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第二章 公女去りて後のアシュフィールド国
婚約のしるし
しおりを挟むジュリアンとオリヴィアは手を取り合いゆっくりと壇上へと上がった。
二人の前にはハーマン枢機卿と小さな書面台がある。
「それでは、アシュフィールド国の王子ジュリアン、そしてネルソン侯爵の義妹オリヴィア。あなた方はこの婚約に同意し、王族としての務めを果たすと誓いますか」
ゆっくりと幼子に尋ねるように問う枢機卿の様子に、ジュリアンは一瞬とまどいを覚えたが、吐息と共に押し出した。
「誓います」
「誓います」
それぞれが誓いの言葉を宣言する。
枢機卿は背後の椅子に座って事の次第を眺めている王と王太后を振り返り、黙礼をすると彼らは重々しくもしっかりと頷いた。
静謐な空気の流れる中、枢機卿の朗々とした声が響き渡る。
「お二人の宣誓を今、我々はしかとこの耳で聞き、国王の了承を得ました。よってこの誓書に署名をお願い致します」
白銀のペンを枢機卿が差し出し、まずはジュリアンが誓紙に記入した。
続いてオリヴィアも丁寧に自らの名前を記す。
最後に、枢機卿自らも署名した。
「これで、二人が婚約した証を得ました」
枢機卿が誓紙を両手で掲げ、周囲にゆっくりと示す。
ネルソン侯爵をはじめ、列席者たちは拍手で祝福の意を表した。
「最後に、婚約のしるしの指輪をはめていただきます」
司祭の一人が指輪を入れた箱を持って歩み寄り、蓋を開け枢機卿へ向ける。
「これらは二人が王家の一員として過ごすために必要な護りを施しております。エルフとドワーフ、そして聖教会でもっとも神聖力を持つ司祭たちにより、幾重にも術を施した特別な指輪。縁を結んだしるしとしてこれからともにあらんことを」
枢機卿が二つの指輪を重ね持ち、額に押し当てると金色の光が一瞬強く放たれ、やがて何事もなかったかのように消えた。
「お待たせしました。どうぞ」
指輪を箱に戻し、二人に差し出す。
精緻な装飾が施された金色の二対の指輪がきらきらと輝いている。
「ああ、ようやくだな」
ジュリアンが感無量のため息をつくと、オリヴィアも胸を高鳴らせ、頬を染めた。
「嬉しい…」
恋人たちはこの日のために作られた指輪を手に取り、互いの指にそっとはめる。
すると、二人には大きすぎるその指輪は白い光を放ちながらすっと縮み、指にちょうど馴染むくらいのサイズに変わった。
「そういえば、そうだったか…」
ふと、ジュリアンは小さく呟く。
幼いころにエステルとの婚約式を挙げた時、大人の親指用に仕立ててあるとしか思えない指輪を司祭たちから無理やり嵌めさせられ、密かに手を振って落とそうとしたがあっという間に縮んで叶わなかった。
そんな過去を思い出した。
あの時、あの女は細かいレースが施された真っ白なドレスを着せられていて、長い髪を一本のみつあみにして背中に流していた。
こめかみから毛先までのところどころに小さな真珠が花びらのように散らされて、縮んでいく指輪をじっと黙って見つめる横顔は静謐で、まるで自分の婚約者ではなく、妖精王か神の花嫁のようだと―――。
そこまで思いめぐらしたところで王子は一瞬固く目を閉じた。
あの卑しい女はもういない。
自分は、これから幸せになるのだ。
忘れよう。
過去を振り払うジュリアンの隣で、オリヴィアは左手の薬指に添うた指輪の神秘に感嘆の声を上げ、目を輝かせていた。
「我が国の法と神の名において、ジュリアン・リンゼイ・オブ・アシュフィールドと、オリヴィア・メリー・ネルソンが正式に婚約したことを、ここに宣言します」
列席者たちの歓声と拍手が一斉に上がる。
そんな中、ジュリアンとオリヴィアは手を取り合い、口づけを交わした。
何度も何度も、二人は顔の角度を変えて口づけ合うなか、オリヴィアに異変が起きる。
「―――――っ!」
ジュリアンを突き飛ばし、よろめきながら階段を降りきると下腹を両手で抱え込みその場にへたり込んだ。
「オリヴィア?」
驚いたジュリアンは慌てて後を追い、床に膝をつき恋人の肩に手をやる。
「い、い、いたい…。いたい、いたい、痛い――っ!」
うずくまって叫ぶ侯爵令嬢の姿に、何が起きているのかわからず、みな石のように固まったまま動けない。
「ああ、ああ、なにこれ、何なの、何なのよ…。やだやだやだ、やだ、きもちわるい、こわい、いやあああ―――」
オリヴィアのドレスは胸の下のところで切り替えられたエンパイヤラインと言われる形で、締め付けは一切なく、ふわりとしたシフォン生地をたっぷりと重ねられている。
しかし、妊娠していると言っても腹が目立つほどではなかった。
それがみるみる大きく膨らんでいく。
王城の、それも伝統ある聖教会内で起こりうるはずのない怪奇な光景に、オリヴィアの侍女や護衛騎士、親族ですら恐怖のあまり動けないままでいた。
大理石の床の上にジュリアンとオリヴィアは取り残され、どれほど助けを求めても手を差し伸べる者はいない。
「枢機卿! 何が起きている! オリヴィアが苦しんでいるのだ、何とかしてくれ!」
ジュリアンは髪を振り乱して絶叫するオリヴィアを背後から抱きしめながら壇上を見上げた。
しかし、枢機卿と国王、そして王太后は至って冷静で、オリヴィアの変わりようをじっと観察するように見つめている。
「やはり、こうなりましたか」
「そうだな」
ハーマンと王はしたり顔でゆっくりと頷き合う。
「なにを、悠長な…」
苦しみにのたうつオリヴィアを強く抱きしめながら、彼らを睨んだ。
「こうなったらこのままで」
「御意」
王の一声にハーマンは手を振り上げる。
すると、どこに控えていたのか多くの魔導師と司祭、そして修道女や医術師たちが突如現れ、一斉に二人を取り囲む。
その人垣の中で、オリヴィアの絶叫と荒々しい吐息、そして暴れるような物音が人々の耳に届く。
「いやあ、いやーっ。誰か止めて、やめて、出る、出る、出る、なんか変なものが出てくるーっ」
貴婦人たちは目を閉じ、耳を塞ぎ、夫や父親の胸に頭を寄せた。
人々は抱き合い、いっそこの場で気を失ってしまえたらどんなにかと思うが、王と王太后が凛として座っている限り、粗相は許されない。
理解できない事態だが、これから何が起ころうとしているかは誰もが予感している。
ここへ来たのは、祝い事に出席するためだった。
しかし、これは。
惨劇が始まろうとしていた。
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