャンスだと思ったのも事実だけど。
出会った瞬間に恋に落ちるって本当なんだなと、今でも不思議な気分になるが、敏雄なんかに言われなくても、最初から僕がなんとかしてあげるつもりだった。
「あのね、部長くらいの歳になると、たんに好きだって理由でうまくいくわけないじゃない。結婚とか子どものこととかそういうの考えないとだめな歳なのよ?自分はよくても、相手がどうかわからないのに。だからあんたは彼女できないのよ。まだまだ子どもの恋愛してるから!」
「ひどい!!おれだってちょっとは考えてますよ!結婚だってしたいし子どもも欲しいし、でもやっぱり一番は、今すぐ美人な彼女が欲しい」
「最低」
などと岡山と園田が話す。部署内にクスクス笑う声が広がった。
実に和やかな雰囲気だけど、そろそろ仕事してもらわないと。
「ふたりともそろそろ仕事に戻って。僕は定時で帰るよ?」
「もしかしてデートですか?」
ハッとした岡山が指摘するので、曖昧に笑って誤魔化し、会話を切り上げた。デリカシーの無い彼には仕事を追加しておくことにする。
定時を少し過ぎ、外回りの社員の直帰報告を確認して、フロアに残っている社員に声をかけて会社を出る。
クリスマスの積雪以来曇天が続いている。今にも雪が降り出しそうな寒気が、コートの隙間から容赦なく侵入してくる。
近場のデパートで海斗くんへのプレゼントを買う。気を遣わせないよう、安価な絵本を二冊選んだ。他のみんなへの手土産にお菓子の詰め合わせも買う。
そういえば、恵介くんはお酒を飲むのだろうか。
僕の前ではいつもスンとすました顔をしている彼が酔った姿は想像できない。
余計なものは買わない彼だから、普段から飲むことはないのかもしれないが、たまには楽しい気分になって欲しい。
そう考えて、少し良いワインを追加で購入した。
恵介くんの家に着いたのは19時頃だった。インターホンを押すと、ムスッとした顔の葉一くんが出迎えてくれた。
「こんばんは」
「どうも」
「今日は呼んでくれてありがとう」
「いえ、海斗がどうしてもって駄々をこねるので。むしろわざわざ来てくださって申し訳ないです」
「全然いいよ。お祝いは大人数の方が楽しい」
葉一くんが僕のコートを預かり、ハンガーに通して衣装掛けに掛けてくれたので、僕は靴を揃えて居間へと向かう。
「高城さん、気を付けてください」
「え?何を?」
中へ入る寸前、葉一くんが何か言ったので、振り返りつつ居間へ足を踏み入れる。その瞬間、突然何かが体当たりしてきた。
「高城さーん!おかえりなさい!」
ひしっと抱きついてきたのは、まさかの僕の天使だった。
「……え?」
「はぁ、高城さん、良い匂いがする……」
クンクンと犬みたく鼻を押し付けてくる恵介くんに、あらぬところが反応しそうだったが、なんとか耐え忍ぶ。
「すみません。兄さん、酔うと絡んでくるんです。一応止めたんですよ」
「そうなの?」
それはなんて、可愛らしい。よく見ると彼の顔は真っ赤で、瞳がうるうると涙の膜を張っている。トロンと蕩けた表情は実に扇情的だ。
「どれくらい飲んだらこうなるの?」
「ビール一本です……いや、半分かな」
僕は溜息を吐いた。なんて尊い存在なんだ。
こうなるとワインは出さない方がいいだろう。この家でお酒が飲める人間はいない。そう判断を下し、可愛く戯れる恵介くんをありがたく抱きしめたまま、荷物を隅に置いて食卓へと腰を下ろす。
まるで仔猫のように引っ付いて離れない恵介くんを膝に乗せ、アルコールに感謝しつつプレゼントの絵本を海斗くんへ渡す。
「誕生日おめでとう。次小学生だよね?」
「ありがとう!!そうだよ!!」
包装紙を破りながら海斗くんが誇らしげに言う。子どもはなんて無邪気で可愛いのだろう。
酔っ払った恵介くんには敵わないが。
「高城さーん、俺にはないの?」
「兄さんにあるわけないだろ!いい加減にしろよ!」
「お兄ちゃんに対してその態度はなんですか!?怒るよ!!」
「俺はもう怒ってんの!ほんとタチ悪い!」
すみません、と葉一くんが取り皿やコップを用意してくれる。
