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本編
雌猫の執念
しおりを挟む玄関先でドアに寄りかかって佇むその人は、ゆっくりと吐きだした煙草の煙を物憂げに眺めていた。浅黒い、信じられないほど小作りな顔に形の良い高い鼻、きりりとした眉に長いまつげ、知的な額。鎖骨が綺麗に出るVネックのシャツに厚手のパーカーを緩く羽織り、ブルーのジーンズからは信じられないほど長い足が伸びている。
こんなにセクシーな人、見たことがない。
足を止めてうっとりとため息をついたところで、彼は視線をこちらに向けた。
奧二重で切れ長の、茶色がかった瞳はいつもよりもクールだった。
「・・・こんにちは。ここがよくわかりましたね」
「前によく話に聞いていたので。休日に突然すみません」
誰から聞いたかを、あっさり省いていた。
ちっともすまないと思っていないのは、この満面の笑みを見れば一目瞭然だったが、かといってそれをすんなり受け入れるわけにはいかず、そ知らぬふりをして問う。
「今日はどうしましたか?片桐のことで?」
「あの折は大変お騒がせしてごめんなさい。会社の方々にも大変迷惑をおかけしてしまって言葉もありません。お詫びに伺おうかと思ったのですけど、片桐さんの立場もありますし・・・」
片桐さん。
少し前の呼び名は違った。
すっかり過去のことと言わんばかりの口ぶりだ。
「そうですか・・・」
ならばなおさらのこと、家に上げるわけにはいかないと思った。
「実はどうしても立石さんに相談したいことがあって・・・」
もじもじと肩を揺らした後、上目遣いに見上げてじっと見つめる。
「相談・・・ですか」
この目か。
これに片桐は引っかかったのか。
なんでまた、この程度に。
計算され尽くして作り上げられた、熟練のアイメイクを眺めながらそう思った。
これをクレンジングしたらどのくらいの瞳の大きさとまつげの長さになるのかな、とも。
それがやけに気になって、視線を外せない。
一方で瀬川美咲は心の中で凱歌を上げた。
やったわ。
彼の視線は私に釘付け。
あと一押しで黒の王子様もイチコロね。
互いの思惑と思考回路が大きくずれたまま会話が続いた。
「はい。実は・・・」
ゆっくりと唇を動かす。
ここで「立ち話もなんですから」と、ドアを開いてくれることを期待して。
しかし、立石は煙草をくゆらせてドアに寄りかかり、空いた手をパーカーのポケットに入れたまま、視線で続きを促した。
「ええと・・・。そう。片桐さんとのことが、日が経つにつれてだんだん辛くなってきて・・・」
瞬き一つせず、彼は黙って見下ろす。
「忘れたいのに、部屋に帰ると思い出がフラッシュバックみたいになって、苦しいんです」
これではまるで瀬川が被害者のようだ。
それにしても言うに事欠いてフラッシュバックとは、よくもまあ言えたものだ。
ますます立石の視線は冷ややかなものとなる。
「そうですか。それで?」
いつになく横柄な態度で煙草の煙を吐き出すのを見て、瀬川はますます目を潤ませた。
この風格、この気品のある仕草と声。
そして、首のラインもなんて綺麗なの!
「だから、今の部屋から引越ししたくて・・・」
「・・・」
立石は眉を寄せた。
「それで、このマンションに空いている部屋はないかと思って」
まったくもって、話がさっぱりわからない。
「空きは・・・。以前にお話ししたとおり、異動のシーズンにならないと無理だと思いますが?」
打診されたのは一月に行った軽井沢で。
仲間内の宴会のさなか、二人が立石に話しかけてきた。
二人で暮らす家を探している。
立石の住んでいるマンションに空きはないかと。
その場で管理者に問い合わせして、どの物件もしばらく動きがない予定のようだと答えた。
破談が辛いのなら、何故わざわざ片桐の知り合いばかり出入りするこのマンションに部屋を求める?
まったくもって理解不能だった。
論理が破綻していると指摘したいのは山々だが、もう少し様子を見るとするか?
