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計略といざない
しおりを挟む「ああまた失敗…」
ヘレナはオーブンから取り出したシューを見て肩を落とす。
前よりましだが理想から程遠い。
レシピは一言一句間違いなく頭に入っているのに、思うようにいかないことに焦り、情けなさで泣きたくなるのをぐっとこらえる。
しかし、ノラが用意してくれた紙に鉛筆で書いた今までの試みを見ているうちにだんだん工夫すべき点と、材料の性質が浮かび上がってきた。
水分と温度の調和。
小麦粉の膨らむ力を最大限に生かすために心がけること。
まずは必要な水分が飛ばないようにバターを大雑把な大きさで鍋に入れるのをやめて、溶けやすいよう小さく刻むことにした。
小麦粉を混ぜて練る点はホワイトソースと似ているけれど次の工程と求める性質が違う。
冷たい牛乳を手早く混ぜることで糊化を防ぐのがソースなら、オーブンで膨らませるシューはまさに逆。
「きちんと糊化させて…そうか、卵の温度を少し上げておかないと…」
紙に追加事項を書き込みながらぶつぶつと呟くヘレナへ、ノラは我が子を見守るような眼差しをおくる。
『びゃう…』
「いい感じになってきたわね」
近くで白いヒナギクがぽんぽんと花開き、ネロは前足でちょんちょんと突っついた。
幻燈の向こうでは、少女と貴婦人がティーセットを挟んで対峙していた。
「どうか、あの馬鹿公爵へ術式を変えるよう忠告していただきたいのです」
とうとう。
目の前の少女がはっきりと言った。
馬鹿公爵と。
「ふふ…」
笑ってはいけないことは重々承知だが、マリアロッサは吹き出してしまった。
「マリアロッサ様…」
少し恨めし気な声を上げるあたり、馴染んできたものだ。
私も、カタリナも。
「人類の雄の侵入のみ禁止と定義すれば、獣人もその範疇に入ります。虫も獣もだなんて自然の理を無視し過ぎです。このままだと、お二人とも心身ともに損ねるがそれでも良いのかとお尋ねください」
実は、人類のオスは既に幾人か侵入を試み、死体で発見された。
夜陰に紛れて塀を乗り越えようとした者たちは鋭い何かに目と口を貫かれて道端に転がり、隣接する森から穴を掘って地下道を作った者たちは塀の下に到達したあたりで業火に焼かれた。
それぞれ、塀の内側は女の園で高貴な少女たちが隠されているという噂を聞いて侵入を試みたようだ。
愚かな男たちは平民であったり貴族であったり。
身分は様々でも後先考えない者はどこにでもいる。
女しかいないと聞くとこうなるのは目に見えていた。
侵入を試みたこと自体が犯罪なのでゴドリー側が世間から非難されることはなかったが、過剰な守りを施していることは噂の的となった。
そして、全ての雄を排除した楽園にも異変が起きていた。
猫の子がオスばかり死産だった。
犬も、牛も。
鶏も孵る直前の雛が死んでいた。
花木も、虫も、鳥も、どこか妙で。
まるで内側が腐って枯れていく木のようだ。
「やりすぎです。いえ、考えなしもいい加減にしろとお伝え願えませんか」
「そのまま伝えたら貴方、ミゲル・ガルヴォに殺されるわよ」
「構いません。たかが新興貴族で、平民落ちも目前ですから」
唇を片方の端だけ上げた。
らしくない笑みだ。
カタリナの父はクラインツ、ガルヴォ、ゴドリーへ多額の慰謝料を払ったが、ミゲルがそれで許すわけもなく、ブライトンに繋がる商会は全て自国での取引と流通を禁じた。
ブライトンの雲行きが怪しくなってきたことに気が付いた人々は次々と逃げ出し、いくつもの事業を畳むこととなった。
数年経ちミゲルの怒りが収まれば好転するかもしれないが、それまで持ちこたえられるかなど、誰にもわからない。
「ねえ、カタリナ」
呼びかけただけで、マリアロッサが言おうとしたことを察して少女は首を緩く振る。
「…あまりにも荒唐無稽な話です、マリアロッサ様。今まさに転落している私が、ストラザーン伯爵の嫡男の妻になどなれるはずもない」
ほんの一週間ほど前に。
カタリナ・ブライトンは見初められた。
相手はエドウィン・ストラザーン伯爵子息で、十九歳になったが諸事情によりまだ婚約者はいなかった。
そんな彼が新たにゴドリー伯爵邸となったこの屋敷で偶然にもカタリナとすれ違う。
たちまち恋に落ちたエドウィンはカタリナの全てを調べ上げ考えた末に、ベンホルムに相談した。
なんとしても、妻にしたい。
そのために知恵を借りたいと。
ストラザーン伯爵家は伝統と格式を重んじ、誇りを持っている。
現当主及び親族たちはもとよりブライトン家を成金貴族と見下していた。
そこで、ベンホルムはいくつもの策を授けた。
まずはブライトンの祖父と父に誠心誠意頭を下げること。
彼らの心をまず掴み、そこから交渉をはじめよと。
その後ゴドリー伯爵邸にて、ブライトンの二人とエドウィン、ストラザーンの当主の会談が行われた。
もちろんストラザーン伯爵は話を聞いて激怒し椅子を蹴って去ろうとしたが、マリアロッサは彼の弱みも掴んでいた。
エドウィンの許嫁はストラザーン伯爵の弟との不倫が発覚し、半年前に破談となった。
今更条件にあう令嬢など、どこにもいない。
ならば相手が見つかるまで暫定的にカタリナを婚約者候補として、試すのはどうかと。
教養や振る舞いが伯爵夫人として問題なければ妻にすればよい。
ブライトンと縁を結びたくないのであればとりあえず、ストラザーンの分家へ転籍させ、その後いくつか転籍を繰り返せば数年後の貴族名鑑から痕跡が消える。
実のところ、最近この国では似たような不祥事が相次いでいた。
ゴドリー夫妻が推薦する少女を試してみるのも悪くないと、ストラザーン伯爵は了承した。
カタリナがすべてを知ったのは、この会談の翌日だった。
「荒唐無稽じゃないわ。だって、私が仕組んだことですもの」
ぺろりとマリアロッサは白状する。
「え?」
「貴方、このままあの空っぽな兄と一緒に沈むつもりだったでしょう。その美貌で平民落ちしたらどうなると思うの? あっという間に攫われて変態に売り飛ばされるでしょうね」
「それは…」
マレナはジュリア付きとなったが、マーサはまだカタリナのそばにいる。
そうでなければ、とっくにこの屋敷へ来る道中に襲われているだろう。
「ねえ、そもそもジュリアの婚約の原因はね。この国の根幹が腐っているからよ」
戦争で男を上げていると勘違いしている王と兄弟たち。
そしてそれにすり寄る貴族と商人たち。
教会も魔導士庁も、何もかも。
サルマン国はどうしようもないところまで堕ちていた。
ブライトンは稀なことに戦争で儲けていないせいか、カタリナは良識のある女性に育ちつつある。
そして、強い。
マリアロッサは欲しいと思った。
「全てひっくり返せるとは思わない。でも今のままではジュリアを助けることはできない。ねえ、カタリナ。貴方も私と一緒に戦わない?」
エドウィン・ストラザーンは美男子ではない。
だが育った環境が良かったのだろう、頭の回転が速い上に心根がしっかりしている。
彼は言った。
カタリナのまとう知性に溢れた強い光に魅かれたと。
この男とならカタリナは生きていける。
そう直感した。
「戦う」
「そう。一つ一つ、病巣をやっつけて、綺麗な水を通すの」
これはカタリナにとって政略結婚だ。
だが、それもきっと。
「ストラザーンの力を得れば、ボコボコに出来るかもよ? 理不尽な何かを」
だから、一緒に戦って。
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