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本編
ネクタイ問題
しおりを挟む池山の住むマンションは、南武線沿いの静かな住宅街にあった。
さすがに八時前なので、 小学生や会社員の通勤姿がちらほらではじめていた。
この地区はゴミの収集が木曜日の朝だから、遠くで収拾車の流す音楽が聞こえる。
「ま。 上がれよ」
ドアを開け、靴を脱ぎながら池山は中へと促す。
1LDKのこざっぱりした部屋。
フローリングの床にはわたぼこり 一つ落ちておらず、意外と池山がきれい好きであることが解る。
空気の入れ替えのために、池山は窓を開け、息をつく。
「さて・・・と」
クローゼットからカッターシャツを一枚出して、江口に渡す。
「これ、着てみろ。たぶんサイズは合うだろう。あ、靴下はコンビニで換えていけよ。そ れくらいあるだろう?」
ぱりっと糊がきいて、仕立てのよさそうな紺がベースのストライプのシャツ。
するりと江口は袖を通した。
首周りも肩幅も袖丈もあつらえたようにぴたりと合う。
「・・・やっぱりな。お前、ストライプのほうが似合うよ」
池山は着替える姿を腕を 組んで眺めながら言う。
「けど、ネクタイ、それだと合わないよなぁ・・・」
池山は、うーんと眉間にしわを寄せて考えた。
今、 江口がしめているネクタイは、きっとどこぞのメーカーの安売り商品に違いない。 安物同志の組合せはうまく着こなせばそれなりに見えるのだが、上物ばかり の中で安物をたった一つでも混ぜると全体的に安っぽく見えてしまうことがある。
それが、人目を引く位置ならば、なおさらだ。
「やっぱ、 ネクタイも変えて行け」
池山は、結構、服の趣味にうるさいたちだった。
それも、かなり。
「あ、いいですよ。ネクタイまで は・・・」
江口は恐縮した。
「いいや。俺が気になるの。ちょっと待ってろ」
奥の部屋へ入って、しばらく引き出しをかき回した 後、一本のネクタイを持って戻ってきた。
青を基調とした、シックながらも綺麗な色合い。
一瞬名残惜しそうにネクタイを見つめた後、 すっと差し出す。
「これ、して行け」
受け取って何気なくタッグを眺めると、ブランド名の縫いとりが目に飛び込んできた。それは、イタリアのとある有名ブランドの名で・・・。
「えっ!!」
ブランドに疎い江口でさえ、このネクタイの品の良さはおおよそ知っていた。
多分、いや、はっきりいって、一介のサラリーマンが着けてよいものではない。
「だめですよ、こんな高価なの!」
もしかして、何気なく袖 を通したシャツも、そうとう高価なものだったのではないだろうか。いや、そうに決まっている。
「ええいっ、ぐだぐだ言うんじゃないっ。惜しくなる だろーがっ!!」
「だったら、なおさらっ・・・」
「うるさいっ!」
池山は一括する。
「そんな格好でお前を出したら、俺 のセンスが疑われるじゃないかっ。俺が客だったら、センスのない男と取引するのは嫌だぞ。ぜーったい、嫌だっ。一緒の空気を吸うのも嫌だっ。そんでもっ て、俺と同じ考えの奴が今日の会議のメンバーで重役クラスだったりしたらどうするっ?商談はパアだぞっ!パアっ!そしたら、また、上にどやされるだろー がっ!俺はそんなの嫌だし、断じて許さんからなっ!」
ぜー、ぜー、ぜーっ。
一気にまくしたてた後、肩で息をする。
「そ れでも、お前は、その青山をしていくって言うのか・・・?」
いつのまにか、江口のネクタイの名前は『青山』になっていた。(実際、確か にこれはそれに近い代物なのだが)
池山は上目遣いに江口を睨みつけて、返事を待つ。
言うこときかなきゃ、末代まで呪ってやるから な・・・。
バックに怨念じみた暗雲をどろどろと背負って、彼の瞳は、そう、訴えていた。
「・・・じゃあ、お借りします・・・」
あの、『池山さん』が、ネクタイ一つにこんなにもエキサイトするとは、彼に熱い視線を送っている女どもは誰も知らんのだろうなあ。
江口は心の中 でこっそりため息をついて、ネクタイを首に巻いた。
襟元をきちんと揃えて鏡の中を覗くと、いつもより涼しげにまとまった自分がいた。
「・・・ ほーら。やっぱり、そっちの方がいいって」
さっきの剣幕はどこへやら、胸をそらして誇らしげに池山は笑う。
