40 / 54
第二章 公女去りて後のアシュフィールド国
鑑定
しおりを挟む王より護衛騎士へ、そして王太后へ渡ったハンカチをゆっくりと手のひらの上に広げた。
「これか」
この黒い生地のハンカチじたい、アレクサンドラには覚えがある。
エステルには様々な教育を施し、山のように自習を課してきた。
その一つがハンカチの刺繍。
十日に一枚作り上げることを十年近く習慣づけ、年を経るごとに難易度を上げ、課題をこなせなければ容赦なく体罰を与えさせた。
アレクサンドラにはお抱えの治癒師が数名存在する。
どれほど激しい折檻を受け、大きな傷がついたとしても、治癒師に頼めば数分で何事もなかったかのように綺麗な身体になり、周囲に悟られることはなかった。
治せないのは心の傷だけ。
皮膚が裂け、時には骨にひびが入る痛みは記憶に刻まれる。
それを知ったうえで、生みの親が亡くなったせいで躾がないっていない公女に淑女教育を与えるという名目のもと、己の子どもの頃の二倍三倍の苛烈な指導を行うよう指示した。
いっそのこと、狂ってしまえばよいのにと思いつつ。
しかし、エステルは狂わなかった。
死にかけるほどの傷を負ったとしても。
眠る時間を削られ、公爵令嬢にはふさわしくない粗末な食事を与え、時には風雨吹きすさぶ中で野宿させたとしても。
腹立たしいことに、叩けば叩くほど強くなっていった。
それはまるで、槌を振るって剣を鍛えるかのように。
「なぜエステルは、こんな色に爪を染めたのだ?」
ラズライト色の塗料に眉を寄せる。
ジュリアンの婚約者としてふさわしくない装いだ。
アレクサンドラの疑問にデイヴが答えた。
「あの日、身に着ける予定のドレスと対になる首飾りが侍女の不注意で壊れたため、エステル様は侍女たちを全員ドレスルームから追い出し、独りでその爪と似た色のドレスに着替え、爪も自ら塗られていました」
「ほう……」
ちらりと壇上から汚物が詰め込まれた箱を見やる。
土にまみれた布の一部は、忌まわしい記憶のドレスと一致した。
「あれがまだ、後生大事に保管されていたとはな」
唇を歪めると閉じた扇を軽くあげ、近衛騎士に合図を送る。
「ウォーレンたちをこれへ」
騎士たちが近くの扉を開けてしばらくすると物々しい足音が複数聞こえてきた。
「お祖母上! なぜ私たちがこんな扱いを受けねばならないのですか!」
謁見の間に姿を現すなり、第三王子ジュリアンは苛立った声を上げる。
彼の腕に手を絡めにぴたりと寄り添うオリヴィア・ネルソン侯爵令嬢は、不安な面持ちで見る人の庇護欲を誘う。
その後ろにはあきれ返った表情の第二王子ウォーレンが距離を置いて騎士たちと続いた。
「ジュリアン、そしてネルソン侯爵令嬢。お前たちに聞きたいことがある。そこに立ちなさい」
「お祖母上。オリヴィアは体調が悪いのです。こんな冷たい床に立たせたままなど……」
「そう。お前の子を宿していてると聞いたのだが、それは誠か?」
「はい。間違いありません。オリヴィアと愛を交わし、純潔をもらいました。証拠もあります」
王子の婚約者になるにはいくつか条件があり、その一つが処女であること。
しかしこれには抜け道があり、婚約前であっても王子によって純潔を散らされた場合は許される。
「そうか……。あいわかった」
膝の上に広げていたハンカチを畳みながらアレクサンドラは鷹揚に頷いた。
「そのような事情により、私は取り急ぎオリヴィアと婚約したいのです。父上、お祖母上」
その顔には愛する女と子を得た誇らしさに満ち、それと同時に末息子ならではの甘えが見え隠れする。
「だ、そうだ。構わぬか、ヘイヴァース」
「今更、私に拒否権などありましょうや、王太后様」
かすれ気味のどこか独特で美しい声に、人々はざわめく。
エステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢の父親であるヘイヴァース公爵が堂々と現れた。
「お祖母上……」
「娘の一大事だ。呼ばぬはずはなかろう」
ヘイヴァース公爵の後ろには黒衣をまとった高位の魔導師が付き従っている。
王太后が魔導師を派遣し、転移魔法で呼び寄せたのは明らかだった。
エイドリアン・ヘイヴァース公爵は美しい男だ。
豪奢な金色の髪と宝玉のような碧の瞳、形の良い唇。
そして鍛えられた体躯と経験に裏打ちされた威厳のある眼差しは、玉座に座る王がかすんでしまうほど印象深い。
彼が謁見の間の最奥の扉の前から玉座の前を目指してゆっくりと歩くと、貴族たちは無意識のうちに道を開けた。
「それが、お前の娘だそうだ」
木箱の前にたどり着いたヘイヴァース公爵に他人事のような声でアレクサンドラは告げる。
「……」
視線を箱の中に向け男は口を引き結んだ。
「魔導師ガドル。公爵領との往復ご苦労であった。悪いが、今一つ働いてもらうぞ」
黒衣の魔術師は胸に手を当て深く頭を下げる。
「はい。何なりとお申し付けください」
「ここに、王宮で使用していた公女の所持品がある。早速だが、ハンカチの中の爪、箱の中の残骸ともに本人の物なのか鑑定しておくれ」
「な……」
さすがのジュリアンも思わず驚きの声を上げるが、じっとうつむくヘイヴァース公爵は動かぬままだ。
そうしている間に騎士や侍従、そして魔導師ガドルたちは鑑定するための支度を行う。
「では、始めます」
アレクサンドラから預かったものを木箱のそばに並べ、ガドルは両手を上げた。
彼が小声で歌のようなものを唱えると小さな風がおこり、ぱあっと赤い光がそれらを包んだ。
「……結果が出ました。これらは全て、公女様であることに間違いないかと……」
ガドルの言葉に、皆は我に返る。
木箱の中の髪、ドレスの破片、ハンカチの中の爪、そしてヘアブラシや耳飾り。
それらすべてが赤い糸のような光で繋がっていた。
「そうか……。残念なことだ」
アレクサンドラの声が広間に虚しく響き渡る。
8
お気に入りに追加
125
あなたにおすすめの小説
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ヒロインではないので婚約解消を求めたら、逆に追われ監禁されました。
曼珠沙華
恋愛
「運命の人?そんなの君以外に誰がいるというの?」
きっかけは幼い頃の出来事だった。
ある豪雨の夜、窓の外を眺めていると目の前に雷が落ちた。
その光と音の刺激のせいなのか、ふと前世の記憶が蘇った。
あ、ここは前世の私がはまっていた乙女ゲームの世界。
そしてローズという自分の名前。
よりにもよって悪役令嬢に転生していた。
攻略対象たちと恋をできないのは残念だけど仕方がない。
婚約者であるウィリアムに婚約破棄される前に、自ら婚約解消を願い出た。
するとウィリアムだけでなく、護衛騎士ライリー、義弟ニコルまで様子がおかしくなり……?
結婚する気なんかなかったのに、隣国の皇子に求婚されて困ってます
星降る夜の獅子
恋愛
貴族の名門、アベリア学園に通う三年生、リラ・アリエス。
同級生たちは卒業後の社交パーティーや見合いに夢中だが、リラは領地の経営にしか興味が持てない様子だった。
親友のアビーとクリスティーヌに婚期を逃すよう幾度となく忠告されても、彼女は平然として笑って誤魔化すの。
そんなリラを心から慕うのは、学友であり、アベリア国皇子の第二皇子、ロイド・ヴィルゴ・アベリア。
ロイドは密かに成人式の宴の後、リラに求婚するつもりで準備をしていた。
しかし、その時、たまたま列席していたのは、類稀なる美貌を持つアクイラ国第一皇子、クライヴ・レオ・アクイラだった。
驚くべきことに、クライヴはロイドの目の前で、恋焦がれるリラをダンスに誘うのだ!
