276 / 311
リリアナ・ホランド
しおりを挟む黒竜とミゲルは魔の道を通り抜ける。
はやく、はやく。
はやく、あの諸悪の根源を滅せねばならない。
彼らの頭の中は真っ黒に塗りつぶされてしまった。
抜けるような青空へ一瞬にして黒雲が現れる。
「…来たわね」
農作業の手を止めて、リリアナ・ホランドは南の空を見つめる。
「坊や、こっちにおいで」
そばで地べたに座り土いじりをして遊んでいた子供は、きょとんと目を丸くしたが、立ち上がって駆け寄り、ぽすっとリリアナのスカートに飛び込み、足にしがみつく。
「母さんに、しっかり掴まっているのよ」
わからないなりにも、金の綿毛のような頭でこくんと頷いた。
「ギャ―――ァァァァァ」
雲の塊の真ん中に黒光りする大きな魔方陣が描かれ、中心円から黒竜の顔だけが覗く。
真っ赤な長い舌を口から出して叫ぶ姿は、禍々しい。
「かあしゃん…」
小さな手できゅっと握りしめてきたのを感じ、リリアナはふわりと笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。母さんはね。世界一強いのよ」
幼子の髪をかき回すように撫でた後、低く呟く。
『防御盾。最大』
ぱちんと指を鳴らすと、黄金色の魔方陣が母子の前に現れた。
それと同時に、竜の全身が魔方陣から飛び出てくる。
「ファ―――オオオオゥ」
頭を左右に揺らしながら竜が威嚇するように周囲に声を響かせた。
「全く…。迷惑だわ…。ほんっと…」
とてつもない衝撃音と地響きをさせながら黒竜は着陸する。
そして、その背から黒衣の男が飛び降りた。
「干し草もただじゃないのよ。せっかくここまで育てたというのに」
母子と、竜と男。
彼らが対峙しているのは大きく開けた丘陵地で、ホランドの屋敷からは離れている。
家畜が冬を越すときのために干し草を作っている場所だった。
「リリアナ・ホランド…。その餓鬼を渡せ…」
ミゲル・ガルヴォがゆっくりと草を踏みしめながら近づいてくる。
肩を怒らせ、気が逸っているのか首だけ前に突き出ていて、まるで彼自身が竜のような姿だ。
黒髪はすっかり乱れ、逆立ち、眼はぎらぎらと…金色に光っていた。
声はしゃがれ、ヒューヒューと息が上がり、まるで年寄りのようだ。
「…ジュリア様がお亡くなりになられたのですね。お悔やみ申し上げます」
子供を後ろにかばった状態でリリアナは略式の礼の形を取る。
「そんなことはどうでもいい。その餓鬼を寄こせ」
瞳孔は月の刃のように縦細いものに変わっていて、獲物を狙う爬虫類のようにきょろきょろとせわしなく動く。
「そんなこと…?」
リリアナははっと鼻で笑う。
「…気は確かですか? ジュリアナ・クラインツ…いいえ、ジュリアナ・ガルヴォ公爵夫人はミゲル・ガルヴォの番だったはずでは?」
「ジュリアは死んでいない。いや、生きている。今のこの状態が間違っているのだ。だから、俺が正してやるんだ」
「…は?」
「ジュリアはあのろくでなしに犯されてその餓鬼を産んだ。そいつを贄にすれば、時間を戻して…」
辛うじて残していた礼儀をかなぐり捨ててリリアナは言い返した。
「ねえ、馬鹿なの? もし思い通りに出来たとして、ジュリア様が喜ぶと思うの? 子どもの命を使って生き返ったなんて知ったら…」
「お前に何がわかる! お前なんかにジュリアのことが分かってたまるか!」
「わかるわよ! たった数分しか話をしていないけれど、綺麗な水の中でしか生きられない、清い心の女の子だったってことくらいはね! あんたジュリア様を虐げた使用人の骨を折りまくった時、どうなった? 仲裁に入った騎士の腕を飛ばしてしまった時には? もう忘れてしまったの? あんたの愛は、いつだって見当違いなのよ!」
「うるさぁぁぁぁぃぃぃぃぃ~ッ!」
リリアナの言葉を薙ぎ払うかのように右手を高く上げた後に大きく振り下ろした。
「ギィィィィィエェェェェ―――ッ!」
ミゲルの癇癪に呼応して黒竜も泣き叫ぶ。
途端、暴風が巻き起こり、それと共に真っ黒な煙がいくつも槍となってリリアナたちへ向かって飛んでいった。
『破ぁっ』
リリアナが拳を前へ繰り出すと、ミゲルたちの術は四散した。
「くそ、くそくそくそ! バレリアが言ったんだ! その餓鬼と村一つくらいを贄にすれば、ろくでなしと出会う前まで巻き戻せると!」
激高したミゲルは手の中で子どもの頭ほどの黒い砲弾を作り出して飛ばすが、轟音と共に真正面に来たそれをリリアナはなんなくはね返し、威力を増したそれが戻ってくる。
「この女――ッ!」
竜が炎を吹いて闇の砲弾を消滅させた。
「彼と出会わなければすべて丸く収まると思っているの? とんだお子様なのね。相手が変わるだけよ! もっとひどい男が現れ…」
「黙れ黙れ黙れ――っ」
ミゲルは地面に手をつき、吠える。
すると、彼の身体から沸き上がった黒煙と竜の口から噴き出る炎が合体し、渦を巻きながら稲光の速さで突進した。
「話にならないわ」
リリアナは両手を前に出し、腹の底から低い声を出す。
『吸収』