「そのガタイと、その一分の 隙のない着こなしで、誰もお前がひよっこだとは思うまい。今日の仕事はばっちりだな!!」
一人でうんうんとうなずきながら納得して、池山はなに げなく時計に目をやる。
「おーっと、もうこんな時間かぁ?急がねえと遅刻だな。こりゃ」
「あ・・・」
「朝飯は、朝礼の後にでも取 るんだな。ほれ、急げ急げ」
江口を玄関へと押しやった。
「あの・・・」
「あ、駅の位置はわかってるよなっ。さっき通ったばかり だし」
追い立てられるままに靴を履いた江口は振り返る。
「あの、すみません。来週には必ず、クリーニングして返しますから」
そう言う江口に、池山は笑ってひらひらと手を振る。
「あ、それ。返さんでいいから」
「え?でもっ、これは・・・」
「ちょっとし た、口止め料」
「は・・・?」
人差し指を唇に当てて、にやっと池山は笑う。
「酔った弾みとはいえ、男同士でカンケイしちゃった わけだよな?ちょっと変わった経験させてもらったぜ。ま、人生何事も経験だし?お前は俺に呑みすぎるとろくなことがないぞという教訓を少し与えてくれ、俺 はお前に服のセンスというものを伝授した。これで、お互い五分五分だ」
どん、と江口に鞄を押しつける。
「シャツもネクタイもお前にくれ てやる。その代わり、酔って意識のない俺の体をいーよーにしたのも、俺の体調が年休とらにゃならんほど、すっげーわりいのも、今日の仕事の出来でチャラに してやろう」
乱れかかる艶やかな黒髪をかきあげて、池山は艶然と笑う。
「ま、今回のことは、真夏の夜の夢とでも思ってくれ」
「池 山さん・・・」
江口の目が、何か言いたげに訴えている。
犬が飼い主に邪険にされて「どうして?」と淋しそうに鼻を鳴らすときの、あの、目をしていた。
池山は、ふっと、伯母の家にいるセントバーナードのハナコを思いだした。
やばいなぁ。
優しくし たくなるじゃないか。
女と子供と動物に弱い彼は、ふるふると頭を振る。
いいやっ!
俺様と、この大馬鹿者の、明るく楽しい将 来のためにも、情けは禁物だ。
こういう時に、年上の俺がしっかりしなくてどうする?
次々と浮かんでは消える考えを振り切るよ うに、池山は殊更明るい声で言う。
「さーっ。話はここまでだっ。時間がもったいないからなっ。あ、駅までは全力で走らんと、かんっぺきに遅刻だか らな」
ぐいぐいと江口を玄関から押し出す。
ただし、極力、さり気なく、江口の目は見ないようにして。
「・・・・じゃあ、失礼 します」
江口はおとなしく歩きだす。
「じゃあなっ。会議、頑張ってこいっ!!」
廊下で振り返って見た池山の顔は、この上なく 晴れ晴れとしていた。
ぱたん。
戸をゆっくり閉じる。口元にほほ笑みを貼りつかせたまま。
かち。
内鍵を静かに掛ける。優しく、穏やかに。
かしゃ。
チェーンをかける。落ち着いて・・・。
ふと、思いついたように玄関に転がる靴に目 を止め、ゆるりと身を屈めて片方だけ手に取る。
手のなかの靴をしばらく見つめた後、すっと息を止め、振り返りざま・・・・。
どかっ。
靴は一直線に飛んで廊下の向こうのリビングの壁に当たった後、床に転がった。
ずきんっ。
「いてて・・・」
忘 れていた痛みが、倍増されて再び体を襲う。
廊下にしゃがみこんで痛みを堪えながら、池山はきりりと奥歯を噛み締める。
俺が 酔っ払っているのを良い事に、あんなガタイがでかいだけの青二才に、色々、いろっいろっ、体中いいようにされた上に、そいつにとっておきのネクタイとシャ ツをくれてやるなんて、俺はなんて太っ腹なんだっ・・・。
特に、あのネクタイは、ほんっとーに、高かったんだぞっ。
『とっておき』 だったんだっ。あれはっ!
今まで、どんな女にだって、ここまで奉仕したことはなかったのにっ!
この俺が、なんで、ここまでっ。
なんでだっ!
先程までなんとかプライドで抑えつけていた怒りは、体が爆発しそうにぐつぐつと煮えたぎっていた。
もし、体の自 由が利いていたならば、きっと、池山は怒りに任せて某特撮映画の怪獣のごとく大暴れしていたに違いなかった。
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