そう考えた矢先、瀬川は大げさに身を震わせ、かわいらしくくしゃみをした。
「・・風邪ですか?」
無視することも出来ず、うんざりしながら声をかけた。
「いえ・・・。この廊下は風通しが良いんですね」
伏し目がちに肩をすくめてみせる。
セーターから覗かせた細い指でそっと腕の辺りをさすった。
この、あからさまなアピールを見るにつけ、ますます入れてはなるものかと奥歯を食いしばる。
「まあ春とはいえ、まだ三月になったばかりですしね」
見なかったふりをして話をそらすと、瀬川が目を大きく見開いた。
「あら三月と言えば、そういえば決算がもうすぐですね。お忙しくて大変でしょう」
「ええまあ・・・」
「立石さん、いつも休日返上で働いていらして、凄いなあって思っていたんです。こう残業続きだと食事もままならないんじゃないですか?」
「いや、そんなことは・・・」
手元のバッグからのぞくものに今更気が付いた。
パスタとセロリそして多分諸々の食材。
しまった。最初からそのつもりか。
「上げては、下さらないの?」
ここで、ずばっと、上段の構えで来た。
「そうですね。ご存じの通り仕事が忙しくて、人を上げられる状態じゃないので」
防戦ばかりだと不利になると思いつつ、頭の中では別のことを考えていた。
前にも似たようなことがあった。
いつのことだったか。
「私、家事が好きなんです。お掃除とお洗濯の手伝いをさせて下さい。」
ほぼ初対面で下着を洗う気か、この女。
背筋を冷たい物が伝った。
「いや、どうぞお構いなく」
言葉を選ぶ間に、一歩詰められた。
「遠慮なさらないで」
小首をかしげてにっこりと笑いながら、更に一歩、前へ進む。
この男が、いついかなる時にも、誰にでも優しいのは聞き込み済みだ。
家に入ってしまえばこちらのもの。
彼女の視線は、立石の男らしい唇に集中していた。
2本目の煙草をくわえて火をつける時、ちらりと見えた白い歯と薄紅色の舌がなんとも扇情的だった。
あの唇。
まずは、あの唇を味わってみたい。
瀬川美咲の瞳はますます光り輝いた。
このしぶとさ。
・・・実家で飼っていた猫にそっくりだ。
弟たちが庭で遊んでいる隙にするりと家に入り込み、さっさと押し入れの中で子猫を産んで、あっというまに居住権を獲得したキジ猫のシマ。
ここぞという時の押しの強さと度胸は雌という種族ならではなのか。
しかし、彼女は猫ほどに可愛い気のあるイキモノではない。
むしろ、恐るべき雌だ。
余計なことを考えているうちに、にっこり笑って手を伸ばしてきた。
きっと彼は振り払うことが出来ない。
「私、料理も・・・」
腕に触れようとした瞬間、どんっとドアを蹴る音がした。
「え?なに?」
驚いて伸ばした指先を止める。
背中に振動をもろに受けた立石はため息を一つついて、ドアから背を離した。
まるでそれを待っていたかのように。扉が中からゆっくり開いた。
そして、白くて長い手が立石の背から首元にするりと巻き付く。
「モーニン、ハニー」
そのまま背後から耳たぶに唇を押し当てて、ゆっくりと味わうようなキスをした。
「猛烈にお腹空いちゃった。まだ終わらないの?」
「お前・・・」
絡まった両腕をほどくこともなく、立石は息をつく。
そこには抱きしめた男に頬を寄せ、とろけるように見つめる佐古真人がいた。
「コンロにかけてるコンソメ、あれもう仕上がってるの?」
目の前にいる客をそっちのけで佐古は話を続けた。
こちらは清潔そうな白いシャツとグレーのカーディガンに黒のカーゴパンツ。
クールなスーツ姿からは考えられないくだけたな着こなしも、目が離せないほどに決まっていた。
「そろそろいいと思うけど、あとは味を見て・・・」
佐古を絡みつかせたまま、平然と立石は煙草を口に運ぶ。
「よく、あんな面倒くさいスープ作るよね、徹って。まあ美味しいから良いけど」
「なら、文句を言うな」
長身で見た目も良い二人がいつもと違う服装と雰囲気を見せていることにまず見とれていた瀬川だったが、その距離の近さにだんだんと違和感を覚えた。
「だいたい、徹が昨日眠らせてくれなかったからこんな時間になったんじゃないか」
「お前、よく言うな・・・」
いつまで経っても二人はくっついたまま会話を続けている。
まるでそれが日常であるかのように。
「もう、身体のあちこちがぎしぎし言って、どうしてくれるのさ」
「いや、それは俺だけのせいじゃなから」
たとえ佐古がアメリカで育ったとしても、いくら何でも密着しすぎてやしないか。
もう子供ではない、三十前後の大の男たちとは思えない親しさ、いやそれよりも見ているこちらが恥ずかしくなるような甘さを時折感じる。
そして、ふと、二人の会話をもう一度リプレイした。
・・・コンソメ、スープ?