すると、母子の前に掲げられた魔方陣に黒いモノは次々と吸収されていく。
凄まじい風圧も軽減され、リリアナの農婦衣装がはためき下の方で雑に縛った枯草色の髪がおられる程度の風しか届かない。
「な…っ」
ミゲルは驚き、四つん這いのまま固まった。
「ごちそうさま。あんたたちの魔力、頂いたわ」
胸の前でリリアナがぱんっと両手をあわせる。
『土よ おしおきを』
ドドドドドドドドド―――。
ザザ―――。
ミゲルと竜の上に突然大量の砂が降ってきた。
まるで桶に汲んだ水を逆さにしたかのようだ。
砂の重さに地面に押し付けられた。
「―――ッ!」
ミゲルたちの声にならない悲鳴に唇を上げたリリアナはぱちりと指を鳴らす。
『捕縛』
男と竜を埋めた砂山が、粘土のようにうねうねと動いて形を作り始める。
一人と一頭は顔だけ辛うじて出した状態で素焼きの人形のように固められた。
「うっ…。これは…なんだ…」
腕を前に組んで仁王立ちの状態で見下ろしていたリリアナはしばらく眺めた後、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
その後ろからは女の麻布のスカートの裾に掴まった男児の顔がひょっこりと覗いている。
この時になりようやくミゲルはリリアナのそばに子どもがいたままだったことを思い出した。
「世界最強の竜と竜使いを捕縛だなんて、なんていい眺めかしら。腹ばいになってしまったあんたたちにはわからないだろうけれど。私のかわいいゴーレムたちがしっかりと上から乗って固めてくれているから、動けないわよ」
「な、なんだと…」
『キ、キエ…ェ…』
一人と一頭は敗北を認めるよりほかはなかった。
131
お気に入りに追加
468
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
敗戦して嫁ぎましたが、存在を忘れ去られてしまったので自給自足で頑張ります!
桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。
※※※※※※※※※※※※※
魔族 vs 人間。
冷戦を経ながらくすぶり続けた長い戦いは、人間側の敗戦に近い状況で、ついに終止符が打たれた。
名ばかりの王族リュシェラは、和平の証として、魔王イヴァシグスに第7王妃として嫁ぐ事になる。だけど、嫁いだ夫には魔人の妻との間に、すでに皇子も皇女も何人も居るのだ。
人間のリュシェラが、ここで王妃として求められる事は何もない。和平とは名ばかりの、敗戦国の隷妃として、リュシェラはただ静かに命が潰えていくのを待つばかり……なんて、殊勝な性格でもなく、与えられた宮でのんびり自給自足の生活を楽しんでいく。
そんなリュシェラには、実は誰にも言えない秘密があった。
※※※※※※※※※※※※※
短編は難しいな…と痛感したので、慣れた文字数、文体で書いてみました。
お付き合い頂けたら嬉しいです!
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話
元悪役令嬢はオンボロ修道院で余生を過ごす
こうじ
ファンタジー
両親から妹に婚約者を譲れと言われたレスナー・ティアント。彼女は勝手な両親や裏切った婚約者、寝取った妹に嫌気がさし自ら修道院に入る事にした。研修期間を経て彼女は修道院に入る事になったのだが彼女が送られたのは廃墟寸前の修道院でしかも修道女はレスナー一人のみ。しかし、彼女にとっては好都合だった。『誰にも邪魔されずに好きな事が出来る!これって恵まれているんじゃ?』公爵令嬢から修道女になったレスナーののんびり修道院ライフが始まる!
職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい
LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。
相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。
何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。
相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。
契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
駆け落ちから四年後、元婚約者が戻ってきたんですが
影茸
恋愛
私、マルシアの婚約者である伯爵令息シャルルは、結婚を前にして駆け落ちした。
それも、見知らぬ平民の女性と。
その結果、伯爵家は大いに混乱し、私は婚約者を失ったことを悲しむまもなく、動き回ることになる。
そして四年後、ようやく伯爵家を前以上に栄えさせることに成功する。
……駆け落ちしたシャルルが、女性と共に現れたのはその時だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる