犬飼春野

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忍と力斗

月夜の獣

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「月夜か・・・」



 深夜と呼ぶのにふさわしい時間に巨大なオフィスビルのエレベーターホールに立つ。

 贅沢にも正面玄関に向けて5階分吹き抜けになっているエントランスには、外の街灯の光がうっすらと射し込み、丁度ガラス張りの壁面の上部にぽかりと月が浮かんで見えた。

 昼間は人と車で溢れかえる東京の中心地も、さすがにしんと静まり返り、自分の靴のかかとが大理石の床を叩く音だけが、かつんかつんと響き渡る。

 そして同じくガラス張りのエレベーターの中に入り空を眺めながら行き先ボタンを押した。

 すうっと一瞬全身を封じ込めるような浮遊感を感じながら、月と一緒に上昇していく。


「天へ昇っているような、地獄へ落ちていくような・・・」


 ひとりごちているうちに最上階にたどり着いてしまった。

 足が沈みそうなほどに柔らかな絨毯を踏みしめて奥へと進み、いかにも重そうなドアの前に立ち止まり、深く、深くため息を吐く。


「・・・入るか」


 男はドアを軽くノックした後、ゆっくりとノブを回した。




「随分ごゆっくりだな」


 月明かりを背に浴びて、すらりと高い影が澄んだ声で自分に言葉の刃を向けた。

 熟睡していたところをたたき起こされ、それでもすぐにここに馳せ参じたというのを重々承知で言っていると知るだけに、疲れきった自分にはずしりとこたえる。


「・・・時差ぼけが今回は重くてな」


 広い室内の応接セットのソファにどさりと体を落した。

 ふと天を仰いで髪をかきあげると、明りも点けず、しんと静まり返った室内でエアコンの音だけが遠く聞こえてくる。


「力斗も歳をとったね。たかだかニューヨークからのフライトごときで弱音を吐くなんて」

「忍さん、そりゃないだろう?あれだけの物件を・貴方の為に・短期間で・さばいて、更にとんぼ返りした男にねぎらいの言葉はないのかよ?」


 とてもとても疲れているから腹に仕舞い込んだ恨み言も口をついて出るものだ。

 ソファに深く身を沈めたままの男を忍は窓辺から目を細めて見下ろしやんわりと笑い、煙草を取り出して薄いがどこか紅を含んだ唇にのせる。

 かちりという音と共に白い顔がぼんやりと薄闇に浮かぶ。

 きりりと切れ上がった一重瞼から密集していないが長いまつげがすんなりとした頬に影を落し、細高い鼻梁と長い指先が彼の端正な顔を際立たせていた。

 綺麗な男だと思う。

 昼間は一分の隙の無い仕事ぶりでありながら常に主君を立てて影のように従っている為に、多分誰も彼の風貌に目を留めることはない。

 しかし、こうして月明かりの下に立つ男の艶やかな輝きはどうだろう。

 すらりと細い体に白いシャツを纏い、ネクタイの結び目を下げて襟元をくつろげている。

 彼にしてはだらしない格好にもかかわらず、どこか清涼な空気がそのすんなりとした首筋から漂う。

 そして、無造作に額に落ちた黒髪が、冷たい光を放ちながら瞳の上にかかる。

 ここは日本の経済を左右する巨大なグループ次期総帥の第一秘書室であるはずなのに、どこか御伽噺の聖霊の城に踏み込んだような気分である。

 今、この場に招かれたのが自分だけであることに対する誇りと、自分の好意の上に悠々とあぐらをかいている彼に無条件に屈していることへの憤りがないまぜになった。



「・・・暁彦は」


 返答はおおよそ予測がついているが、他に言葉が見つからず口にする。


「・・・野良猫に攫われていった」


 ・・・野良猫。

 半分とはいえ主君と血のつながった人物を野良猫呼ばわりしている時点で、彼の機嫌の悪さが伺える。


「暁彦様に変な病気が移したら、ただじゃおかないといったのに、飽きもせずやって来るんだ。もしも何かあったらどうしてくれるんだろうね。まったく・・・」


 はき捨てるような口調と裏腹に、長いまつげが一瞬小刻みに震える。

 そして、細い指先で再び煙草を唇に戻す。

 ゆっくり吸い込んで、白い煙をかすかな吐息と共に吐き出した。

 灰皿の横には背の低いグラスが在り、琥珀色の液体が氷をゆっくり溶かしている。



 忍が煙草を吸う姿を目にするようになったのはここ数年だ。

 まるでイギリスの貴族に使える執事のように禁欲と従順を守り、決して神聖な仕事場で酒を飲むような男ではなかったのだ。

 ただただ穏やかに夏の木陰に咲く白い花のようにひっそりと微笑んでいた彼の面影は、まるで遠い夢のようだ。

 幼い頃から主君を囲んで兄弟のように育って来たからこそ、今の姿は痛々しい。

 豹変。

 そう。

 忍は月の明りを浴びて違う生き物になってしまったのだ。

 昔見た娯楽映画のひとつに、ふさふさの毛と丸いつぶらの瞳を持ち、可愛い声で歌を歌う愛玩動物を飼うにはいくつか破ってはならない規則が在り、それを一つでも犯した場合、姿形も恐ろしく、手のつけられない魔物に変身されてしまうという話があったが、それを目の当たりにしているような気分だった。


