恋の呪文

犬飼春野

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本編

呪文 *

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「江口、俺ら、帰るけど?」
 気の遠くなるような数の記号が並ぶリストから顔を上げると、背後に岡本がカバンを小脇に抱えて立っていた。
「これから飯田たちと飯でも食おうって話になったんだけど、お前も行かね?」
 片目を閉じて、くいっと杯を空ける仕草をしてみせる岡本に、江口は首を振る。
「いえ・・・。これを今一気に上げた方が、明日、楽ですから」
 手元にあるリストの束を指差した。
「そうか。立石も明日には研究所から戻ってくっからよ。あんまり、根つめんなよ」
 岡本はひらひらと手を振って、飯田や他部署のSEたちと立ち去った。
「もうすぐ十時か・・・」
 仕事に集中していると、時間の過ぎるのは早いものだ。
 気が付くと、広いフロアの中はどの部署も農閑期なのか、江口を含めて数えるくらいの人しか残っていない。
 両手を天上に向けて大きく伸びをしていたら、リストの下にすっかり埋まってしまっている電話がいきなり鳴りだした。
「はい、一課です」
 慌ててリストを掻き分けて受話器をとると、一瞬の間を置いて、低めだが透明な声が流れてきた。
「営業の池山だけど。・・・・江口?」
 いつもより小さめの話し声は、まるで囁きかけているようで耳に心地よい。
「・・・はい。どうしたんです?こんな時間に」
 技術者ならともかく、残業手当の付かない営業は、普通なら余程のことがない限りこんな時間まで社内に残ることはない。おそらく彼の在籍フロアは、池山位しか残っていないだろう。
「仙台の処理に手間取ってな。それより、お前、Fシリーズのカタログを持ってないか?明日顧客の所に持って行きたいんだけど」
「Fシリーズですか・・・?」
 江口は受話器を肩口でささえて引き出しの中を探した。
「あれ?おかしいな。先週まではあったんですけどね。こちらにはないから、あとはカタログ室ですね」
「カタログ室?今、あれはどの辺に置いてあるんだっけ」
 カタログ室は自社他社を含めたありとあらゆる仕様カタログを保存しているにもかかわらず、管理が杜撰なので雑然としていて解りづらい。
 室内の配置を頭に浮かべ、説明ようと開きかけた口を一旦つぐんだ。
「・・・これは、直接教えたほうが早いですね。俺、行きますから、落ちあいましょう」
「ああ。・・・悪いな」
 江口は受話器をフックに戻すなり、階段へと駆け出した。