『あんな面倒くさいスープ作るよね』
佐古はそう言った。
ようするに、立石の料理の腕前とこだわりは相当なものなのではないのか?
手早いだけのイタリアンを作ろうと用意していた瀬川は青くなった。
今までの男たちは料理をしないからこの手が通用したが、彼の場合は逆に好感度を下げるだけだと全身血の気が引いた。
瀬川の様子を横目に見ていた佐古はそのまま話を続けた。
「そういえばさ。さっき電話が入ったよ。オーナーから」
「ああ、森本さん?なんて」
今こうしてやたらと自分の身体に取り付いてべたべたと触っているのも、先ほど飲んだはずのコンソメの話をするのも、佐古に考えがあってのことだろうと任せていたが、急な話の切り替えに眉をひそめる。
「俺らがアメリカへ行っている間に、5階の田中さんがソウルに拠点を移したから、空き家になってるよって」
「田中さんが・・・」
田中さん、という人は存在しない。
短くなった煙草を床に落として靴で火を消す。
ふと目を上げると、瀬川が自分たちを凝視している。
「・・・すみませんが、田中さんの空きのあとは先約があるから・・・」
断りを入れようとするのを目を見開いたままの瀬川が遮った。
「あの、オーナーって・・・。森本さんって、誰ですか?」
コンソメの話をしている時よりも、はるかに顔色は白くなっていた。
「・・・このマンションの持ち主ですが」
立石も素になって答える。
まさかと思うが。
まさかそれで。
「え?だって、このマンションは立石さんのでしょ?」
瞳孔が開ききっていて、正直、怖い。
しかし、間違いは正すべきだろう。
「・・・いや、違いますよ?」
「だって・・・!!」
悲鳴のような声に、佐古がするりと二人の間に割って入った。
「ただの店子だよ、俺たちは」
「うそ・・・?」
少し頭をかがめ、卒倒しかねない瀬川の目線に顔を合わせてほほえんだ。
「本当。オーナーが徹の友人で、徹の知人ならある程度常識があるだろうって事で、空き部屋が出来るたびに次の店子の紹介を頼んでくるから、自然とこれ一軒友人ばかりになっているけど」
独身寮から転居してきた江口もその一人だ。
「片桐から、聞いてなかったの?」
「聞いていません、そんなの・・・」
呆然と立ちすくむ瀬川の肩にそっと手を置く。
「・・・そこまで送るよ、行こう」
そのままウエストの辺りにすっと手が当てられ、まるでパーティでエスコートするかのように自然と廊下を歩かされた。
瀬川は夢の中を歩いているような気分だった。
色々な意味で。
「あのさ」
エレベーターの到着を待っている間に佐古がぼそりと言った。
「君は、ここには来なかった。何も見ていないし、何も聞いていない。それでOK?」
「え・・・?」
ちょうど箱が着いたので、またもや、やんわりと背中を押されて乗り込む。
降下する中、なんとなく向き合うと、佐古が右手で髪をかき上げた。
あらわになった首筋は男らしくのど仏が出て、すらりと長く、立石とは違う色香を放つ。
しかし、その綺麗な首筋に不似合いなものが襟の上にくっきりと現われていた。
それは、赤く鬱血して、白い肌にまるで花びらを落としたかのようだ。
「トオルガ、ネムラセテクレナカッタカラ」
「ソレハ、オレダケノセイジャナイ」
先ほどは気にもとめなかった会話が頭の中でよみがえる。
その一点から目が離せなくなっているのを見て取った佐古は、艶然とほほえんだ。
「徹は片桐を気に入っているから、今日のことは絶対誰にも言わないと思う。で。君が俺たちのテリトリーにこれ以上入って来ないと約束するなら、俺も黙ってやっていてもいいよ」
腰を折り、息の届く位置まで額を寄せて、ささやく。
「どうする?」
あまい、甘いささやきだった。
コーヒーの香りのする唇がゆっくりと、触れそうで触れないぎりぎりのところで言葉を紡ぐ。
「今、この瞬間も、みんな、なかったことにしてしまいたくない?」
ふらふらと肯くと、意外に大きな手が優しく頬を撫で、その唇が額に落ちて、ゆっくりと離れた。
「なら、約束」
更に、コーヒーと煙草の混じった香りが唇をかすめる。
柔らかな感触。
そして、なんて甘い。
金縛りにあったかのように瀬川は指一本動かせなかった。
「はい・・・」
かろうじて、返事をしたのを覚えている。
気が付いたら、いつの間にか一階に着いて、扉が開いていた。
外は、うららかな春の日差しに満ちている。
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