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めっ!
しおりを挟む【ゴメンナサイ…】
すっかりしょぼくれてしまった黒猫は現在、何故かノラの足の中に戻っている。
「言葉が通じるようになって良かったわ」
「全くね」
『み゛…』
この不思議な空間にいる時は本来なら意思の疎通が簡単に出来るはずだったが、ネロはわざと遮断していたらしい。
ノラは分かっていたが、面白いのでそのままにしていた。
「通訳もだんだん面倒になってきたからよかったわぁ」
ネロの耳はすっかり下向きだ。
「それで。ネロ?」
続きを促すと、しぶしぶ猫は口を開く。
【オシオキ…】
「え?」
【コノヒトタチ ツヨソウ ダカラ ヘレナニ メッ! シテ モラウ】
「めっ?」
ぶはーっとノラは吹き出し、ばしばしと肩膝を叩いて笑った。
「あっはっはっ。あれね。虎の威を借りる狐ならぬ猫!」
【ワラウ ニャー!】
あおーんとネロは涙目で吠える。
「めっ! って、なによ。具体的に何をしてほしいと言うの」
【ワカンナイ! ネコダモン!】
尻尾を振り回してネロはまた吠えた。
「まさかの逆切れ…。そうよねえ。お猫様だものねえ」
気を悪くすることなく、ノラはぐりぐりとネロの頭のてっぺんを撫でる。
「まあ、お猫様の希望通り? めっ! してあげたじゃない。なのに、なんで泣くのよ」
【チガウ ソウジャナイ ネロ メッ! ダケガ イイノニ】
またしおしおと萎れ始めた。
「ええと。すみません。どういうことでしょうか」
二人の話がよく解らず、ヘレナは首をかしげる。
「ああ、そうね。わからないわよねえ。貴方、地底の男神が地上の女神の娘をさらって無理矢理妻にした伝説を知っているかしら」
「はい。確か母神の要請で解放されることになり、その直前にザクロを渡されて四粒食べてしまったから…」
答えているうちに、はたと気づく。
「ああ、そう言えば先ほど私頂きましたね。一粒。つまりはそういう事ですか?」
「ええ。つまりはそういうことね」
【ウワーン】
ネロは天を仰いで泣いた。
他所の世界に迷い込んだ時にそこで何かを口にしてしまい、元へ戻れなくなる物語はたくさんある。たいていの場合は死に直結するのだが。
「あらあら…」
ヘレナは頬に手をやり呟いた。
「貴方は、ここの食べ物を口にした。もう元の世界へは戻れないわよ? さあ、どうするの?」
どこか悪戯をしかけた子どものような表情でノラはヘレナに問う。
「困りましたね…。大きな仕事を頂いたばかりだったのですが…」
こぼれた言葉にオレンジの瞳はらんらんと光る。
薔薇色の唇は嬉しさを隠しきれず上向きに弧を描いていた。
「…でもまあ、亡き母の代わりというか、わざわざ作った依頼ですものね。きっと王宮の職人さんがなさると思うので、却ってよかったのかもしれません」
「え?」
「あの、母の昔の勤め先から機織りの仕事を依頼されていたのですが、まだ納期に余裕がありますし。本来ならば手練れの職人さんが為さるものなので、正しい道へ戻ったのでしょう」
答えながらヘレナが納得するように何度も頷くのを、ノラとネロは揃ってぽかんと口を開けて見つめる。
「え、ちょっと待って。元の世界へ帰してください~とか、もっと生きたい~とか、ないの?」
「まあ、人の命は定めがありませんし。皆さんちょっと困るでしょうけれど、運の良いことに弟はきちんとした後ろ盾が付きましたし」
ぎゅっと両手のこぶしを握り、もう一度強くうなずいた。
「それで、ノラ様。私、こうなったからには何かお仕事をさせてください。雑用なら少しはお役に立てるかと!」
【アウ~】
「うわ~。そうきたか」
なぜか二人は同時に仰向いて唸る。
「何か違うわ、貴方。今までこんな子来たことないわ…。なんなの、これ…」
【ヘレナァ…】
しばらく額に手を当ててブツブツと独り言を呟いていたノラは、ふいに顔を上げた。
「うん、決めた。こうしましょう」
にんまりと目が弧を描き、三日月が二つ宿る。
「貴方、これからシューアラクレームと猫の舌…ラングドシャを私たちのために作りなさい」
「え?」
『に゛ゃっ』
「この子、コウシャクフジンが持ってきたお菓子に貴方が夢中だったのも許し難し、って言っていたわ。それを作るのが貴方に課された仕事であり、『オシオキ』ね?」
【アノ マルイ ヤツ ヒラベッタイ ヤツ ヘレナ ミカ ウマイウマイ ネロ ホッタラカシ ユルシガタシ!】
スイッチが入ったのか、ネロは再び毛を逆立てて鳴く。
「ああ…。あまりにも美味しかったので…」
夢中になった覚えはある。
「では、決まりね!」
また、ぱん、とノラは両手をあわせて宣言した。
「ここはこれから、私たちを満足させるまで出られない部屋よ」
鼻歌交じりにノラはパチパチと指を鳴らす。
すると、目の前に調理用のストーブと調理台が出てきた。
「しょっぱいもののあとは、やっぱりデザートよねえ。ちょうどよかったわあ」
さらに材料と思われる卵だの粉だのと、調理器具までぽんぽんぽんと現れる。
「待ってください、あれは先日初めて食べたばかりで、私は作り方を全く知らないのですが」
「そう。なら、レシピをあげるわ」
ぴゅうと指笛を吹くと、今度は三枚の紙が空から降ってきた。
それぞれ紙には『パータ・シュー』、『クレーム・パティシエール(変化形)』、『ラングドシャ』と表題が書かれている。
「シューアラクレームと、ラングドシャ。楽しみにしているわ」
【ヘレナ ガンバッテ】
ノラに抱きかかえられたネロは彼女に握られた前足を操られるままにフリフリと振った。
「はい…」
異国からやってきた上品な菓子。
やるしかないと腹をくくった。
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