 カタログ室と資料室のある十五階は、ちょうど営業部と技術部の間に挟まれて昼間はそれなりに人の行き来が激しい筈なのだが、長期休暇をとる者の多い八月のこの夜は怪談話の一つでも起こりそうなほどしんと静まり返っている。
 階段を一気に駆け降りた江口は、資料室の前を横切って更に奥にあるカタログ室のドアに手をかけると、電気が消えて真っ暗な磨りガラスの向こうにぼんやりと人の気配を感じた。
「・・・池山さん?」
 池山の席からこのカタログ室へは、どんなに急いでも自分より早く着くことはない筈だ。
 ゆっくりドアを押し開けると、正面の柱に寄り掛かり、腕を組んで佇む池山と目が合った。
「・・・よう。ご苦労さん」
 首を僅かに傾けてうっすらと笑みを浮かべるその姿が、外からの明かりにぼんやりと浮かぶ。
 紺色のスーツに水色のシャツをまとった体はいつもならばシャープな印象を受けるのだが、なぜかほっそりと頼りなげに見えた。
 ほの白い面差しに濡れたように潤んだ黒い瞳がきらりと瞬いて、一瞬、江口は目眩を覚えた。
「・・・いえ。早かったですね」
 言葉を繋げようとした江口の手首をいきなり掴んで強い力で室内に引き込むと、池山は後ろ手に鍵をかけた。
「池山さん?」
 戸惑う江口の手を引いて明かりも点けないままどんどん前へ進み、最奥の書庫の前に辿り着くとようやく振り返った。
 窓から差し込む薄明りにも、池山のいつになく真摯な瞳ははっきり見て取れる。
「江口・・・」
 低く、囁くように自分の名を呼びながら、ゆるゆると頬に触れてきた池山の手はひんやりと冷たい。
「池山さん?」
 訝しげに眉を寄せると、一瞬焦れたような表情を浮べ、両腕を江口の首に絡めて顔を寄せる。
 効き過ぎた冷房のせいか、シャツごと冷えきった身体とは反対に、唇をたどる池山の吐息は熱かった。一瞬、ためらいを見せた後それを合わせる。
 噛みつくように唇を吸う池山を宥めるように、江口はその背を両手でゆっくりと愛撫する。そして口を開いて舌先で口蓋を刺激すると、くぐもった声を上げながらも池山が全身をぶつけるようにすり寄せてきた。
 何度も何度も角度をかえながら深く口付けを交わすうちに、いつのまにか床に座り込んだ江口の膝の上へ池山は乗り上げ、自分の下肢を押しつける。
 江口のこめかみに、顎に、と忙しなく唇を滑らせながら、首、肩、胸とまさぐった手がベルトへ下りると、その上に江口の暖かい手がしっかりと包みこむようにかぶせられた。
「池山さん、待ってください」
 その声は、先ほどまでの情熱的な口付けとは裏腹に、ひっそりと穏やかにカタログ室を漂う。
「江口・・・」
 うろたえて、かすれた声を上げる池山に額を寄せて、ゆっくりと囁く。
「こうして、池山さんに触れられるのは、俺にとってはとても嬉しいことだけど。・・・いきなり、どうしたんですか?あなたらしくもない」
 頬に手を寄せると、池山の身体が電気が走ったようにぴくりと跳ねた。
「池山さん・・・」
 俯いて固く目を閉じてしまった池山の頬を両手ですっぽりと包み込み、何度も何度も親指の原で愛撫すると彼はそろそろと先程よりも更に冷たくなった指先を重ねてきた。
 ゆるゆると顔をあげ、目を固く閉じたまま何かに耐えるようにぎゅっと眉を寄せて、紅を刷いたように熟した唇をかすかに震わせながら息をつく。
「・・・くれ」
 蚊の鳴くような、はかない呟きが吐息とともに江口の耳を掠める。
「・・・え?」
 動きを止めた江口の両手をしっかりと掴むと、池山は挑むように見据えてはっきりと言った。
「・・・お前を、俺にくれ」
 他人が聞けば恋愛経験豊富だというわりにはお粗末で陳腐な言葉かもしれないが、これが池山にできる精一杯の告白だった。
「池山さん・・・」
 茫然と江口はその顔を見返す。
 自分の膝に腰を下ろしたまま、些細な表情も見逃すまいと目を見開くその顔は、血の気が引いて夜目にも青白く見える。そして、無意識のうちにきつく自分の手を握りしめる、その指先の冷たさに合点がいった。
 この人は、この言葉を言うために自分をここへ呼びだしたのだと。
 大騒ぎして逃げ回って、悩みまくった末に出した彼の結論は江口にとってサヨナラ逆転ホームランそのものだ。
 拒絶の言葉を恐れて全身の体温が下がるまでにがちがちに緊張している彼が、なおのこと愛しい。
 何を恐れることがあるというのか。
 自分の答えは、始めから決まっているではないか。
 江口は穏やかに微笑んだ。
「・・・俺でよければ、いくらでも」
 池山は今にも泣きだしそうに顔を歪めて、江口の胸に飛び込んだ。



 最初、池山は江口の腕の中で全身を強ばらせて、ただただ震えるばかりだった。
 逸る心と緊張しきった体がばらばらで、自分が自分でないようで、怖い。
 一枚、一枚服をはぎ取られるたびに、江口のぬくもりと匂いが身体に染み込んでいくような錯覚に、眩暈を感じる。
「池山さん」
 首筋に寄せられた唇と宥めるように何度も自分の名を呼ぶ声に、体温が次第に上がっていった。
 早鐘のように打つどくどくと波打つ心臓と、僅かな空気の動きにさえも敏感に反応してしまう自分に戸惑う。
「あ・・・」
 さらりと胸をなであげられて背中に電気のようなものが走った。
「大丈夫だから・・・」
 少しかすれた声で宥めつつ、江口はアンダーシャツを脱ぐ。
 厚い胸板に引き寄せられて喉が鳴った。
 じんわりと湿った肌、硬い筋肉。
 他人と肌を合わせるのが、こんなに恐いと思ったのは初めてだった。
 身体の緊張を解きほぐそうと、首を、背中を、胸を、そして体の中心を、ゆっくりと細心の注意を払って滑っていく武骨な指先と手のひらの動きとその温かさに胸が苦しくなった。
 震える唇に江口の暖かい息が掛かると、思わず声を上げる。
「・・・コウ」
 綺麗な響きだった。
 自分が欲していたのは、この名前で、この暖かさと、この力強さだったと口にするたび思った。
 池山は体中に散らされる愛撫に我を忘れながらも、男の背中にしがみついて何度も何度も呟く。
「耕、コウ・・・ッ」
「池山さん・・・」
 池山の胸元にぽつんと言葉を落とした。
「好きです」
 かあっと胸元から全身にかけて甘い感覚が駆け抜けた。
 指先がしびれる。
「あなたが好きです」
 囁かれるだけで、息が止まりそうだ。
 そのまま胸の突起を音を立てて執拗に舐められ喉をそらすと、今度は耳たぶを強く吸いながら胸と下腹の両方を刺激し始める。
「・・・はっあっ・・・。ダメだ…」
 肩に爪を立てて身をよじると、首に歯を立てられた。
 そのまま下着とズボンははぎ取られ、同じように脱いだ江口は下肢を合わせてこすりつける。江口が動くたびに体液の混じる湿った音と熱いものがぐちゃぐちゃと静かな室内に響く。
 二人でまるで魚のように身体をくねらせて互いの身体をこすりつけ合っているうちにだんだん昂って行き、はぜた。
「あーっ・・・」
 思わず上がった声がまるで別の誰かがあげたかのように聞こえる。
 全身を投げ出したまま目を閉じて肩で息をしていると、江口が両膝を抱えてきた。
「・・・なに・・・?」
 江口は黙って膝から内股にかけて唇を落とす。そして、池山の腹に散る体液を指で拭って後ろのすぼまりに塗りつけた。
「・・・」
 いいですか?
 と、目で問われた。
 仕事をしている時には見たことのない江口の熱をはらんだ瞳。
 この瞳を知っている。
 あの時、自分はこれにのまれてしまったのだ。
 池山は笑った。
 非常灯の薄明かりの中、うっすらと浮かぶ池山の艶めいた笑みに江口は唾を呑む。
 この唇がいつも自分の理性を粉々に打ち砕く。
 池山の後頭部を乱暴につかんで唇を合わせた。互いの舌も息も体液も全て犯し合いながら両足の中心を割開き片手で奥深くを探っていく。
 どこが自分でどこが相手なのか解らなくなったそんな時、熱くて硬いものが中に押し入ってきた。
「あ・・っ、ああっ・・・」
 高い声が上がる。
「・・・はぁっ・・・」
 眉を寄せ、江口は苦しげに息を吐いた。
 ゆっくりだけど、確実に、熱のこもった棒のようなものが身体の中に入ってくる。
「ん・・・っ」
 痛い。
 苦しい。
 頭の横に投げ出したまま強く握りしめた手を大きな厚い手に宥めるように掬われる。
「息を吸って」
 囁かれて息を吸うと、両手の指と指を絡められる
 ぬくもりにほっと肩の力を抜いた瞬間、更に奥に進められてしまった。
「ああ-っ!」
 悲鳴を抑えることか出来なかった。開かされきつく折りたたまれた両足の膝ががくがくと震える。身体の奥の奥まで串刺しにされたような気分だった。
「池山さん…」
 ゆっくりと腰を動かし始める。今度は自分の中の何かが引っ張り出されそうな心地になり、江口の手の甲に爪を立てた。
「あ・・・っ、ああ、はあ・・・」
 勝手に流れてくる涙を江口が舌先でなめとり、耳元から首に唇を落とす。
「池山さん、池山さん…」
 甘い感覚に酔いながらも荒い息遣いを耳元で感じて胸の奥が熱く、苦しくなる。
 今、身体の中に江口がいる。
 強くて、熱くて、硬くて、とても気持ちが良い。
 荒々しく突き入れ揺さぶられるにつれて江口の熱が高まっていくのを池山は身体の奥で感じた。
 江口が自分を欲しがっている。
 江口が自分を欲しがってくれている。
 それは、なんて奇跡だろう。
「池山さん、…好き、です」
 強く打ちつけながら、江口が甘く囁く。
「コウ、俺も、おれも・・・っ!」
 どこまでが自分でどこまでが彼なのかわからないまま、池山は答えた。
「・・・好・・きっ・・・!!」



 それは呪文。
 強く欲して、欲されるための。
 果てのない充足と幸福を、より確かに感じるための。
 何よりも大切な・・・・・。
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