すでに食事は始まっていて、香奈ちゃんや真梨ちゃんは大人しく食べながらテレビを見ている。海斗くんは絵本に夢中だ。
なるほど、慣れているんだなと思った。
「お兄、年に二、三回飲むんですけど、毎回そんな感じなんでほっといて大丈夫ですよ」
「お正月の時もお神酒で酔っ払って大変だったよね」
香奈ちゃんと真梨ちゃんがアドバイスをくれる。でも僕はこの状況にラッキーだと思っている。
僕の肩口に額を乗せてぐりぐりと押し付け、飽きずに匂いを嗅ぐと、顔をくしゃくしゃにしてニヒヒと笑う。なんて至福の時間だろう。
「本当にその辺に転がしといても大丈夫なので、遠慮せず食べてください。どれも兄が作ったものですけど」
「ありがとう。でも可愛いからこのままでいいよ。あ、あとお菓子、またみんなで食べてね」
「……ありがとうございます」
葉一くんの表情が引き攣っている。そういえば彼は僕らの関係をどう思っているのだろうと気になったが、今は聞ける雰囲気でも無い。
手土産のお菓子を葉一くんに渡していると、恵介くんが手を伸ばしてきて、ワインの細長い紙袋を手にとった。
「あっ、俺ワイン好きだよ!飲んでもいい?」
「もうやめとけ!高城さんが困ってるだろ!」
「うるさいなぁ、未成年は黙っとけよ」
などと言いつつ、ワインを取り出した。
「葉一、栓抜きは?」
「知らない!」
「クソッ、お兄ちゃんの命令だぞ!栓抜き持ってきて!!」
ぷくっと頬を膨らませて怒った顔をする。普段の印象とはかけ離れた幼い顔に、ニヤニヤ笑いが隠せない。写真に撮って残したい、そんな欲求に駆られる。
「僕が面倒を見るから、好きなようにさせてあげよう」
そう言うと葉一くんは諦めたような顔をして、台所へ栓抜きを取りに行った。
コルクを抜くと、芳醇な葡萄の香りが漂う。普通のコップに半分ほど注ぐと、恵介くんが香りも何も無視して一気に煽った。
「おいしい!ねぇ、高城さんも飲むよね?」
「え、僕はいいよ」
「俺の酒が飲めないのかよ!?」
「いやそういうわけじゃないけど」
宥めながら食事に手をつける。子どもが好きなファミレスメニューが多い。そしてとても美味しい。この前彼が持ってきてくれたお裾分けは、きんぴらや煮物など和風のものが多く、それもすごく美味しかった。
時折子どもたちと会話しつつ、楽しい時間を過ごす。もし子どもができたらこんな感じか、と自分が父親になったような気分になる。
normalのような幸せは望めない。ずっとそう思ってきたが、こうして恵介くんと出会って、その家族と過ごしていると、自分がただのnormalのように思う。
幸せってこういうことだ、と改めて人であることを思い出す。
などと感慨深い思いに浸っていると、葉一くんがケーキを用意し、蝋燭を吹き消すイベントが始まる。
海斗くんが無事にろうそくを消し、葉一くんが大きなケーキを切り分ける。
「高城さん、どうぞ」
「ありがとう」
僕もケーキを受け取る。恵介くんは僕の膝の上で静かにワインを飲んでいる。眠いのか、半分目が閉じ掛けている。
「兄さんは?」
「いらなーい。お腹いっぱい」
「あっそ。飲み過ぎなんだよ」
それぞれがニコニコしながらケーキを食べ始めた。子どもはみんな、甘いもが好きだ。この笑顔が好きで、僕はお菓子メーカーに入ることにしたんだ、なんてことを思い出す。
「本当にいらない?美味しいよ?」
眠そうな恵介くんに問う。すると彼はふと顔を上げてニッと笑った。
「高城さん、クリームついてるよ」
不意に顔が近付いてくる。天使の薄く形のいい柔らかな唇が、僕の唇を塞いだ。閉じられた瞼を飾る長いまつ毛が目の前にある。
ペロッと最後に僕の唇を舐めて、ニヤニヤ笑う悪い天使が離れていった。
「甘いね」
海斗くんはケーキに夢中で気付いていない。香奈ちゃんと真梨ちゃんが唖然として口を開けたまま固まっている。
葉一くんが恵介くんの頭を引っ叩いた。
「いたぁい!!」
ひしっと抱きついてくる彼に、今すぐお仕置きしなければ、という欲求を必死に抑えつけた。
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