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ご指名賜りました

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 王妃の熱烈な愛情表現から救い出され、酸素を脳に送り込んだヘレナがまず考えたのは、今一度説得するための文言である。

「母の才を惜しみ、私に期待していただけるのは大変ありがたいのですが、どうか早まらないで頂きたいのです」

 往生際が悪いと思いつつも、なんとか勇気と気力をかき集めて再交渉することにした。

「タピスリーは下絵が大事です。配色や絵の構成など私独りで請け負うには手に余ります。ですから…」

 二年という時間をもらえるのならば、織ることはできるかもしれない
 だが、タピスリーは絵画と変わらない。
 しかも大きな作品となると母のように美しく作り上げる自信は全くなかった。

「なら、下絵はクリスにお願いしましょう」

「え……」

 これまで静観してきたクリスもさすがに声を上げる。

 確かに、クリスは事象を的確に描くのが得意だ。建物や道具の説明をするときにまず図にすることが多く、屋敷に飛んでくる鳥などを簡単にスケッチするため、ヘレナは時々彼の了承を得てそれらの絵を刺繍にすることもあった。
 まさかそれを知っての発言だろうか。
 カタリナに目をやると彼女はふわりと微笑み返した。

「先生方はクリスの成績を一様にほめていたけれど、中でも熱心だったのは美術でね。大絶賛だったわ」

 王妃の言葉に姉弟は顔を見合わせる。

「王妃陛下。大変失礼ながら発言をさせてください。姉は手仕事で家族を養ってくれたほどの経験と腕を持っていますが、私は全くの素人です。あまりにも無謀すぎます」

「クリス。貴方が戸惑うのはもっともよ。でもね。私が求めているのは一流の工房の仕立てた他者を威圧するためではなく、娘の無事を心から祈ってくれる人のタピスリーなの。どこにでもある平凡で素朴な図柄で結構よ。善良な貴方たちだからこその作品が私は欲しい」

 そう言われてしまうと反論のしようがないが、その期待があまりにも重く、恐れ多い。

「お言葉は大変ありがたいのです。しかし、私ごときでは題材が全く思いつきません」

 クリスが反論するなか、呑気な声が割って入った。

「題材が思いつかないなら、私がお願いしてもよろしいでしょうか。今回はあくまでも試作品ですよね?」

 声の主に全員の視線が集まる。
 それを全くものともせずに彼はへらりと笑い、言葉をつづけた。

「いえ、膠着状態のようなのでこの際、ねだれとうちのフウがですね?」

 ナイジェル・モルダーの軽い口調につい流されそうになるが、『フウ』という名にヘレナは目を見開く。

「『フウ』さん、ですか? 『ライ』さんのお兄さんの…」

 思わず尋ねると、ナイジェルと自分の背後からカチャリと金属音が聞こえ、ヘレナは上半身をねじって振り返った。

「…?」

 そこにいるのは、赤銅色の髪をきっちりと後ろに流し整い過ぎる顔を露わにした近衛騎士ならではの独特な濃い赤の服を難なく着こなし、いや、この上なく似合っている男性で…。

 髪と目の色からとある人の名が思い浮かぶが彼とは全くの別人にしか見えない。
 これは親戚または累計の誰かだろうか。

「ええと…?」

 思わず軽く首をかしげると、帯剣している騎士の顔は固くこわばり、多方面の人々が一斉に吹き出した。

「ぷはっ…。かわいそうすぎるけど面白過ぎる…!」

 ナイジェルが腹を抱え、前傾姿勢で爆笑する。

 気のせいかもしれないが、彼の身体の震え以上に腰に付けた剣ががちゃがちゃと小刻みに音を立て騒いでいた。
 ミカも、ライアンも、ヴァンもウィリアムですら直立姿勢を解いて口を押えている。
 カタリナも、ユースタスも、ゴドリー侯爵夫妻も、その他王妃の配下の人々も。
 更には、王妃ですら目元をハンカチで抑えながら肩を震わせていた。

「あの…」

 何がそんなにおかしいのかわからずひたすら困惑するヘレナの肩に、クリスが少し震えながら手を置く。
 珍しいことに、クリスの手のひらがじわりと湿っぽい。

「姉さん…。本気でわからないの?」

「何が?」

「この方は、ベージル・ヒル卿だよ」

「ええ? えええ…?」

 無作法と知りながら、ヘレナは足の位置をさらにずらして件の男性を下からまじまじと見つめた。
 確かに体格もそっくりだが、ヘレナの知るベージル・ヒルは少し野性味のあるいわば剣士で、高貴な雰囲気をまとう近衛騎士とは全く重ならない。

「…頼む。そんな目で見ないでくれないか、ちび」

 彫像がぼそっと口を開き、耳慣れた言葉を紡ぐ。

「あ。本当だ。ヒル卿ですね」

 思わず素になるヘレナに、クリスは天を仰いだ。

「そこなんだ…?」

 室内がますます笑いの渦となり、しばらくやむことはなかった。



「ようは、私とヒルの兄弟剣がヘレナとクリスにタピスリーを作ってほしいって騒いでいるので、この際どうかなと思いまして」

 フィリスがカモミールティーを淹れ直して配り、ようやく場が落ち着いた。
 ナイジェルは愛妻の手伝いを甲斐甲斐しく行って満足したのちに話を再開する。

「フウとライなら、とても強い守りにもなりそうね」

 王妃が頷くと、またも二人の剣がカチカチと小さな音を立てた。

「では、こうしましょう。ナイジェルとベージルはヘレナの住まいでクリスにスケッチをして図案化され次第、試作品を織ってちょうだい。材料費の全てはもちろん私が持つわ。材料の手配はラッセル商会で良いかしら、ミカ・スミス?」

「はい。商会には帰着次第すぐ連絡をいたします」

 ミカは流れるような所作で頭を下げる。

「織機については、カタリナ夫人がストラザーン家にて保管していると聞いたけれど?」

「ええ。ブライトンの屋敷から全て引き上げておりますので。織機は問題なく使える状態だと、回収した者たちの確認済みです」

 カタリナの返答で、もうすでにこれは決定事項だったのだなとヘレナたちは遠い目をする。

「ますます恐れ多いのですが…。神獣を私がスケッチするなど…」

 クリスがおそるおそる口を挟むと、ナイジェルがぱあっと瞳を輝かせて答えた。

「大丈夫だよ、クリス君。うちのフウが、君の顔、すっごく好みだってさ」

「え……」

「スケッチしてもらうの、とっても楽しみって鞘の中で跳ねまわっていて、俺、もう大変」

 よく見ると、ナイジェルは片手で鞘を抑えている。

「あの面食い狐ども…」

 ミカの唸るような独り言がなぜか全員の耳に届いた。


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