「・・・確か、夜中に食べ物を食べさせると恐ろしいことになってしまうのだったな・・・」


 その魔物は恐ろしくヘビィに煙草を吹かし、暴飲暴食に走り、公共良俗に反することなら何でもやってのける悪の化身だが、よくよく考えてみると、子供を育てていく段階で教育上宜しくないことをうっかり行ってしまったら最後、手のつけられない生き物になってしまうという教訓物語だったのではなかろうか。

 もう、彼は弟のように愛してくれたはずの自分の為に優しく歌を歌ってくれたりはしない。

 近寄ると鋭い言葉の爪と冷たい眼差しで、身も心も引き裂こうと身構えるだけだ。



「兄さんは子供の頃、これといった反抗期が無かったから、今になって出たんじゃない?」


 長年の友である忍の妹は、兄の現在を客観的に評してからからと笑う。


「子供心に、こんなに出来過ぎた性格でいつかぽきんと折れないかしらって、いつも心配していたもの。私としてはここいらでやさぐれてくれた方が安心だわ」


 たしかに、今までの彼はいつも自分達にすべてを譲り、慈しんでくれた。

 まるでミケランジェロの彫ったヴァチカンの美しい聖母のように無償の愛を注ぎつづけてくれたと思う。


「でも、はしかもおたふくも、子供の頃にやるとたいしたことないけど、大人になって罹ると重症になるというわよね」


 確かに、重症かもしれない。

 暖かに優しく微笑むだけの白い花は、今は夜中に毒を吐く魔物と化している。



 こうなってしまったのははっきりした理由があるのだから仕方ない。

 幼い頃から密かに想いを温めつづけ見守ってきた人があっけなく、突然現れた天使に心を奪われてしまった。

 その上眼中に無かった弟同然の男に自分は火事場泥棒よろしく攫われて汚され、あろうことかそれを一番知られたくない人に知られてしまった。

 更には余計なことに、心からの祝福を思い人から受ける羽目になってしまったのはいったいどうしたことか。


 ・・・真意は最後まで伝わることの無いまま。


 忍のそれまでの努力と思いの全てが打ち砕かれてしまったといってよいだろう。


 同情してあまりあるが、自分としては今更引くわけにもいかない。


 ならば、鈍感過ぎた主君が悪いのかと言えば、それもまたお門違いであるのは明確なことで…。

 ただ、忍にしてみれば、ここでやさぐれないでどうするという心境なのだ。

 たしかに心根もすっかりねじれてしまうのも当然だろう。 



 責任の一端を負う力斗は、用のあるなしをお構いなしに、かなり強引でかつ突然呼び出されるようになった。

 それは必ず夜。

 たいてい、主君と天使の逢瀬と時を同じくする。



 主君が天使に抱いているのはよりどころなのか、恋なのか、執着なのか自分達の目からは解からない。

 ただ、生まれた時から定められた絆のようなものがはっきり見えるのだ。

 たとえどれだけの人々に非難されても主君はその絆を断ちきったりはしないだろう。

 あれは運命だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 解かっているからこそ、その運命がどうしてずっとそばにいた自分のものでなかったかという悲しさと、あがいてもどうにもならない悔しさに忍は眠れない夜を過ごす。

 眠れないから家に帰りたくなく、かといって独りで想うのも辛すぎるから、好きでもない力斗を呼び出し思いつく限りの言葉と冷え冷えとした眼差しで心を引き裂き、代わりに自分の体を差し出し引き裂かせる。

 自虐とも言えるこの行為に夜は溺れ、朝日が昇ると後悔しているのを力斗は知っている。

 人の根本はそう変れるはずはないのだから。



 ひどい人だと思うこともある。

 こちらの想う心も知っていながらそれには目をつぶり耳をふさぎ、ただ自分の傷だけを見つめている。

 片恋の辛さに重いも軽いも無いと知っている筈なのに。



「・・・力斗?」


 ソファから身を起し、すんなりとした眉を不審げにひそめる忍に向かってゆっくりと足を進めた。

 口に含んでいたグラスを取り上げ、ゆっくりと抱き寄せる。


「・・・忍さんは冷たいな・・・」


 腕の中の体は冷房にさらされてひんやりとしていた。


「・・・今更・・・」


 ふっと自嘲気味に鼻で笑う忍の頬に自分のそれを寄せる。

 こうして自分の体温を分けてあげれば、体はじきに温まっていく。

 心もいつかそうなればいいのにと、静かに耳元に唇を落した。



 月がきんと硬質な光を放つ。


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