この信じがたい出来事に、ロイドは嫉妬に震え、取り乱す。一方、リラはクライヴの美貌に見惚れ、抗うことができない。
これは、異世界王宮で繰り広げられるドキドキのラブストーリー。
☆★☆ 重複投稿のお知らせ ☆★☆
『小説家になろう』さまでも同様のものを連載しております
https://ncode.syosetu.com/n6224in/
『カクヨム』さまでも同様のものを掲載しております
https://kakuyomu.jp/works/16818023213580314524
ヤンデレお兄様に殺されたくないので、ブラコンやめます!(長編版)
夕立悠理
恋愛
──だって、好きでいてもしかたないもの。
ヴァイオレットは、思い出した。ここは、ロマンス小説の世界で、ヴァイオレットは義兄の恋人をいじめたあげくにヤンデレな義兄に殺される悪役令嬢だと。
って、むりむりむり。死ぬとかむりですから!
せっかく転生したんだし、魔法とか気ままに楽しみたいよね。ということで、ずっと好きだった恋心は封印し、ブラコンをやめることに。
新たな恋のお相手は、公爵令嬢なんだし、王子様とかどうかなー!?なんてうきうきわくわくしていると。
なんだかお兄様の様子がおかしい……?
※小説になろうさまでも掲載しています
※以前連載していたやつの長編版です
【完結】伝説の悪役令嬢らしいので本編には出ないことにしました~執着も溺愛も婚約破棄も全部お断りします!~
イトカワジンカイ
恋愛
「目には目をおおおお!歯には歯をおおおお!」
どごおおおぉっ!!
5歳の時、イリア・トリステンは虐められていた少年をかばい、いじめっ子をぶっ飛ばした結果、少年からとある書物を渡され(以下、悪役令嬢テンプレなので略)
ということで、自分は伝説の悪役令嬢であり、攻略対象の王太子と婚約すると断罪→死刑となることを知ったイリアは、「なら本編にでなやきゃいいじゃん!」的思考で、王家と関わらないことを決意する。
…だが何故か突然王家から婚約の決定通知がきてしまい、イリアは侯爵家からとんずらして辺境の魔術師ディボに押しかけて弟子になることにした。
それから12年…チートの魔力を持つイリアはその魔法と、トリステン家に伝わる気功を駆使して診療所を開き、平穏に暮らしていた。そこに王家からの使いが来て「不治の病に倒れた王太子の病気を治せ」との命令が下る。
泣く泣く王都へ戻ることになったイリアと旅に出たのは、幼馴染で兄弟子のカインと、王の使いで来たアイザック、女騎士のミレーヌ、そして以前イリアを助けてくれた騎士のリオ…
旅の途中では色々なトラブルに見舞われるがイリアはそれを拳で解決していく。一方で何故かリオから熱烈な求愛を受けて困惑するイリアだったが、果たしてリオの思惑とは?
更には何故か第一王子から執着され、なぜか溺愛され、さらには婚約破棄まで!?
ジェットコースター人生のイリアは持ち前のチート魔力と前世での知識を用いてこの苦境から立ち直り、自分を断罪した人間に逆襲できるのか?
困難を力でねじ伏せるパワフル悪役令嬢の物語!
※地学の知識を織り交ぜますが若干正確ではなかったりもしますが多めに見てください…
※ゆるゆる設定ですがファンタジーということでご了承ください…
※小説家になろう様でも掲載しております
※イラストは湶リク様に描いていただきました
この国の王族に嫁ぐのは断固拒否します
鍋
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢?
そんなの分からないけど、こんな性事情は受け入れられません。
ヒロインに王子様は譲ります。
私は好きな人を見つけます。
一章 17話完結 毎日12時に更新します。
二章 7話完結 毎日12時に更新します。
王子は婚約破棄を泣いて詫びる
tartan321
恋愛
最愛の妹を失った王子は婚約者のキャシーに復讐を企てた。非力な王子ではあったが、仲間の協力を取り付けて、キャシーを王宮から追い出すことに成功する。
目的を達成し安堵した王子の前に突然死んだ妹の霊が現れた。
「お兄さま。キャシー様を3日以内に連れ戻して!」
存亡をかけた戦いの前に王子はただただ無力だった。
王子は妹の言葉を信じ、遥か遠くの村にいるキャシーを訪ねることにした……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる